初めて、彼女を見た時。
『光』を見たと――そう、想った。
大嫌いで。
とても、憎くて。
とても……遠くて。
そういう感情しか抱くことのできなかった、『光』を。
見たと、想った。
地下鉄は、終電もとっくに終わっている時間。
そのため、ホームは非常灯の灯りや避難出口の緑のランプが、ただ僅かに周囲を照らしていた。
それでも。この、闇に塗れた自分にとっては、充分な光。
『仕事』を遂行する上で必要な光は、ターゲットの位置を確認できれば十分なもの。
逆に明るすぎると、こちらを見られる危険性もある。
そして――何より、ターゲットの最後の瞬間を。目の当たりにすることになる。
だから。自分に……光は、必要なかった。
何より、闇は嫌いではなかった。
闇は――黒は、保護色。
常に、闇は自分を包み。全ての感情から、自分を隠してくれた。
父が死んだと聞いたときも。
同時に――母が恐らく2度と起き上がれなくなった、聞かされたときも。
拳武館に入ると、決めたときも。
――初仕事を、終えたときも。
月光すらない、もちろん星も見えない、真暗な夜だった。
だけれど、それに恐怖を覚えた記憶はない。
何故なら。ただ、独り残された自分を唯一守ってくれたのが、闇だったから。
それこそ、翳った表情も。逆に、決断せざるを得なかった、迷いの最中にいたころの表情も。
……今にも泣き出しそうだった、表情も。
その全てを、隠してくれたから。
だから。
自分にとって、闇は必要不可欠なものだった。
館長から、『妹弟子がいる』ということは聞いていた。
しかし、そんなことははっきり言って、どうでもよかった。
自分にとって大切なのは、母。そして……その母の生命を守るということのみ。
『仕事』に関係する情報以外は、自分には必要のないものとして聞き流してきた。例えそれが師の言葉でも。
だから。
初めて、彼女に会った時。彼女が自分の『妹弟子』にあたる存在だとは、すぐには気づかなかった。
気がついたのは――思い出したのは、自分に向けられた彼女の拳を受け止めたとき。
その筋に、その技に、覚えがあった。
しかし。
そんなことは、どうでもよかった。
何故なら。
拳を受け止めたということは、彼女は自分の傍にいる、ということで。
そして……自然と交わることになった彼女の瞳に。
その中に存在した、『光』に。
一瞬にして、感情が動いたから。
――心を、奪われたから。
大嫌いな『光』を称えた瞳が、燃えるように自分を見上げてくる。
女性にしては、背の高い方だろう。それでも、圧倒的に自分のほうが高かったから、自然と彼女を見下ろした。
それが気に食わなかったのか、止められた拳が気に入らなかったのか。ますます彼女は強く打ち込んでくる。
そして――ますます。瞳に宿す『光』を、輝かせる。
それが無性に、苛立たしかった。
自分は、けして持つことのできない『光』。
自分からは、既に遠ざかってしまった『光』。
それを自然にもつ少女が、はっきり言えば、憎らしかった。
恐らく、世間の裏も――闇も。何も知らずに、『光』の世界で生きてきたであろう少女。
その少女を、自分の落ちた闇まで引きずり込んで。徹底的に泣かせてみたいという暗い感情が、一瞬だけ脳裏を過ぎった。
そうすれば。彼女は2度と、こんな『光』をもつことなど、できないだろう。
こんな『光』を。自分に見せつけることはできないだろう。
しかし。それは、できなかった。
何故なら。
それこそ、彼女は『光』そのものだったからだ。
『光』という名の……最後の『希望』だった、からだ。
闇に落とされた自分を照らす、『光』。
恐らく、これが最後の『光』だろうということを、その時察した。
自分の周りに、もうこのように『光』を見せてくれる人はいない。
だから。
今、ここでこの『光』を消してしまえば。永劫に、自分は闇を彷徨うことになるだろう。それが、わかった。
闇は、心地よい。全てを隠して……偽ってくれるから。
だから。恐らく自分はその心地よい、暖かな寝床から抜け出したくなかったのだろう。
優しい、そして儚い夢を見て。現実から、目を逸らせていたのだろう。
それを、今更ながらに思い知る。
身体は、大きくなった。力も――技も、鍛えた。『仕事』もこなし、地位も得た。
しかし。心だけは、ずっとあの夜――父を亡くし、母と離された闇夜から、動けていないのだろう。
未来を――道標を照らす『光』を失ったあの夜から、一歩も動かずに。
その場に、立ち尽くしているのだろう。
自分ではけして見せられないような、感情も露わな表情――多分、仲間の1人を奪われたが為の怒りが大きいのだろう――を浮かべて。彼女は何度も拳を繰り出してくる。
その技は、素人そのものだった。
今まで、確かに彼女は『宿星』の戦いを越えてはきたのだろう。
しかし、生と死の狭間の『仕事』をこなしてきた自分にとって、それは余りにも幼稚なものに見えた。
その手を軽く捕らえて捩じ上げ、彼女の身体を押さえつけることも、簡単にできそうだった。
しかし、そうはしなかった……できなかった。
彼女の強い光を。もっともっと、感じていたかった。
だから。ただできたことは、こちらからはけして攻撃はせず、ただひたすら彼女の攻撃を避けるということだけで。
そんな自分の意図に気がついたらしい彼女は、1度盛大に舌打ちすると。1度、身を引いた。
かなり息が上がっているらしく、華奢な肩が大きく上下しているのが、はっきりとわかる。
しかし。
それでも――彼女の『光』は消えることはなかった。
益々燃え上がり。それこそ、この地下鉄のホームを照らす、僅かな光を凌駕する。
――心に、突き刺さる。
それに、僅かに目を細めた瞬間。
彼女の声が、耳を打った。
「……ちょっと、そこの暗い男っ! ちょこまか逃げないでよ!!」
「…………」
「ちょ、ちょっと龍羽、」
彼女の背後で、優美な女性が慌ててそう声をかけるのが聞こえた。
その声に、彼女――龍羽は勢いよく女性の方を振り返る。
「何よ、葵!?」
「……えーと、ね? あまりそうやって、相手のことを蔑むのは、いけないと思うの」
……何気に、その女性の言葉のほうが厳しいように感じたのは、気のせいだろうか。
しかし、その時はそんなことには気づかなかった。
何故なら。
「何言ってるの! 学ラン着ている以上、それが趣味じゃなければ、あいつは同い年若しくは年下よっ! 何で、こっちがそこまで気をつかわなきゃいけないのっ!!」
この、彼女の一言が。
それまでの自分の様々な思考を――木っ端微塵に、粉砕した。
そして。残ったのは――ただ、純粋に『光』を求める心のみ。
『光』のあたたかさを初めて知った、愚かで――無知な男が1人佇んでいるだけで。
今まで、人に対して気をつかうことが億劫だったから、あえて人との関わりを遠ざけてきた。
闇の中ならば、独りでも生きていけたから。独りでも、何でもできたから。
しかし。
こうして、彼女に出会い。『光』を見出してしまった今。もう2度と、独りには戻れそうにはなかった。
今までのように、闇の中にいることはできそうになかった。
ならば。
彼女が言ったように、他者の目を気にせず……気をつかわなければいいのだろうか(……極端すぎ)。
気を使わずに。正直に――自分の心を。思いを。言葉にして伝えればいいのだろうか。
こんな弱い自分をわかってもらいたいと――言えばいいのだろうか。
そうして……彼女のように振舞えば。
彼女のように。
いつか、『光』を得ることができるだろうか。
いや、得られなくてもいい。
その時は。彼女の光で、自分を照らしてもらえばいいのだ。
彼女の『光』には、それだけの力がある。
それを――誰よりも、近くで。見てみたい。
誰にも――その『光』を渡したくない。
自分だけを、照らして欲しい。
そう思いつつ。
壬生は、今度こそ拳を完全に引いた――。
……全ての戦闘を終え地上に出ると、既に朝日が空へと姿を見せていた。
真白の、光。
太陽の光すら、こうして『綺麗』だと感じるのは、何時以来のことだろう。
そして――彼女が、振り返る。
「……壬生君」
それこそ、それまでの勢いは何処へやら。
八剣の刃から身を呈して彼女を守ったことで、自分が敵ではないと気がついたのだろう。そときから、彼女の態度は変わっていた。
それを、少し残念に思う。
先ほどの、敵同士でいたころの彼女が見たかった。
その時の『光』の方が、鮮やかだったから。
――好き、だったから。
だから。
「……で。どれが、緋勇さんの彼氏なの?」
先ほどの彼女の反応が、もう1度見たくて。
その反応で、より輝く彼女の『光』が見たくて。
今までの自分からは想像できないような、そんな軽薄な台詞を吐いていた――。
□ □ □
「……ちょっと、待って」
「どうしたの、龍羽?」
龍羽に請われたとおり、『初めての龍羽の印象』を語っていると。急に彼女に、止められた。
それに従い、一時話を中断して彼女の方を見ると。
そこには。
何と言うか……まあ。とても、複雑そうな表情の龍羽がいた。
「……そんなこと、考えてたの? あの戦闘中に?」
「うん」
「……結構、私本気で打っていったんだけど」
「そうだろうね」
「……《氣》も、かなり使ったよね?」
「ああ。それは感じたよ」
「……でも。それが、『素人そのもの』だって?」
「それは、否定しないよ」
「……『幼稚』だって?」
「それも、否定しない」
「…………」
「龍羽?」
突然黙ってしまった龍羽に(当然でしょう)、壬生は訝しげに声をかける。
しかし。そんな――本当に『どうしたの?』という色満載の言葉が、彼女には当然気に食わなかった。
だから。
「紅葉のばかっ!!」
いつものとおりの、言い争いが始まるのは。
時間の、問題。
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