CHRISTIE
クリスティーの棚
この棚には、わたしのMOST
FAVORITE
アガサ・クリスティー Agatha Christieの作品を、
ならべてみました。
ネタばれはしていないつもりですが、もしお気付きの点があれば
是非、お知らせ下さいm(__)m
アガサ・クリスティー略年譜 |
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1890 | 9月15日、デヴォンジャー州トーキィに、三人兄弟の末っ子として生まれる。本名は、アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラー。比較的裕福な幼年時代を送るが、正規の学校教育は受けなかった。 |
1896 | 一家で南フランスのポーへ半年間滞在、その後パリへ。家庭教師についてフランス語習得。帰国後間もなく、ピアノを始める。 |
1901 | 父が亡くなる。 |
1902 | 姉マッジ結婚。この頃から詩や短編小説を雑誌に投稿する。 |
1905 | パリの寄宿学校に入学。本格的にピアノと声楽に打ち込む。 |
1906 | 当時一流のバリトン歌手ブーエに師事し声楽を学ぶが、約十八ヶ月の留学ののち挫折。母の病気療養のためカイロへ旅行。このとき幻の処女作といわれる『砂漠の雪』を執筆。帰国後、隣人イーデン・フィルポッツに助言を乞う。 |
1912 | 英国航空隊の下級将校アーチボルト・クリスティーと出会い、求婚される。アガサは当時婚約者だった、レジー・ルーシーとの婚約を破棄。 |
1913 | ”応急手当”や”家庭看護法”の学習教室が盛んに開かれ、アガサもこれに参加。テキスト学習や実習を行う。 |
1914 | 第一次世界大戦勃発。 アーチーの訓練地ソールズベリーでつかの間の再会を果たす。その後当地の篤志看護隊で活動する。 そしてその年のクリスマス休暇に、二入は結婚する。 |
1915 | 病院に薬局が開設され、そこで調剤の仕事につく。 |
1916 | 薬局勤めの傍ら『スタイルズ荘の怪事件』脱稿。出版社へ送るが、すべてボツとなる。 |
1918 | アーチー帰国。ロンドンの空軍省に配属となる。二人はロンドンのノースウィック・テラスのアパートを借りる。 第一次世界大戦終結。 |
1919 | 娘ロザリンド誕生。アディスン・マンションのアパートに引っ越す。アーチーは除隊後、シティのある会社へ入る。 |
1920 | すっかり忘れてしまっていた『スタイルズ荘の怪事件』が、ボドリーヘッド社から出版されることになる。初版二千部をほとんど売りきるが、契約により収入はわずか25ポンドだった。 |
1923 | 大英帝国博覧会の宣伝使節となったアーチーと共に、世界を回ることとなる。南アフリカからオーストラリア、ニュージーランド、そしてフィジー島、ハワイ、カナダ、ニューヨークへ。ハワイではサーフィンに夢中になる。帰国後の財政は非常に逼迫したものになる。 |
1924 | 南アフリカで考えていた長編「ミル・ハウスの怪事件」が改題され、『茶色の服の男』としてイブニング・ニューズ紙に連載されることとなり、連載料500ポンドを得る。アーチーも新しい仕事を得る。サニングデールに新しい家を借り、念願の自動車を買う。 |
1925 | ついに自分たちの家を手に入れ、”スタイルズ荘”と名付ける。しかし、その家は不運な家と呼ばれ、そこに人々はみな何らかの不幸にみまわれていた。 |
1926 | コリンズ社から『アクロイド殺し』刊行。一躍有名になる。この年、母を亡くす。そしてアーチーから離婚を迫られる。12月3日、スタイルズ荘から失踪するが、11日後に発見される。売名行為などとの非難も浴びるが、のちに記憶喪失症と診断。 |
1927 | ロザリンドと共にカナリア諸島へ。重大な財政危機に陥っていた為出来るだけ早く本を書かなければならなくなり、『青列車の秘密』を当地で執筆する。スタイルズ荘も売り払うこととなる。 |
1928 | アーチーとの離婚成立。 『アクロイド殺し』が劇化、『秘密機関』の映画化も進む。友人からバグダッドの話を聞き、オリエント急行の旅に出発する。シリヤ、ダマスカス、バクダッドのなどの土地にすっかり魅了される。考古学者ウーリー卿の発掘隊を訪問する。 |
1930 | ウーリー夫妻の招待でバグダットを再訪し、発掘に参加していたマックス・マローワンと出会う。彼らと方々を見物していたとき、ロザリンドが肺炎で重態との電報を受取り、マックスと共に急遽帰国。この年の9月16日に結婚。この後、毎年のように夫と共にイラク・シリアに発掘に行くようになる。 『牧師館の殺人』で、ミス・マープルが登場する。『アクロイド殺し』の登場人物カロラインから出てきたのではないかと本人は書いている。 メアリ・ウエストマコット名義の普通小説『愛の旋律』を刊行。 |
1934 | 『オリエント急行の殺人』刊行。 |
1939 | 『そして誰もいなくなった』刊行。グリーンウェイ・ハウスを購入。 第二次世界大戦勃発。 娘ロザリンド結婚。クリスティーはトーキーの病院の薬局で働く。グリーンウェイ・ハウスは疎開する子供たちの託児所として貸し出す。 |
1943 | ロザリンドに息子マシュー誕生。 この時期にポワロ最後の事件『カーテン』そしてミス・マープル最後の事件『スリーピング・マーダー』が執筆される。 ロザリンドの夫ヒューバート戦死。 |
1945 | 第二次世界大戦終結。 グリーンウェイ・ハウス返還される。 |
1946 | 中近東での生活を語った『さあ、あなたの暮らしぶりを話して』刊行。 |
1952 | 11月25日、ロンドン・アンバサダー劇場にて『ねずみとり』初演。 |
1953 | 『検察側の証人』舞台化。 |
1956 | CBE(Commander of the British Empire)を叙勲。 エクセター大学名誉博士号を、授与される。 |
1957 | 『検察側の証人』がビリー・ワイルダー監督によって映画化。『情婦』のタイトルで大成功をおさめる。 |
1962 | 前夫アーチボルト・クリスティー死去。 |
1968 | マローワン教授、考古学の業績により、ナイト爵位を受ける。 |
1970 | 『フランクフルトへの乗客』刊行。80冊目のミステリとなるこの作品が、後に実際に起こったハイジャック事件を先取りしていたとして、話題となる。 |
1971 | DBE(Dame Commander of the British Empire)に叙せられる。 |
1973 | 最後のミステリとなった『運命の裏木戸』刊行。 |
1974 | 映画『オリエント急行殺人事件』のロイヤル・プレミア・ショーで、エリザベス女王に拝謁する。 |
1975 | 死後刊行予定だった『カーテン』が出版される。ポワロの死亡記事が新聞に載るなど、話題となる。 |
1976 | 1月12日、ロンドン近郊のウォーリングフォードのウィンターブルックハウスで亡くなる。享年85歳。 『スリーピング・マーダー』出版。 |
1997 | 死後20年以上を経て、これまでほとんど単行本に収録されていなかた作品を集めた短編集『マン島の黄金』が出版された。 |
ハヤカワ文庫『アガサ・クリスティ自伝』(乾信一郎訳)を参考にさせていただきました。