この土地に窯を築いた当初はそんなことは全く知りませんでした。しかし、日常の生活の中で町内に40m以上あろうかという巨大な登り窯の窯跡を見つけたり、町の歴史民族資料館(現・大翔館)で当時の焼物に出会ったり、古い窯跡を見つけ、散乱したレンガ、陶片、窯道具を眺めていると、自分が歩いているこの道を、いにしえの陶工たちが土を運び、ロクロを回し、窯を焚いていたのかという思いが心にオーバーラップし、遥か遠い日々が昨日のことのように思われました。
いにしえに陶工たちの思いはどこへいったのか、伝来する作品と共に生きている、そんなことでいいんだろうか。このまま、ただ時が経てば何もかも亡くなってしまうんじゃないだろうか。「縁に随う」という言葉が心を過ぎり、ただ古い窯跡に座っているだけじゃ駄目なんじゃないか。
豊北焼への思い
2012.1.10 読売新聞
2012.1.20 KRYラジオ 出演
2012.2.2 テレビ山口 特集豊北焼 出演
中原窯跡
豊北焼はもう地元の人にも忘れ去られており、復興を受け入れてもらうためにも、死ぬほど苦手ですがマスコミ等の宣伝活動も始めました。
豊北焼とは
出土品
2011.10.18 山口経済レポート
こういうのがゴロゴロ落ちてます。
はじめは軽い気持ちでしたが、県の助成金、経営革新計画の承認、マスコミ報道、地元美術館・博物館・役所関係の協力、多くの人の支えをいただき、今では
ライフワークの一つだと思っています。
物原とは失敗した作品を捨てていた場所です。中原窯は歩くだけでガシャガシャ音がするくらいです
中原窯物原跡
豊北焼でもっとも長く続いた窯の一つです
山口県下関市は江戸から大正にかけて数多くの窯が存在していました。特に私が窯を築いた豊北町は14の窯が確認されており、かなり盛んに焼物が焼かれていました。半磁器土の染付を中心に、色絵や萩焼まで焼かれていました。しかし、土が取れなくなったのか、工業化や商業化の波に乗れなかったのか、大正時代にはそのすべて廃窯してしまいました。有田のように気品たかく高貴な美しさではなく、薄くグレーがかった生地、厚い作り、荒い絵付けと少し粗雑な感じですが、逆にその粗雑さが有田にはない素朴さや侘びた風情をかもし出しています。磁器の世界の民芸品といいますか、逆の意味で禅やお茶の世界に通じる美しさを持つ焼物です。
豊北町歴史民族資料館 大翔館所蔵品
原窯跡
貫入は消える。
中央の湯呑がが呉須で絵付けしたもの。貫入は消えたが呉須がまだ滲む。
2011.7 やまぐち地域中小企業育成事業助成金 交付決定
2012.2 山口県 経営革新計画 承認
このデザインを絵付けしてみました
境下窯跡
豊北焼でもっとも長く続いた窯の一つです