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No.002 殺人お礼参り・森川哲行

自分を刑務所に追い込んだとして親族を逆恨みし、仮出獄を待って復讐を実行。二人を惨殺した。


 (被害者・関係者は仮名)
森川哲行は、昭和37年に一回目の殺人を犯し、無期懲役に処せられる。無期懲役といっても、一生刑務所から出られないという意味ではなく、最低10年を経過した後に行政官庁の判断によって、ある期間をもって仮に出獄を許される。つまり時間はかかるが、いつかは社会に戻ることが出来るのである。

森川は当時あの事件に関わった人達を深く恨んでおり、出所後に復讐することばかりを考えていたという。熊本刑務所を二回目に仮出獄した森川は、この一年半後に二人の女性をメッタ刺しにして殺害した。


▼第一の殺人

森川は15歳の時、傷害で逮捕されたのを皮切りに前科七犯。20歳を過ぎてからはあちこちの工事現場を転々とし、各地で傷害事件を起こしては刑務所とシャバを行ったり来たりしていた。

森川が27歳の時、親戚たちの勧めもあって見合いをし、これをきっかけに故郷の熊本に落ち着くようになる。翌年の昭和34年1月に祥子(しょうこ)さんと結婚。最初のうちはうまくいっていたが、森川はすぐに本性をむき出しにしてくる。働きもせず朝から焼酎を飲んで遊びまわり、祥子さんに容赦なく暴力を振るった。

祥子さんが寝ているとバケツに入った水を布団ごとぶちまけて「いつまで寝とるか!」と怒鳴ったあげく祥子さんの腹を蹴り上げたり、髪をつかんで引きずりまわしたりした。

殴る蹴るは毎日のことで、タバコの火を身体に押しつけられて、祥子さんの身体はあちこち火傷だらけであった。包丁を首につきつけられたり、また、ナタを降り降ろされた時もあった。その時にはとっさに腕でナタを防いだが、傷は骨まで達した。

子供が生まれていたこともあって祥子さんはじっと耐えてはいたが、ある冬の日、祥子さんは二歳の長男を抱いたまま、家の裏の川に投げ込まれたことがあった。必死に這(は)い上がろうとする祥子さんの頭を、森川は上から足で踏んだ。

さすがに祥子さんも親戚や仲人に涙ながらに相談し、離婚を決意した。


昭和37年9月15日。仲人の岡夫妻の家で、森川と祥子さん、祥子さんの母親、それに岡夫妻の5人で離婚の話合いが始まった。

森川は、働きもせず酒ばかり飲んで暴力を振るうことを指摘されると、
「そんなら、金ば取ってくる!」
と言って話し合いを抜け、岡夫妻の家を飛び出した。みんな、しばらくは森川を待っていたが、帰ってくる気配がないので、祥子さんと母親も帰ることにした。

バス停まで来ると、そこの待合室に森川がいた。どうやら待ち伏せしていたようだ。
森川は意外にも「祥子としばらく話しばさせてくんしゃい。」と、おとなしく言ってきたので、母親も祥子さんを森川と二人にさせた。

「子供がかわいくないんか。帰ってきてくれ。」
「子供は私が引き取りますから、もう別れて下さい。」

そういった会話を交わした後、
「ええい、くそ!」とつぶやきながら、森川は隠し持っていた切り出しナイフを取り出し、いきなり祥子さんのわき腹を突き刺した。そして胸も一突き。

数メートル離れていた母親が異変に気づき、すぐ娘のところへかけ寄る。
「これだけ言うてもまだ分からんか!」
森川は今度は母親に向かって突進し、母親の腹や胸を何度も突き刺した。

救急車ですぐに病院に運ばれたが、祥子さんはなんとか一命を取りとめたものの、母親の方は出血多量で死亡した。
「金を取りに行く」と言って岡夫妻の家を出た森川は、そのまま近所の金物屋でナイフを購入し、はじめから二人を殺すつもりで待っていたのだ。

この事件により、昭和37年11月22日森川は、熊本地方裁判所から無期懲役の判決を受けた。


「無期懲役といっても、いずれは出られる」そう考えた森川の頭の中は、自分を刑務所に追いこんだ親族達への復讐で一杯だった。

後(のち)の森川の供述であるが、
「服役して考えたことは・・岡一族に対する恨みでした。何で俺がこんな苦しい目に合わなきゃならんのか、と思うようになり、祥子の母親を殺したのも、岡(おじでもあり仲人でもある)や、正則(岡の弟)が、一方的に私を悪者にして祥子と別れるように仕向けたからです。岡とその弟である正則に対する憎しみがますます募(つの)りました。」
と、語っている。完全に逆恨みであり、反省の色が全く無い。

昭和51年12月8日。事件から14年経ち、森川は仮出獄した。無期懲役囚が仮出獄する場合、身元引き受け人が必要であるが、これは森川の育ての親である川本氏が引き受けてくれた。


▼一度目の仮出獄と森川の育ての親

森川は二歳の時、父親を亡くし、母親は森川と森川の兄を残して家を出て、別の男と再婚していた。森川兄弟は、いったん父方の祖母に引き取られたが、後に父方の叔母(おば)である川本夫妻に引き取られ、そこで育ててもらった。

川本氏は気のいい人で森川が服役中でも面会に来てくれて、
「立派に務めを終えて出てきたら、住む家くらい用意してやる。」と約束していた。

とりあえず仮出獄中は、この川本夫妻の家にやっかいになったのだが、森川の生活は相変わらずで、焼酎を飲むばかりで仕事につこうともしない。

「いつまでブラブラしよるとか。いい加減に仕事ば、せんか。」と川本夫人が言うと「家もないとに、そんな気は起こらん。約束が違うじゃないか。」
と、物を投げつけてくる。口論はしょっちゅうだった。実の兄がその場を治めようとすると、兄にも物を投げつけた。


昭和53年6月20日。また森川と川本夫妻はまた口論になったが、この日森川はついに刺身包丁を持ちだして川本夫妻を追いかけまわした。

夫妻は何とか逃げきり、事なきを得たが、川本夫妻は森川の育ての親であり、森川が祥子さんと結婚した時に新築の家まで用意してくれた人である。また服役中でも面会に来てくれて、このたびは身元引き受け人にまでなってくれた人である。この人を殺そうとしたのだ。

連絡を受けた森川の兄が警察に連絡し、川本夫妻も被害届を出した。警察に取り押さえられた森川は、一年半で仮出獄を取り消され、再び熊本刑務所へ逆戻りすることになった。
この一件で森川は、川本夫妻と自分の兄に激しい恨みをいだいた。

後の供述で、
「約束も守らず、私がちょっと暴れたくらいで警察に届けた川本夫婦、事情も知らないくせに警察に通報した兄を心の底から恨みました。そして、これからの私の人生は、私をここまで追いこんだ祥子と岡一族、川本夫婦と兄への復讐に生きようと決心したのです。」
と語っている。


▼二度目の仮出獄

昭和59年2月1日。森川は二度目の仮出獄となる。川本夫妻を襲って仮出獄が取り消されてから6年弱が過ぎた。祥子さんと結婚してから25年が経っていた。森川も54歳になる直前であった。

この仮出獄の時には、さすがに川本夫妻も自分の兄も身元引き受け人にはならなかったので、福岡県北九州市の保護観察施設「湧水寮」が彼の引き受け人となり、そこで暮らすことになった。

ここで森川は、かねてから計画していた関係者に対する復讐の具体案をノートにまとめ始める。殺したい相手の名前と住所、逃走ルート、資金の調達方法など、綿密な計画を立て始めた。

この頃には、仲人だった岡氏や、その弟の正則はすでに他界しており、森川の標的は彼らの未亡人にすり変わった。

一番殺したい相手は、前回殺しそこねた、別れた妻の祥子さんである。二番目には仲人でありながら、岡と一緒になって祥子と自分を引き離した岡の妻。

三番目には正則の妻の美津子。正則は、自分がいなくなってから祥子を再婚させた人物であり、非常に憎い。その妻ということで同罪だ。自分が祥子のことで相談しても美津子は相手にしてくれなかった。

四番目には前回の殺人の裁判の時、証言台に立ち、俺を「死刑にしてくれ。」と訴えた親戚の一人。

それから前回の仮出獄を取り消させた川本夫妻。
祥子とケンカした時に祥子の味方になって、俺の肩を傘で突いた兄貴。兄弟でありながら川本夫妻と一緒になって俺の仮出獄の取り消しを行った。

など、わずかでも恨みがあるものは全て殺しの対象にし、その数は30人以上にも昇った。
森川は後の供述では「不可能なので計画には入れなかったが、自分に無期懲役の判決を出したM裁判官も殺してやりたいと思った。」と言っている。

それぞれが住んでいる家の場所の都合で、憎い順番通りに殺すことは難しかったので、その辺を考慮して、この家を襲ったらその足でこの家に行って・・などの順番も具体的に考えた。


▼復讐に向かって動き出す

昭和60年5月31日。森川は計画を実行に移すために北九州の湧水寮を抜け出し、故郷の熊本へと出発した。
熊本へ着いて兄の家を訪ねた。
「俺も今度こそまじめに働くけん、お願いします。」
などと言ってなかば強引に住まわせてもらうことにした。兄の方にしても、実の弟である。しぶしぶ身元引き受け人になってやった。

殺す相手の一番最初は、やはり別れた妻・祥子さんである。親戚や思いつくところなどに徹底して居場所を聞いてみた。自分が調べていることがバレてはまずい、と思える家には面識のないそこの子供に聞いてみたりもした。何といっても、祥子さんの母親を殺し、祥子さんを死の一歩手前まで追い詰めたのは森川本人なのだから。


一度、大胆にも仲人だった岡氏の妻を訪ねて居場所を聞いている。この時はもちろん、教えてもらえなかった。森川の訪問を受けた岡未亡人はかなりの恐怖を感じながらもなんとかやり過ごした。

いつまでたっても手掛かりはつかめない。森川の復讐を恐れた祥子さんが、親戚にも全く居場所を伝えていなかったのだ。

森川はその一方で相変わらず酒好きで、行きつけになったスナックに入りびたりで、ママさんなどを誘って旅行に行ったり、と、湧水寮にいる間に、働いて貯めていた貯金もどんどん少なくなっていった。

このままでは生活にも困ってしまう。森川は計画を変更した。最初の計画では、まず祥子さんを殺すことになっていた。祥子さんの今の夫は長距離トラックの運転手らしいので、殺しても数日は発見されない。

その間に憎い順に、そして家の距離が近い順に一気に殺してまわろうと思っていたのだが、とりあえず所在の分かっている者から殺し、その家で現金を奪って当座の生活資金にして、順次殺しては金を奪っていこうということにしたのだ。

祥子さんの居場所を知っている可能性があるのは、再婚の世話をした正則氏(この時点では故人)の妻・美津子さん(63)か、親代わりだった岡氏の妻しかいない。この二人には一応、祥子の居場所を聞くが、言っても言わなくても殺すことにした。


昭和60年7月22日。黒い手提げカバンに懐中電灯とラジオを入れ、兄の家を出発。途中で刃渡り20cmの刺身包丁を買った。殺人を実行に移すつもりである。
その間に憎い順に、そして家の距離が近い順に一気に殺してまわろうと思っていたのだが、とりあえず所在の分かっている者から殺し、その家で現金を奪って当座の生活資金にして、順次殺しては金を奪っていこうということにしたのだ。

まず、仲人であった岡氏の家に行き、岡未亡人を殺すつもりだったが、犬に吠えられたのでここは中止して、タクシーで上益城(かみましき)郡甲佐町の岡美津子さんの家に行った。祥子さんの再婚の面倒を見た正則氏の妻である。

郵便受けには「陽子」という見知らぬ名前が書いてあった。子供がいなかったから養女を引き取ったのだろうと思った。森川が陽子さんの存在を知ったのはこの時が初めてであった。

二人は家の中にいるようだ。時間は22時ごろ。縁側にまわって窓ごしに「祥子の居場所ば、教えなっせ。」と声をかけると美津子さんはびっくりして「もう、遅か。」とだけ言って窓に鍵をかけた。

とりあえずいったん出直すことにした。翌23日の夜、再び森川は出発した。昨日と同じく、仲人の方の岡未亡人の家を訪れたが留守だったので、またもや美津子さんの家の方に行った。岡未亡人は結果的に二回も偶然に助けられたことになる。


▼殺人実行

22時半ごろに美津子さんの家に到着。カーテンの隙間から覗くと、二人が座って喋っていた。森川は二人が寝静まるまで待つことにした。物置の陰に隠れていたのだが、事前に焼酎を飲んでいたため、そのまま寝てしまった。目を覚ましたのは日付も変わった翌7月24日の午前2時過ぎだった。

復讐を実行に移す。まず開いている窓を探して家のまわりを探った。エアコンの室外機の上に乗って、そこの出窓に手をかけてみると、その窓が開いた。
「しめた。」

森川は窓から侵入し、包丁を持って美津子さんが寝ている八畳の部屋へ足音を忍ばせて近づいていった。戸を開けると二人が並んで寝ていた。左側に美津子さん、右側に陽子さんである。その時、美津子さんが目を覚ました。

「誰ね!」と叫ぶと森川は美津子さんの首に包丁を突きつけ、
「祥子はどこにおるとか。白状せんなら殺すぞ。」と脅した。
「しっ知らん、知らんものは知らん!」と震えながら美津子さんが答えると、

森川は美津子さんの胸を突き刺した。引き抜いた後に腹や肩、腕などをメッタ刺しにした。美津子さんも始めは何とか抵抗しようとしたが、すぐに力尽きた。更に森川は、美津子さんの脳天にも包丁を突き刺した。この間、彼女は声を上げることも出来ずに、部屋の中にはブスッ、ブスッという突き刺す音だけが響いていたという。


美津子さんが血だらけになって仰向けに倒れると、隣で寝ていた陽子さんが目を覚ました。森川と陽子さんは何の面識もない。が、「お前もグルだろうが!」と言って、陽子さんの胸を二回突き刺した。

陽子さんが立ちあがり、逃げようとするところをまた二回突き刺した。陽子さんは、電話の置いてある六畳の部屋に向かおうとしている。森川も追いかけようとしたが、ここで美津子さんが「うぅぅぅ・・。」と声を出したので、再び美津子さんの方へ戻り、胸とノドを刺してとどめを刺した。

電話にたどり着いた陽子さんは、受話器をあげて電話をかけようとしたが、そこで森川が追いつき、陽子さんの背中に深く突き刺した。陽子さんを引っ張って最初の部屋に戻し、美津子さんの隣りに倒すと、電話がつながっていないかどうかを確認し、その後電話線を包丁で切断した。

再び部屋に戻ると、陽子さんがかすかに声を上げている。森川に向かって弱々しく蹴ってきたが、逆に森川はその足を切りつけ、何度も何度も包丁を突き刺し、ついに陽子さんは息絶えた。まだ22歳の若さだった。

刺し傷は、美津子さんが41個所、陽子さんが35個所、合計で76個所。辺りは血の海となっていた。

この時の状況を逮捕後の森川はこう語っている。
「簡単やった。まるで大きな白い豆腐に刺身包丁を刺しては抜き、刺しては抜き、ちゅう感じじゃったばい。」


この後、森川は二人の服を脱がせて全裸にした。全裸にしたのは後の供述によると「これだけじゃあ気がおさまらん。いっそ発見された時に恥をかかせるため、丸裸にして、部屋のどこかに吊るしちゃろう。」とその時思ったからだという。

浴衣の帯で二人の遺体を吊るそうと考えたが、足元が血で滑ってうまくいかない。家に侵入した時に、足音がしないように靴を脱いでいたので、靴下にべっとりと血がついていたのだ。

そこで取りあえず、自分の服を洗うことにした。ズボンにも返り血が大量についている。森川は風呂場に行き、血の付いた服を脱ぎ、くわえ煙草のまま手でズボンや靴下を洗い、しぼった後にタンスから美津子さんたちの服を引っ張り出して床にばらまき、その上に今洗った自分の服を置き、その上からまた美津子さんたちの服をかぶせてサンドイッチ状態にし、上から踏んで水分を吸い取らせた。

その後、金目の物を探して食器棚や仏壇など、考えられるところを物色し始めた。部屋のテーブルの脇でカバンを見つけた。中を探ってみると、現金の入った封筒がいくつも出てきた。

美津子さんは「甲佐砕石工業」という会社の経営者で、従業員の社会保険料を払うために用意していた金をカバンの中に入れていたのだ。現金は約40万円あった。その金と、美津子さんがはめていた腕時計、サファイアの指輪などを抜き取り、入って来た窓から逃げ出した。時間は午前3時半ごろ。美津子さんの家に侵入してから約2時間が経っていた。


▼遺体発見、逃亡そして逮捕

遺体発見は美津子さんの会社の従業員である。朝7時半には必ず出社してくる美津子さんが会社に来なかったため、男女二人の従業員が美津子さんの家に様子を見に行ったのだ。通勤に使っている原付が家の横の車庫に停めてあり、すでに明るくなっているのに家には明かりがついている。何度チャイムを押しても反応がなく、ドアには鍵がかかっている。

従業員の男性の方が、エアコンの室外機の上の窓が開いていたので不審に思い、そこから家の中に入って、二人の遺体を発見した。二人とも血まみれで男女の区別さえつかないほどの凄惨な現場だった。

一方森川は熊本市内に向かい、盗んだ腕時計のベルトを時計屋で交換してもらい、サファイアの指輪と一緒に、いきつけのスナックのママに「買うてきたばい。プレゼントたい。」などと言って渡していた。


テレビでは早くも甲佐町の強盗殺人事件が報道されていた。

森川はママを誘って阿蘇温泉に遊びに行き、ママと別れた後は熊本県北部の立願寺温泉に身を隠した。そこで相変わらず飲んだくれていると、ある食堂で一人の女性と仲良くなった。さの女性と一緒に泊まったりホテルに行ったりして、しばらく行動を共にするようになる。

事件から五日目の7月28日、森川はその女性と、福岡県との県境にある荒尾競馬場に出かけた時、そこで張り込んでいた捜査員から「森川だな。」と声を掛けられ、逮捕された。逮捕のきっかけは、二人を乗せたタクシー運転手からの通報だった。

一度目の殺人から23年後、仮出獄を許されてから一年半後の犯行だった。森川の恨みはこれだけの時間が経ってもいささかも衰えてなかったのである。


森川のように、一度、罪を犯して刑務所に服役し、そして仮出獄などで社会に出た後、再び犯罪を犯して刑務所に帰ってくるというケースは後を絶たない。仮釈放を許された者の4割近くは再び犯罪を犯しているという。前回の事件で犯人と関わりを持ってしまった人たちは、その受刑者が出所した時に復讐の恐怖にさらされることも珍しくないのだ。

森川は第二の殺人で逮捕された時、
「私は無期懲役囚で、今度捕まればいつ刑務所から出られるか分かりません。それならいっそ、恨んでいる奴らを皆殺しにしてしまおうと思いました。岡美津子や陽子を殺したことについては何も反省していませんし、反省するくらいだったらこんな事件は起こしません。それより、二人を殺したくらいではまだまだ足りない、これが正直な気持ちです。」

と語っており、万が一また釈放されることになれば、次の殺人も確実に行われていたであろう。

だが森川は今度こそ死刑判決。平成11年9月、森川の死刑は執行された。



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