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No.013 人質を取って銃砲店に立てこもり、銃弾133発を乱射・片桐操

銃マニアの18歳がライフルで警官を射殺。追い詰められて逃亡の末、銃砲店に立てこもり警官隊や野次馬向かって銃を乱射。野次馬は約5000人集まり、報道も生中継の大騒ぎとなった。


▼発端

昭和40年(1965年)7月29日、午前11時ごろ、片桐操(18)は、神奈川県 高座郡座間町(現在の座間市)の山の中で、愛用のライフルで鳥や小動物を撃って楽しんでいた。そこでたまたま巡回中の警官(21)にばったり出会ってしまった。

「おい、お前、何してるんだ。」「こんな所で銃なんか撃っていいと思っているのか!」

警官の高圧的な口調にカチンときた。なおも片桐に対して威圧するような言い方をしてくる。ますます頭にきた片桐は「うるせえ!」と言いながら、持っていたライフルでいきなり警官を撃った。

弾丸は警官の身体に命中した。この音を聞いて近くにいた、一緒に巡回中だった二人の警官が駆けつけて来た。片桐はその二人の警官に向かっても発砲した。

片桐は、苦しんでいる警官たちから、銃(ニューナンブ)と、警察手帳、制服などを奪ってその場から逃走した。

最初に撃たれた警官は、病院に運ばれたが死亡し、他の警官も重症となった。


▼片桐という男

片桐は、子供のころから銃に異常なほどの興味をもっていた。専門雑誌を熱心に読み、知識も相当なものだった。四人兄弟の末っ子で、姉が二人、兄が一人おり、昭和37年に片桐が中学を卒業する時に、上の方の姉が、片桐に本物のライフルを買ってやった。ライフルが35000円、照準器が4000円だった。

まだ18歳未満だった片桐には銃の許可証などあるわけもなく、姉が自分の許可証でライフルを買い、それを片桐に与えたのだ。本物の銃を手にして片桐は非常に喜んだ。

それから3年が経ち、片桐は18歳になるとすぐに銃の所持許可証を取得し、この「姉の名義」だったライフルを自分の名義に変更した。
そして、東京・渋谷区の「ロイヤル銃砲火薬店」で、自分名義のライフルを買うことが出来た。39000円だった。

銃マニアの片桐としては、やっと堂々と銃を撃つことが出来るようになったのだ。後楽園や立川の射撃場に通って、熱心に射撃の練習に励んだ。そして、やはり、鳥や小動物などの、「動くものを撃ってみたい」という欲望にかられ、人のいない山の中に入っては、ライフルを撃つようになっていたのだ。


▼逃亡

片桐はライフルを撃つということは普段からよく行っていたことではあるが、この日はたまたま警官に出会ってしまった。そしてもののはずみからその警官を撃ってしまった。

ここから片桐の逃亡が始まる。まず、奪った制服に着替えてニセ警察官となり、すぐ近くの家を訪ねた。逃走用の車を手に入れるためである。

家の人(男性)が出てくると「この近くで撃ち合いがあったようです。犯人に逃げられたので、車を出してもらえませんか。」などと言葉巧みにその男をだまし、その人に運転させて自分もその車に乗りこんだ。もちろん、この男は、片桐を本物の警官と信じていた。

これ以降、片桐は次々と車を換えて逃走を計る。目立つ警官の服も脱ぎ捨て、自分の近くにたまたま停まった車などにいきなり乗りこんだりして、銃で運転手を脅して走らせ、東京を目指した。


車を奪われたり、脅されて運転しながらも何とか開放された人達が次々と警察に通報する。片桐も逃走しながらラジオのニュースを聞いていると、自分のことが放送されていた。

撃った警官の一人は死亡、乗り捨てた車の一台は発見され、3000人の警察官を動員して検問を張っているという。


▼目的地に到着し、立てこもる

東京に入ると、運転させている人に渋谷の方へ行くように指示した。目的地は「ロイヤル銃砲火薬店」である。片桐がライフルを買った店だ。やがて車が「ロイヤル銃砲火薬店」の前に着くと、そこで人質を開放してやり、自分は一人で店の中へ入った。

店に入ると片桐は、まず警官から奪った銃で店員たちと店内にいたお客を脅し、店の中に立てこもった。店員たちを脅して店内のライフルを次々と持ってこさせ、弾を詰めては壁や天井に向かって乱射した。

店内で悲鳴が上がる。これほどおおっぴらに逃走し、店内で騒いでいるのだ。たちまちのうちに店は警察に包囲された。膨大な数の警官隊が周囲を取り巻き、大量のパトカーや装甲車が駆けつけ、ヘリコプターも飛び交う。間もなく、事件の知らせを聞いた報道陣のヘリコプターも飛び始めた。野次馬も5000人くらい集まっていた。

片桐は、警官隊や野次馬に向かってライフルを何発も撃ち、まるで試し撃ちを楽しんでいるようだった。


この銃砲店は渋谷駅の近くにあり、近辺を山の手線が走っていた。片桐の撃った流れ弾が電車に当たる可能性もあるということで、乗客の安全を考えて山の手線は開通以来初めて前面ストップされた。

片桐は飲み物を持ってこいと店員に命じ、ビールを持ってこさせ、それを飲みながら乱射を続けた。弾が切れると弾を詰め直させ、また違うライフルを持って来させては次々と警官隊や野次馬に向かって銃を撃った。

「ヘリとパトカーを退去させろ! 言う通りにしないと人質を殺す!」と、110番に電話して脅迫もした。

業を煮やした警察は強行突破を決める。午後7時ごろ、機動隊が5丁のガス銃で店の中に催涙弾を撃ち込んだ。店内に煙が充満していく。耐えられなくなった片桐は、人質を連れて裏口から脱出することに決めた。

店員たちに別のライフルを持たせ、何丁かのライフルを持ちだして逃げる予定だった。しかし裏口も当然警官隊が包囲している。店から出た瞬間に発見されてしまった。

「あのパトカーを奪って逃げるぞ。」と、狙いをつけたパトカーの方へ走り出そうとした瞬間、人質たちに対して背を向ける体勢になった。男性店員の一人はその時を見逃さなかった。

自分が運ばされていたライフルを逆さに持ち換え、刀を降り降ろすようにライフルの柄で片桐の後頭部を思い切り殴ったのだ。「がぁっ!」と悲鳴を上げて片桐はその場に倒れた。


その瞬間、男性店員は取り囲んでいる警官隊に向かって走って逃げていった。しかしこの店員の一撃は気を失わせるほどの打撃ではなかった。片桐はすぐに起き上がり、逃げていく店員に向かって銃を撃ったが当たらなかった。

残った人質たちを周囲に立たせ、再び片桐は警官隊に向かってライフルを撃つ。そして手に持ったライフルが弾切れになった時、警官隊が突入し、逃げる片桐を取り押さえた。

約一時間に渡る銃撃戦は終わった。片桐が撃った弾は全部で133発に昇った。この乱射で、警官隊と野次馬合わせて16人が重軽傷を負った。


▼判決

逮捕後に片桐は、
「いろんな銃を撃ててスカッとしたよ。」「溜まってたものを全部吐き出したって感じかな。」「どうせ刑務所に行くんだから、代わりにベトナムに行きたいな、好きなガンを思いっきり撃ちまくれるなら死んでもいいんだ。」
などと語り、反省の色は全く見られなかった。

法廷では「銃への魅力は今なお尽きない。将来、社会に出て再びこのように多くの人に迷惑をかけることのないような刑・・死刑にして欲しい。」と発言。

一審は無期懲役で控訴し、二審では「人格の歪(ゆが)みによる残虐さは矯正(きょうせい)出来ない。」として死刑判決。そして最高裁でも死刑判決となった。

1969年(平成)10月、死刑確定。1972年(平成)7月21日、片桐、25歳で死刑執行される。



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