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No.017 老人ばかりを狙い、12人を殺害した古谷惣吉(そうきち)

古谷がそれぞれの殺人で得たものは、自分が今日を生きるための、わずかな金や衣類、食料だけだった。行き当たりばったりの自己中心的殺人者。


▼滋賀・福岡・兵庫で三件の殺人事件が発覚

昭和40年(1965年)11月9日、滋賀県大津市の柳ヶ瀬水泳場の売店「柳屋」の建物の中で、そこの管理人をしていた59歳の男性の絞殺死体が発見された。

死体は手を後ろに縛られており、首にはタオルが巻かれていた。死体の発見を遅らせるためか、上から布団がかぶせられていた。鑑識の結果、死亡したのは6日前の11月3日だと推定された。


更に、同じ月である11月の22日。場所は離れるが、今度は福岡県粕屋郡の一軒屋で、英語教師をしている54歳の男性が刺し殺されているのを、帰宅してきた妻が発見した。被害者は刃物で胸を一突きにされており、死体には先の滋賀県の事件と同様に、布団がかぶせられていた。

室内からは現金が五千円と腕時計、ラジオ、衣類が奪われていることが判明し、警察は強盗殺人事件として捜査を始めた。捜査の結果、現場からは犯人のものと思われる白のセーターと靴下、シャツとズボンが発見された。犯人は男性を殺害した後、この家にあった、被害者の服に着替えて逃走したようである。

犯人が脱ぎ捨てて行ったズボンにはズボンの内側に「小沼源蔵」という名前が書かれていた。(※「小沼源蔵」は文章の都合上の仮名)

この「小沼源蔵」とは犯人の名前だろうか? いや、犯人が自分の名前の書かれたズボンを現場に残して行くわけがない。
だが、この「小沼源蔵」という人物がこの事件の重要な手掛かりとなることは間違いないであろう。

福岡県警がこの「小沼源蔵」の前科を調べたところ、この男には前科があり、そのデータが見つかった。前科二犯で、二回とも窃盗で逮捕されている。二回目の逮捕の時に一年半ほど服役し、この時点から17年ほど前に出所している。

それから一週間ほどの調査の結果、問題の「小沼源蔵」の所在地が判明した。現在では兵庫県神戸市で廃品回収業をしているということだった。五人の刑事が小沼源蔵の自宅に急行した。小沼は神戸市垂水区の須磨浦公園近くの小屋に住んでいるらしい。


しかし刑事たちがその小屋で発見したのは、すでに死体となった小沼源蔵の姿であった。死体には布団がかけられており、首にはヒモが三重に巻かれていた。死体はすでにミイラ化しており、鑑識の結果、一ヶ月ほど前に殺害されていたことが判明した。現場からは財布がなくなっているようで、この事件も強盗殺人事件である。

警察は、福岡の事件で犯人が脱ぎ捨てて行ったズボンに書かれていた「小沼源蔵」にはたどり着いたが、その小沼源蔵は既(すで)に何者かによって殺されていた。「小沼源蔵」は犯人ではなかった。捜査は最初からやり直しとなった。

これまで殺されていたのは、(1)発端となった滋賀の水泳場の殺人・(2)そして「小沼源蔵」と書かれたズボンが残されていた福岡の英語教師殺害・(3)兵庫でたどり着いた、その当人の「小沼源蔵」

と、この三人である。


それぞれの遺体は発見を遅らせるために布団がかぶせてあったが、鑑識の結果を総合すると、殺害後にズボンや服を穿(は)き変えて逃走した兵庫の小沼源蔵事件(仮名)が、発見日こそ三番目ではあったが、彼が一番最初の被害者であった。

老人を狙っている点や、死体に布団をかぶせている点など、警察はこの三件の事件には共通性があると判断し、同一犯の犯行ではないかとの見方を強めていく。

更に同一犯であるということを裏付ける証拠が見つかった。兵庫の小沼源蔵の殺害現場から、「滋賀銀行」の通帳を入れるビニールケースが発見されたのである。

当時兵庫県には滋賀銀行の支店は一つもなく、兵庫県の現場に「滋賀銀行」のケースが落ちていたこと自体が不自然である。

しかし、最初に死体となって発見された、「滋賀県」の水泳場の管理人は滋賀銀行に預金をしていた。犯人が滋賀県で水泳場の管理人を殺害した後、被害者から滋賀銀行の通帳を奪い、兵庫まで流れてきて、兵庫での殺人の時にそこでうっかりとケースを落としていった、と考えればつじつまが合う。

▼京都で新たな遺体が二体発見され、指紋から古谷惣吉が特定される

昭和40年12月9日、警察は一連の事件を広域重要事件に指定し、全国でパトロールを強化していった。特に一人暮らしの高齢者を重点的に見まわるよう指示が出された。

12月11日、このパトロールの最中、今度は京都で京都府警 九条署の刑事によって高齢者の死体が発見された。場所は京都市伏見区の名神高速道路の鴨川鉄橋の下で、犠牲者はここにバラック(ほったて小屋)を建てて住んでいた、廃品回収業の60歳の男性である。

小屋は古畳とテントの布で構成された二畳とほどの住居で、遺体の首にはマフラーが巻きつけてあった。一連の事件と同じように遺体には布団がかぶせられており、死後7日から10日が経過していた。殺害したのは12月3日だと後になって判明した。

そして同じ日、京都府警 鴨川署の刑事はもう一つの遺体を発見する。先ほどの鴨川鉄橋の下のバラックから800mほど下った、京川橋の下にバラックを建てて住んでいた、66歳の廃品回収業の男性が絞殺死体で発見されたのだ。首には電気コードが巻きつけられており、同じく布団がかぶせられていた。こちらも殺害日は同じ12月3日だと判明した。

この京都の二件の事件では、現場から犯人のものと思われる指紋が検出された。

12月12日、犯人確定のための大きな成果が得られた。京都の現場で採取された指紋が、福岡県警が保存していた指紋の一つと一致したのである。犯人は前科のある男で、指紋のデータが警察の記録に残っていたのだ。
指紋の主(ぬし)は、前科八犯の「古谷惣吉」という男であった。「古谷惣吉」は即刻、全国指名手配された。


▼古谷、逮捕される

古谷が指名手配されたその日、兵庫県警は偶然にも「古谷惣吉が新たな殺害を行った直後」の場面に遭遇する。

古谷惣吉
兵庫県芦屋署はこの日、廃品回収業を重点的にパトロールしていた。その最中、芦屋署の三人の巡査が、芦屋市とは堀切川をはさんで対岸にあたる西宮市の川べりにバラックが建ててあるのを発見し、ここも念のために訪問してみた。

するとバラックの中では男性二人の死体(69歳・51歳)が転がっており、二人とも鈍い刃物のようなもので頭を一撃されていた。

「大丈夫か!」と声をかける一方、小屋の外で何か人の動くような足音が聞こえた。すぐに巡査が小屋の裏にまわってみると、そこには手にナタのような物を持った男が立っていた。

「古谷か!」

その瞬間、男は凶器を投げつけ逃走を始めた。
「待てえい!」「止まらんと撃つぞ!」


当時古谷は51歳。体力もそう続くわけでもなく、間もなくして巡査たちに追いつかれ、ついに取り押さえられ、逮捕された。この男はやはり古谷惣吉本人であった。指名手配から18時間後のことだった。

逮捕された後、古谷は更に大阪でも一人殺害していたことを自供した。大阪府高槻市 高槻橋の下のバラックで古谷の自供通り、53歳の男性の死体が発見された。首にはワイシャツが巻きつけられており布団がかぶせてあった。
犠牲者はこれで八人となった。


▼古谷の過去の犯罪

古谷の今回の連続殺人は、昭和40年10月30日の兵庫県での殺人(遺体発見日は11月29日 = 殺してズボンを穿(は)き替えた事件)を最初として、12月12日までの43日間の間に8人もの人間を殺害した事件である。

だが古谷が殺人を犯したのは、これが初めてではなく、古谷の最初の殺人はこれより14年ほど前にさかのぼる。


昭和26年5月23日、古谷(当時37歳)は、福岡市で一人暮らしの老人を絞殺して現金6800円を奪った。そして約一ヵ月後の6月20日、今度は北九州市でまたもや一人暮らしの老人を絞殺して現金230円を奪っている。

この二つの事件の時は、古谷は一人ではなく、坂本登(20)という男を見張りに立てて殺害を行った。これらの事件では結局見張りをしていた坂本だけが捕まり、古谷は逃亡に成功している。

事情徴収で坂本が「俺は見張りをしていただけで、本当に殺したのはソウさんだ!」と訴えたが、福岡県警は現場から古谷の指紋も採取していたにも関わらず、坂本を捕まえたことで結論としたのか、それ以上古谷の方は追わなかった。

坂本には実行犯として死刑判決が下り、翌年には死刑が執行された。一方、これらの事件での逮捕からは逃(のが)れた古谷であったが、早くも翌年の昭和27年3月に恐喝未遂事件を起こし、こちらでは逮捕され、懲役3年の刑罰を受けた。

昭和28年9月、加古川刑務所から仮出所した古谷は、早々に姫路市内で窃盗事件を起こし、またもや逮捕されることとなった。

今回は窃盗で逮捕されたわけだが、以前、坂本を見張りに立てて行った二件の殺人も、指紋の照合から再び掘り返され、今回の窃盗だけでなく以前の殺人に関しても追求されることとなった。

しかし、坂本が死刑になっているのを幸いとして、「実際に殺したのは坂本で、自分は見張りをしておっただけじゃ!」と事実とは反対の主張を押し切り、結局証拠不十分・従犯者ということで、死刑にはならず懲役10年の刑となった。

昭和39年、熊本刑務所から仮出所し、更生保護施設に引き取られて建設関係の仕事に従事したが、半年後の昭和40年5月5日にその施設からも蒸発する。


この施設から離れて流れ歩いた後にたどり着いたのが、冒頭に述べた8人連続殺人事件の皮切りとなった兵庫県の小沼源蔵である。

この日、小沼の住んでいるバラックに何気にたどり着いた古谷は、小屋の外から小沼がうどんを作っているのを見つけ、腹が減っていたのですぐに押し入り「今晩一晩泊めてくれや。」と声をかけた。

びっくりした小沼が当然拒否すると古谷は逆上し、首を絞めて小沼を殺害し、その後、小沼のうどんを食べてそのバラックを後にした。

また、更に古谷の殺人の別件となるが、昭和39年11月から翌年40年の5月にかけて、鳥取県米子市と愛媛県松山市でも高齢者の男性一名と女性一名が殺害され、金品を奪われる事件があった。

この事件に関しても古谷は容疑をかけられたが、古谷が否認を押し通したのと証拠不十分だったために立件には至らなかった。しかしこの二件も、手口からみて古谷の犯行に間違いないとされている。

起訴された八人の殺人と、過去の立件されなかった事件を含めると、古谷が殺害した人間は全部で12人ということになる。

それぞれの殺人で古谷が得たものは、わずかな金と小物や衣類、食料など、その場を生きるためだけの程度の低いものだけであった。


▼判決

連続殺人事件・八件を行う以前の、四件についてはすでに判決が出ており、今回古谷は八人を殺害した罪などで起訴された。

昭和46年4月1日、神戸地裁で開かれた裁判にて、古谷は、架空の共犯者をでっちあげ、自分の無実を主張するが、そのような話でごまかせるはずもなく、検察側からは、

「わずかな金と食料欲しさに8人もの尊い人命を奪った。」「昭和刑事犯罪史上極悪非道無類である。」

として死刑が求刑された。

そして判決は、
「日本の犯罪史上かつてない凶悪な事件であり、この極悪非道の罪を償(つぐな)うには、最高の刑罰しかない。」

と、古谷に死刑判決が下った。

古谷は控訴するも、昭和50年大阪高裁で控訴棄却、昭和53年には最高裁で上告が棄却され死刑が確定した。

昭和60年5月31日、大阪拘置所にて、古谷71歳の死刑が執行された。



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