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No.020 600万人のユダヤ人大量殺人を実行したカール・アドルフ・アイヒマン

第二次世界大戦中、ナチスドイツが行った「ユダヤ人絶滅計画」において、「死の工場」を指揮し、600万人ものユダヤ人を殺害したアイヒマン。ドイツ敗戦後は名前を変えて国外へ逃亡するが、イスラエルの情報機関モサドがついにアイヒマンを発見する。


▼アイヒマン、ナチ党へ入る

カール・アドルフ・アイヒマンは、1906年、ドイツのゾリンゲンで生まれた。4歳の時に母を亡くし、一家はオーストリアのリンツに引っ越した。子供時代は、アイヒマンの顔立ちがユダヤ人に似ていたことから、オーストリアでは、ユダヤ人の友達がたくさん出来た。

1925年ごろ、アイヒマンはナチスドイツの宣伝印刷物を読んでから、ナチに非常に興味を持ち始め、更に1931年、ナチスドイツ総統ヒトラーの演説を聞いて感動し、オーストリア・ナチ党に加入することとなった。

「総統の演説を聞いてから、自分はドイツ民族の敵であるユダヤ人と仲良くしていたことに腹が立った。」と後にアイヒマンは語っており、ヒトラーの影響を非常に受けていたことがうかがえる。


ナチ党は、ヒトラーの考えを受け継ぎ、街中で出会うユダヤ人たちを次々と袋叩きにしていった。アイヒマン自身もナチ党からひどい暴行を受けたことがある。顔立ちがユダヤ人に似ていることと、その時たまたま党員カードを身に着けていなかったために、ユダヤ人と間違えられたのだ。

この時アイヒマンが思ったのはナチ党に対する憎しみではなく、「ユダヤ人さえこの世にいなければ、俺がこんな目に遭(あ)うこともなかった。何もかも奴らのせいだ。」と、怒りの対象はユダヤ人の方に向けられた。

また、党の指導者たちから、「アイヒマンはユダヤ人のスパイではないか」との疑惑をかけられたこともある。子供のころからユダヤ人と交流があったアイヒマンは、彼らの生活や言語に詳しく、それがスパイ容疑をかけられる原因ともなったのだ。

これらの反発心から、アイヒマンは常にナチスの制服を身にまとい、拳銃と鞭(ムチ)を持ち、積極的にユダヤ人迫害を行った。その成果のためであろうか、アイヒマンは1934年に親衛隊員になり、軍曹の称号を与えられた。


▼ユダヤ人絶滅計画

当時ナチスドイツは、「ユダヤ人問題の最終解決策」という計画を推(お)し進めており、この計画は名前こそぼかしてあったが、その内容は実は「ヨーロッパにおけるユダヤ人たちの皆殺し計画」であった。

この計画の重要な部署を担(にな)う一人としてアイヒマンは抜擢(ばってき)された。当時のゲシュタポの長官ラインハルトハイドリッヒは、アイヒマンを高く評価しており、ユダヤ人の輸送関係の責任者としてアイヒマンを任命した。
つまりドイツが占領した国々から捕らえてきたユダヤ人を、列車で各種の強制収容所へ輸送するという業務である。

(※ゲシュタポはナチス・ドイツの秘密警察であり、ヒトラーに敵対する人々を弾圧し、スパイ摘発やユダヤ人の捕獲などを行った。)

1938年、ドイツ・ベルリンに中央ユダヤ人移民局が設置され、本格的にユダヤ人の虐殺が始まった。
ドイツ国内から捕らえられてきたユダヤ人たちは、極寒の地であるソ連との国境あたりに列車で送られ、そこで殺害されることとなったのだ。


▼600万人を殺した、殺人のための工場

ハインリヒ・ルイトポルト・
ヒムラー

アイヒマンは、ユダヤ人皆殺し計画の重要な役割を務めたが、この計画の最高責任者はハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーという男である。ヒムラーはドイツの政治家であり、ドイツ労働者党の親衛隊全国指導者であり、親衛隊とドイツ警察全てを統括する地位にあった。

この時代、殺害の対象となったのはユダヤ人だけではない。ポーランド人や、カトリックの聖職者、エホバの証人、身体や脳に障害のある者、同性愛者などが同様に捕らえられ殺害されていった。

1941年5月、ヒムラーは、ユダヤ人の収容所である「アウシュビッツ強制収容所」の所長を務めていたルドルフ・フェルディナント・ヘスに、「この収容所でユダヤ人を皆殺しにするように」、との命令を下した。


すでにこの計画の幹部であったアイヒマンは、ユダヤ人殺害に毒ガスを使うことを提案した。すでに人体実験済みであったし、経費が割と安くつくためというのがその理由であった。

そして三ヵ月後の8月、アイヒマンの案に基づいて、ガス室の第一号ともいえる箱型の車が完成した。この中にユダヤ人たちを閉じ込めて、一酸化炭素を使って殺害してみたが、これは規模が小さ過ぎて、これから行う予定の大量殺人には性能的に満足のいくものではなかった。

次に行われたのが、大きな小屋に500人を閉じ込めて排気ガスで殺害するという方法であったが、これも所要時間や一度に殺害出来る人数、経費など、いろんな面から考えて、まだアイヒマンは満足していない様子だった。

ある時、ルドルフ・フェルディナント・ヘス所長の副官が、ユダヤ人の監房に害虫駆除に使われるチクロンBガスの結晶を投げ込んでみたことがあった。翌日、その副官が様子を見に行ってみると、大半のユダヤ人が死亡していた。

このことを聞いたアイヒマンはすぐに乗り気になり、チクロンBガスを使った方法で計画を推(お)し進めていくことを決定し、彼の命令のもと、死体焼却場を兼ねたガス室の建設が開始された。


第一、第二のガス室はほどなくして完成し、一日に2000体の死体を焼却した。第三、第四のガス室は一日に1500体、最新の第五工場が一番規模が大きく、一日で9000体焼却したこともあった。

ヒムラーとアイヒマンは各工場を訪れ、人々が死んで行く様子を観察し、この殺人工場の職員たちにはタバコや酒を配って激励した。
後に「やりきれない仕事だった。」と語ったヒムラーと違い、アイヒマンはこの死の工場の業績を上げることに没頭し、殺人に対しても無感情だったようである。

そして1941年10月にはアイヒマンはこれまでの功績を見とめられて親衛隊中佐に任命された。


第二次世界対戦も終盤に近づき、ドイツの敗戦を予感させるような時期まで来ると、アイヒマンは工場のスピードアップを命じた。
「たとえドイツが負けることになろうとも、これだけはやっておかねばならない。ヨーロッパ中のユダヤ人を全員殺すのだ。」と、懸命になり、敗戦前の数週間は、莫大(ばくだい)な人数のユダヤ人がガス室に送られた。後にアイヒマンは「全部合わせると600万人のユダヤ人を殺した。」と自供している。


▼対戦終結。国外へ逃亡したアイヒマンをモサドの諜報員が追う

第二次世界対戦が終結し、ドイツは敗戦国となった。ナチスドイツの幹部として活躍し、あれだけのユダヤ人殺害を行ったアイヒマンは捕まれば確実に死刑となる。

裁判中のカール・アドルフ・アイヒマン
アイヒマンは逃亡生活に入った。まず、身分をドイツ空軍二等兵とし、変装して顔立ちを隠すようにした。1945年5月に一度アメリカ軍に逮捕されたが、アメリカ軍は下っぱの兵士には何の興味も示さず、正体はバレなかった。

しかし捕虜収容所に送られたアイヒマンは、戦争終結で混乱していたわずかなスキをついて脱走することに成功した。その後にイタリアのローマに逃げ込み、そこで他の国籍者である証明書を手に入れ、再び母国のドイツに戻って隠れるように生活を始めた。


しかしその間にも、生き残っていたユダヤ人たちはゲリラ隊を組織し、ナチスドイツの親衛隊幹部を必死に捜していた。アイヒマンは、今度は自分が死の危険にさらされることとなった。

ドイツにいるのは危険だと判断したアイヒマンは、1950年に妻子を連れてアルゼンチンに逃亡した。アルゼンチンには元親衛隊の仲間がいたからである。逃亡に際して名前も「リカルド・クレメント」という名前に変え、アルゼンチンへと渡った。

アイヒマンはこの地で、仲間たちが設立した会社「ドイツ・アルゼンチン商会」に勤務することとなり、一般会社員としての別の人生をスタートさせたのである。

しかしその間にも着々とイスラエルやユダヤ人ゲリラによる捜索は拡大していった。アイヒマンの捜索は、すでにヨーロッパとアメリカ全土にまで及(およ)んでいたのである。
※(イスラエルは、国民の81%をがユダヤ人。)


イスラエルには総理府の管轄の下、「モサド」という情報機関があり、この機関は主に情報収集や秘密工作(暗殺まで含まれる)、元ナチス戦犯の捜索などを任務としているが、1950年、このモサドの諜報員(ちょうほういん)が、「30人ほどの元ナチの幹部が、スペインを経由してヨーロッパへ逃亡した」ことを突き止めた。

そして「リカルド・クレメント」という名前の男がヴァティカン市当局発行の難民証明書を使ってアルゼンチンに渡ったことも突きとめた。


▼リカルド・クレメントがモサドの捜査対象となる

それから7年後の1957年。依然アイヒマンの捜索は続けられていたが、この年、アルゼンチンに住むユダヤ系ドイツ人のA氏が、諜報部員にある情報をもたらした。

A氏の娘の同級生に「ニコラウス・クレメント」という少年がいるのだが、この少年はやたらとユダヤ人を敵視するような発言をし、ユダヤ人を大量に殺したヒトラーを誉(ほ)め称(たた)えているというのだ。

娘はこのクレメント少年の父親を見たこともあるという。娘にクレメント少年の父親の特徴を聞いてみた結果、写真で見たアイヒマンに極めて良く似ているということが分かった。

この少年の父親とは、名前こそ「リカルド・クレメント」となってはいるが、ひょっとしてこの男こそアイヒマン本人ではないのか?そしてその息子が娘の同級生であるニコラウス・クレメント少年であり、アイヒマン一家は現在アルゼンチンに住んでいるのではないだろうか。


A氏は自分のカンではあるが、この情報をドイツにいる組織の上部に報告した。情報は拡大し、イスラエルの特務機関がアルゼンチン情報部と駆け引きを行った結果、アルゼンチン政府は「リカルド・クレメントが即(すなわ)ちアイヒマンである」ということを知っていたことが判明した。

しかしアルゼンチンが亡命者の引渡しの手続きをすれば、戦犯者を知っていてかくまっていたことが世界に知られてしまう。世間に公(おおやけ)にしないことを条件に、アルゼンチン側は、イスラエルがアイヒマンを逮捕することを黙認するということで話がついた。

しかしクレメントがアイヒマン本人であるというのは、限りなく信憑性(しんぴょうせい)が高かったが、まだもう一つ確実とは言えなかった。

モサドの諜報部員たちは24時間体勢でクレメント一家の監視に入った。またその一方で、クレメントの写真をイスラエルのテルアビブへ送って生き残ったユダヤ人たちに見てもらったが、クレメントがアイヒマンだと断言出来る者はいなかった。
だいぶ昔のことではあるし、収容所でも彼をわずかに見かけただけに過ぎなかったからだ。


▼花束が証明したクレメントの正体

だが、1960年3月21日に決定的な瞬間が訪れる。ブエノスアイレスのスワレス郊外で、クレメントが花屋で花束を買ったところを、尾行していた調査員が目撃したのだ。
アイヒマンの情報は可能な限り徹底的に調べ上げられていたが、この日「3月21日」はアイヒマンの結婚記念日だったのだ。

クレメントがアイヒマンではないか、という疑惑は、この花束と日付により、ほぼ確実なものとなった。

5月11日の夕方、アイヒマンが仕事からの帰り、いつものように自宅近くのバス停でバスから降りると、そのとたん、三人の諜報員が近寄って来て、アイヒマンを取り押さえ、無理やり車の中に押し込んだ。

あらかじめ用意されていた隠れ家に連行されたアイヒマンは、ここで身体検査をされ、盲腸の手術の跡や左の眉(まゆ)の上の傷跡など、身体的特徴を徹底して調べられ、調査書と比較された結果その全てが一致し、この男こそまぎれもないアイヒマンであることが判明した。

こうして捕らえられたアイヒマンは、薬で眠らされ、アルゼンチン・ブエノスアイレス空港からイスラエルのテルアビブへ運ばれることとなった。輸送には、看護士に変装した男が担当につき、偽造された書類には「彼は交通事故で頭を負傷しており、扱いに注意すること。」と書かれていた。

アイヒマンは1961年12月12日の裁判において、ユダヤ人大量殺害の罪で有罪となり、死刑判決となった。

▼死刑執行

翌年の1962年5月31日の深夜、テルアビブの郊外にあるラムレ刑務所でアイヒマンの絞首刑は執行された。死刑執行に際し、刑務所長、牧師、医師、警官二名、記者四名が立ちあった。

立ちあった記者によると、アイヒマンは首に縄がかけられる寸前まで傲慢(ごうまん)で、後悔の様子はなかったという。

首に縄がかけられる前、彼はこう叫んだ。
「ドイツ万歳!アルゼンチン万歳!オーストリア万歳! 私は縁のあったこの三つの国を決して忘れない。私の家族や友人たちによろしく言ってくれ。私は戦争の掟に従わなければならなくなった。さあ、私にはもうその準備が出来ている。」

そして記者たちに向かい、
「皆さん、またお会いしよう。これが人間の運命というものだ。私は神を信じてきた。そして神を信じながら死んでいく。」
と言い放ち、それから間もなくして首に縄をかけられたアイヒマンの足元の床が開き、アイヒマンの身体は闇の中へと吸い込まれていった。

翌日の1962年6月1日、テルアビブ発のロイター電で「イスラエル政府が、元ナチの親衛隊中佐カール・アドルフ・アイヒマン(56)を5月31日の夜、ラムレ刑務所で絞首刑に処した。」と伝えられた。



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