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No.022 新宿駅西口でバスに放火・丸山博文

他人に対する嫉妬、自分の不幸な境遇に対する怒り。丸山博文(ひろふみ)は、乗客30人の乗ったバスの車内に、火のついた新聞紙とガソリンを投げ込んだ。バスはあっという間に炎上し、多数の犠牲者を出す。


▼事件発生

(敬称略)
昭和55年(1980年)8月19日、21時過ぎ、新宿駅西口のバスターミナル20番線に、京王帝都バス(現:京王電鉄バス)・新宿駅発 中野車庫行きのバスが停まっていた。

バスは発車までの時間待ちで、中にはすでに30人ほどの乗客が乗っており、バスの後ろ側のドアはまだ乗客が乗るために開けられたままだった。

そこへ中年の男が現れ、火のついた新聞紙を突然、その後ろのドアからバスの車内に投げ入れた。そして間髪入れず、バケツに入れて持ってきたガソリン4リットルを火に向かってぶちまけた。

車内は爆発的に燃え上がり、瞬(またたく)く間にバス全体が炎に包まれた。バスの後ろの方に座っていた乗客3人は、身体にガソリンを浴びていたために、あっという間に全身が火だるまとなり、何も出来ないまま座った状態で焼死した。

バスの前の方に座っていたお客はすぐに前のドアから脱出することが出来たが、乗客全員がすみやかに車内に出るにはバスの出口は狭(せま)すぎた。

パニック状態となったお客が急いで車外に出るものの、後ろに近い席にいた人ほど炎に巻き込まれていた。最後の方に脱出してきた女性は全身を炎に包まれており、悲鳴を上げながら道路上で転げまわって火を消そうとしていたが、それを見ていた大量の野次馬たちも何も出来ずにただ見ているだけであった。

最終的に6人が死亡し、22人が重軽傷を負うという大惨事となった。

火とガソリンを投げ入れた犯人は住所不定の建設作業員・丸山博文(ひろふみ)(38)である。

丸山はその場からすぐには逃走せず、自分が火をつけたバスが燃える様子を少しの間見ていた。
丸山の犯行現場を見ていた人も多く、「あいつが犯人です!」との通行人からの証言を受けて、逃げようとしていた丸山は、駆けつけた警官たちに即座に逮捕された。


▼犯行の動機

丸山は、この事件を起こす5ヶ月前の、昭和55年3月ごろから新宿駅西口付近に住みついていた。
日雇いの建設作業員であった丸山は、全国を転々としながら生活を続けていたが、この頃は宿泊費、あるいは家賃の節約のために家のない生活を送っており、新宿駅のあたりで浮浪者のような生活をしていた。仕事には就(つ)いているが、住所がない、という生活である。

楽しみといえば仕事が終わって駅や路上で酒を飲むことであった。ある日、日本酒のワンカップを新宿駅の地下通路に通じる階段に座って飲んでいると、

「邪魔だ!あっち行け!」
と、誰かに怒鳴られた。周りには人が多く、誰が怒鳴ったのかは分からない。しかし確かに男の声だった。この瞬間、丸山は逆上した。すぐに辺りを見まわした。
多分、であるが、今怒鳴った男は、今、あのバスに乗り込んでいるあの男だ!


丸山はその男に仕返しをすることに決め、男が乗るであろうバスに放火することを思いついた。
ガソリンスタンドで、ポリタンクにガソリンを10リットルほど買い、ポリタンクは公園に隠して仕返しの機会を待っていた。

そして事件を起こした8月19日、その日丸山は多摩川競艇で、全財産に近い一万円も負けてかなり頭に来ていた。

酒を飲みながら、自分の境遇や社会に対する不満が沸いてくる。
「あん時怒鳴ったのはサラリーマンに違いなか。こいつらは高か給料ばもろうて綺麗か家に住んで、家に帰れば家族が待っちょってくるる。じゃが、ワシにはそげな家もなか。家族もなか!」

「今まで真面目に働いてきちょったとに、何でワシばっかりがこげな目に会わないかんと・・?」

酒の勢いもあり丸山は衝動的に、買っておいたガソリンをバケツに移し、新聞紙を持って新宿駅西口のバスターミナルへ向かった。

あの時怒鳴った男が乗っているかどうかは分からないが、自分の境遇、社会に対する怒りをぶつけるかのごとく、丸山は新聞紙に火をつけ、バスの車内に投げ入れたのである。


▼丸山の生い立ち

丸山は昭和17年(1942年)北九州市で生まれた。5人兄弟の末っ子であったが、母親は丸山が3歳の時に死亡している。父親はアルコール依存症で、仕事もろくにしていなかったため、丸山の家は貧困を極めた。

そのため、丸山は小さい時から農家や大工の手伝いなどをして家計を助けていたため、小学校時代からあまり学校へは通えず、まともな教育は受けられなかった。この後成長して大人になっても、一般の人が読めるべき漢字も読めないような状態であった。

それでも何とか義務教育が終了すると建設作業員となり、日本中を転々としながら各地の現場で働いた。勤務ぶりはどこでも真面目であったという。


昭和47年に結婚して子供が生まれたが、この妻は酒好き・男好きで、子供をほったらかしてはしょっちゅう遅くまで遊び歩き、丸山とも口論が絶えず、翌年に早くも離婚した。
しかしこの離婚した元妻が、まもなく精神的に少しおかしくなり、精神科の病院に入院することになる。丸山は、生後間もない子供を施設に預けることにした。

大阪や静岡の現場を転々としながらも懸命に働いたが、子供を預かってもらっている施設への送金は一度も欠かすことはなかった。
楽しみは仕事が終わってからの酒だけであったが、収入の低さや、真の友人のいないこと、都会での寂しさなどからだんだんと心は荒れていった。

昭和48年には、酔っぱらって、街中で見かけた女性を元妻と勘違いして追いかけ、その女性の家に侵入し、逮捕されるという事件を起こしている。
この時は警察で受けた精神鑑定で精神分裂病(現在の名称は総合失調症)と診断されたため、起訴はされなかった。

東京に出てきてからの家のない生活や寂しさ、酒に溺れる日々が少しずつ丸山の心を壊していき、事件に向かって進むことになる。


▼収監中の丸山に感動を与えた被害者の女性

この事件に巻き込まれ、全身の80%の火傷という重傷を負った杉原美津子は、あの当時、職場の不倫で悩んでおり、自殺も考えたことがあったという時期だった。バスが炎上した時、その悩みから「このまま死んでしまおうか。」という考えが頭をよぎり、一瞬逃げるのをためらったため、全身に大火傷を負うという結果になってしまった。

杉原には報道カメラマンをしている兄がおり、あの日偶然のいたずらか、炎上している現場のすぐ近くに兄がいた。兄は職業柄、すぐにバスの写真を撮り、その写真は翌日の新聞に掲載されたが、後になって、苦しんでいる妹に救いの手を差し伸べず写真を撮っていたことが分かり、愕然(がくぜん)とする。
この時のショックで兄は報道写真の職を辞めてしまう。

その後杉原は奇跡的に回復し、丸山に手紙を出している。あの日、自分が逃げ遅れたのも自分に責任があることであり、また、丸山のこれまでの不幸な経歴を知って、あなたを責めることが出来ない、といった内容であった。

刑務所で涙した丸山はすぐに杉原に返事を書いた。

また、杉原は、刑務所にいる丸山にも一度面会し「もう一度やり直して下さい。」との言葉をかけており、裁判でも「丸山に寛大な刑を。」と発言している。丸山に死刑判決が出なかったのも、彼女の発言が影響したとも言われている。

杉原は昭和58年、「生きてみたい、もう一度」という事件に関する手記を文藝春秋から出版し、この本はベストセラーとなった。また、昭和60年には「生きてみたい、もう一度 新宿バス放火事件」というタイトルで、桃井かおり主演の映画も製作されている。


▼判決

昭和59年4月24日、東京地裁において「被告は犯行当時、善悪を認識し、それに従って行動する能力が甚(はなは)だ低下した心神衰弱の状態にあったと判断する」として、無期懲役の判決が下った。

検察側は控訴したが、昭和61年8月26日、東京高裁も地裁での判決と同様に、無期懲役という判決を下した。

判決文を聞いた丸山は、無期懲役を無罪と勘違いしたのか「罪にならんとですか!?」と聞きなおし、傍聴席に向かって土下座し「ごめんなさい!」と頭を下げた。

平成9年10月7日、丸山は千葉刑務所に服役していたが、この日の昼食の後「メガネを作業場に置き忘れてきたので取りに行かせて下さい。」といって作業場に向かった。

しかしいつまで経っても帰ってこないので職員が見に行ったところ、作業場の天井付近にある配管にビニールのヒモをかけて、首を吊って死んでいた。55歳だった。

丸山は罪の意識から「死刑になってみんなにお詫びせないかん。」と裁判期間中にも発言しており、本人は死刑を望んでいたのかも知れないが、自殺の時には遺書はなく、事件から17年も経って、なぜこの日に突発的に自殺をしたのか、最後の心境は分からないままである。



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