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No.028 暗黒街の帝王アル・カポネ01 〜 禁酒法時代とカポネ全盛期

禁酒法という法律を逆手に取って莫大な利益を上げ、アメリカ・シカゴのギャング界を支配したアル・カポネ。禁酒法とカポネの生活ぶり。


▼禁酒法

かつてアメリカでは禁酒法と呼ばれる法律が存在していた。禁酒法とは、その名の通り、飲料用アルコールの製造や販売、運搬などを禁止した法律で、要するに酒を飲むなということだが、自宅での飲酒までは禁止されなかった。
つまり家で飲むのは良いが、繁華街などに飲みに出るのは禁止ということである。

以前から「悪の根源は酒にある」「男が不健全な酒場に入り浸って家庭生活に支障が出る」など、酒に対する批判が強くあったアメリカでは、1920年1月17日、ついにアメリカ全土で禁酒法が施行されることとなった。

以来、1933年に廃止されるまで13年10ヶ月の間アメリカは禁酒の時代に突入する。違反者は罰金1000ドル、禁固6ヶ月に処せられることとなった。


しかしこの法律によってアメリカが健全になったかというと、全くの逆で、酒を禁止したことにより酒の密造や密輸が増え、酒をめぐる犯罪も増えた。

ニューヨークでは、禁酒法が施行される前には、バーが約1万5000軒あったのだが、禁酒法時代にはそれが3万2000軒にも増えた。増えた分は大半が営業許可のない、もぐりのバーであった。

また、隣国のカナダからの酒の輸送を取り締まらなかったため、カナダからの酒が大量にアメリカに流れ込んだ。

そしてこの時代ならではの闇のビジネスが確立される。それがギャングたちによる酒の密輸や販売である。そして非合法な作り方をした悪質な酒まで流通した

風呂の浴槽にアルコールとエッセンスを流し込んでかき混ぜただけのものを瓶に入れて販売したりと、およそ衛生観念のカケラもないような酒が出まわり、こういった悪酒で2000人近い死亡者や失明者が出た。


酒によって特に稼いだのは、カナダからの酒の密輸を一手に取り仕切っていたデトロイトのパープルギャング団や、シカゴのアル・カポネなどであるが、大都会のギャングたちは軒並み酒の密輸に手を出していた。

彼らギャングは、稼いだ金で警察や裁判所、政治家などを買収し、自分たちの仕事をよりやりやすくした。特に禁酒法の捜査官においては、一人残らず買収されたとも言われている。賄賂(ワイロ)を受け取って解雇になったり告発された者は何百人にもなり、法を執行すべき組織は腐敗の一途をたどった。

シカゴ警察はこの時代、年間3千万ドルの賄賂を受け取っていたと言われており、また、シカゴ市内を走っているトラックを警官が止めて、それに酒が積んであったら通行料を取り立てる、というようなことが普通に行われていた。

また、当然のようにギャング同士で酒の奪い合いというものが起こる。あるギャング団が輸送している酒を、別のギャング団が機関銃を乱射しながら襲って強奪するのだ。1929年だけでも500人のギャングが殺されている。

この時代のギャングは、酒の強奪や特殊装甲車による密造酒の護衛など、酒に命をかけていた。


▼禁酒法時代のアル・カポネ 〜 その組織と生活ぶり

カポネの配下には、命令一つで機関銃を手にどこへでも乗り込む殺し屋が700人おり、また、賭博場300軒、淫売宿(現在のソープランド)3000軒、もぐりの酒場2万軒の大半を支配し、そこから彼のもとへ入ってくる収入はだいたい年間1億ドル以上、1927年は1億5000万ドル(約240億円)にものぼった。

対抗勢力を次々と葬り、政治家や警察、裁判所も買収し、悪の世界を支配した。カポネは生涯で450件の殺人に関与していたが、自分が手を下したのは40人くらいであり、大半は部下に命じて実行させ、自分は陰から指示を出していた。またアリバイに関しても完璧な場合が多かった。


パームアイランドにある自宅は、1922年に建てられ、4万ドルで買って、更に10万ドルかけて改装した。家の周りは高いコンクリートの壁で囲まれ、庭には三ヵ所に門番を配置する小屋が作られ、ここに銃を持ったガードマンを配備していた。

アル・カポネ

プールもあり、池には高級魚が大量に泳いでいた。家の裏は海になっており、ここな桟橋(さんばし)が作られていて、カポネ所有のモーターボートとクルーザーが停泊していた。

屋根付きのベッドや金箔の家具など、贅沢の限りを尽くした家であった。ただ、カポネは常に自宅に住んでいたわけではない。

禁酒法時代には、主にシカゴの高級ホテル・レキシントンに住み、そこを事務所として活動したり、自分の部下のためにホテル・メトロポールを50室貸し切りにしたこともあった。

また、カポネは巨万の金を稼いだが、貯蓄はほとんどなく、入ってくる分をどんどん使った。自宅にも莫大な金をかけ、友人や家族には贈り物をし、派手なパーティを開いてはお客を歓迎した。またギャンブルが大好きで、競馬だけでも毎年100万ドルはスッた。


車はゼネラル・モーターズ社へ3万ドル払って注文した特別性の車で、車体と天井がぶ厚い鉄板で囲まれている。防弾ガラスは二重になっており、リアシートの後ろには銃の隠し場所も作られていた。

また、後ろ座席の窓は下向きに開くという変わった構造になっていたが、これは敵に追われた場合、その窓から銃を打つためである。


また、カポネは悪事だけを行っていたというわけではなく、自分の金でシセロの貧しい人たちに燃料や食料を安く提供していたこともある。

感謝祭に5000羽の七面鳥を配ったこともあり、1930年の年末にはシカゴのサウス・ステート・ストリートで、貧しい人たちに対して一日に三回、無料で食事を提供した。

もっともこれは逮捕を逃れるためとも言われており、この時の経費の大半は地元の商店街に出させたものだったが、この無料の食事は新聞でも報道され、国民が感心する出来事であった。
カポネには悪の面だけではなく、こういった貧しい人の手助けをするという意外な一面もあった。

また記者会見を行ったり、雑誌の表紙に掲載されるなど、「超」がつくような有名人だった。



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