Top Page  現代事件簿の表紙へ  No.039  No.037

No.038 連合赤軍04〜残党5人が、浅間山荘に立てこもる

29人いた連合赤軍も、残りはついに5人となった。警察に追い詰められた5人は「浅間山荘」に人質をとって立てこもり、10日間に渡って警察と銃撃戦を繰り広げる。立てこもりの日本最長記録ともなっている「あさま山荘事件」である。


▼人質を取り、立てこもりの準備を進める

昭和47年2月19日、15時30分ごろ浅間山荘に到着した5人は、玄関から入り、管理人室にいた管理人の妻である牟田泰子(むた やすこ)(31)を見つけると、いきなり銃を突きつけ、
「動くな! 逃げると撃つぞ!」
と脅しをかけた。

(坂口弘(26)、坂東国男(25)、吉野雅邦(23)、加藤倫教(19)、加藤元久(16)の5人である。)

この時、浅間山荘には6人の宿泊客がいたが、管理人であり夫でもある牟田郁夫(むた いくお)(35)が引率して宿泊客は全員、一緒にスケート場に出かけていて、妻の泰子(やすこ)一人がこの浅間山荘の留守番をしている時だった。

突然の暴漢の侵入と、突きつけられた銃によって驚いた牟田泰子であったが、ニュースで報じられている連合赤軍であることを直感し、恐怖の中、彼らの言いなりになるしかなかった。


5人は泰子に銃を突きつけたまま、三階の「いちょうの間」に誘導し、ここで泰子を座らせて、両腕を後ろ手に縛(しば)り、更に脚も縛った。更に念を入れて全身をハシゴに縛りつけた。

そして、入り口や非常口、窓などに畳やソファー、家具などを立てかけ、バリケードを築いた。警察と銃撃戦が始まっても大丈夫なように、万全の準備をした。

さつき荘に潜伏していた時に警察に足跡を追って来られたように、さつき荘からこの浅間山荘に逃げ込んだことが発覚するのも時間の問題であろう。外は30cmの積雪、5人のここまでの足跡はハッキリと残っている。

この浅間山荘は、玄関が三階にある。三階が地上の道路に面した造りになっており、その下に二階と一階が作られていた。しかも片側は崖になっており、この崖側からの侵入や攻撃は不可能である。建設されている場所は、標高1169メートルの山の中で、時期も真冬である二月であったから、夜間は氷点下15度まで冷え込む。


夜、連合赤軍がこの浅間山荘でニュースを見ていると、逮捕された森恒夫や永田洋子のニュースに続き、この浅間山荘のことが伝えられていた。まだ警察からの直接のコンタクトはないものの、やはりここに逃げ込んだことはすでに知られている。

一方、県警側は対策本部を設置し、632人の警官を動員して、そのうちの388人を現地に向かわせた。


▼夜明けと共に警察が動き出す

この浅間山荘に立てこもって一夜が明けた。山荘の前には多数の警官が待機していた。2月20日の午前6時、警察側は説得から開始した。

「君たちは完全に包囲されている。もはや逃げることは出来ない。これ以上罪を犯すことはやめなさい。君たちが人質に取っている管理人の奥さんは全く関係ない人だ。君たちの仲間はすでに逮捕されている。そして君たちの家族や友達もみんな心配している。ムダな抵抗はやめて出てきなさい。」

説得は続けられたが、5人からの反応はない。反応といえば、警官隊に向かって銃を発砲しただけで、何ら意思表示は見せなかった。犯人側が建物に閉じこもって長引いた場合、ポイントとなるのは、犯人側の食料と睡眠である。何も食べずに寝ずに長時間も戦い続けることは出来ない。


人質に取られている泰子の夫であり、浅間山荘の管理人の牟田郁夫に食料のことを聞いてみると、普通の状態でも20日分の食料は用意してあり、この時には宿泊客6人用に食料を用意してあったので、節約すれば一ヶ月は持つだろうということが分かった。空腹による衰弱を待っていたのでは人質の安否に関わる。

電話も何回もかけたが、赤軍側は誰も出ない。二回ほど出たが、すぐに切られてしまった。

この時点では、警察側は、犯人は何人いるのか、それが誰であるのか、また人質は無事なのか何も分からない状況だった。ただ「連合赤軍が人質を取って立てこもった」という情報しかなかった。

一方赤軍側の5人は、バリケードに隙間(すきま)を作って、警官を狙撃するための「銃眼」をいくつも作り、今後の本格的な銃撃戦に備えていた。赤軍側は警察の説得にも全く応じず、事件は特に進展することなく、夜を迎えた。


▼母たちの説得

赤軍が立てこもって3日目となった。この日警察は浅間山荘の前に、赤軍たちが立ち寄った「さつき荘」から吉野雅邦(まさくに)の指紋を発見した。従って、浅間山荘の立てこもり犯の中に吉野雅邦がいると推測出来る。

この日の17時ごろ、警察から話を聞いた吉野雅邦(まさくに)の母親と坂口弘の母親が警視庁のヘリコプターに乗って現地に到着し、警備車で山荘に近寄った後、マイクを持って説得を開始した。

吉野雅邦(まさくに)の母「まあちゃん、聞こえますか。牟田(むた)さんを返してあげなさい。これではあんたの言っていた救世主どころではないじゃないの。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの? これでは凶悪犯と変わりません。他の凶悪犯と違うところを見せてちょうだい。お願いだから武器を捨てて出て来て。それが本当の勇気なのよ。」

坂口弘の母も「身代わりが欲しいなら私が行きます。牟田さんの奥さん、申し訳ありません。早く奥さんを返してあげて!」と涙ながらに呼びかけた。

必死に呼びかける2人の母親の言葉に心動かされ、警察や報道関係者の中にはもらい泣きする者もいた。

説得は20分ほど続けられたが、山荘側からの反応はなかった。気温は零下10数度で雪の降りしきる極寒の世界である。あまり無理をさせることは出来ない。

いったん説得は打ち切られ、今後のことについて話し合いが行われた。人質が取られて三日目が終了したが、この日も特に進展はなかった。

赤軍側は何の要求もせず、電話にも出ず、話し合いにも応じようとしない。


次の日2月22日の午前9時半ごろ、再び吉野雅邦の母親と坂口弘の母親は警備車に乗せてもらい、山荘まで10メートルというところまで近寄り、山荘に向かって呼びかけた。

吉野雅邦の母「あなたの仲間だった森さんも捕まったけど、無傷でした。あなたが出てきたら絶対に撃たないと警察も言っています。早く銃を捨てて出てきなさい。牟田さんの奥さん、お元気でしょうか? 本当に何とお侘びをしてよいやら分かりません。」

坂口弘の母「牟田さんの奥さんをベランダに出して、姿を見せてあげて。家族の人たちもすごく心配しています。10時に電話するから電話に出て、奥さんの声だけでも聞かせてあげて。」

説得が続けられたが、突然赤軍側が空に向かって発砲した。銃声が雪の中を響き渡る。

吉野雅邦の母親がマイクを通じて「お母さんを撃てますか!」と叫んだ。

しかし非情にも赤軍は再び発砲し、弾丸は吉野の母と坂口の母の乗っている警備車に命中した。
撃ったのは、説得されている当の本人の、吉野雅邦である。

「警察は絶対に撃たないと言ってます。」と、説得の最中、吉野雅邦の母親が言ったが、この警察の方針は事実であり、警察庁長官の後藤田正晴は、今回の任務に当たり、犯人は絶対に射殺するなとの指示を出していた。

撃っても当たらないように撃つ威嚇(いかく)射撃のみであり、銃の使用は現場責任者の判断ではなく、警察庁の判断によって使用を許可するという指示が出されていた。

特に思想をベースとする犯罪集団であれば、射殺されたとなると殉教者として、残りのメンバーの結束力を高め、より凶悪化する可能性がある。生きて全員捕らえて法の裁きを受けさせるというのが大前提であった。


▼近寄った民間人が撃たれる

この頃、すでに浅間山荘の周りは膨大な人数であふれかえっていた。警官隊1100人、報道陣1200人に加えて野次馬が次々と見物にやって来ていたのだ。

人が集まれば特殊な人間も中にはいて、立ち入り禁止区域を超えて山荘に近づこうとする人間もいた。3人ほどが警官によって取り押さえられた。

だが一人、田中保彦という男が山荘の北側の崖になっている斜面をよじ登(のぼ)ってきて、とうとう山荘の入り口にまで達してしまった。気づいた警官隊に緊張が走る。だが男はドアを半分開いて、中の赤軍に声をかけた。

「赤軍さん、赤軍さん、中へ入れて下さい。私も左翼です。あなた方の気持ちはよく分かります。私も警察が憎い。昨日まで留置場に入ってたんです。私は医者です。新潟から来ました。」

多数の警官が注目する中、男は警官隊に向かって手を振った。

「帰れ! 帰らんと撃つぞ!」

坂口弘が怒鳴った。だが、男は立ち去ろうとはしない。いきなり坂口が男に向かって一発撃った。男はその場に倒れ込んだ。

一瞬後、男は何とか立ちあがり、よろよろとしながらも警官隊の方へ引き上げてきた。

「大丈夫か!」と警官が声をかけたが
「痛てえ・・。俺は大丈夫だ。」

と答えたため、命に別状はないものと思われた。だが、救急車で運ばれた病院でレントゲンを撮ってみると、弾丸が脳内に入り込んでいることが判明した。すぐに弾丸の摘出手術が行われたが、一週間後の3月1日、この男は死亡した。


連日のテレビ中継で、野次馬の数はどんどん増え、すでに3000人以上になっていた。付近に停めた違法駐車の台数も3000台を超えていた。屋台もあちこちに出て、さながらお祭り騒ぎであった。

この日から赤軍側の体力と弾丸を消耗させる作戦が取られた。山荘の屋根に向かって石を投げつけ、警官隊の突入の号令や機械音、武器の発射音などを録音したカセットテープを拡声器を使って大音響で流し始めたのだ。

この時代の音質は決して良いものではなかったから、それが本当の音であるか、録音されたものであるかは、すぐに分かる。しかしこの、「眠らせない、休ませない」という作戦は逮捕の時まで続けられた。

そして20時過ぎ、警察の依頼により浅間山荘の電力をストップした。建物の中は真っ暗となった。赤軍側は、これまでの警察の動きはテレビを見て把握していたのだが、テレビが見られないとなると、電池式のラジオで情報を得るしかなくなった。


▼警察側の攻撃が開始される

5日目となった2月23日、さつき荘で発見された指紋の一つが坂東国男であることが判明した。また、報道陣の撮影した写真から、犯人の一人が坂口弘であることも判明した。

この時点で、吉野雅邦、坂東国男、坂口弘の3人が、犯人グループの中で確定であることは分かったが、この他にもまだメンバーがいるのかどうかまでは分からない。また、人質として取られている牟田泰子の生死も以前不明であった。

その翌日の24日の午前9時半ごろ、警察から連絡を受けた坂東国男の母親が説得に現れた。

「(この日の前日、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問したというニュースを受けて)
中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言ってた時代が来たの。あんたたちの任務は終わったのよ。あんたたちが世の中をよくしようとしたことはみんなが認めてます。警察の人も誉(ほ)めてますよ。早く出ていらっしゃい。」

「お母さんは今までお前を生きがいにして、一生懸命働いてきたのよ。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出て来て、またお母さんと一緒に暖かいご飯を食べようよ。あんたたちのことはみんなが認めてますよ。」

呼びかけが続くが、山荘からの反応はない。


赤軍は、相変わらず警察に向かって発砲したり、バリケードの強化などを行っていた。16時10分ごろ、

「君たちが抵抗を止(や)めないので、我々は武器を使用する。」

と警察側からメガホンで通達があり、その後、放水車によって、高圧をかけられた水が浅間山荘に向かって放水された。

水は窓を狙って発射された。赤軍が銃を撃つために作っておいたわずかな隙間(銃眼)を狙っての攻撃だった。厳寒の中、放水された水はみるみる氷になり、あちこちでつららとなった。

更に玄関のドアのガラスの部分が壊され、そこにガス弾が撃ちこまれた。赤軍側も抵抗し、坂東国男と加藤倫教が放水車をめがけて6発を撃った。


25日、この日も赤軍は作業中の警官に向かって16発を撃っている。幸いにもどれも当たらなかった。

26日、依然、犯人の正確な人数とメンバーは完全には把握出来ていなかったが、警察はこれまでの調査の結果から、山荘の中のメンバーに「寺岡恒一」がいるものと推測した。

寺岡恒一は中央執行委員会7人のうちの一人で、連合赤軍の幹部である。警察が犯人グループの中にいると考えるのも無理はない。

しかしその寺岡恒一は、すでに榛名山ベースで殺されていた。

以前、榛名(はるな)山ベースにいた時に、坂口弘に「総括っておかしいと思わんか? 森と永田が因縁をつけては自分の気に入らない者を痛めつけてるだけじゃないか。」と相談し、坂口がそれを森恒夫と永田洋子に密告したがために、死刑を宣告され、アイスピックやナイフで身体をメッタ突きにされた上、最後は首にロープを巻きつけられて絞殺された、あの寺岡恒一である。

当然、ここにいるはずもないのであるが、警察は寺岡恒一の両親を呼んで、山荘の前でメガホンを持ち、息子の説得をしてもらった。

すでに殺されているとも知らず、両親は中に息子がいるものと思い、必死になって説得を繰り返した。裏切りの張本人、坂口弘を始め、他のメンバーたちもその説得を聞きながら、寺岡をリンチで殺害した時のことを思い出していた。

18時40分ごろ始まった寺岡恒一の両親の説得に続いて坂口弘の母親、吉野雅邦の父親も説得を繰り返す。
「弘、中にいるの? 冷静になって、これ以上皆さんに迷惑をかけないで、早く出て来て。お願いです。」
「雅邦、お父さんだよ。中にいるのか? 人質になっている牟田泰子さんは、何の関係もない人だから、早く返してあげておくれ。」

次の日27日も朝から吉野雅邦の母親が説得を試みた。だが、これまでの説得では事態に何の進展もなかった。相変わらず赤軍は警察に向かって発砲を続け、何ら要求を出すこともなく、ただ人質を取って立てこもっているだけである。犯人側の意図も、中のメンバーのことも人質の安否も依然はっきりと把握出来ていなかった。


▼強行突入、そして逮捕

2月28日。この日で連合赤軍が浅間山荘に立てこもって、ついに10日目となった。この日、警察は強行突入することを決めていた。午前8時、警察は一回目の通告を出す。

「連日にわたる説得にも関わらず、君たちは何の罪もない泰子さんを監禁している。監禁時間は200時間を超えた。もうこれ以上待つことは出来ない。泰子さんを解放して、銃を捨てて出てきなさい。話し合うなら白い布を持って警察部隊の見えるところに立ちなさい!」

それから1時間50分が経過し、時刻は9時50分となった。山荘からは何の反応もない。
そして最終通告が出される。

「山荘の犯人に告げる。君たちに反省の機会を与えようとする我々の警告にも関わらず、君たちは何ら反応を示さない。最後の決断の機会を失って、一生後悔することのないよう考えなさい。まもなく我々は泰子さんを救出するために実力を行使する!」

もしこの日までに人質が救出出来なかったら、その時点で強行突入しようと決定されていたXデーがこの日であった。突入のための作戦も十分考えられていた。


手順としては、まず、建物の解体に使う巨大な鉄球(モンケーン)をクレーンの先につけ、その鉄球を使って山荘を破壊する。この時警察は建物の三階に犯人が、二階に人質がいるものとみていた。(実際は両者とも三階にいたのだが)

破壊するといっても、やみくもに破壊するのではなく、鉄球で三階と二階を結ぶ階段を集中的に破壊し、犯人と人質を引き離す。そして更に三階のバリケードや銃眼、そして屋根まで破壊する。次にクレーンの先を鉄球から鉄のツメに換え、屋根を引き剥(は)がす。その引き剥(は)がされた屋根にハシゴをかけ、上から警官隊が建物の中に突入する。

また、それと同時に下の入り口からも警官隊が突入し、こちらの部隊は、一階と二階とで担当部隊を決め、人質の救出を任務とする。犯人逮捕と人質救出を、上下から突入した部隊が同時に行う、という手はずとなっていた。


そして10時過ぎ、救出作戦が開始される。

まず、山荘に向かってガス弾が何発も撃ち込まれた。それと同時に窓に向かって高圧での放水が開始される。連合赤軍は、吉野と坂東が警備車、放水車、警官隊に向かって銃を乱射する。手製の爆弾も投げつけた。

そして10時54分。山荘に横付けされたクレーン車の、1トンの鉄球が山荘を破壊し始めた。大音響を立て、鉄球が建物を破壊していく。鉄球は二回、三回と往復しては、そのたびごとに確実に壁を壊していった。

開いた穴に向かって再びガス弾が撃ち込まれ、更にその穴に向かって高圧放水も行われた。ガス弾と放水の援護を受けながら、警視庁第二機動隊が3階に突入を開始した。

その際、機動隊が持っていたのは2枚重ねになった盾である。
赤軍側の持っていたライフルが22口径であったため、事前に同型のライフルで盾を撃つという実験を行った結果、至近距離では、警察の盾を貫通することが分かり、盾を針金で縛って2枚重ねたものを準備したのだ。

そしてほぼ同時に1階に第九機動隊、2階に長野県機動隊が突入を開始した。

1階と2階は無人であっため、すぐに占拠出来たものの、肝心の人質である牟田泰子はここにはいなかった。となると、3階に犯人グループと一緒にいると考えるしかない。


侵入されながらもなお、赤軍は外の警官隊に向かって銃を乱射していた。

吉野雅邦の撃った弾が、クレーン車と放水車を指揮していた高見繁光警部(42)の頭に命中した。警部は後に病院で死亡した。

また、第2機動隊の大津高幸巡査(26)が山荘内に突入する際、赤軍側が撃った散弾が顔面に当たり、命は取り留めたものの、左目失明という重傷を負った。

そして、第2機動隊長の内田尚孝警視(47)もまた、坂東にライフルで狙撃され、弾が頭部に命中し、後に病院で死亡した。

一連の突入、そして銃撃戦で警察側に2人の死者が出た。


鉄球による壁の破壊は依然続けられていたが、突然クレーン車のエンジンが止まってしまい、鉄球が動作を停止してしまった。

エンジンが止まってクレーン車が動かなくなったのは、後の発表によると「クレーン車のエンジンに水がかかったため」ということになっているが、後で調査を行うと、クレーンの操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリーターミナルを蹴飛ばしてしまったためにエンジンがストップしたということだった。

銃撃戦の真っ最中に修理などをしていれば、確実に連合赤軍の的になる。クレーン車による破壊はこの時点で断念せざるを得なかった。
クレーン車の効果は、階段を破壊して3階と2階の行き来を不可能にさせたことと、壁に穴を開けたところまでだった。


12時30分過ぎに警視庁から銃の使用許可が出たが、混乱の中でうまく伝達出来ずに、数名の隊員が威嚇射撃で銃を使用したにとどまった。

14時50分ごろ、3階の調理室を占拠していた第2機動隊に赤軍が鉄パイプ爆弾を投げ込み、機動隊に5人の重軽傷者が出た。またその後、建物内に突入した機動隊からの情報や、建物の見取り図などを参考にして、赤軍が立てこもっているのは「3階のいちょうの間」ではないかと推測が立てられた。

15時30分ごろ、ついに赤軍たちがいる部屋「3階のいちょうの間」にも直接攻撃が仕掛けられた。高圧の放水によって建物の中に放出された水は「いちょうの間」にもどんどん入り込み、みるみるうちに浸水していった。

そしてガス弾の一斉射撃である。赤軍のいる部屋の近くには破壊によって穴が開けられ、そこから高圧放水とガス弾が次々と打ち込まれた。「いちょうの間」は30cmも浸水した。更に室内にガスが充満し、呼吸困難となる。

赤軍はたまらず、北側(崖側)の窓ガラスを割って、そこを頼りに空気を吸うことになる。警察に向かっての銃撃はその合間を縫って続けられたが、建物に開けられた穴は警察側の攻撃によってどんどん広げられていった。

この厳寒地では、夜間は氷点下10度以下になってしまうため、放水したままで夜を迎えると、人質も赤軍も全員が凍死する可能性があるので、この突入作戦でどうしてもカタをつけなければならない。

17時30分ごろから、赤軍が立てこもっている部屋の壁を集中的に攻撃する作戦が取られた。高圧の放水が壁に開けられた穴に向かって放たれ、じわじわと穴を広げていった。

18時20分。壁に開けた穴は人間が通るには十分な大きさとなった。

一斉突撃の命令が下り、機動隊は、その穴と建物の入り口から大挙して「いちょうの間」になだれ込んだ。楯を前面にかざしての一斉突入である。連合赤軍もこの時点で観念したのか、機動隊に囲まれた時点で抵抗はやめ、ここに至ってようやく5人全員が逮捕された。

人質となっていた牟田泰子は、その時ベッドの上に寝かされてぐったりとしていたが、生きており、無事救出された。219時間ぶりの救出となる。
10日間人質をとって立てこもった事件は日本の犯罪史上最長記録である。

現場には現金75万円と、水に濡れて使用不能となった鉄パイプ爆弾3個、銃、実弾200発が残されていた。


逮捕されて連行される間、野次馬や報道関係者からは相当な罵声(ばせい)が浴びせられた。
「バカヤロー、死んじまえ!」「てめーら、それでも人間か!」「人殺し!」「お前ら全員、死刑だ!」「殴れ殴れ!」

この立てこもりと銃撃戦で死亡したのは警察側2人、民間人1人の計3人。重軽傷者は信越放送のカメラマン1人と機動隊員26人の、合計27人だった。

また、この逮捕の直前、犯人グループの1人である坂東国男の父親が、滋賀県の自宅のトイレで首吊り自殺をしている。遺書には人質となっていた牟田泰子へのお詫びと、残された家族へのメッセージが書かれていた。

この10日間の攻撃で警察側は催涙ガス弾3126発、ゴム弾96発を使用し、実弾の発射は16発だった。それに対して赤軍側の発砲した実弾は104発であった。

この10日間、各テレビ局は大々的に「あさま山荘事件」を報道し続け、突入した10日目は、どの局も大幅に番組を変更し、逮捕までの過程の数時間を生中継した。NHKの瞬間最高視聴率は89.7%、民放の全局を合わせた視聴率は98.2%にも達した。これは報道という枠を超えて、全ての番組の中でも最高視聴率となっている。



Top Page  現代事件簿の表紙へ  No.039  No.037