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No.040 赤軍派がよど号をハイジャックし、亡命に成功する

これは連合赤軍ではなく、別の赤軍派グループが起こした事件であるが、航空機「よど号」を乗っ取った犯人たちは、乗員たちに対し、このまま北朝鮮へ向かえと要求を出した。警察と政府が対応に当たるが、最終的に犯人たちの北朝鮮行きは成功し、この事件は犯人側の勝利で終わる。


▼田宮高麿(たかまろ)をリーダーとする赤軍派グループ (※赤軍派 = 正式名称は「共産主義者同盟赤軍派」。以下、文中では「赤軍派」と表記。)

No.35からNo.39までの、あさま山荘事件や仲間12人リンチ殺害事件は、赤軍派の一部のグループと京浜安保共戦が合体して構成された「連合赤軍」が起こした事件であったが、「よど号ハイジャック事件」は、この連合赤軍の誕生の2年近く前、まだ「赤軍派」であった時代に、赤軍派の別のグループが起こした事件である。

田宮高麿(たかまろ)をリーダーとする赤軍派のグループは
「北朝鮮へ渡って、そこで北朝鮮の援助を受けて軍事訓練や教育などを行い、再び日本へ戻って武装蜂起(ほうき)し、日本に革命を起こす。」という理想のもと、日本の航空機を乗っ取って北朝鮮に亡命する計画を立てた。


決行日は昭和45年3月27日と決まった。だが、当日になってメンバーの中で4人もの遅刻者が出たために、リーダーの田宮高麿はこの日の実行は中止という決定を下した。

メンバーの何人かが、旅客機に乗るための搭乗手続きや、券の買い方が分からなかったために余分な時間を使ってしまい、集合時間に間に合わなかったのだ。そして改めて決行の日は4日後である3月31日と決定した。

決行日である昭和45年3月31日の早朝、参加すると言っておきながら姿を現さなかったメンバーが何人かいたが、この日の計画は予定通り実行することとなった。当日集まったメンバーは合計9人である。

リーダーである田宮高麿(27)、副リーダーの小西隆裕(25)、田中義三(よしみ)(21)、安部公博(22)、吉田金太郎(20)、岡本武(24)、若林盛亮(もりあき)(23)、赤木志郎(22)、柴田泰弘(16)。


彼らが乗り込んだ旅客機は羽田発福岡行きの351便・日本航空ボーイング727型機で、名前を「よど号」といった。この当時、日本航空は自社の旅客機に名前をつけており、一般的にこれが通り名となっていた。列車に名前がついているのと同様である。

このハイジャックについて、その前日、リーダーである田宮高麿は次のような犯行声明文を残している。

「我々は明日、羽田を発(た)たんとしている。我々はいかなる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から沸き上がってきたことを知らない。
最後に確認しよう。我々は『明日のジョー』である。」


▼日本で始めてのハイジャックを実行

午前7時21分、定刻通り、羽田空港から「よど号」は飛び立った。乗客131人、乗員7人で、目的地は福岡である。

離陸してから12分後の、午前7時33分、乗客として乗っていた赤軍派の9人は行動を起こした。手に銃や日本刀、ダイナマイトを持ち、乗客に向かって大声で怒鳴り、この機をハイジャックすることを宣言した。

これらの武器はニセ物であったが、乗客はパニック状態となった。この当時はまだ金属探知機もボディチェックもなかった時代であって、機内に何でも持ち込めたのである。

「私たちは共産主義者同盟・赤軍派です! 私たちは北朝鮮に行き、そこにおいて労働者や国家、人民との強い連携を持って軍事訓練などを行い、今年の秋に、いかに国境の壁が厚かろうと、再度日本海を渡って日本に上陸し、断固として武装蜂起を貫徹せんとしています! 我々はそうした目的のもとに、今日のハイジャックを敢行しました!」

リーダーの田宮高麿が叫ぶ。メンバーたちはそれぞれ、事前の打ち合わせ通りに手分けをして「ハイジャックの業務」を開始した。


何人かは操縦室に押し入り、日本刀で乗員を脅して、まず航空機関士の手を縛(しば)り、操縦士に向かって
「我々は赤軍派だ! このまま北朝鮮の平壌(ピョンヤン)へ行け!」
と命令した。

操縦室に武器を持った男たちが押し入って、行き先の変更を命じられるなどとは初めてのことである。乗員たちもどう対応していいか分からない。自分たち乗員もそうであるが、犯人たちを刺激して乗客に万が一のことがあるような事態だけは避けなければならない。

機長である石田真二機長が何とか対応する。

「この機は国内線専用なので、それだけしか燃料は入れていない。どこかで燃料を補給しなければ、とても北朝鮮までは飛べない。」

北朝鮮まで行くから、一回福岡に降り立って、そこで燃料を入れさせてくれ、と赤軍側と交渉する。赤軍派もそれで何とか納得し、とりあえず福岡へ向かうこととなった。

一方、赤軍派の別の数人は客室の方で、乗客を武器で脅し、順次乗客の手を縛っていった。男性は全員後ろ手で縛られ、女性は前で縛られた。子供連れや老人は対象外として縛らなかった。その後、一人一人の所持品の検査を行った。

当時は機内に簡単に武器が持ち込める時代であったから、自分たちが武器を持ち込んだように、乗客の中にも武器らしき物を持っている者がいるかも知れない。一通り所持品の検査が終わり、これで客室も操縦室も完全に占拠した。

午前7時40分、機内には副操縦士からのアナウンスが流れた。
「こちらは操縦室でございます。ただ今、赤軍と称する人が押し入りましたので、皆様も安全のために反抗しないように・・。皆様、静かにそのままお願いいたします。」


▼とりあえず福岡に到着

午前8時59分、よど号は福岡県板付(いたつけ)空港に着陸した。目的地ではない。あくまでも燃料を入れるだけのために着陸したのだ。空港には連絡を受けた警察が、1000人もの機動隊員を待機させていた。

このよど号乗っ取りは、日本で初めて起きたハイジャック事件であり、警察が対応しようにも前例のないことであった。

赤軍派は機外へ乗員乗客が出ることを禁止し、燃料の補給を待った。その間に警察側も説得を開始する。約4時間半が経過し、その間の警察との交渉の結果、女性、子供、老人は開放することが約束され、13時35分、乗客の中の23人が開放された。

13時59分、よど号は再び離陸した。今度こそ北朝鮮に向かっての飛行である。


▼日本政府の策略

このまますんなり北朝鮮へ行かせるわけには行かない。警察と日本政府が立てた作戦は、何とか韓国政府に協力を頼み、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)の空港に着いたかのように見せかけて、実は韓国の空港に着陸させ、犯人たちが出てきたところを逮捕するというものであった。

離陸に際して、石田機長は福岡空港から、朝鮮半島の形しか分からないような白紙の地図をもらった。地図の片隅には
「無線の121.5MCを常に傍受せよ」とメモが書かれてあった。


飛行を続け、陸地も近くなったころ、指示された121.5MCを通じて音声が飛び込んで来た。

「こちらはピョンヤン、進入管制周波数134.1MCにコンタクトして下さい。こちらはピョンヤン、繰り返します・・。」

ピョンヤンの管制塔からの指示に見せかけた、韓国の金浦(きんぽ)空港からの無線であった。

周波数を134.1に切り替えると、さっきまでとは違い明瞭な音声が聞こえてきた。
「こちらはピョンヤン管制塔。指示に従って着陸されたし。」
空港までの誘導を行ってくれるのだ。

ほどなくして空港が見えてきた。

「ピョンヤンだ!」
メンバーたちが喜びの声をあげる。みんなで万歳をした。赤軍派は、ここが韓国であることにはまだ気づいていない。

15時16分、無事に空港へ着陸した。韓国のソウル郊外にある金浦(きんぽ)空港である。

外には「平壌(ピョンヤン)到着歓迎」のプラカードと共に、北朝鮮の軍服を来た女性たちが出迎えてくれている。


▼策略に気づいた

しかし、喜んだのもつかの間で、赤軍派たちは妙なことに気づく。その空港にはアメリカ軍の軍用機が止まっており、更にアメリカ軍の兵士たちがあちこちを歩いていたのだ。
北朝鮮にアメリカ軍がいるはずもないし、また、いてはならない。

「ここは北朝鮮じゃない。」「もしかして韓国じゃないのか?」

赤軍派はここがピョンヤンではないことに気づいた。念のためにリーダーの田宮高麿が操縦席の窓から下を歩いていたアメリカ兵に「ここはソウルですか?(Here is Seoul?)」と聞くと、何も聞かされていなかったその兵士は「イエス! ソウル!」と正直に答えた。

だまされたと知った赤軍派は激怒した。よど号の中で乗客と共に一夜を過ごし、翌日4月1日、日本側および韓国側は「乗客を全員開放するなら、このまま北朝鮮へ行かせる。」と説得したが、昨日のことで頭に来ている赤軍派は、ガンとして人質開放には応じなかった。


▼山村新治郎 政務次官が人質の身代わりに

この時、東京からここソウルへ駆けつけてきた運輸省(現国土交通省)の山村新治郎 政務次官(36)が、
「私が身代わりになるから、人質を開放してやって欲しい。」
と、赤軍派に対して身代わりを申し出て交渉に当たった。

それからかなり時間は経ったが赤軍派はこの条件に応じることを決定した。開放するに当たり、これまで犯人と人質とはいえ、3日以上も一緒に過ごしてきた仲である。それに何よりここまで誰も殺したり傷つけたりはしていない。多少なりとも人間関係が出来上がっていた。

「山村新治郎 政務次官が皆さんの身代わりになるというので、ここで皆さんを開放することにしました。」

「最後にお別れのパーティをやりましょう。」

と、リーダーである田宮高麿がマイクを通じて、乗客に挨拶すると、順次マイクは赤軍派のメンバーに渡り、一人一人が自己紹介をし、一言ずつコメントを行った。再び田宮高麿の手にマイクが戻ると、詩吟を始めた。また、乗客側も、赤軍派に対してお別れの歌と称して歌を歌った者もいた。


そして4月3日、14時28分、乗客99人全員とスチュワーデス4人全員は開放された。約束通り山村新治郎 政務次官が入れ替わりによど号に乗り込み、身代わりとなった。

乗客の代わりに改めてよど号の人質になった山村新治郎に対して田宮は「ご迷惑をかけて本当にすみません。」と挨拶をすると、

山村新治郎は「いやいや、これで次の選挙は大丈夫だよ!」と元気一杯に答え、機内は爆笑となった。


一方、日本の方では山村新治郎が身代わりを申し出てから、赤軍派が乗客の開放を決定するまでの間に北朝鮮側に電報で連絡を入れておいた。日本赤十字会の会長・東竜太郎会長が朝鮮赤十字会宛てに、今回のよど号の事件を説明し、

「万が一、よど号が北朝鮮に行った場合、安全な着陸と、乗客と乗員の安全の確保をお願いしたい。そして乗客乗員のすみやかな帰国について、貴国の好意ある行動と特別の配慮をお願いしたい。」
といった趣旨の電報を打ち、それに対して北朝鮮側の赤十字中央委員会からも

「貴国の言われた旅客機が我が国に無事着陸出来るように配慮し、また、乗員乗客たちの安全を人道主義の立場から保証する。そしてすぐに日本に送り返すであろうという該当機関の確実なる返事を得たことを報告する。」

といった返事が返ってきていた。


▼亡命成功

4月3日18時05分、よど号は韓国の金浦(きんぽ)空港を離陸した。今度こそ行き先は北朝鮮の平壌である。
しかし操縦士からすれば、北朝鮮に向かうといっても、国交がない国であり、撃墜されるかもしれないという恐怖が頭をよぎっていた。だが何とか1時間20分後、よど号はついに北朝鮮の平壌近郊にある軍事施設美林空港に無事着陸することが出来た。

派手な出迎えではなかったが、この日本からの亡命者・赤軍派の9人を北朝鮮は受け入れた。とりあえず乗って来た者全員を平壌市内のホテルに送り、一夜明けた4月4日、北朝鮮は乗員の3人と山村新治郎 政務次官、そして機体の返還を行うとマスコミに発表した。

赤軍派の9人は計画を完全に成功させたのである。4日間に渡った日本初のハイジャック事件はようやく終焉(しゅうえん)を迎えた。

翌日4月5日、山村新治郎 政務次官とよど号を操縦していた乗員の3人は無事日本の羽田空港へと到着した。


帰国してからの山村新治郎 政務次官は国民的なヒーローとなり、人気はウナギ昇りで、マスコミは大々的に「男・山村」という見出しで今回の事件を報道した。

春日八郎の歌で「身代わり新治郎」というレコードまで発売されるほどだった。この事件をきっかけに山村新治郎は次の選挙でもトップで当選する。

日本航空は、人質となった乗客に対する見舞い金として、福岡の板付空港で開放された人については5万円を、韓国の金浦空港で開放された人については10万円を支払い、今後この件については一切申し立てをしないという証書にサインしてもらい、この一件は終了とした。この当時の10万円といえば、一流企業のボーナスにも匹敵する額であった。


▼その後

北朝鮮に渡った9人のメンバーは、当時の金日成首相の好意により受け入れられ、共同生活をする場を与えられた。しかし軍事訓練や帰国などは許されなかったため、当初の目的である「革命戦士」は次第に断念せざるを得ない状態となっていった。

しかし待遇は良く普通の社会人として生活するには十分であり、彼らは間もなく共同で貿易会社を設立し、平壌市内に店をオープンさせた。

平成4年4月13日の0時30分ごろ、よど号事件で身代わりとなった山村新治郎 衆議院議員は、自宅にいたところを、高校を中退してノイローゼとなっていた次女(24)に刺されて死亡する。この次女も4年後に自殺している。

平成7年11月30日、北朝鮮に渡った田宮高麿が心臓発作で死亡する。52歳だった。



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