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No.058 自宅に少女を9年以上監禁・佐藤宣行

9歳の少女を連れ去り、9年以上に渡って自宅に監禁する。わずかな食べ物しか与えられない生活の中で、少女は救出されるまで生き延びた。


▼監禁の始まり

平成2年11月13日、新潟県三条市内で、小学4年生の少女(9)は、小学校からの帰り道、ある男にいきなりナイフを胸に突きつけられた。男は、言うことをきかなければ殺す、などと少女を脅し、自分の車のトランクに少女を押し込めてそのまま連れ去った。

この日の夕方、いつまでたっても娘が帰ってこないことを心配した少女の母親が19時45分ごろ、三条市内の駐在所に届け出た。捜索は行われたが、その後何日経っても少女の行方は依然不明のままだった。

少女を誘拐したのは、新潟県 柏崎市四谷に住む佐藤宣行(27)である。

佐藤は、さらって来た少女を自分の部屋へと連れ込んだ。佐藤の家は2階建ての住宅であり、この家は佐藤が小学1年生の時に両親が建てたものである。

この家の2階の10畳の洋間が佐藤の部屋だった。佐藤は母親との2人暮らしで、母親に見つからないよう、少女を2階に上げた。

部屋に連れ込むと少女を数十回殴った。少女の口や両手・両足をガムテープで縛(しば)り、「ここからは逃げられないぞ!」「俺の言うことを守れ!」

などと脅した。更に少女の腹にナイフを突きつけ「これを刺してやろうか。」とも脅しをかけた。


この時から9年以上の長い期間、少女の監禁生活が始まった。

佐藤は自分が出かける時には少女を厳重に縛(しば)って逃げられないようにし、また、1階の母親に気づかれないよう、大きな声を立てるなと少女に厳命した。

少女が泣いたり反抗したりすれば容赦なく顔や頭を殴った。常にベッドの上にいるように指示し、部屋からは一歩も出さなかった。風呂にも入らせず、トイレにも行かせず、大小便はビニール袋の中にさせた。後に救出されるまで、少女がシャワーを浴びたのは、一回だけだった。

母親に買いに行かせたスタンガンを少女の身体に押し当てて放電したこともある。暴行を受けている時に悲鳴を上げるとまた殴られるので、少女は声を上げないように必死に耐えた。

また、競馬番組を録画しておくように命じられた時、少女がそれを忘れていたということで、激しく殴られたこともある。

着替えは1年か2年ごとで、服がボロボロになってようやく着替えを許された。着替えの服は、母親に買いに行かせるわけにはいかなかったので、佐藤が自分で万引きして調達していた。

食べ物は、最初の頃は母親が作ってくれた夜食を食べさせていたが、だんだんとコンビニのおにぎりしか食べさせなくなっていった。そのおにぎりも、最初は1日2個食べさせていたものを後に1日1個だけにした。

こういった生活を何年も強要した結果、少女は誘拐された当時、46kgあった体重が38kgにまで減った。また、ほとんど歩くこともなかったので脚の筋力は低下し、骨も十分に発育せず、自力で歩くことが困難な身体となっていった。

▼犯行に至るまでの環境と家庭内暴力

佐藤の父は、柏崎市内のタクシー会社の専務取締役で、61歳で再婚した。母は生命保険会社の外交員で、結婚当時の年齢は35歳。夫とは26歳の年の開きがあった。

佐藤宣行は、父が62歳、母が35歳の時に生まれた子供である。高齢の父は佐藤を「ボクちゃん」と呼び、非常に可愛がった。欲しいものは何でも買い与えた。

しかし小学性の頃、友達から「お前のお父さん、おじいちゃんみたいだな。」と言われたことがきっかけで、だんだんと態度が変わっていく。父を「ジジイ」と呼び、物を投げたり父親を殴ったりするようになっていった。

高校に進学した頃になると母親に「なんであんなジジイと結婚したんだ!」と怒鳴り始めた。父親に対する暴力はだんだんとエスカレートし、日常的に殴る蹴るを繰り返した。しかしそれでも我が子可愛さからか、父親は佐藤を怒ろうとはしなかった。

高校を卒業後、市内の精密部品メーカーに就職したが、遅刻したことを上司に怒られ、2ヶ月で辞めた。それ以降全く働かず、家に引きこもるようになった。

自室である2階にこもり、両親には「絶対に2階には上がってくるな。」と厳重に言っておいた。

就職するように勧める父に対し、「自分の部屋を作ってくれたら働く。」と持ちかけ、この言葉を信じて両親は家を増築したが、働くような様子は全く見られなかった。

佐藤が20歳の時、ついに父親は家庭内暴力に耐え切れず、家を出て親戚の家で生活するようになった。この時父親は81歳になっていた。父親が出て行ったことで佐藤は母親と口論になった。

佐藤は、母親が「私も出て行く」と言い始めたことに激怒し、家の仏壇に火をつけた。幸い家事になる前に火は消し止めた。


昭和60年、父親は、この親戚の家から特別養護老人ホームに移り、佐藤と完全に離れた生活を送るようになった。そしてその4年後、89歳で死亡している。佐藤が少女の監禁を始める前の年だった。

父が家から出て行き、母親と二人暮らしとなった佐藤は、暴力の対象を母親へと向けた。殴ったり物を投げつけたり、スタンガンを押し当てて放電させたこともあった。スタンガンは平成3年4月に、佐藤が母親に命じて買いに行かせたものである。

日増しにひどくなる佐藤の暴力に母親は怯(おび)えきり、外で時間をつぶすことが多くなった。

母親は佐藤の言いなりとなり、何にでも従った。言われるままに金を出し、買い物にもいった。ただ、やはり我が子であり、怯えながらも愛情があったのか、顔にアザを作って出勤した時に、職場の同僚にアザのことを聞かれた時も、ただ「転んだ」とだけ答えている。

▼少女、発見される

いっこうにやまない家庭内暴力に母親は怯え、平成8年1月、母親は柏崎署に息子の暴力のことで相談に訪れた。しかしこの時は、保健所を紹介されただけで相談には乗ってもらえなかった。

平成11年12月には市内の精神病院に相談に行き、
「息子の暴力がひどいんです。自分が思ったようにならないと、殴る蹴るの上に私を縛(しば)りつけて、トイレにさえ行かせてくれません。」

と、自分が受けている暴力や息子の状態を打ち明け、この病院に入院させてくれるように頼んだ。

この時母親は73歳になっていたが、佐藤は容赦なく暴力を振るっていたのだ。

しかし病院側としても本人と会ってみないとどうにもならないので「本人を連れて来て下さい。」と返答している。

家に帰って佐藤にこの話をしたが、もちろん佐藤は病院に行くことなどは拒否した。

母親は平成12年1月12日、再び柏崎保健所に相談し、19日に保健所の職員が佐藤の家を訪問したが佐藤には会えずに帰ってしまった。

何度も保健所や精神病院に相談に来る母親に対し、病院側も「これ以上放っておいては母親の身の方が危険」と考え、佐藤を強制的にでも入院させることを決定する。

平成12年1月28日、13時30分ごろ、保健所の職員、精神病院の副院長、弁護士など、7人が佐藤の自宅を訪問し、母親と一緒に佐藤のいる2階へと上がった。

普段から「2階へは上がってくるな」と言われている母親は、これまで20年も2階へ上がったことはなかった。2階へ通じる14段の階段は、母と佐藤の間にとてつもなく深い溝を作っていたのだ。この階段を上って佐藤の部屋へ入るということは、母親にとって大変な決断であった。

そして佐藤の部屋の戸が開かれた。
だが開けられたその部屋には、佐藤以外にもう一人いた。毛布にくるまった少女を保健所の職員が発見した。

衰弱しきっており、顔つきから判断して同居しているといったような通常の状態でないことはすぐに分かった。

佐藤の監禁が発覚し、少女が発見された瞬間である。監禁されてから9年と2ヶ月が経っていた。少女は19歳になっていた。

すぐに保健所の職員たちに保護され、部屋から救出された。自力ではほとんど歩けないほど脚の筋力は低下しており、栄養不足で痩せ細っていた。

玄関を出る時に、職員たちが靴を履かせようとしたが少女は「靴はないの。外に出られないから。」と言った。

2月11日、佐藤は未成年者略取・監禁致傷の疑いで逮捕された。この時佐藤は37歳になっていた。

佐藤を入院させる目的で上がった2階で少女は偶然発見されたのである。

逮捕後佐藤は

「友達はずっといなかった。だから話相手が欲しかった。(女の子と)友達になりたかった。」

「自分は彼女とはうまくやっていると思っていた。」

「話が合うので嫌われていないと思っていた。」

などと、通常の感覚とは思えない発言をしている。


母親は少女のことには全く気づかなかったと言う。しかし9年2ヶ月もの間、1階で暮らしておきながら2階の少女の気配にまるで気づかなかったというのも不自然である。

おそらく佐藤に対する恐怖心から、2階に息子以外に誰かいるような気はしても、それをあえて考えないようにしていたものと思われる。

少女は病院に運ばれすぐに入院となった。病院でスポーツドリンクを与えられた少女は、「今までの人生の中で一番おいしかった。」とつぶやいた。
これまでどれほど悲惨な食生活をしていたかが分かるような発言であった。

佐藤はこの少女監禁事件を起こす前にも一度捕まっている。

平成元年6月13日、佐藤が26歳の時、小学4年生の女の子をいたずら目的で乱暴しようとしたが、別の生徒の通報で駆けつけた学校関係者に取り押さえられている。この時には新潟地裁長岡支部で、懲役1年、執行猶予3年の判決を受けた。

しかし柏崎署と新潟県警本部は、この時の事件で佐藤を犯罪者のリストに登録していなかった。そしてこのまま登録漏れとなり、そのままになっていた。
この時に佐藤が登録されていれば、少女が誘拐された時点で佐藤にも捜査の手が及(およ)んだはずだと後に問題になっている。

▼判決

平成14年1月22日、新潟地裁は佐藤に対して懲役14年を言い渡した。佐藤は控訴し、二審である東京高裁では新潟地裁の判決よりも3年短い懲役11年の判決となった。

もう一回控訴すれば更に刑期が短くなると思ったのか、佐藤は再び控訴した。しかし平成15年7月10日に開かれた最高裁では、11年の判決では軽過ぎるとして、一審の新潟地裁で出された14年の判決を指示し、懲役14年で佐藤の刑は確定した。

母から離れて一人になった佐藤は、「家に帰りたい。」と言って暴れたり「母ちゃん、母ちゃん。」と言いながら泣いたこともあった。あれだけの家庭内暴力をふるっておいても一人になった時に初めて、母の大切さが分かったようである。一方、母親の方も息子から頼まれた競馬雑誌などを持って定期的に面会に通っていたという。



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