TheLastBreath「Prelude」1
地上数十メートルの高さを吹き荒ぶ風は冷たい。長きに渡って季節風の洗礼に晒され続けたビルは、どれもこれも所彼処が風化して退廃的に佇む。浄水槽のパイプからは赤茶けた水滴が零れ、朽ちかけた錆まみれの屋上フェンスはもはや人ひとりの体重も支える事は適うまい。
対照的に、下界は華やかさに満ち溢れていた。艶やかなネオンの群、月に成り代わり夜半を侵食する街灯の灯り、ハイウェイを縦横無尽に流れていくヘッドライト、そして──眠りを忘れた人の波。
外壁を駆け上がってくるビル風は下界の匂いも巻き上げる。それは何種類も混ざり合った香水のものだったり、脂っこいジャンクフード系統のものだったり、排水や汚物のものだったりといろいろだ。むっとする生暖かい風と上界の風とがぶつかり、奇妙な気流の渦が生まれる。
その最も天に近い場所──抜きん出て高いビルの屋上に、少年がいた。
まだ幼さの残る、そんな感じの年頃の子だった。ふっくらとした頬は長く外気に当てられた所為か、赤みを通り越してやや青白い。時折、冷えて白く見える呼気が宙に流れていくのを視線で追い掛ける姿はまるで無垢で。
だが。
それはなんとも奇妙な出で立ちをしていた。風に乱れる髪は銀、襟首に零れんばかりの羽毛飾りを巻き付け、上下は黒ずくめの正装服と思しき着こなし。何処ぞの式典の一角ならともかく、それが崩れかけた屋上から無謀にも足を投げ出してのんびりと夜景を眺めているのだ。
一歩間違えれば発狂しているか自殺寸前と見られても可笑しくはない。
と、その背後でソプラノの声音が聞こえた。
「やっぱりここにいた」
「…うん」
気配を覚え、少年がちらりとそちらに視線を投げる。その双眸が頂くは鮮血の如き真紅の色。瞳孔に至っては猫の様に縦長のものだ。
「此処からだとこの街がよく見える。賑やかな街だ」
「確かにね。街の端々まで明るい」
「賑やかで…あんまりに虚しい光を湛えた街だ」
言葉尻に軽い嘲りを含み、少年は笑ってみせた。薄く開かれた口元からは一対の光が覗く。人の型にはそぐわぬ獣の歯列、それがぞっとするような煌めきを放った。
背後のソプラノの主はあまり動じた風も見せず、淡々と地平線の方角を眺めていた。肌に密着した黒革の艶光りだけが、彼女の体格を闇の元に浮き彫りにする。
──年は二十四、五くらいか。少年よりも年上の雰囲気が漂う。ウェーブのかかったブロンドに見え隠れする顔は、女性ならではの気品を纏った艶やかなものである。
少年に近寄り、ソプラノの主は肩を竦めて問うた。
「で、今日はどの辺りを探す?私の方は粗方調査は終わっているから、そっちのサポートも出来るよ」
「そうしてもらうと助かるよ。二人の方が僕もやりやすい。どの辺り…そうだね、あっちかな」
足をぷらぷらさせながら、少年は酷く適当に街の一角を指差した。白磁の指が差したのは、何ということはない、数百メートル先の大通りから少し入った小さな道だ。せいぜい夜灯虫を集める店が両翼に連なるくらいの、ごく有り触れた路地裏である。
少し怪訝そうにソプラノの主が少年を見下ろすと、少年は上目遣いに真紅の双眸を悪戯っぽく輝かせた。
「今日は大きな収穫がありそうだよ。なんだかわくわくする。この街に来て以来、こんな感覚は初めてだ。きっと僕等の転機に違いない」
「随分自信があるようね」
「直感、だけど。でもこの直感がよく当たる」
彼女は否定こそしなかった。現に今までその直感で全て万事上手くやってきた事実が根本にある。適当な振る舞いをしてはいるが、少年の言動はただ無軌道なものではない。元々そういう能力に『長けている』のだ。
否、そうあるように『創られた』といった方が賢明か。
「じゃあ、僕は先に行くよ。サポートの方宜しく」
「ええ」
次の瞬間、少年の身体がふわりと宙に舞った。ビル風を突き抜けて地上へと落下する──その背中が俄に捲れ上がったかと思うと、一対の巨大な蝙蝠の翼を生じた。脆弱な皮膜が上昇気流を掴むと、少年を鳥のように天へ押し上げる。
なるほど下界の者達は、突如闇夜に現れた鳥には気付かない。足元や目の高さに拡がる世界の煌びやかさに囚われて、何時からか神さえ信じなくなったように。
「さて、私も行こうか」
少年が上手く風に乗ったのを見計らうと、女性も踵を返して屋上を後にする。こちらは空を飛ぶなんて芸当は無理のようだ。遙か眼下、建物の入り口に停めてある大型二輪が彼女の足であるらしい。
屋上から大急ぎで駆け戻ってきてそれに跨り、女性は勢い良くエンジンを叩き起こす。鉄の塊はドドド、と激しく吼えながら俄に疾駆を始め、白煙とタイヤ痕を残してたちまちネオン街の喧騒へと消えていった。
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自分は警察の人間ではない、と思う。
そもそも警察なんて呼称が昔からの準えに過ぎないのだ。この一集団は、現在となっては自警団程度の意味合いしか持たないし、実際自警団と称した方がしっくりくるので巷でもそう呼ばれている。大国が瓦解し、それぞれ発展していた市街が一個の国のような完全自給自足型スタイルで存続を図り始めてからは、誰彼ともなく集まった『ちょっと正義感の強いかも知れない人間』がその狭い世界の治安を担っている。
傭兵と言ってくれても構わない。そもそも正義なんて綺麗なもので動くものではなく、一国と化した己の住む街を、ひいては自らの安全を守る大義の為に動いているようなものだ。嘗ては国の犬と揶揄されたなら、今は街の犬と揶揄されているのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、男は染みだらけの天井に向かって紫煙を吐き出した。
この、茶髪碧眼の男の名をヒュー・ウォーベックといった。肩書きは一応警察の者であり、当然本人も毅然と名乗っているが、その雰囲気は正直そこらに屯している不良共と大して変わらない。優男顔のくせに背広を着ようが燕尾を着ようが粗暴さが滲み出てしまうのは損な遺伝である。追い掛けていた犯人と取っ組み合いの喧嘩になった時も、駆け付けた応援部隊に一緒くたに手錠をかけられてしまった程だ。
だが、例え勘違いされようとも職があるのは有難い。安定してきているとはいえ、この街はまだまだ混迷の時代を引きずって治安が芳しくない。彼のように両親が既にいない者の場合、職を持たないということは金銭で困り、金銭で困るということは生活に困り、挙げ句犯罪に堕ちるか命を落とすかの末路を辿る。
完全自給自足型で民を養える社会とはいえ、物資が飽和していたという昔とは違い働かざる者食うべからずの図式が如実に現れる。少しでも良質の生活と長生きを望むなら(それでも暴漢等に襲われたら一発でお終いだが)、嫌でも何かをしていなければならないのだ。
ヒューの場合、退屈を嫌うあまり+αとして人生に少しばかり減り張りを付けようと自警団に参加した訳だが──結果として寿命を縮める因子になっているから笑わせる。
否、笑えない。
「…換気しないとタバコの臭いが服に移るわ…」
ダブルベッドの少し離れた位置から文句が聞こえた。ヒューと共にこの部屋に缶詰めにされたその女性は、アリス・バクスター──そろそろ目元辺りの化粧が崩れてきていて、見てくれからも疲労具合が激しいことが見てとれる。
「一服しないと息が詰まるだろ。こんな所じゃ」
「先に煙で息が詰まるわよ。肺癌で若死になんて御免よ」
たまらずベッドから跳ね起きると、アリスは換気扇のスイッチを入れた。自慢のブロンドに手櫛を入れて匂いを嗅ぐと、見事にヤニの香が付いていたらしい。げんなりと嘆息する。
「あんたさぁ、よくこんな所何時間も耐えられるわね。根性あるんじゃない?」
「仕方ないだろ。これも仕事、あんたと違ってデスクワークよりはこっちの方が割と楽だと思うが。難しく考えなくていいし」
「男の子ね」
「そう言うあんたは箱入り娘だね」
アリスが文句を言うのも無理はない。両親が健在である彼女は文字通り箱入り娘で何不自由なく育てられ、治安の何も知らないまま憧れでこの組織に入った。ようやっとデスクワークに慣れてきたところに、所長からヒューの張り込みに付き合えと頼まれたのだ。
よりによって張り込んだ先が宿泊以外の目的も兼ねたホテルの一室となると、お嬢様な彼女にはたまったものではないだろう。
ヒューと並べてカップルに見える人間が他にいなかったことと、新人でもヒューがサポート出来そうだからという条件が合致した末の顛末がこれだ。其処に彼女の言い訳がまるで通用しないものだから、実に世間の荒波は厳しい。
「ヒュー」
「なんだよ」
一応アリスとは『恋人』という名目でこの部屋に潜り込んでいる為、それなりの演技をしておかないとかえって不審がられる。それを踏まえてか、アリスは精一杯のしおらしさでもってヒューの隣にやって来た。咥えていた煙草を取り上げ、何食わぬ素振りでラジオの音量を最大に上げる。
大抵、こういう場所には盗聴器なり盗撮カメラなり仕掛けられていて然りである。それが経営者の意図なのか来訪者の仕掛けたものかは知らない。探知機を出せばこちらの正体を勘繰られる、それなら一芝居打った方が楽というものだ。
何処となくぎこちない動作でベッドに腰掛け顔を寄せ、アリスが耳元で囁く。
「本当にこのホテルで取り引きなんてあるのかしら」
「…さぁ…途中までは確証あったらしいけどな。途中から騙されたような気になってきた」
今日彼等がここに缶詰めになったそもそもの理由が、一般市民からのタレコミである。ドラッグにハマりまくった若者達が、此処を薬の売買に利用してるらしい ──とのことだ。実際薬漬けで二進も三進もいかなくなった少年少女が何人も病院に担ぎ込まれ、世間の目は一時期にせよこのネタに敏感になっている。ドラッグ撲滅なんて鼬ごっこになりかねないが、時事的にもタレコミがあった以上動かないと信用問題に関わる。同業者なんて沢山いるのだから、『警察』とはいえ数を上げてなんぼなのだ。
「にしても」
アリスを抱き寄せるフリをしながら、ヒューも呟いた。
「遅いな。連絡もまだないし」
「何時間待ってればいいのかしら…」
別箇所に張り込んだ仲間からの連絡がひとつあればいいのだ。「建物に入った」と教えてもらえれば、薬に興味があるフリでもして売人と接触し、その隙を突いて挟撃することが出来る。だが肝心の売人が現れないとなると、この方法は根本から瓦解する。
一体どうしたものかと考えていた矢先、突然ラジオの雑音を切り裂いて携帯電話が鳴った。あくまで演技を続けながら手に取ったヒューの顔が、呼び出し画面を見るなりひくりと引きつる。
開いた画面に連なる相手の名前はカーシー・ウィンストン──彼等の上司だ──直々の呼び出しになんとなく嫌な予感を覚えながら、ヒューはそっと電話に応じた。
「チーフ」
『うわ…雑音が酷いな…ヒュー、アリス、聞こえるか』
「あー…俺です聞こえてます」
『実はだな、とんでもなく言い辛いことを言いまくるが覚悟はいいか』
唐突に切り出された言葉尻に覇気がない。女性らしからぬ口調で語るカーシーの声にしては珍しくトーンも低く、いよいよ嫌な予感が実感に変わる。隣のアリスが怪訝そうな顔で見上げてくるのを横目に、ヒューは小声で返した。
「…。そっくりそのまま伝えますんで連れがショックを受けないようにオブラートに包んでお願いします」
これは長らく缶詰めにされたにも関わらず訪れる顛末を見越しての精一杯の嫌味である。受話器の向こうで一呼吸ついてから、カーシーが重い口を開いた。
『売人共がどうも取引先を変えたらしい』
「バレましたかねぇ」
『かも知れないな。タレコミした人間自体が一枚咬んでいた可能性も有り得る』
やはりか。
相手に一杯食わされる、なんてことはよくある話だ。裏はとった筈だったのだが、今回はどうもそれすら読まれていたらしい。尻の青いガキのくせに狡い真似を、と胸中で悪態をつきながら、ヒューは精一杯感情を押し殺して続ける。
「んじゃ、どうします」
『今日の所は引き上げるしかないな。もう一度最初から調べ直す必要がありそうだ』
「無事にホシが上がったらそいつ締め上げちゃっていいですか」
『…程々にな』
流石にこちらの怒気が漏れていたか、電話口のカーシーが苦笑を漏らした。彼女にしても、まんまと利用されたとなると心中穏やかではあるまい。
翌日出勤した時にパシリにされたり理不尽な注文を付けられなければ良いが。
『給料はちゃんと出るから安心しろ。でもって…ああ、君達は帰宅時間だな。残業するならともかく今日はもう帰りたまえ。夜勤の者に代わってもらわないと私の懐も厳しい』
「あー…はいはい」
『では』
返事を待つ訳でもなく一方的に電話が切れた。暫くツーツーという音を聞いていたヒューは、振り切れたように携帯電話を投げ出して大の字に倒れ込む。
これ以上潜入していても実にならない。隣のアリスに言うべき伝言を組み立てようと暫し唇を開閉させたが、正直何と切り出せばいいか解らなかった。
まるで緩急無く出てきた言葉が、
「…という訳で、」
「全部言わないで。なんだか挫けそうよ」
ベタな切り出しに全てを察したアリスもベッドにどうと雪崩れ込んだ。
「──よくある事だよ。気にするな」
言いながら転がしていた煙草に無意識に手を伸ばしたヒューだったが、咥えたきり火も着ける気になれなかった。そのままフィルターの部分を噛み千切って投げ捨てると、雨漏りのシミをぼんやりと見上げてみる。
投げ捨てた際に散らばった煙草の葉を手で払い除け、アリスが前髪を乱暴に掻き上げながら言った。
「…なら一芝居打って帰る?」
「そうしよ…」
せめてもの最後の意地である。
ラジオの電源を切って最初に切り出したのはアリスだ。
「『今日はもう気が乗らないわ。また今度にしない?』」
「『折角時間潰して来たのにそりゃあないだろ』」
「『なんていうか、ね。もっと燃えるような雰囲気用意してくれないと無理よ。まったくもう、準備不足というか下手なんだから』」
「お、おいおい…」
「『先に出てるわ』」
唐突に命ぜられた役所に妙に納得出来ないものを感じつつも、芝居とバレるので文句も言えず仕方なくヒューはそれに従った。だがこれでは──
(人権レベルで冗談じゃないよなぁ…)
さっさと身支度を整えて出ていったアリスを追い、毒づきながらもヒューも慌てて部屋を後にする。
あんまりだ、という男のプライドからくる絶叫は、無論建物を出るまでは飲み下されたままだった。
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