6月になりました。
ナナが、ずっとたのしみに待っていた6月です。
まだほいくえんにかよっていたころから、ナナはピアノをならいたくてたまりませんでした。でも、そのとき、ママさんは言いました。
「もうすこし大きくなってからね。」
「いつ? どのくらい大きくなってから?」
「そうだなあ、小学生になってからにしよう。ナナが1年生になって、毎日元気に小学校に行くようになって、先生やお友達となかよくなれたころ。」
{いつ?」
「うーん、6月ぐらいかなあ。」
そう答えたのは、パパさんです。
「やったー、1年生の6月だね。1年生の6月になったら、ナナはピアノをならえるんだね。」
「うん、いいよ。おやくそくね。」
「わーい、おやくそく、おやくそく。」
ナナはうれしくて、ぴょんぴょんジャンプしました。
そんな小学校の毎日にもすこしなれてきた5月、ナナのおうちにピアノがやってきました。
新しい、茶色のピアノ。
「でんしピアノっていうんだよ。いろんな音がだせるんだ。」
パパさんが教えてくれました。
「すこしずつれんしゅうしていこうね。楽しんでつづけようね。」
ママさんが言いました。
そっと、けんばんにさわってみました。つるつるしています。
そっと、けんばんをたたいてみました。
そのしゅんかん、きらきらの音がおへやにひろがりました。
「うわあっ、ピアノの音だあ。ナナのピアノだあ。」
そうして、6月。
はじめてのおけいこの日がやってきました。
お教室は、がっきやさんの2かいです。
長いかいだんをのぼってドアをあけると、ノリコ先生がにこにこ待っていました。
「こんにちは、ナナちゃん。」
その日は、ドレミファソラシドをひくれんしゅうをしました。
でもナナのちいさなちいさな指では、ちいさなちいさな音しかでません。けんばんがとっても重く思えます。
「むずかしいなあ。」
ナナのおけいこの時間がおわるころ、次のじゅんばんのマイちゃんがやってきました。ナナはマイちゃんに言いました。
「おねえちゃん、ピアノきかせて。」
「うん。いいよ。」
次のしゅんかん、しんじられないことがおこりました。
マイちゃんの指がものすごいいきおいで右へ左へとうごいて、音をかさねていきます。
大きな音。すみきったピアノの音。
ナナがはじめて聞く、ほんとうのピアノの音でした。
「すごーい。おねえちゃん、すごーい。」
ナナは、心の中でさけびました。びっくりして、声にだすことができなかったのです。
それから、心の中がざわざわしてきました。すごくうれしいきもちで体の中がいっぱいになってきて、でも、なんだか泣きたいようなきもちです。
「ママさん、ママさん。ナナね、うれしいけど泣きそうだよ。」
「よかったね、ナナちゃん。ナナちゃんはいま、感動してるんだと思うよ。」
「そうか、カンドーっていうんだね。うん、ナナね、いま、すごおくカンドーだ。とってもカンドーだよ。」
その日から、毎週水曜日、ナナはピアノのおけいこにかようようになりました。
おうちでも、毎日すこしずつ、れんしゅうするようになりました。
7月になりました。
その日のおけいこのおわりに、ノリコ先生は言いました。
「8月にはっぴょうかいがあるのよ。ナナちゃん、でてみる?」
「はっぴょうかい? はっぴょうかいってなあに?」
ナナは、ママさんのほうを見ました。
ママさんはなんだかしんぱいそうな顔をしています。
「みんなのまえでピアノをひくのよ。」
と、ノリコ先生が言いました。
・・・よくわからないけどたのしそうだなあ。
「うん、でるよ。ナナ、はっぴょうかいにでる。」
「わかりました。でも、おうちにかえってから、パパとママとゆっくり話し合ってからきめようね。」
ノリコ先生は、にっこりしました。
その日の夜、ナナとパパさんとママさんは、はっぴょうかいのお話をしました。
「ナナちゃん、はっぴょうかいっていうのはね、長いあいだいっしょうけんめいおけいこした人が、みんなにきいてもらうものなんだよ。
ナナちゃんは、まだおけいこをはじめたばかりだよね。」
「うん。でも、ナナ、でたい。」
「でも、ナナちゃんは、まだ音もよく出ないし指もはやくうごかないでしょ。
右手と左手がちがう音をひくのだって、やったことないでしょ。」
「うん。でも、ナナ、でたいんだもん。」
「みーんな、じょうずなひとばっかりだよ。」
「うん。でも、ナナ、でるんだもん。」
つぎの日も、そのつぎの日もお話をして、とうとうパパさんが言いました。
「ナナちゃん、はっぴょうかいにでるのなら、すごくたくさんれんしゅうしなくちゃいけないよ。
あと1ヶ月しかないんだから、毎日いっぱいれんしゅうしなくちゃ。
ナナちゃんにできますか。」
「うん。できる。」
ナナは、すぐに答えました。
「とちゅうで、『やっぱりできません』なんてできないんだよ。」
「わかってるよ。ナナ、がんばるんだもん。」
「がんばるって、おやくそくできる?」
ママさんが聞きました。
「できる、できるよ。おやくそくする。」
「じゃあ、おやくそく。こんど、先生に、はっぴょうかいにでますって言おうね。
がんばるんだよ、ナナちゃん。」
「はあーい。」
ナナは、元気よくおへんじしました。
さあ、つぎのおけいこの日。
「ナナ、はっぴょうかいにでます。」
お教室のドアをあけてすぐ、ナナは大きな声で言いました・
ノリコ先生はにっこりわらって、
「わかりました。がんばろうね、ナナちゃん。」
そう言ってから、1まいのがくふをとりだしました。
「はっぴょうかいでは、この曲をひきましょう。」
『カンツォネッタ』
がくふにはそうかいてありました。
その日から、たいへんな毎日がはじまりました。
『カンツォネッタ』のがくふには、ナナがみたこともないようなたくさんのおんぷがかいてあります。どのおんぷが『ド』の音なのかも、ナナにはまだわかりません。
ママさんにドレミを書いてもらいました。
1日に30回も40回もれんしゅうします。でも、まだまだ大きな音もでないし、指もじょうずにうごきません。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。夏休みになったら、もっとれんしゅうできるもん。」
ナナは思いました。
夏休みになりました。
ナナは、パパさんとママさんといっしょに、「しみんかん」を見に行きました。ここで、ピアノのはっぴょうかいがあるのです。
「えっ。」
ナナはことばがでませんでした。
「こんなひろい、大きなところでピアノをひくの?」
たいへんなことになった。れんしゅうしなくちゃ。だって、まだまだぜんぜんひけてないよ。
でも、夏休みになって、ナナはまえよりももっといそがしくなっていました。
朝、ラジオたいそうのあとは、がくどうに行きます。がくどうで、バッタやせみとり、どろだんごづくりでおもいっきりあそんで、夕方、おうちに帰ると、じゆうけんきゅうの『かいわれだいこんのかんさつ』。
それがおわってピアノをひきはじめるころには、つかれはててねむくなってしまいます。
けんばんにあたまをのせて、ねむってしまったこともありました。
そうして、はっぴょうかいまであと10日になりました。
まだ、うまくひけないナナは、とうとう言ってしまいました。
「・・・ナナ、はっぴょうかい、でない。・・・むりだよ、ひけないよ。」
ママさんはまじめな顔で言いました。
「それはできません。おやくそくしたでしょ。」
パパさんも言いました。
「おやくそくは、ぜったいにやぶっちゃいけないんだよ。
ナナは、はっぴょうかいにでます。がんばるしかないよ。」
「そうか、がんばるしかないのかあ。」
つぎの日も、そのつぎの日も、ナナのれんしゅうはつづきました。
そのうち、すこしずつ、ほんのすこしずつだけど、ひけるところが多くなって、うれしいきもちが大きくなってきました。
そうしてとうとう、『カンツォネッタ』を、さいごまでなんとかひけるようになりました。
まだまだたくさんまちがえるけど、1曲ぜんぶひけるとたのしい。
はやくひいてみよ。ゆっくりひいてみよ。
『カンツォネッタ』 たのしい。 『カンツォネッタ』 だいすき。
さいごのおけいこで、ノリコ先生は、おじぎのしかたもおしえてくれました。
そして、あしたはいよいよ、はっぴょうかいの日。
ちかくのおばあちゃまも、見に来てくれることになっています。
とおくのおばあちゃまからは、おいわいに、てづくりの新しいおけいこバッグがとどきました。
パパさんとママさんは、きらきらのかざりがいっぱいついた、白いサンダルをよういしてくれました。
さあ、あとは、ナナががんばるだけです。
「ねえ、ママさん。ナナ、すごくしんぱいになってきた。
どうしよう、じょうずにひけるかなあ。」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
ママさんはわらっています。
「うーん、でも、しんぱいだよお。
そうだ、かみさまにおねがいする。
ねえ、ママさん、ピアノのかみさまって、どこにいるの?」
「そうねえ、ピアノのかみさまねえ。ママ、わからないなあ。
そうだ、ピアノのかみさまはしらないけど、ふるいピアノならしってるよ。
日本でいちばんむかしのピアノだよ。」
「へえー、きっと、すごくえらいピアノだね。おしえて、どこにあるの?
ナナ、そのピアノにおねがいしてくる。」
そこは、『くまやびじゅつかん』というところでした。
むかしのくらのようなたてものの中には、絵やおちゃわんや、いろんなものがかざられています。
ナナは、1枚の大きな地図のまえでたちどまりました。
「あれえ。これ、見たことがある。
そうだ、モトちゃんが持ってた地図だ。」
あのふしぎなできごと以来、モトちゃんはすがたをみせません。
「モトちゃんにも、はっぴょうかい来てほしかったな。
ナナのピアノ、きいてほしかったなあ。」
2かいにあがるとすぐ、1台のピアノがありました。
ガラスケースに入っています。
すこしちいさい、茶色いピアノです。
「あれえ、ナナのピアノにちょっとにてる。」
むかし、シーボルトというえらい人が、日本のおともだちにプレゼントした、と、せつめいにかいてありました。
ナナは、目をとじて、心の中で言いました。
「おねがいします。あしたのはっぴょうかいで、じょうずにひけますように。」
さあ、いよいよ、きょうは、はっぴょうかいの日。
プログラムには、たくさんの人のなまえがのっています。バイオリンの人もいます。
ステージのまんなかには、大きなグランドピアノ。そして、まぶしいくらいのライト。
ナナのじゅんばんが近づきました。
ステージのすみっこのカーテンのかげから、そっとおきゃくさんのほうをのぞいてみました。
思っていたよりも、たくさんの人がいます。
さあ、ナナのばんです。
ステージのまんなかにすすんでいって、おじぎをすると、大きなはくしゅが聞こえました。
ナナは、急にドキドキしてきました。
ドキドキしすぎて、こわくなってきました。
でも、いすにすわってひきはじめると、いつものきもちがもどってきました。
・・・ひけてる、ひけてる、できてる。
・・・ひけてる。さいごまで、まちがえずにひけそう。
・・・さあ、これで、ぜんぶひけた。
おっと、もういっかいリピートだったっけ。
くりかえして・・・
・・・ひけたっ。ぜんぶひけたっ。
ぜんぶひきおわって、おわりのおじぎをすると、また、大きなはくしゅがきこえてきました。
ステージをおりると、みんながまっていてくれます。
「ナナちゃん、すごーい。じょうずだったよ。」
「ナナちゃん、がんばったねー。」
「・・・ナナね、ナナね、今、とってもカンドーだったよ。
すごくカンドーなんだよ。」
みんなのえんそうがすべておわって,次は、きねんさつえいです。。
いすにすわってじっとしていると、ふと、出口の近くにおにいさんがひとり立っているのに気がつきました。
やさしくほほえみながら、ナナを見ています。
えりには、椿の花のバッジ。
そして、まるで、小学生のように、大きく手をふりました。
それから、ゆっくりときれいなおじぎをして、そのまま出て行ってしまいました。
「あれえ、どこかで見たなあ、あのバイバイ。あのおじぎ。」
ナナは気づきました。
「そうだ、モトちゃんだ。
でも、モトちゃんは、あんなに大きなおにいちゃんじゃあなかったっけかなあ。」
かえりみち、ナナは思いました。
・・・やっぱり、あれはモトちゃんだった。きっと、ナナのピアノ、ききにきてくれたんだ。
またぜったいあえる。
そのときまで、いっぱいれんしゅうして、じょうずになっておこうっと。
つぎの日。
「うん、すごくかっこよかったよ、ナナは。」
「じぶんで言うなよな。」
カミノはあきれてわらっています。
「そうだ。ねえ、カミノ。きのう、モトちゃんにあったよ。
はっぴょうかいに、きてくれてた、椿の花のバッジつけて。」
「えーっ、そうかあ、よかったなー。あいつ、元気だったか?」
「うん。あのおじぎも、ちっともかわってなかったよ。
でも、ちょっと大きくなってた。高校生くらいになってたよ。」
「そうかあ。やっぱりモトちゃんはすごいなあ。
オレもまた、あえるな、ぜったい。」
ふたりは、すこおし、モトちゃんのことがわかったような気がしてきました。
・・・きっとこれから、わくわくすることがたくさんおこる・・・。
ふたりとも、そんな予感に、どきどきしていました。
©とびや
「うーん、これはきっと、すごくえらいピアノだ・・・。」