「西寧」〜甘粛省「蘭州」へ
平成17年8月17日(月)甘粛省「蘭州」へ
  列車は荒涼とした山あいを走っている。両側に見え隠れするのは黄河であろうか、それともその支流であろうか? 緑の少ない山と赤い土壁とトウモロコシ畑、黄土の大地そのものである。蘭州 が近づいてきた。7月下旬、彼に手紙を出しておいた。返事は来なかったが 『17日15時01分着の列車で蘭州駅に着く』と。列車は約20分遅れで到着 した。ホームから階段を下り出口へ向かう、少しの緊張感が走る。

  出会ったのは5年前、四川省成都を訪れ、1泊2日の「楽山の大仏と峨眉山」の ツアーヘ参加した。この時蘭州から来られた一行と行動を共にし、1泊2日の楽 しい時をすごした。その時、小学5年生の男の子(名前は周州、お母さんと 一緒であった)と友達になった。それ以降3年間は文通したが昨年は便りがとど こおってしまっている。あれから5年、今は高校1年生のはずだ、ずいぶんと成 長していることであろう!
  改札を出る。幾人かの出迎えの人たちがいたが、彼はいなかった。彼と出会う ことが今回の目的の一つであったのに、出口付近をうろうろしてみたが残念であ った。・・・まずは宿を決めなくては。
  駅前の「華聯賓館」へ飛び込む、規模のわりには安い、実売は定価の半値であった。グレードbQの138元の部屋を3泊 申し込む。21階の駅前広場が見下ろせる見晴らしの良い部屋であった。
  日本へ、中国へ葉書を出そう!、絵葉書を求めてホテルを出る。駅前 広場の売店で探すが、置いていない。次に広場横の郵便局へ行く。置いていないと 言う・・・本局まで行ったらあるとのこと、そこへは102番のバスに乗り三つ目の 「郵局大楼」で下りたらよいとのこと、・・・バスに乗り本局へ行きヤット絵葉書 を買い求める。その夜は早々にホテルへ帰り便りを4通中国語でしたためた。2通 は日本へ、あと2通は山東省済南の趙静さんへ、そして当地の周州君へ。
  翌日(18日)は午後2時まで市内観光(白塔山公園、黄河母親、黄河第一鉄橋) をした。従って絵葉書を郵便局へ持ち込んだのは午後3時頃であった。19日は朝7時から炳霊寺石窟へ観光(この19日の観光は別途記述)
      ⇒⇒⇒「炳霊寺石窟へ」をクリック
  市内へ帰ってきたのは午後3時頃・・・蘭州大学の正門で下ろしてもらう。
  留学の手続きを聞きに行こう。(これも今回の目的の一つであった)正門より入る。事務室を探さなくては、キャンパスで構内図を見つける。歩いている人に 現在位置を確認する。正門左手の建物のようである。1Fで事務室を聞く、5Fとのこと エレベータで上がり一つの部屋に飛び込む。・・・私の話を聞いてくださいと切り出した! 女性が別の部屋に案内してくれた。留学の可否と手続きを聞く、申込書をいただく。

  ホテルへ着いたのは16時、こちらは20時頃まで明るい。明日は帰国、よし!周州 の家まで行ってみよう。住所は『七里河区下西園政府家属楼204号』、駅前から1番のバスに乗れば近くまで行けそう だ!地図と彼の写真(5年前のもの)を持ってホテルを飛び出した。
  七里河区でバスを降りた。さて!あとは聞きまくるしかない。約2時間7、8人 の方に尋ねたであろう。やっと目的の下西園政府家属楼へたどり着くことができた。
  時計は既に夕方6時をまわっていた。さて目的の204号であるが、なかなか見つけることが出来ない、古びたアパートの中庭を行ったり来たり 中庭で出合った老夫婦に手伝ってもらいヤット204号らしき扉の前に立った。扉に は表札がない。ノックするのに躊躇する。老夫婦は『この204号に住んでいるのは 周さんではない』と言う。5年前の子供の写真を見せても『そんな子はいない、引越 したらしい』と言う。やむを得ず私の名刺を渡し、もし会えたら渡してくれと頼み、 今回の行動にピリオッドを打つことにした。
  食事を済ませホテルへたどり着いたのは10時前であった。エレベータを 待っていると、一人の女性が私に語りかけて来た!!!・・・・・周州のお母さん であった・・・暫くは声も出さず彼女を見つめていた。ご主人といっしょであった。 部屋に上がり、途切れ途切れの会話をする。18日に投函した葉書が届いたのであ る。周州は都合があって来れないとのこと、成長した彼の様子を聞きおいとまとな った。私は当初の目的をほぼ達成したようである。
  しっとりとしたアパートの中庭をうろうろしていた時、下の掲示板を見る。8月15日、日本で言う「終戦記念日」 中国では・・・・以下、訳しておこう

  『百年の恥辱一日にして晴らす』
  1945年8月15日中国人民は、1894年日清戦争から51年間のたゆまぬ闘争、1931年 満州事変以来14年間の抗争、1937年から8年の血みどろの戦いを経て、ついに 抗日戦争に勝利を収めた。抗日戦争のあいだ、中国は3500万人に及ぶ死傷者、6000ドル に及ぶ巨大な損失を払った。
  抗日戦争の勝利は、アヘン戦争から百年に及ぶ民族の恥辱を洗い流し、近代中華民族において 帝国主義侵略史上最も輝かしい歴史を綴ったのである。

  20日我家に帰った時、7月下旬出した手紙が宛先不明で戻ってきていた。後日、彼より手紙が来た。高1の彼は身長170mに成長しており、あの時彼は軍事教練 へ参加中であり、家族とも会うことが出来なかったとの事である。

  ここで簡単に蘭州について、古くは「金城」と呼ばれ、シルクロードの交通と商業の要衝として栄え、 2000年有余の歴史を持っている。
  今日蘭州は中国国土のほぼ中央に位置し、甘粛省の省都 として、省の政治、経済、文化、交通、科学、情報の中心である。南北は山に挟まれ、東西に 黄河が流れている。海抜は1400m〜2000m、人口は約280万、中心部の人口は159万。 「地球の歩き方、(中国)」の蘭州の紹介のページに、蘭州で外国人がバスに乗るには許可証が要る と書かれてあったが、その必要はありませんでした。
  20日朝6時まだ暗い中、賓館前でタクシーに乗る。蘭州飛行場は市内からタクシー を飛ばして40分であった。約70km離れているとのこと。タクシーから見える風景は 黄土の赤茶けた山並みであった。太古の昔からこんな山であったのだろうか、それとも中国3000年の 歴史がそうさせたのであろうか、これでは少々木を植えてもらちがあかないように思える が、しかし何事も一からであろう。
  10時30分上海虹橋飛行場へ到着、軽く食事をとり、浦東国際空港行きのバスに乗る。福岡へのフライトは18時だ!