My Home Page   中国にて つれづれなるままに 2013年丹阳にて    戻る
 4月13日(土) 北固山(天下第一江山)
 鎮江は南京の東に位置し長江と京杭運河が交わるところにある古い港町である。長江をこえて運河を北へたどれば揚州は近い。長江沿いに鎮江三山がある。金山・北固山・焦山である。今回は北固山に行ってみた。
 老齢割引30元でチケットを買い中に入りトントンと階段を上がって行くと思いがけず阿倍仲麻呂の歌碑にであった。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」、百人一首に出てくる有名な歌である。おもわず大きな声を出して読んでしまった。建碑の説明をそのまま記すと
 阿倍仲麻呂、中国名は晁衡、717年遣唐使留学生として入唐、科挙に登第し進士となる。玄宗皇帝に重用され唐王朝の秘書監・衛尉卿を歴任した。文人の李白、王維、儲光義、趙驔らと交友、その学識、詩文の才をもって唐人に知られた。753年に帰国しようとして入唐していた遣唐使の藤原清河、吉備真備らと船で揚州を発った。途中揚子江河畔に停泊、その折「望月望郷」詩を詠んだ。船は暴風のため安南(ベトナム)に漂着した。爾来、唐の地にとどまり高官として一生を終えた。
 日中文化交流の先達「阿倍仲麻呂」を顕彰するため、奈良の三笠山に似たこの北固山に記念碑を建立し併せて日中両国人民の友好の象徴とする。建碑は中国国際旅行社鎮江支社の数年に亘る計画に基づき関係方面の協力を得て社団法人日本書道院が創立40周年記念事業として実現した。
 
  一番高いところにあるのが「北固楼」、武漢にある黄鶴楼より遅れること約100年多の東晋初期に建てられたそうである。現在の楼閣は2010年に建て直されたとのこと。楼閣からの悠々と流れる長江の眺めはすがすがしいものであった。もう一つここには劉備が婿入りしたとされる甘露寺がある(甘露寺刘备招亲)。三国志演義によると劉備玄徳は借りた東呉の荊州を返すのを躊躇した。そこで呉の周瑜は色仕掛けの計画(美人計:美人局(つつもたせ))を図った。その計画とは呉王孫権の妹をめあわすとの口実で劉備をおびき出し殺そうとするものであった。しかし計略は諸葛孔明に見破られ失敗し妹は連れ去られ追っ手の軍勢までさんざんなめにあった。(赔了夫人又折兵:計略がかえってあだとなり損失を招くことのたとえ)
 その後連れ去られた孫権の妹は孫権により連れ戻されるのであるが劉備のことが忘れられず。劉備が白帝城で病死したことを聞くと悲しみに打ちひしがれとうとう長江に投身自殺をしたそうである。この逸話からこんな成語ができている。(弄假成真:うそから出たまこと)
 
 
 歌碑の右側、漢詩の部分をネットで調べてみた
   翘首望東天(首を翹げて東天を望めば)  神驰柰良邊(神(こころ)は馳す奈良の辺) 三笠山頂上(三笠山頂の上) 思又皎月圆(思ふ又た皎月の円(まどか)なるを)
                                                                               (皎月は明月の意)
  もう4月の中旬木陰が恋しい季節、この北固山はなかな感じの良いところであった。楼閣に登れば遥か長江を見渡し、武漢の黄鶴楼を懐かしく思い出し、すがすがしいひと時をもった。交通機関は駅前北広場から4番のバス(1元)であった。次はもう一つの山「焦山(上の写真で遠くに小さく見える山)」へ行ってみよう。4番バスの終点から船だ。

 新型鳥インフルエンザ(禽流感)の感染者が徐々に増えている。昨日現在では感染者49人、死者10人とか。感染ルートがなかなか特定できないようだ。丁先生曰く禽流感は以前は鳥が死んでいたが、今では人が死ぬようになった。また鶏肉は買わない食べないそうである。心なしかKFC(ケンタッキーフライドチキン)のお客さんが少ないようにみえる。