Top Page 現代事件簿の表紙へ No.009 No.007
彼を一人占めにするには殺すしかないと考え、切断した男性器を懐に所持して逃亡。 1936年(昭和11年)5月18日、東京市(現在の東京都)荒川区の待合旅館「満佐喜(まさき)」の二階、四畳半の部屋である「桔梗(ききょう)の間」。この部屋には、数日前から男と女の二人連れが泊まっていた。 午前8時ごろ、その部屋に泊まっている女の方が、 「ちょっとお菓子を買いに行って来ます。ああ・・、連れの人はよく寝ているので起こさないで下さい。」などと言い残して、旅館を出て行った。 11時ごろになっても女は帰ってこない。お菓子を買いに行ったにしては妙に遅い。それに男の方もまだ起きてはこない。不審に思った女中が部屋の外から男に声をかけてみた。しかし返事がない。 「失礼します。」 と言って部屋を開けてみると、そこは凄惨な殺人現場となっていた。 男は全裸で布団の上に横たわっており、赤い腰ひもで首を絞められて殺されていた。男の左の太ももには「定 吉二人」と血で書かれており、また、布団の敷布にも「定 吉二人きり」と同じく血で書かれていた。男の左腕には「定」という文字が包丁で刻まれていた。 何より特殊だったのは、男の男性性器が根元から切断されていた点である。切断された性器はその部屋からは発見されなかった。 被害者は東京市中野区の鰻(うなぎ)料理店である「吉田屋」の主人・石田吉蔵(きちぞう = 当時42)。 連れの女は、同じく「吉田屋」の女中である「田中かよ」。しかし「田中かよ」という名前は偽名であり、この名前で吉田屋に雇ってもらっていたが、本名が「阿部 定(あべ さだ)」であることを警察はまもなく突き止める。
この事件の犯人・阿部 定は、明治38年5月20日、東京神田区(現在の千代田区)の畳屋の娘として生まれた。小さなころは全く普通の少女であったが、定(さだ)が15歳の時、遊びに行った友達の家で慶応大学の学生とふざけあっているうち、そのまま強姦のような形で犯されてしまう。 この時から意識が変わり、「私はもう、嫁にも行けない身体になってしまった。どうにでもなれ。」という考えを持ち始め、家の金を持ちだしてはワルの少年たちと遊びまわるようになる。 数多くの男たちと関係し、相変わらず家の金を持ちだす定に、怒った父親は「そんなに男が好きなら遊郭(現在のソープランドに似たようなもの)に売り飛ばしてやる!」と、定を店に売ってしまった。 こうして18歳から風俗業に入り、26歳で遊郭を脱走するまで富山・大阪・名古屋などの遊郭を渡り歩いた。 ▼石田吉蔵との出会い 昭和11年2月、阿部定は東京市中野区の鰻(うなぎ)料理店である「吉田屋」に女中として勤め始めた。当時定は32歳(数え年)で、「田中かよ」と偽名を使って雇ってもらった。 この吉田屋の主人である石田吉蔵(42)に一目ぼれする。元々男好きであった定は、すぐに吉蔵と関係を持つようになる。吉蔵の妻の目を盗んでは情痴を繰り返していたが、ある時、応接間で行為をしていた時、女中に見られてしまい、妻にもバレてしまった。 激怒した吉蔵の妻はすごい剣幕で「出て行けーっ」と、二人とも店から追い出し、昭和11年4月23日、石田吉蔵と阿部定は職場であった「吉田屋」から追い出されて放浪することとなる。 二人は旅館を転々とし、時には三週間くらい布団を敷きっぱなしで昼となく夜となく情痴を繰り返した。この放浪をきっかけとして、定はだんだんと犯行に向かうような心理状態になっていく。 ▼心が犯行に向かって行く 5月12日。 二人は旅館「満佐喜(まさき)」に泊まっていた。 二人の何気ない会話の中で吉蔵が定に言う。 「首を絞められるのは気持ちいいんだってね。」 定「じゃあ絞めてみて。」 吉蔵はちょっと定の首を絞めようとするが、すぐに「なんだかかわいそうだからイヤだよ。」と、止めてしまう。 「じゃあ、私が絞めてあげる。」と定が吉蔵の首を少し絞めると、 「あはは。よせよ。くすぐったい。」と吉蔵は軽く流した。 この頃から定は、吉蔵を一人占めにするには吉蔵を殺すしかないという考えを持ち始めた。 5月15日。 定は上野で肉切り包丁を買った。その包丁は、自分たちが泊まっている部屋の壁にかけてある額縁の後ろへ隠した。この時はすでに吉蔵を殺す決心をしていたようだ。 5月16日。 吉蔵との行為の最中に定は、 「今度はヒモで絞めるわよ。」 と言って自分の腰ヒモを吉蔵の首に巻きつけ、自分は吉蔵の上に乗ってヒモを絞めたり緩(ゆる)めたりした。 「く、首を絞められるとチンチンがピクピクして気持ちいい・・。」 「どう?苦しい?」 「お、お前が良ければ、俺は我慢するよ。」 そうしているうちに一瞬、定は本気になり「じゃあ、もっと絞めるわよ。」と手に力を入れた。 「ぐっ・・! かよ(定の偽名)、かよ・・!」 と、自分の名前を呼びながら本気で苦しむ吉蔵を見て、定はハッと我に帰り手を離した。 「本当に殺してしまうところだった・・。」 定は自分のやったことが恐ろしくなっていた。 しかし吉蔵の方は「ふう・・、ほんとに殺されるかと思ったぞ。」などと言い、定のこの行為を少しも怒らなかったという。 5月17日。 定は銀座・資生堂で、目薬と傷跡用の薬、それにカルチモン(睡眠薬)30錠を買ってきた。昨日、定が絞めた吉蔵の首の部分がアザになっており、定はそこに薬を塗ってあげた。薬を塗ってもらいながら吉蔵が言う。 「定・・。俺はお前のためならいつでも死ぬよ。」「今度首を絞める時はそのまま絞めてくれ。ひと思いに殺してくれ。」 ▼そして実行 5月18日。 この日の早朝6時ごろ、定は寝ている吉蔵の首にヒモを巻きつけ、思いきり絞め上げた。途中で吉蔵が目を覚ましたものの、そのまま力を緩(ゆる)めることなく、定は吉蔵の息の根を止めた。 だが、殺しただけではまだ吉蔵は自分のものになったとは言えない。あの部分を自分のものにしてしまいたい。誰にも触らせたくない・・そう考えた定は、あらかじめ額縁の後ろに隠しておいた包丁を取り出し、吉蔵の男性性器を切断した。 定は切り取った男性器を大事にしまい込み、吉蔵の左の太股に「定 吉二人」と血を指につけて書いた。また、布団の敷布にも「定 吉二人きり」と同じく血で書き、左腕には「定」という文字を包丁で刻んだ。 そして冒頭のように、女中が吉蔵の遺体を発見し、事件は発覚する。 ▼阿部 定・逮捕される これまで殺人事件は普通のごとくあったが、男性器を切り取られるという事件は初めてだったため、マスコミも大々的に報道し、新聞の号外まで出て世間の注目を集めた。 事件発生から二日後の5月20日。定は品川駅近くの旅館「品川館」に「大和田 直」という名前を使って泊まっていた。この辺りの捜査をしていた高輪署の安藤刑事らは、この「大和田 直」の身元が本庁に問い合わせても確認が取れなかったため、偽名ではないかと疑いを持ち、調査に訪れた。 警察を名乗って部屋を開けると女はビールを飲んでいた。 「昼間っから飲んだくれか。女のくせに。」 「誰かお探しかい? 刑事さん。・・阿部 定とか?」 「なに?」 「あたしがその阿部 定だよ。」 「ふざけとるのか?」 刑事とのやり取りの中、定はハトロン紙で包まれた吉蔵の性器を帯の中から取り出し刑事に見せた。 「うわぁっ!」 切断された性器を見て刑事たちも悲鳴をあげた。定は他にも吉蔵の下着や包丁も所持していた。阿部 定は逮捕され、各新聞は一斉に号外を出すなどの報道合戦となった。新聞の見出しには 妖女「阿部定」遂に捕る 「エヽ私はお尋ね者よ」 刑事の前にニヤリ笑ふ 帯の間に例の「包み」 などという文字が踊っていた。(※捕る = 捕まる) 逮捕後、定には精神鑑定が行われ、鑑定を担当した東大教授・松村常雄教授は、定の男性遍歴と様々な資料から、定を先天的な淫乱症であると判断した。 定は性器を切り取った行為についてこう語っている。 「私の肌から離したくなかったんです・・。一番かわいい大事なものですから。」 殺人現場となった「満佐喜(まさき)」と、逮捕された「品川館」は多くの見物客が集まり、大繁盛したという。満佐喜では二人の写真を問題の部屋に飾り、品川館では旅館の主人があの時の定を連日詳しく説明したらしい。 翌年の昭和12年、定には懲役6年の判決が下り、栃木刑務所に収監された。刑務所での定は模範囚で、猟奇的な事件を起こしたにも関わらず、世間を騒がせた人気からか、結婚の申し込みの手紙が400通以上舞い込み、カフェや映画会社からのスカウトも来た。 昭和16年、定は恩赦による減刑によって5年で出所する。出所後は刑務所側の配慮で名前も「吉井昌子」と改め、自分の正体を知られることもなく社会復帰を果たし、その名前で結婚する。 しかし終戦後、新聞記者の取材に応じたことにより、夫に過去が分かってしまい、それまでの平和な生活は破綻してしまった。その後は一人で全国を転々とすることになる。 自分の知名度を生かしたり利用されたりと、結局「阿部定事件」はずっとついてまわることになる。最後は千葉県市原市のホテルで女中として働いていたが、昭和46年に置手紙を残して消息を絶って以来、そのまま行方不明となっている。 Top Page 現代事件簿の表紙へ No.009 No.007 |