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No.010 山口県下関駅での通り魔殺人・上部(うわべ)康明

車で駅構内に突っ込み、7人を跳ねた後、包丁を持って次々と人を襲い、死者5人、重軽傷者10人という大惨事を巻き起こす。自分の人生がうまくいかない報復として、無差別殺人を実行した。


(被害者は仮名)
▼事件発生

平成11年(1999年)9月29日、午後4時20分ごろ、山口県下関市のJR下関駅。
この日、上部(うわべ)康明(35)はレンタカーで突然、下関駅構内に突っ込み、建物の中にいた人々のうち、7人を跳ね飛ばした。車は約60m暴走して停まり、建物内に停車した車から、今度は包丁を持った上部が降り立った。

手にした包丁を降りまわしながら改札口を突破し、電車のホームへ向かう。途中の階段で一人を刺し、そのままホームへ駆け上がると、そこで7人に襲いかかった。
車で跳ねられた7人のうち2人が死亡。包丁で襲われた8人のうち3人が死亡し、死者5人、重軽傷者10人という大惨事となった。

上部はその場で現行犯逮捕され、車の突入から逮捕までわずか10分余りの出来事だった。


▼犯行に至る経緯

上部は、昭和39年(1964年)山口県豊浦(とようら)町に生まれ、高校卒業後、一浪して九州大学 工学部 建築学科に入学した。しかし学生時代にいつしか対人恐怖症となってしまい、「人が怖い」「人と会いたくない」と、家の中に引きこもることが多くなってしまった。

そのため、卒業してからも一年以上就職せず無職だった。両親が病院に入院させ、治療を行った結果、何とか働くことが出来るようになったものの、建設会社、コンピュータソフトの会社と就職したが結局長続きしなかった。
上部(うわべ)康明
その後、所長と二人だけの小さな設計事務所に就職し、関わる人が少なかったことが幸いしたのか、わりと順調に仕事を続けることが出来た。


そして平成5年に一級建築士の試験に合格し、独立する。父親の援助を受けて福岡市内に設計事務所を開業し、同じころ結婚相談所で出会った女性と結婚する。妻も二級建築士の資格を取って上部の仕事を助けた。

だが元々が対人恐怖症のため、人付き合いもうまくいかず、開業して四年後には事実上の廃業状態となり、平成10年には事務所も閉鎖し、失業してしまう。そこからは妻の収入と実家の仕送りで生活する日々が続く。

このころから上部は「誰も知り合いがいない外国に移住したい。」と、考えるようになった。移住先は新婚旅行で行ったニュージーランドが頭に浮かんだ。


平成11年2月、次の仕事として、上部は実家に戻って軽トラックを購入し、運送業を始めた。人とあまり喋らなくていいから、というのがその理由だった。

しかしその4ヶ月後の平成11年6月、それまで単身でニュージーランドへ渡っていた妻が帰って来て、いきなり離婚話を切り出した。
妻と別れ、失意のどん底の中、ニュージーランドへ移住したいという思いは捨てられず、上部は運送業に励んだ。

しかし悪いことはまだ続く。9月24日、山口県に上陸した台風18号で上部のトラックが水没し、廃車となってしまったのだ。これで仕事も出来なくなった。父親に頭を下げて、トラックのローンを代わりに払ってくれるように頼み、そして移住のための資金として30万円貸してくれるように頼み込んだ。

しかし父親は上部の頼みを断り「家の車を貸してやるから、それで運送業を続けてローンを返せ。」と一喝(いっかつ)した。

「どうして俺ばかりがこんな目に・・。」「何をやってもうまく行かない」「どうせまた失敗するんだ」「運送業なんて中卒の奴らがやる仕事なのに、なんで一流大卒の俺に出来ないんだ!」

と、絶望した考えが上部の頭を駆け巡る。


「いっそ自殺しようか・・いや、どうせ死ぬなら社会にダメージを与えてからだ。」
ここに至って、上部は無差別殺人の方向へ考えが傾いていく。

このわずか三週間前、東京の池袋で造田博が包丁とハンマーを持って通行人を次々と襲い、2人の死亡者と6人の重軽傷者を出す通り魔事件を起こしており、そのことも頭をよぎった。

造田のように刃物だけだと大量殺人は出来ない、どうすれば人を大量に殺せるのか・・上部は犯行計画を考えた。


▼予定を繰り上げて実行

決行予定日は10月3日の日曜日と決めた。日曜日の方が人出が多いと考えたからだ。そして場所は下関駅とした。
9月28日、包丁を買い、下関駅の下見を行った。

そして翌日の29日の朝、父親から電話が入り、「トラックの廃車手続きは自分でするように」言われ、このことに腹を立てた上部は、計画を繰り上げて、この日のうちに実行することを決意する。

レンタカーを借りた後、人が集まる夕方まで待つ。犯行直前に、自分も死ねるようにと、睡眠薬120錠を一気に飲み、午後4時20分ごろに計画を実行、車で駅に突っ込み、大惨事を巻き起こす。


この事件は、被害者によって(殺害方法によって)賠償金にかなりの開きがあり、問題を巻き起こすこととなった。

車に跳ねられて死亡した者には、自動車保険が適用されて3000万円が支払われたが、包丁で殺された者には犯罪被害者給付金扱いとなり、上限1079万円の支払いが限度で、しかもその支給についても条件が厳しいため、300万円ほどしか支給されなかった遺族もいる。
同じ人間に殺されたにも関わらず、遺族に対する保障に激しく開きが出来たのだ。

上部は2002年9月、山口地裁で死刑判決が下り、2005年6月、広島高裁でも控訴を棄却され死刑判決となる。そして2008年7月11日、最高裁で「落ち度のない通行人らを無差別に襲った犯行は極めて悪質で酌量の余地はない。」とし、1、2審判決を支持して上部被告の上告を棄却し、死刑が確定した。平成24年(2012年)3月29日、上部康明被告の死刑が広島拘置所で執行された。



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