1889年5月。パリでは万国博覧会が開催されていた。ある日、海外を旅していた一人の女性とその娘が、インドに立ち寄った後、博覧会を見にパリを訪れた。二人はホテルに到着すると宿帳に名前を記入し、342号室に案内された。342号室は結構豪華な部屋であった。
だがこの部屋でしばらくくつろいでいると、突然母親の方が気分が悪くなったと言い出してベッドにふせってしまった。しばらくするとかなり苦しみ出したので、すぐに娘はフロントに連絡し、医者を呼んでもらった。医者が到着し、母親の診察を始める。
「あなた方はどこからいらしたのですか?」と医者に聞かれて「インドからです。」と答えると、何やら医者とホテルの支配人は、向こうの方でひそひそ話を始めた。
不安になった娘は「あの・・母は大丈夫なんでしょうか・・?」と聞いてみた。すると医者が言うには、
「実は・・私は今、この病気に有効な薬を持ち合わせていません。私の家に帰ればその薬があるのですが・・しかしお母様は予断を許さない状況なので、今、私がこの場を離れるわけにはいかないのです。誰か、その薬を取りに行ってくれればいいのですが・・。」ということだった。
すると娘はすぐに「分かりました。私がお医者様の家に薬を取りに行きましょう。」と答え、奥さん宛に手紙を書いてもらって医者の乗って来た馬車に乗り込み、早々に出発した。
だが馬車の御者は緊迫感がないのか、随分ゆっくりと走る。娘は、いてもたってもいられない。イライラしながらもようやく医者の自宅に着いた。そして奥さんにこれまでのことを話し、手紙を渡したが、ここでもまた随分と待たされた。そして帰りの馬車もやっぱり遅い。結局往復に4時間もかかってしまった。
ホテルに走り込み、支配人に「どうでしょうか!? 母の具合は!」と尋ねると、支配人は驚いた顔をして「お母様とは・・? 一体何のことでしょう?」と反対に聞き返してきた。
「さっきまで医者に見てもらっていた私の母のことです! お医者さまに言われて薬を取りに行ってきたのです! あなたもその場にいたじゃないですか!」と娘が言うと、
「いえ・・あなた様は最初から一人で来られましたよ。何か勘違いをされているのではありませんか?」と言われた。
「何を言ってるんですか! 私は母と二人でここに到着し、ちゃんと宿帳にも二人で名前を書きました! では、宿帳を見せて下さい!」
と言って宿帳を見せてもらったが、そこには母の名前はなく、娘一人の名前が書いてあるだけだった。「そんなバカな・・!」娘は何がなんだか分からなくなってきた。
「では、342号室を見せて下さい! 母が寝ているはずです!」
あまりにも凄い剣幕で言うので、支配人は半ばうんざりしながら342号室に案内した。そしてドアを開けてみると・・その部屋はさっきまで娘たちがいた部屋とは全く違う、完全に別の部屋であった。
ベッドもテーブルも装飾品も、何もかも全く違う。だが確かに部屋の位置はここで、ドアの番号も間違いない。
「これでも納得いきませんか?」と言われたので、今度はあの時の医者を呼んで欲しいと訴えた。医者に「先ほど母を診察して下さったお医者さまですよね?」と尋ねると、「いえ・・? あなたのことは存じませんが・・。」と言う。
ここまでくると、一体何がどうなっているのか全く分からない。もう、娘は目に涙をいっぱい溜めて呆然と立ちつくしていた。
完全に理解不能になった娘は、パリのイギリス大使館に助けを求めた。警察に行って母の失踪届けも出した。大使館でも警察でも真剣に訴えたが、誰も信用してくれず、結局娘は狂人扱いされてしまい、イギリスに強制送還させられ、そのまま精神病院に入れられることとなった。
この話は母親が実は霊魂だったというミステリーではない。後に事実が判明することになる。そしてこの事件の真相とは・・。
娘はもちろん気が狂っていたのではなく、あの時確かに母親もいた。そして医者にも診察してもらった。だが、医者の診察によると、その娘の母親は伝染病であるペストにかかっていたのである。
ペストは恐ろしい伝染病で、死亡率が60%とも90%とも言われている。14世紀の後半にヨーロッパ全域に大流行した時には、当時の人口1億人の、実に4分の1近くが死亡したほどである。
この母親はインドでペストに感染してしまったらしい。事実を知ったホテルの支配人は青ざめた。博覧会のすぐ近くでこのような伝性病患者が出たと知れたら、大騒ぎにになり、市内全ての飲食店が営業停止になってしまう。彼らにとっては死活問題だ。
そこで支配人は医者と共謀してニセの手紙を書き、とりあえず娘をこの場から去らせることにした。御者にもわざとゆっくり走るように命じて送り出した。
娘のいない間に母親は息を引き取り、すぐさま遺体は外に運び出された。
支配人と医者は、市当局に駆けつけ、ことの次第を報告すると、ペストのことは絶対に他に漏らさないように、と厳命された。ホテルの従業員にももちろん、固く口止めした。
そしてすぐさま工務店が呼ばれ、娘のいない間に大急ぎで室内改装をして、あたかも娘が気が狂ったかのように仕立て上げたのだ。娘にとっては、母親が消えてしまったばかりか、狂人として精神病院に隔離されてしまうとは、あまりにも気の毒な話である。