Top Page 心霊現象の小部屋 No.74 No.72
36歳の会社員である朝本さんは、このたび会社の転勤に合わせて引越しをすることになった。朝本さんが新しい住居として選んだのは全部で四世帯しか入れない小さなアパートである。一階に二世帯、二階にも二世帯で、合計四世帯である。 朝本さんの部屋は一階の右側の部屋で、間取りは1DKである。決して広いとは言えないが、一人暮らしなのでこのくらいでもいいかと思い、このアパートに決めたのだ。 引っ越して来て一週間ほどが経ち、ようやく荷物も片付いた。ある晩、寝ようと思って明かりを消して布団に入っていると、どこからともなく咳(せき)が聞こえてくる。 「うっ・・ごほっごほっ・・」 咳は弱々しいが、呼吸をするのもつらそうで、聞いていてかわいそうになるくらいだった。聞こえてくる方向は遠くのような近くのような感じで分からないが、やはり隣りの部屋からだろう。 時々、咳に混じってピィーッという機械音かアラームのような音も聞こえてくる。 「隣りの人、風邪引いたのか。苦しそう。」 その時はそれくらいにしか思わなかった。咳は十数分間続いていたが、やがて聞こえなくなった。多分咳止めでも飲んで、薬が聞き始めて寝たんだろう。 そして次の日もまた次の日も咳は聞こえてきた。ところどころで「ピィーッ」という音も相変わらず聞こえてくる。 「毎日、苦しそうだな。」 そう思いながら朝本さんはいつも眠りについた。 翌日、会社に出勤する時、玄関を出たとたん、隣りの住人にばったりと出会った。朝本さんの隣りの部屋に住んでいるのは、同じように独身で一人暮らしをしている男性でAさんという。 アパートの住人との付き合いはほとんどないが、Aさんとだけは、会社から帰ってくる時間がだいたい同じくらいで、朝本さんが帰宅してきた時、偶然アパートの前で出会って立ち話をしたことが二回ほどある。全く知らない仲ではない。 朝本さんが「おはようございます。」と挨拶をすると、Aさんも 「あ、おはようございます。」と挨拶を返し、 「朝本さん、昨日も大分咳こんでいたけど、大丈夫?」と、いきなり聞いてきた。 「えっ?咳をしてたのはAさんの方じゃないですか。Aさんこそ大丈夫ですか?」 「いや、僕は全然元気ですよ。毎日朝本さんの部屋から咳が聞こえてきて、大分苦しそうなので気になってたんだ。あまり苦しいようだったら病院に行った方がいいよ。」 と言う。 「はあ?」 話が逆だ。自分はまったく咳なんかしていない。咳をしてたのはAさんの方じゃないか? 言い返したかったが、同じアパートの住人と人間関係が悪くなるのも嫌なので、「あぁ・・どうも。」と曖昧(あいまい)な返事をしてその場は別れた。 そしてその日の夜。朝本さんが部屋でくつろいでいると、またいつもの咳が聞こえてきた。「ごほっ、ごほっ・・」 今朝、Aさんに言われた言葉が頭をよぎる。咳の出所はどこだろう・・。じっと耳をすませても、隣の部屋からのようでもあり、すぐ近くからのようでもあり、あるいは上からのようでもある。そして時々聞こえてくるピイーッという音。 その時、朝本さんの部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けてみると、隣のAさんだった。 「こんばんは。Aですけど。おせっかいかも知れないけど、朝本さんがあんまり苦しそうなんで咳止めの薬、持って来ましたよ。前回、僕が風邪を引いた時飲んでたものの残り物で悪いんだけど。」 まだ言ってる。咳をしてたのは自分じゃないと言ったのに。 この際だから、はっきり証明しようと思い、最初にAさんの気遣いに対してはお礼を言い、 「Aさん、ちょっと僕の部屋に入ってみてもらえませんか。咳の出所が僕じゃないことが分かると思うんですが。」 そう言って朝本さんはAさんを部屋に招き入れた。二人で部屋の中にいると、確かにどこからともなく咳がまた聞こえてくる。 「本当だ。朝本さんじゃなかったんだ!てっきり隣から聞こえてきてるものだと思ってたのに・・。じゃ、次は僕の部屋にも来てみてよ。」 今度はAさんが自分の部屋に誘った。二人でAさんの部屋に入ってみると、この部屋でも咳は聞こえてきた。聞こえてくる方向は隣の部屋・・つまり自分の部屋から聞こえてきているのが、Aさんの部屋にいるとよく分かった。 背筋がぞくっとした。確かにこの部屋いると、Aさんのこれまでの発言も納得がいく。 「この際だからハッキリさせよう。上の階の住人にも聞いてみないか?」 Aさんが言うので朝本さんもそれに賛成し、二階に上がってみた。二階の二部屋は女子大生が一人と、独身男性が一人住んでいる。 女子大生の部屋のチャイムを押すと、インターホンで返事があり、自分たちが一階の住人だと言っても「あ・・今日はもう夜中ですから・・。」と、会話を終わらせようとしたが、 「この部屋で咳が聞こえてきませんか?」 と尋ねると「えっ!?」と、驚きの声をあげ、やはり心当たりがあるようで、話に応じてくれることになった。 二人はこれまでの経緯を説明した。 「私はてっきり下から聞こえてくるのかと思ってましたが・・。」 この人も咳をしている人ではなかった。最後の一部屋の住人を尋ねてみたが、この人も答えは同じだった。自分の咳ではない、しかしどこからか咳が聞こえてくるという。 結局、誰の咳でもなかった。 「不動産屋に聞いてみよう。ひょっとしてここには何かあるのかも知れない。」朝本さんは嫌な予感はしたが、翌日不動産屋に電話をかけてみた。 「いいがかりをつけないで下さい。」などと言われるかと思っていたが、不動産屋は意外にも真面目な態度で「実際に会ってお話を聞きたいと思います。」という返事を返してきた。 朝本さんが、指定された喫茶店に行ってみると、担当の人が待っており、他の人には言わないように、という約束で話を聞かせてもらった。 あの場所は、今のアパートが建つ前は、古い木造の一軒屋が建っており、年老いた母親と息子夫婦が住んでいたらしい。母親は肺炎にかかっており、しょっちゅう咳で苦しんでいた。介護は主に息子の奥さん(嫁)である。 咳がひどくなると枕元にあるブザーを鳴らして嫁を呼び、薬を飲ませてもらっていた。やがて母親は死亡したが、その後しばらく経って介護疲れからか、精神的な病にかかっていた嫁が家に放火した。 全焼まではしなかったが、この一件で警察の調べが入った。放火容疑の他に、母親の死に関してである。 介護がうっとうしくなった嫁が、母親のブザーの電池がなくなりかけて音が小さくなっていたのをいいことに、そのままにしておいて、意図的に母親の助けを無視して死に至らしめたのではないか、ということである。 結局証拠不十分ということで罪には問われなかったが、その後入院した嫁はたびたび「またお母さんが助けを求めてる・・。」とつぶやいていたという。 推測ではあるが、その母親が寝ていた部屋が、ちょうど朝本さんの部屋と同じ場所だったのではないか。咳に混じって聞こえていた機械音は、助けを呼ぶブザーの音だったのではないだろうか。 不動産屋には口止めされたが、朝本さんは、隣の部屋の男性にだけはこのことを伝え、さすがに気味が悪くなりやがて引っ越して行った。 |