Top Page  心霊現象の小部屋  No.93  No.91


No.92 将来を暗示する写真

▼まるでワシの葬式じゃないか

昭和50年の正月、大阪・守口市。酒井良子(仮名)さんの家には、正月ということもあり、親戚の家族が遊びに来ていた。

良子さんは、その親戚の子である、小学生の光男君に、
「写真撮ってあげる。」と言って、光男君に家の前に立ってもらって1枚ほど写真を撮った。

良子さんはその他色々と正月風景を撮り、フイルムを使い切ってから写真店に現像に出した。後日出来た写真は良子さんが取りに行き、夕食の後「この間の写真出来たわよ。」と言って、家族全員で写真を見てみた。

良子さんは父、母、おじいさんと自分の4人家族で、テーブルに集まった家族たちは順々に写真を見始めた。


「なかなか良く撮れてるじゃない。」
などと言いながら写真を見ていると、お父さんが

「これは何だ?」と、1枚の写真を手に取って不審な顔をした。それは良子さんが、光男君を撮った写真だった。

光男君の腰のあたりに光の帯のようなものが写っている。おじいさんがお父さんから写真を受け取って手に持ち、

「額縁(がくぶち)のようなものが写ってるな。これは横に見るんじゃないか?」

と、写真を横にすると

「何だ、これは!ワシじゃないか!」と叫んだ。

その額縁には黒いリボンがかけてあり、まるで葬式の時に使う額の写真そのものだった。さらにぼんやりと、祭壇の灯(あか)りのようなものも写っている。

「これじゃ、まるでワシの葬式じゃないかっ、縁起でもない!」

おじいさんは途端に怒り出した。写真を改めてじっくり見たお父さんも、

「良子、お前かっ、こんなタチの悪いいたずらをしたのは!」と怒り始めた。

「違うわ!私そんなことしてない!」と、良子さんは必死になって弁明したが、

「生きてる人間の葬式の写真を合成するとは、ふざけるにもほどがあるぞ!」

「ホントになにもしてないってば!」
「じゃ、何か、幽霊が写ってるとでも言うのか!とぼけるのもいい加減にしろ!」

と、まるで犯人扱いで、お父さんは良子さんの意見などは全くきかない。結局家族全員から散々に怒られてしまった。


それから2週間が経ち、みんな写真の件も忘れかけていた頃、突然おじいさんの持病が悪化し、入院することとなってしまった。しかし、おじいさんの病状は想像以上に悪く、入院はしたものの、その数日後にいきなり亡くなってしまった。ほとんど突然死のようなものだった。

悲しみの中、葬儀の準備が整ったが、自宅に組まれた祭壇を見て家族全員がはっと気づいた。この光景は、あの時光男君を撮った写真に写っていた光景だ。額縁の模様も、灯りの位置もほとんど同じだったのだ。

あの時はまさかおじいさんが亡くなるとは誰も考えていなかったが、写真によって死を予告されていたとしか考えられなかった。


▼顔の写らない兵士

これは、東京都荒川区に住む板場敏雄さんが、日中戦争(昭和12年 - 昭和20年)の時に体験した写真にまつわる話として、昭和34年発売の雑誌に掲載されたものである。


昭和15年の日中戦争の最中(さなか)、この当時板場さんは、中国の山東省にいた。板場さんは「工兵隊」の分隊長として中国に派遣されており、ここで鉄道工事の仕事を行っていた。

この年の7月、工事の方が一区切りついたので、みんなで記念写真をとろうということになって、中国人の写真屋を呼び、全員並んで写真を撮った。

ところが出来あがった写真を見てみると、列の中心近くにいた手塚という上等兵だけが写っていない。手塚の帽子と服だけが宙に浮いたように写っており、本来なら顔があるべき場所は透(す)けて、後ろに立っている兵士のボタンが写っていた。

「あいつは影が薄い奴だから、写真にも写らねえ。」などと言う者もいたが、実際手塚という男はおとなしく、そのわりに精神的に不安定なところがあった。幹部候補試験も白紙で出したという男であり、実際兵士としてやっていけるのかどうかと誰もが思っているような人物だった。

自殺の恐(おそ)れもあるということで、板場分隊長は特に手塚に注意を払っていたが、そうした時にこういった写真が出来上がり、何か手塚のこの先を暗示しているかのような感覚にとらわれた。


まだ写真を見た者は3人しかいなかったので、板場分隊長は「このことは誰にも言うな。」と部下に口止めして、手塚を含めた他の者には

「撮影が失敗したので撮り直す。」と伝えた。

後日、また全員で撮影が行われたが、またもや手塚の顔は写らなかった。今度も輪郭部分はうっすらとあるものの、顔が半透明になって後ろの兵士が写っていた。

これはどうみてもおかしいということで、板場分隊長は個別に手塚を呼び出し、今度は自分と2人で並んだ写真を撮らせた。

今度の撮影は2台のカメラを用意して、1台ずつ別々の部下に持たせて行われた。
だが、2枚とも同じ結果となった。またもや手塚の顔は半透明になり、そこには後ろの風景が写っていた。

これで合計4枚の写真に手塚は写っていなかったことになる。手塚本人には何も伝えてはいなかったものの、このあたりまでくると手塚も自分の写真に何か異変があることに気づいたようだった。


これが原因の一端となったのか、手塚の精神状態は若干おかしくなり、いつもふさぎ込むようになった。ついには休暇届けを出して数日間の休暇を取ることとなった。

手塚が休暇に入ってからしばらくして板場分隊長が様子を見に手塚の部屋を訪れた。手塚はその時、銃の掃除をしていた。実弾が抜いてあることは分かっていたので、板場分隊長は特に危険を感じることはなかった。

「どうだ、具合は?」と声をかけると、
「はい、ずいぶんと良くなったようです。」と、少し声も明るくなったようだ。
「そうか、大事にしろよ。」

と、板場分隊長が手塚の部屋を出てドアを閉めた瞬間、部屋の中から銃声が聞こえた。びっくりしてすぐにドアを開けると、そこには自分のノドに銃をつきつけて引き金を引いた手塚の遺体があった。

手塚がどのようにして軍部からここに実弾を持ち込んだのかは分からないが、私物の中から親兄弟に宛てた遺書が発見されたことから、銃の暴発ではなく、覚悟の上の自殺だと分かった。

遺書には「先立つ不幸をお許し下さい。」とだけ書かれ、自殺の理由には触れられてはいなかった。

自殺とはいえ、あれら4枚の写真はいずれ間近に来るであろう手塚の死を予告したものだったのかも知れない。

板場分隊長は他の幹部の者とも協議した結果、

「手塚上等兵は、鉄道工事中に突然起こった戦闘により、華々しい戦死を遂げた。」ということにし、手塚の身内にもそう連絡するように指示した。


その後、板場分隊長の隊は別の地区に移動することになり、その際に身体の弱い者や病気の者は内地の病院に送られることとなった。

板場分隊長はその見送りにチンタオまで出向いて来た。病院船に乗る兵士たちの名簿を見ていた時、その中に手塚の名前を発見した。下の名もあの手塚と同じである。

「手塚・・?あいつは死んだはずだ。なぜこの名簿に載ってるんだ?」
本当にあの手塚かどうか確かめようと思ったが、それをする間もなく、船は出発してしまった。


その後、板場分隊長の隊は次の担当区域である南の地区に到着した。板場分隊長は、そこで、かつて同じ隊にいた木内伍長(ごちょう)にばったりと出会った。久しぶりの再会に昔話に花が咲いた。だが、その木内伍長が妙なことを言い出した。

「おう、以前お前の隊にいた手塚上等兵な、あいつもここに来てるぞ。」と言う。

「手塚?あいつは死んだぞ。葬式もちゃんと出してある。見間違いじゃないのか?」
と言うと、
「いや、あの手塚に間違いない。」と木内伍長も言い張るので、板場分隊長は、その手塚がいるという小隊を聞いてそこまで出向いてみた。

その小隊で聞くと手塚は今、便所に入っているという。「やはり本当にいるのか?」と不思議な感覚に捕(とら)われながら、板場分隊長は手塚の帰りを待った。だが30分待っても手塚は帰って来ない。

しびれを切らしてその小隊の、手塚の友人だという男に便所まで案内してもらった。

「手塚、面会人だぞ!」

その友人が便所に向かって叫ぶ。しかし反応はない。便所の戸を全部開けてみたが、そこには誰もいなかった。

「自分は確かにここで手塚とすれ違って、あいつは便所に入っていったんです。」と友人は言ったが、手塚は忽然(こつぜん)と消えてしまった。

名簿といい、この小隊のことといい、死んだ手塚が現れている。ひょっとして同姓同名の人物かも知れないと思い、板場分隊長は彼らが見たという手塚の素性や特徴などを詳しく調べてみた。

その結果、自殺した手塚に全て一致することが判明した。そして便所で消えて以降、手塚の姿を見た者は誰もいない。

遺書には書かれていなかったが、手塚はやはりこの世でやり残したことがあって再び出てきたのだろうか。板場分隊長は、この一連の出来事を終戦後、戦時中の不思議な体験として雑誌に発表した。