Top Page 心霊現象の小部屋 No.94 No.92
今ではあまりないことであるが、昭和の時代には、幽霊騒ぎが時々新聞で報道されることがあった。このファイルは、誰かの心霊体験の話ではなく、マスコミによって幽霊関係の報道があったために起こった騒ぎなどの話である。
昭和50年7月、茨城県守谷町(当時)の公民館の広場の一角に不動明王を彫った石碑があった。(現在でもあるかどうかは未確認)。 この公民館でソロバンを習っていた小学5年生の女の子が家に帰ってきた時、 「公民館の石碑におじいちゃんの顔があった。」 と両親に言い出した。 この子のおじいちゃんは3年ほど前に亡くなっている。まさかおじいちゃんの霊が石碑に浮き出てきたのだろうか?と思い、我が子の言うことなので、両親も含めて家族でその石碑を見に行った。 「確かにおじいちゃんの顔だ。」「いや、似てないよ。女の子の顔よ。」 などと言っていると、近くにいた人たちが寄って来て 「猫に見える」「子供の顔だ」「3人いる」「坂上二郎に似ている」「女の子の下に猫がいる」「坊さんだ」 などと、人によっててんでバラバラなことを言う。このようなことをやっているうちに見物人が次々と増えていった。 「自分には○○に見える」と、見物人たちも様々なことを言い出した。 瞬(またた)く間に噂が広がり、この石碑の顔は町では有名な話となった。 どこで聞きつけたのか、「石碑に顔が浮き出た」ということで、7月10日から新聞やテレビが取材に訪れた。7月30日には「東京中日スポーツ」に掲載され、その他の雑誌にも掲載され、NHKでも放送された。 石碑に浮き出た顔は人によって見え方が違う。しかし誰でも何らかのものは見える。では、自分には一体何に見えるのだろう? こういった心理が人々の興味をかきたて、新聞やテレビを見た人たちが東京からもぞくぞくと見物に訪れた。 ピークの時には公民館の広場には1万人もの人々が詰めかけた。市ではその対応に追われ、臨時駐車場を作り、警察と役場の職員が交通整理をしなければならなかった。 だが整理をしても、地元の人と見物客の間で駐車場をめぐるトラブルが多発し、あちこちでとっくみ合いのケンカも起こった。地方から車でやって来た若者が人身事故も起こした。 幽霊を見に来た暴走族と暴力団が衝突した。石碑の写真を1枚100円で販売する者もいた。焼きそばとかき氷の屋台も出て、本来なら心霊スポットとなるべき不気味な場所は、お祭り騒ぎの大混乱となった。 最終的には誰かがこの石碑に塗装して顔を消してしまい、騒ぎは収まった。 ▼人間の姿をしたシミ 昭和60年5月、神奈川県川崎市の「第三京浜」の高架下に人間の姿をしたシミがあると新聞に掲載された。問題のシミは、高架下の橋桁(はしげた)に現れているという。 元々、このあたりには幽霊が出るという噂があり、その噂の原因となっているのは、昭和53年に、この近くに住んでいた女の子がここで交通事故に遭(あ)って死亡したという事件が基(もと)になっている。 シミが浮き出たのは事故の翌年からと言わているが、それからは人々の噂になったり、若者が面白がってスプレーをシミに吹きかけたりなどもした。 これ以降「スプレーをかけてもシミが消えない。」「スプレーをかけた若者が交通事故に遭(あ)ってひどい死に方をした。」 などという噂も加わった。 シミのことは更に有名になり、昭和60年に新聞で報道されたのをきっかけに多くの人が見物に訪れるようになった。確かに女の子の姿に見えると評判になった。 ただこのシミは、高さが3メートルもあるような巨大なものだったので 「ジャイアント馬場と同じくらいの女の子がここで死んだ。」という話も出たり、見ようによっては親子にも見えるということで、「事故死した親子の霊だ。」という話も飛びかった。 噂があまり大きくなっても困るということで、最後は日本道路公団がこのシミを消して騒動は終了した。 ▼馬の文字 昭和60年、茨城県東海村に建てられている石碑に女の顔が浮き出るという噂が立ち、これが昭和60年6月18日の新聞で紹介された。新聞に載ったことによって騒ぎが更に拡大し、連日見物客が続々と訪れた。 この石碑は大正5年に建てられたもので、農耕馬を祀(まつ)っていることから「馬力神」という文字が草書体で刻まれている。その中の「馬」という文字が、車のヘッドライトなどで照らされると女の顔のように見えるというものだった。 ちょうどこの騒ぎが起こっている最中、筑波研究 学園都市では、「科学万博」(国際 科学技術 博覧会)が開催されており、万博を見学した団体バスが、帰りのコースの中にここを組み入れて見物するほどであった。 訪れる見物客が増え始めるとすぐに、たこ焼き屋やラーメン屋などの屋台が並び、警察が連日警備に当たった。土曜日の夜などは千人もの人でごったがえした。 人が集まると迷惑行為などをする人間が必ず出てくる。村の役場では色々と協議した結果、石碑の横に看板を立てた。 看板にはこう書かれていた。
▼鑑定結果と殺人 昭和62年4月16日、静岡県御殿場市の鮎沢川の河原で男性会社員(37)の他殺死体が発見された。男性は首を絞めて殺害されており、別の場所で殺されてからここへ捨てられていたようだった。 この男性の妻であるM子に事情を聞くと、1ヶ月くらい前から家に不審な電話が度々(たびたび)かかってくるようになり、この日も誰かに電話で呼び出されて出かけた後に殺害されたのではないかということだった。 しかしM子の発言には色々と食い違う点があり、警察でM子を追求したところ、夫を殺したことを自供した。不審な電話も呼び出しの電話も嘘の発言であった。 普段から夫婦仲が悪かったらしく、この日も口論となり、M子は、寝ている夫の首を絞めて殺害し、死体を一人で50メートル離れた河原に運んで捨てたのだった。 そして偶然にも死体が発見されたこの日、4月16日に発売となった女性セブンに、M子が投稿していた心霊写真が掲載されていた。M子は殺人を犯す前に、このような投稿を行っていたのであるが、もちろんこの投稿と殺人とは何ら関わりはない。 写真は、自分の夫が息子を撮ったもので、背景の樹木の中に人の顔が見えるというものだった。見ようによってはそう見えるという、よくありがちな心霊写真であったが、M子はこれを気にして雑誌社に投稿していたのだ。 そしてこの写真には心霊研究家の鑑定結果が掲載されていた。 「被写体もしくはこれを撮影した人に霊障の恐れがある。」というものだった。 撮影した人はM子の夫である。その夫はM子によって殺された。鑑定結果は恐ろしいほどズバリと当たっていたことになる。 この鑑定結果と殺人の件は、死体発見の4日後である4月20日に報道された。 M子が殺人を行ったのは雑誌が発売になる微妙に直前であって、M子はこの雑誌を読んではいない。M子が鑑定結果を読んで影響を受けたために殺人を行ったわけではないし、これらは全くの偶然である。 結果的に鑑定が当たったことになるが、実際にこのような当たり方をしては、記事を掲載した編集部の方も困ったことになった。 M子の投稿と殺人には何ら関わりがないという記事がその後掲載され、編集部の方でもその点を繰り返し強調することとなった。 ▼その他の記事 これより下は本文とは関係がないが、新聞などで取り上げられた記事である。
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