深海を泳ぐ魚は、さんご礁を夢見る。

光射す穏やかな水面。鮮やかなさんごの狭間に、見え隠れする愛くるしい魚たち。

踊るように華やかに舞うそのひれを最大限に活かし、互いの美しさを競い合う。

囁かれる言葉は漣に、詠う旋律は水面を滑るそよ風に。

楽園のような世界に、深海の魚は憧れる。

同じ海の中で生きるのに、何故このようにも違うのか。

光が届かない、海の底。

僅かながらの海藻が漂うその足元で、仲間が土に還る。

幾多もの亡骸の上で、暗闇の中を泳ぐ。

囁かれる言葉は祈りに、詠う旋律は鎮魂歌に。

全てを飲み込む闇の中で、魚たちは地を這うように泳ぐ。

深海を泳ぐ魚は、さんご礁を夢見る。

 

僕は、深海魚だ。

彼女は、熱帯魚だ。

 

 

 

 

 

 

― Lonely Fish ―

破片 3

 

 

 

 

 

 

いつもの癖が、出てしまっているな・・・・。

そう思い、壬生は一人苦笑した。

つい暗い道を選んで歩いている。新宿という華やかな街を歩いていてもだ。

明るい場所が苦手という訳でもない。――――いや、もしかしたら苦手なのかもしれない。

昼間よりは夜を、夏よりは冬を、壬生は好んでいた。

今の仕事の所為だと考えるのは馬鹿げている。自分が決めたことなのだから。

誇らしく語るべきことではないことも解かっている。

自分は―――――人殺しなのだから。

そう自覚するようになったのは、いつの頃だろうか。

もう既に忘れてしまっていることに、壬生はまた苦笑した。

あの事件から三日後。

壬生は亜里沙のことを思い出していた。

柔らかな茶色の髪。しなやかな躯。気の強い炎のような女。

だがその瞳の奥の翳り、言いようのない哀しみ。

今まで出会ったどの女より、美しいと思った。

しかし彼女は、すでに蓬莱寺のモノなのだろう。

蓬莱寺が戻ってきた時、胸に抱きついて安心しきった顔を見て、それが解かった。

だが何故蓬莱寺は自分を見て驚いたのか・・・。

そこまでは、壬生には解からなかった。

新宿をあてもなく歩いているのは、淡い期待があったから。

もしもう一度会えるのなら、自分の気持ちを知ることが出来るのだろうか。

仲間になった今、会おうと思えば会えるのに、僕は何をやっているのだろう。

自分が確実に変化していることを、壬生は感じていた。

たった一度の出会いが、人生を大きく狂わせることがある。

それを館長ある鳴滝に会った時にも感じた。

そしてまた、それを感じる人物に会ったのだ。

それが、亜里沙だった。

急に立ち止まり、淡い期待を抱いている自分を酷く浅ましく思った。

偶然にも出会うことが出来て、声をかけるのか? 僕が?

そんなこと、出来るはずもない。

夜の新宿のネオンに照らされながら、さんご礁を泳ぐ魚のように歩く亜里沙が、深海の闇に潜みながら泳ぐ自分と、出会うはずもないのだ。

壬生は自分の馬鹿さ加減に大声で笑いたかった。

だがそれすらも出来ない自分に、大声で泣きたかった。

新宿の路地裏で壁に寄りかかり、ポケットに手を突っ込むと大きく息を吐いた。

左を見れば、そこはさんご礁だ。右を見れば、深海の闇に続く。

行くべき道は決まっている。右しかないのだ。

闇に溶け込もうとした瞬間、さんご礁から光が射した。

「あれ? 壬生?」

一度聞けば耳から離れない艶のある声は、壬生を振り向かせるのに充分だった。

そこには優雅に街を泳ぐ綺麗な魚・・・・亜里沙がいた。

「やぁ。久し振り・・・でもないか。この間会ったね」

すらすら言葉が出てくる自分に酷く驚く。

驚いた顔をしていた亜里沙は急に怒ったような顔になり、壬生に近づいてきた。

「やぁ、久し振り、じゃないわよ。もう怪我は平気なの!?」

「ああ、もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

「そう、それならいいけど・・・なんでこんなところにいるのよ」

安心したのか、笑顔を浮かべて近づいてくる。刹那、何かを思い出したのか、急に顔を曇らせた。

「もしかして、仕事・・・なの?」

亜里沙の表情に、壬生は慌てた。

「い、いや、違うよ。仕事じゃないよ」

慌てる自分が、やけに情けなかった。

拳武館最強の暗殺者と云われている壬生紅葉ともあろう者が・・・。

どうやら亜里沙はそれ以上追及しようという気はないらしい。フッと優しい笑顔を見せると、壬生の手を掴んだ。

「だったらさ、折角会ったんだから、お茶でも付き合ってよ。エルのお礼も改めてしたいし」

「ちょ、ちょっと藤咲さん」

驚いた声を意に介さず、亜里沙は表通りに壬生を引っ張り出した。

溢れ出すネオン。途切れることのない人の群れ。鳴り止まぬ騒音。

ふいに襲われる熱気に眩暈を感じ、壬生は亜里沙に連れられて歩いていた。

亜里沙に掴まれている腕が、一番熱気を放っているような気がした。

やがて一軒の喫茶店に入ると、ようやく亜里沙は壬生の手を離した。

その温もりが離れていくのを名残惜しそうに見ている自分に、壬生は再度驚いていた。

今まで感じたとことのない感情が、溢れ出してくるのを感じる。

席に座ると、亜里沙が改めて礼を告げた。

「本当にありがとうね、壬生。あんたのおかげで、エルは助かったようなものだから」

「もういいよ、藤咲さん。あれは僕の責任でもあるからね。君が礼を言う必要はないよ」

「うん・・・・でも、ありがとう」

誰かに礼を言うなんて慣れてないのかもしれないな、と壬生は思った。

その証拠に、亜里沙は少し照れてるようにも見えた。

だがその分、その礼の重みは大きい。

壬生は自分まで照れてしまいそうになったので、話題を変えることにした。

「そういえば、藤咲さんはどうしてあんな所にいたんだい?」

「ちょっと待ち合わせまでに時間があったからぶらついてたのよ」

待ち合わせ――――誰と会うのか、壬生は気になった。だが、すぐにある人物のことが浮かび上がった。

「待ち合わせって、蓬莱寺とかい?」

亜里沙の動きが急に止まった。どうやら図星だったらしい。

「どうして、わかるの?」

無表情で問う亜里沙に、照れや臆面などない。

それが余計に、壬生の頭に疑問符を浮かび上がらせる結果となった。

恋人同士なら、照れることもあるだろう。戦いの最中に置いて、仲間内に隠そうという気持ちも解かる。だが、亜里沙に浮かんだ表情は、どれにも当てはまらない。

まるで、罪を言い当てられた顔をしている。

「君はあの時・・・蓬莱寺が現われた時、凄く嬉しそうな顔をしていたからね」

疑問を億尾にも出さず、壬生は亜里沙を見つめて言った。

そっと亜里沙は視線を外し、小声で呟いた。

「そんな関係じゃないわ、あたしたちは」

――――じゃァどんな関係なんだい?

言おうとした言葉を、壬生は飲み込んだ。

それ以上踏み入るのは自分らしくない。――――だが、気になる。

何故こんなにも亜里沙のことが気になるのか、壬生はようやく気がついた。

今改めて目の前にいる亜里沙に抱く感情。初めて会った時から燻り続けていたモノが、形となって現れる。

側にいるだけで、心が揺さぶられる。

常に冷静沈着と云われ、感情を表に出すことのない自分が、たった一人の女の前でこんなにも欲望を突き動かせられる。

抱いて自分のモノにしたいという衝動に駆られる。

「もうそろそろ、あたし行かなきゃ・・・」

その言葉を合図に二人は喫茶店を出た。

結局、店ではあの後ロクな話も出来ず、ほとんど黙って醒めてしまったコーヒーを飲むだけだった。

外に出ると冷気が気持ちよく、壬生を落ち着かせ、決断させていた。

気がついた想いを殺す必要はない。

自分の手が穢れていることに躊躇いはあるが、それでも何かを、誰かを護ることはできる。

ならば、自分の気持ちすらも護りたい。

まだ出会って間もないが、偽りのない想いを綴りたい。

「藤咲さん」

歩き出そうとする亜里沙を呼び止め、壬生は真っ直ぐ亜里沙を見つめた。

「突然こんなことを言うのはどうかと思うが、でも、聞いて欲しい」

少しでも、自分が心の中に残れるように――――――。

「藤咲さんがどう思おうと構わない。僕は君が好きだよ」

亜里沙の瞳が驚愕に見開かれる。

「み、壬生・・・あたしは・・・・」

「君にも、蓬莱寺にも済まないなんて思わない。これは、僕の意思であり、正直な気持ちだよ」

誰かにこんなに執着出来るなんて思わなかった。誰かをこんなに切望するなんて思わなかった。

血で汚れ、穢れている自分が側にいて欲しいなんて望んではいけないのかもしれない。

だが、今、行かせたくない。

「壬生・・・・ごめん・・・・・あたし・・・まだ・・・・」

瞳を伏せ、何かを振り切るように、亜里沙は壬生に背を向けて走り出した。

その姿が人波に紛れ、完全に見えなくなってしまうまで壬生は立っていた。

大きく息をつき、張り詰めていたものを吐き出すと薄く笑った。

「振られちゃったかな・・・」

だが、完全にそうとは言い切れないかもしれない。

『まだ・・・・』

この言葉は何を意味しているのか。

出会ってから告白までの時間が早すぎるという訳ではなさそうだ。

時折見せる瞳の奥の翳りが、『まだ・・・』という言葉を言わしめたのであれば、悲観するのは早計と思われた。

淡い期待を抱くほど、壬生は愚かではない。

予感めいたものがあるだけだ。これでは終わらないだろうという、予感。

そして壬生は、暗闇へ戻っていく。

これが泡沫の夢とならないように願いながら、深海の優しく包み込む暗闇へ――――。

 

 

 

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