人の群れが途切れることのない新宿の街を、小走りにすり抜ける。

動悸が治まらないが、それは走っているだけでも、寒さの所為でもない。

――――――僕は君が好きだよ。

壬生の言葉が、ぐるぐると頭の中を廻る。

告白されたのは、これが初めてではない。

だが真摯な眼差しと言葉は、いとも簡単に亜里沙の心を貫いた。

己の所業を受け止めて、それでも尚前を向いて人を愛そうとする壬生。

告げた時の壬生には、翳りなどなかった。

己を偽るまいとしていた。

それが、今の亜里沙には辛かった。

昔の自分なら、――――そう、弟を失う前の自分であったなら、喜んで受け止めていただろう。

今の自分では壬生の想いを受け止める自信などない。

そのような資格など、自分にはない。

「あたしなんか好きになったって、どうしようもないってのにさ・・・」

言葉とは裏腹に泣きそうな顔で、そう呟く。

心の奥底で叫び続けている自分の声を振り切るかのように、亜里沙は走っていた。

信号に阻まれて立ち止まると、少し息を整える。

この信号を渡ってあと50mも歩けば待ち合わせ場所に着く。そこには、京一が待っているはずだ。

あの事件以降、京一と会うのは初めてだったが亜里沙にとって特別な意味がこの待ち合わせにはあった。

初めて、京一から呼び出された。

いつも亜里沙の我儘を聞いて、文句一つ言わず、京一は呼び出しを受けていた。

その京一が亜里沙を呼び出すということは、何か意味があるに違いない。

だが、亜里沙は素直に喜べなかった。

それは、電話口での京一の態度だった。

酷く冷静で、淡々とした口調で、まるで知らない人のようだった。

不安が、心をかき乱す。

それでも―――――会いたかった。

例え、これで二度ともう会えないとしても。

 

 

 

 

 

 

 

― Confusion 2 ―

破片 5

 

 

 

 

 

 

 

人間思いも寄らない状況に追い込まれると、頭が考えることを拒否する。

それが判断を鈍らせ、何もできないまま、後悔することになる。

今の亜里沙の状況は、まさにそれだった。

外で煙草を吸う京一。

知らない顔で微笑む京一。

聞いたことのない声で話す京一。

京一の言葉が、一つ一つ染み込む。

いや、そんな生易しいものではなかった。

侵食される。

毛穴から入り込まれて、躯の隅々まで行き渡ると、今度は心を侵食しようとする。

そこで、亜里沙は思考を遮断した。それしか手立てはなかった。

そうしなければ、泣いてしまいそうだった。

心を閉じたら、笑みが零れた。

演技している自分がいた。

「謝んないでよ。あんたは何一つ、悪くないんだから」

そう、悪くない。

悪いのは、自分。

恋人同士だって、別れる時がある。

―――――――そんな関係を拒否したのは、あたし。

―――――――受け入れられなかったのは、あたし。

 

悲しむ必要はない。惜しむ必要もない。

だって解かっていたことだから。仕方のないことだから。

そう――――――愛さなくてよかった。

 

それからどうやって別れたのか、いつの間にか亜里沙は地元まで帰ってきていた。

白髭公園を歩きながら、ぼんやりと京一とのやりとりを思い出そうとしていた。

最後に京一がどんな顔をしていたのか、自分がどんな顔をしていたのか。

どんなに考えても、思い出せない自分がいた。

ただ一言、覚えていた。

―――――お前には幸せになって欲しいんだ。

「あは、あはははは、あーははははははははッ!」

急に可笑しくなり、笑い出した。笑い出すと今度は止められなかった。

笑いながらベンチに座り、それでも腹を抱えて転げ落ちんばかりに笑った。

やがて笑い疲れ、息を吐くと、泣きそうになっている自分を必死で抑えた。

泣いたら、何かを認めなくてはいけなくなってしまいそうで、怖かった。

認めてしまったら、傷つくような気がした。

だから、泣きたくない。

亜里沙はしばらくベンチに座ったまま、ぼんやりと真冬の空を見上げていた。

唐突に、壬生のことを思い出した。

あの孤高の暗殺者は、こんなあたしにどんな声をかけるのだろう。

今のあたしを見て、それでもあたしを好きだというのだろうか。

「狡いよね、あたしって」

声に出して、自分を嘲笑う。

壬生に会いたいと、心が叫んでいる。

そう思った途端愕然とした。

京一という存在が無くなってしまった今、壬生を当てはめようとしていたのか。

結局、誰かが側にいなければ、何もできないのか。

躯を抱えるようにして、寒さとは違う震えを抑える。

刹那、携帯の着信音が鳴り響いた。

出るのを躊躇ったが、ディスプレイを見ると、高見沢舞子からだった。

夜の静寂の中で、音が大きく響き渡るのを遮るように、亜里沙は電話にでた。

「もしもし」

『もしも〜し。亜里沙ちゃんですかァ〜? 舞子でェ〜す』

普段と変わらない力が抜けてしまうような舞子の喋り方は、何故か亜里沙を安心させた。

「解かるわよ、その喋り方で。どうしたの?」

苦笑交じりに言うと、『ぶゥ〜』という返事が返ってきた。思わず笑みが零れる。

『亜里沙ちゃん、なんかあったァ〜?』

笑顔が固まる。

「な、なによ突然。別になんにもないわよ」

『う〜ん、電話にでた時ィ〜元気なかったからァ〜』

どうして自分の周りにはこんなに敏感な人間が多いのだろう。

だが、それで自分が救われているのも事実なのだが。

「大丈夫。全部終わったら、話してあげるわよ」

『ほんとォ〜? 指切りげんま〜んだよォ〜』

舞子は余計なことは聞かない。その代わり、聞く時は真剣に聞いてくれる。それが舞子の強さであり、優しさであった。

きっと今の電話の向こうで慈愛の笑みを湛えていることだろう。

今の自分を知ったら、きっと泣くに違いない。―――――泣かない自分の代わりとでもいうように。

泣かせたくはなかった。

用件は単純なもので、『明日ァ〜あ〜そぼォ〜』だった。

電話を切ると、再び静寂が訪れる。

―――――お前には幸せになって欲しいんだ。

京一の言葉が、思い出される。

舞子も、もしかしたら壬生もそう思ってくれているのかもしれない。

壊れてしまうのが怖くて、大切なものを作れない自分。

だが気がつけば、大切なものなど周りにありすぎる。

まずは戦うしかない。終わってからもう一度、自分と向き合うのだ。

全てはそこから始まる。

そう考えたら、幾分楽になった。

冷え切った躯を丸めることなく、亜里沙は毅然とした姿勢で家路を歩き始めた。

ただ、想いは当分、混乱から抜け出そうにもなかった。

 

 

 

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