突然闇に落ちる事がある。
突然恋に落ちるように。
愛することが罪だというのなら、どこまででも穢れてしまおう。
愛することが罰だというのなら、どこまででも溺れてしまおう。
奥底にある純愛は、消えることを許さず、また消すことを許さず。
忘れることを・・・・・・・・許さず。
―純 愛― 破片 8
全ての事象を正し、全ての宿星が普段の輝きを取り戻した年明けから、1週間後の夜。
亜里沙の呼び出しに応じた壬生は、待合せの喫茶店に急ぎ足で向かっていた。
―――――いきなりで悪いんだけど、今柴又にいるの。会ってくれない?
その誘いを断るはずもない。
亜里沙に告白をして、京一との一件があって以来、壬生は戦いのことだけに集中した。
それは京一も亜里沙も同じだったらしく、まるで全てが何事もなかったように、戦場に身を投じた。
答えはいつでもどんなときでもイエスかノーしかない。
考えても答えのでないときは、答えられることから始めるしかない。
壬生にとって恋愛は答えのでないものであり、戦いはすぐに答えがだせるものであった。
戦うのか戦わないのか―――――――答えは、イエス。
そして戦いが終わり、答えがでていない方の問題が残った。
だがそれは、壬生一人が考えても答えのでるものではなく何度か亜里沙に連絡を試みようとはしたが、壬生は待つことにした。
京一と何があったのかは詳しく知らないが、亜里沙は完全に心を閉ざしていたように戦場では見えた。
こればかりは、誰かがこじ開ける訳にもいかない。そのことは壬生が一番良く知っている。
きっかけは必要だが、答えをだすのは結局自分なのだ。
呼び出した際の亜里沙は、少しも変わっていないように思えた。
いつもの口調で淡々とし、だが聞く者によっては限りなく甘く響く声。
期待を抱かずにはいられない、甘美な誘い。
自分でも驚く程緩む口許を抑えられない壬生は、喫茶店の自動ドアすらもどかしく、僅かな隙間をすり抜け暖房を効かせた店内に入った。
店の一番奥に、亜里沙はいた。
すぐに壬生を認め、いつものように微笑んだ。
初めて会ったときと変わらない、突き動かせられる欲望。
「済まない。待たせてしまって」
自分の想いを隠すかのように、壬生は冷静に言って亜里沙の前に座った。
「あたしの方こそ、急に呼び出したりしてごめんよ」
店にあったものであろう、少し古ぼけた雑誌を閉じながら、亜里沙は壬生を見つめた。
「話したいことが、あるんだ」
「僕に?」
「そう。あんたにしか話せないこと」
唇が艶かしく動く。
「二人っきりで話したいんだけど」
そう言うと亜里沙は立ち上がり、伝票を持ってレジへ向かった。
壬生は少し呆気にとられながらも、すぐに亜里沙に追いつき、伝票を取った。
「待たせてしまったからね。これくらい奢るよ」
「・・・・・ありがとう」
店をでると、夜の匂いを含んだ冬の冷気がすぐさま二人の身体から体温を奪っていった。どこ行くあてもなく、互いに何も言わず、暫く歩いていた。
まだ正月が明けたばかりのせいか、夜の街に人は少なかった。
「二人っきりって、どこに行くつもりなんだい?」
壬生の問いに亜里沙は少し考えて、意を決したように言った。
「ホテル」
「・・・・・・・は?」
「べ、別にどうこうしようっていうんじゃないよ。ただここよりは暖かいじゃない」
気まずそうに、亜里沙は顔を逸らした。
亜里沙が何を考えているのか、壬生には解からなかった。
暫く何も言えなかったが、亜里沙を見据えて呟いた。
「・・・・・・僕の気持ちを知っててそういうこと言うのかい?」
亜里沙は何も言わなかった。
「それとも僕をからかっているのか?」
「ち、違うッ!」
即答であった。
「からかってなんか、いないわよ。知ってるから、言ってんのよ・・・・・」
「・・・・・・・僕は、君をどうこうするかもしれない」
壬生は正直に言った。
心とは違う、雄の持つ衝動。二人っきりになどなってしまえば、理性など役に立たなくなってしまうだろう。
「どうこうしてくれてもいいわ。その前にあたしの話を聞いてくれるなら」
再び壬生を見る亜里沙の眼は、真剣だった。
自棄などではない。自分に何かの答えをだそうとしている、そのきっかけが壬生にあると信じて疑わない眼。
ならば・・・・・・・・・壬生は考える。
ならば自分も答えを出さなければならない。
聞くか聞かないか―――――――――答えは・・・・・イエス。
「行こう」
亜里沙の腕をとり、壬生は歩き出した。
どこにでもある、ありふれたホテルの一室。
フロアの3分の1を占めるダブルベッド。その横のダッシュボードの上に30インチくらいはありそうなテレビ。備え付けの小さな冷蔵庫に、ゆったりとしたソファとガラス張りのテーブル。
部屋に入ってから、互いに口を開こうとしなかった。
防音効果が働いている部屋に、小さく有線から洋楽が流れている。
ヘッドボードにあるコントロールパネルで亜里沙が音を消すと、深海のような静けさが部屋を満たした。
そのまま亜里沙がベッドに腰掛けると、壬生はソファに身を沈めた。
それでもなかなか口を開こうとしない亜里沙に、壬生は冷蔵庫からジュースを2本取り出し、1本を亜里沙に渡した。
「ありがと」
亜里沙は受け取ったものの、プルトップを開けようとせず、手の中で転がした。
壬生は再びソファに座り、プルトップを開けた。その音だけが、やけに響いた。
「何から話したらいいのか、わかんないんだけど・・・・・・やっぱ、弘司のことからかな・・・・」
少し重々しく、亜里沙が口を開いた。
「弘司?」
「あたしの弟・・・・・・・・・死んだんだよ。イジメでね・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
壬生は何も言葉を返さなかった。
ありきたりな慰めを亜里沙は求めていないことがわかったから。
それが少し嬉しかったのか、亜里沙は曖昧な笑みを浮かべた。
弟の死をきっかけに、復讐にとり憑かれてしまったこと。同じくイジメに合っていた嵯峨野に手を貸し、人を間接的にでも殺めてしまったこと。
「あの頃のあたしは、怖いものなんてなかった。何も失うものなんてなかった。でもそれは眼を逸らしていただけ」
気づかせてくれた、彼らとの出会い。
大切なことは、自分を自由にしてあげること。
復讐に、過去に、過ちに縛られることなく、自分を許してあげること。
「でも、あたしの罪は、消えはしない・・・・・」
自分の護りたいものを護り通して逝ってしまった少女の面影。
今では一体あれは誰だったのか思い出せないのに、熱くむせ返る炎と、言葉だけを覚えている。
――――――私たちが犯した罪は、こんなことで償えるものではありません。
イジメを犯したどんなクズでも人は人。未来を奪った。復讐の名の元で。
「そんなとき、あいつに会ったのよ」
壬生は誰のことを言っているのか、すぐに解かった。
――――――蓬莱寺。
それから二人の関係が始まった。
肉欲だけの、薄い関係。欲望を満たすためだけに躯を開き、快楽を受け入れ、独りではない実感だけを欲した空しい行為。
「京一のこと、嫌いじゃなかったわ。でも好きになるのは―――――怖かった」
心を解放してしまったら、自分を本当に許してしまったら――――――。
傷ついた自分を直視できず、いつかは壊れてしまうんじゃないかという恐怖に怯え、自衛本能で心を閉ざす。
孤独も耐えられない、哀しい心。
それが、京一を傷つけた。
そして自分は、再び心を閉ざす。孤独という哀しみに、耐えられないから。
「そんな時、あんたが言ってくれた言葉。本当は嬉しかった」
壬生は告白した時のことを思い出した。
未だにひっかかっている『まだ・・・・』という意味。今日答えがでるのだろう。
「で、あの日、京一が関係を切ったのよ。もう、依存しててもしょうがねェだろうって。あたしは、泣けなかった。好きにならなくてよかったって、そればっか考えてた」
結局何も変わらない。
そして―――――――。
「あたしは、京一の代わりをあんたにって考えたのよ。どうしようもないクズだわ。京一の優しさにつけ込んだように、あんたの気持ちにもつけ込もうとしたのよ。―――――――最低じゃない?」
酷く自虐的に言う亜里沙に、壬生は少し時間を置いてから無言で首を振った。
一瞬泣きそうな顔をしたが、亜里沙は気丈に壬生を見つめた。
「何よ、同情でもしようってわけ?」
「君は『自分はこんな最低な女です。だから諦めてください』って言いたいのか?」
壬生は冷静に、亜里沙を見つめた。
ようやく、解かった。
『まだ・・・』早過ぎるでもない。
『まだ・・・』好きじゃないでもない。
『まだ・・・』本当の自分ではないということだったのだ。
心を護る為に殻を被った擬態した自分。最低な女を装うことで、余計な感情を与えないようにする。
それしか防御方法を持たないなんて、なんて哀しい。なんて寂しい。
どうして、こんなにも自分と似ているのだろう。
なくしたものが大きすぎる故の、脆さの違いだけなのだ。
先に眼を逸らしたのは、亜里沙だった。
壬生はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「僕は、暗殺者だ。君よりは多くの血を、この手は吸い込んでいる」
血塗られた両腕。誰かを抱くことに逡巡する。
それでも自分は生きている。生きている限り、誰かを愛する。
「同情で君を好きになったわけじゃない。同類憐れみでもない。僕が君を好きになったのは、君の本来持っている強さの部分だ」
「あたしの・・・・・強さ?」
「君は、信じることができるんだろう? あんなにも蓬莱寺の生を信じていた」
建前を信じ込もうとしていた自分。まやかしやごまかしの中でしか生きられないと思っていた自分。
館長以外心を開かず、否、館長にすら心を閉ざしていたかもしれない。
そんな時に出会った、女。純粋に仲間を信じていた、女。
「君は自分で心を閉ざしてしまっているから、気がつかないだけだ。内にある翳りも、外に向けられる優しい眼差しも、全て君のものだろう? だから僕は君を好きになったし、君の過去を聞いたからって変わることはない。それが、君から教えられた信じる強さだと思っている。それに、自分の罪を認めてやるのも強さだと思うよ」
見つめる亜里沙の瞳から、一滴。また一滴。
茶色の髪に、はっきりした顔立ち。10代にしては成熟された躯を持ち合わせた気丈な外見とはうらはらに、常に心の在り方を問いつづけ、自分の罪に苛まれてきた一人の女。
涙が、溢れ出した。
透明な壁が、パリンと音を立てて壊れたような気がした。
「あんたに・・・何が解かるって言うのよ・・・・」
「何も解からないよ。だから解かりたいんじゃないか」
壬生はそっと立ち上がり、亜里沙の目の前に立った。
溢れる涙を拭おうとせず、亜里沙はただ壬生を見つめていた。
「でもこれだけは言える。何度でも言える。君が君でいる限り、僕は君が好きだよ」
そっと壊れないように腕をまわし抱きしめると、子供のようにしがみついて泣き出した。
声をあげて、まるで産声のように。
壬生の心にあった欲望は気がつくと消えていた。代わりに、愛おしさが込み上げてきた。
生まれたばかりの赤子のように、今自分の殻を破り、心を開こうとしている亜里沙を護りたい気持ちで一杯になった。
愛するということは実に単純なこと。
自分の想いを殺したら、護ることなどできはしない。
――――――僕は想いを殺しはしないよ・・・・・・・・蓬莱寺。
影の中を歩いていた京一を、ふと思い出す。
その時、亜里沙が肝心なことを言わなかったことに壬生は気がついた。それは、まだ認めることのできない脆さ故の偽り。
だが、今それを追求すべき時ではない。悪戯に亜里沙の心を傷つけるだけだ。
認めさせるのではない。自ら認めることが大事なのだと。その時は、いつか必ずくる。
亜里沙が認めた時、どのような結果が待っているのかなど、今の壬生には知る術はない。
ならば今、この瞬間を大事にしよう。
腕の中にいる亜里沙に対する、自分でも驚く程の深い純愛。
静かな部屋に、哀しみではない泣き声だけが響いていた。
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