眺めのいい部屋A Room with a View | 1988 |
E・M・フォスターEdward Morgan Forster(西崎憲・中島朋子訳・ちくま文庫) | |
「あの人は確かに言ったのよ。南向きの眺めのいい部屋をふたつ、隣同士のを用意してくれるって。」旅行先のフィレンツェのペンションで、イギリス人の令嬢ルーシーと、付き添いの従姉妹ミス・バートレットは失望していた。だが「わたしのところは眺めがいいですぞ」と、部屋の交換を申し出てくれたのは明らかに育ちの良くない父子だった。結局部屋を替わってもらったルーシーは、ぶっきらぼうで繊細な息子のジョージに何故か心惹かれる。やがてイギリスに帰ったルーシーは、青年貴族セシルと婚約するが、ジョージと再会したことで徐々にセシルとの婚約に違和感を感じ始める。 ★★★この作品は映画化されて、アカデミー賞を受賞するなど随分評判だったらしいです。見てない^_^;多分、文庫の表紙もその映画から取られているのでしょう、すっごく綺麗なんです~♪帯の文句も「不朽の愛の名作」だし♪♪期待しちゃう~(^_^) イギリスの令嬢(といっても実は本当の名家の出ではない)ルーシーは、従姉妹のミス・バートレット(シャーロット)とともに訪れたフィレンツェで衝撃的(?!)な体験をします。どこの馬の骨とも分からぬジョージ・エマースンという青年とキスをしてしまうのです。彼の父、エマースン老人は高名な牧師によると「自分の妻を神の面前で殺した」そうです。意味の分からないままに彼らに興味を覚えるルーシーですが、その気持ちは自分でも気がつかないままに巧妙に心の奥底にしまいこまれてしまったのでしょう。やがてイギリスで再会したエマースン親子と親しくなるにつれ、ルーシーは彼らがけっして取るに足らない人々ではないことを理解するのですが、彼女の受けてきた躾、ものの考え方はなかなか彼らを対等の人間としてみることを許しません。そんな彼女を興味深げに見守るビーブ牧師。ジョージの突然の情熱、婚約者セシルに感じる違和感…ついにルーシーは自分の求めているものを自覚し始めます。 舞台は二十世紀初頭、封建的なイギリス社会。いかにも視野の狭そうな人々と、社会主義者(?)かもしれないエマースン。無垢で世間知らずのルーシーが、こうした人々との出会いによって自分自身の生き方に目覚めていく、という物語なんですね。まあ、よくあるパターンではあるし、今の時代にこういった物語に面白さを感じることが出来るかどうかというと、多分、人物の面白さ、特に感情移入できる主人公というのが重要なのではないでしょうか。その点では、私はあまりに類型的なルーシーには魅力を感じることができず、彼女の心の動きに自分を同調させるのが少し困難でした。あるいは、ジョージという人物がもう少しうまく描けていたら、違っていたかもしれませんが、やや中途半端。エマースン老人には作者の思いのたけを語らせているようですが、当初のキャラクターの設定から乖離した感じで、魅力的ではありますが違和感のほうが強かった。結局、主要な登場人物にいまいち、人間味を感じられなかったということでしょうか。主題(若い娘の心の成長の軌跡)から、ストーリーの回りくどさはしょうがないと思いますが、「ふう~~ん、だから~?」としか思えなかったのは、きっと私の心が成長してないせいなのね(^_^;)あ、あと、ラストの1章は、どう考えても不要だとおもうのですが・・・。 しかし老エマースンのこのセリフは心に残りました。「人生とは何かを考えると、それから愛に愛が応えるのがどんなに稀なことかを考えると――あなたはジョージと結婚するべきです。世界が創られたのは、そういう瞬間のためなのだから」 |
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南国に日は落ちてCae la noche Tropical | 1988 |
マヌエル・プイグManuel Puig(野谷文昭訳・集英社) | |
「この時間になるとやけに哀しくなるのは、なぜかしらね?」「だんだん日が暮れていくんで、気が滅入るからよ、ニディア姉さん。」八十を越え、ともに夫や子供を亡くすという悲しみに耐え、いま、祖国アルゼンチンを離れリオデジャネイロに暮らす老姉妹、ニディアとルシ。現実的で皮肉っぽい姉のニディアに、感傷的でロマンチックなことが好きな妹のルシは、となりに住むシルビアの恋の話をする。ある病院で、妻の付き添いをするフェレイラに出会ったシルビアは、その後、彼の妻が死んだことを知り、彼の力になりたいとばかりに、接近を図っているらしい。 ★★★本書はマヌエル・プイグの遺作。 前半はほとんどが、雨に降り込められたリオデジャネイロのマンションの一室で交わされる、ニディアとルシ姉妹の会話で成り立っています。あとは手紙とか、新聞記事みたいなのとか、告訴状(!?)とか。プイグはこういう手法が多いそうですね。 姉のニディアはごく最近、四十八になるはずだった娘を癌で亡くしたばかり。夫はとうに亡くなって、あとはブエノスアイレスに住む息子がいます。ルシも人生に苦渋を舐めた経験があるらしく、最近、自分にはいい時が無かったと思いがちになっています。そんな二人が最近興味を持っているのが「隣りのシルビア」のアバンチュール。たいして価値のありそうにもない男フェレイラからの電話を待ちわびて、ノイローゼ気味のシルビアは、精神科医という立派な職業を持ったエリートです。 「可哀そうなシルビア、彼女は本気で彼の力になってあげたくて、それで何もかも知りたかったのに。・・・姉さんは彼女のそういうところが分かってないわ。・・・」「でも、お代は頂くんでしょ」ロマンチックなルシと、現実的なニディアの会話は、かみ合ってなさそうで実は絶妙、って感じですね。シルビアのロマンス話は最初全然おもしろくないのですが(^_^;)なぜかこれに興味津々の二人の会話はとても面白いのです。姿を見せるわけでもないのに、ニディアとルシの会話からシルビアという人物が立体的に浮かび上がってきます。冴えない二人のロマンス、みたいだったシルビア話も会話が深まるほどに哀しげになり、ちょっと胸を打ちます。それに、二人が脱線して、ブロンテ姉妹記念館を訪れた時の話とか、ヴィヴィアン・リーの話とかをするところもいいし。好きだなあ、このお婆ちゃんたち(*^^*)とニマニマしながら読んでしまいました。 途中で突然、ルシがスイスに行ってしまって、しかもその地で突然死!息子たちの思いやりからニディアにその知らせは届かず、ニディアは、ルシの息子からの当り障りのない手紙に業を煮やし、ルシに対し「次はもっと長い手紙を書いて!」と。あ~ハラハラ(ーー;)そして、ニディアがひとり残ったリオで新しい人間関係に喜びを見出しはじめたころ、彼女は手ひどい裏切りにであってしまい…。 老いだとか死だとか、「プチブル」出身のニディアが知ることになる下層階級の現実だとか、不幸のなかでなぜか揺らがない信仰と、それに対して信仰を「もてない」不幸だとか(私もこちら側の人間だなあ~)、閉塞感一杯の重たいテーマがたくさん盛り込まれています。でも何故かすがすがしいのは、ニディアがマンションの扉を開いて人と触れ合うようになったように、人は年をとってもどんどん変わっていくことが出来る、という実感が感じられるせいでしょうか。最後、シルビアの電話での啖呵には、全くすっきりしました。・・・と、ここまでならまあ、キャラクターもよかったし、「うん、おもしろかったわ♪」という程度。でも、ラストのほんの一ページに描かれたエピソードがもお最高なんです。「やった~!」って言いたい気分(*^^*)この前向きさが素晴らしい。この作品が遺作だなんて信じられない気がします。 |
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愛の続きEnduring Love | 1957 |
イアン・マキューアンIan McEwan(小山太一訳・新潮クレスト) | |
もと物理学の研究者で、いまは科学ライターとして活躍する「ぼく」ジョー・ローズ。彼は、恋人クラリッサと久々の再会を祝ってのピクニックの最中に、その迷宮に足を踏み入れることになる…。気球の不時着、かごの中に残された少年の泣き声、再び舞い上がろうとする気球に飛びつき、耐え切れず手を離す男たち。結局、最後まで手を離さなかった一人の医者が犠牲となって死んだ。だが、「ぼく」ジョーにとってはこの事件は「始まり」だった。当事者の一人パリーに対し、ジョーの向けた視線はパリーとジョーを愛と信仰、狂気と妄執の世界へといざなう。 ★★★『アムステルダム』でブッカー賞を受賞したイアン・マキューアンの、その前年に発表した作品。 「誰が最初に放したのかは分からなかったし、いまに至るまで分かっていない。ぼくだと認める勇気はいまでもない」気球事故で、ジョーは心に大きな不安を抱えることになる。「ぼくらにできることがあると思うんだ」「祈ることなんだけど?」パリーの言葉にいらついたジョーは言う「・・・上のほうで聞いているやつなんかいないんだ」。やがてパリーはジョーに執拗につきまとい始める。「あなたを神に導くんだ、愛を通じてね」「あなたはぼくを愛している、ぼくはその愛に応えるしかない」「あなたが悪いんだ。あなたが始めたんだ、あなたのせいでこんなことになったんだ…」 少々引用が多すぎましたが、雰囲気が分かるかと思いまして。この不条理な「愛」の攻撃にさらされたジョーは、徐々に精神の均衡を崩していきます。警察どころかクラリッサにすらパリーから感じている脅威を信じてもらえず、パリーの存在そのものを疑われるしまつ。理論派のジョーはパリーを「ド・クレランボー症候群」であると断じ、しつこく送られてくる手紙を抜粋した書類を作り、公的に彼を遠ざける方法を模索しますが、圧倒的な力でせまる「愛」にはかなわないのです。一体全体「愛」を取り締まることなど出来るのでしょうか? ストーカーって怖いですよね。こんな男につきまとわれたら、と思うだけでゾゾゾって感じです。ところが読みすすめるうちに、ジョーのほうもおかしいような気がしてくるし、クラリッサの気持ちも自然で理解できるし、突飛な展開の割にはすんなりとストーリーに乗ることが出来ました。受ける印象はシニカルで醒めた感じ…しかし妙なことに、私は作者の視線に登場人物たちが見守られている、って感じたんですね。とても皮肉な視線、でも突き放されてはいない、とでも言うのかなあ。 皮肉なのは確か。ジョーに対してはもちろん、あるいは夫が浮気してたんじゃないか、と苦しむ死んだ医者の奥さんや、その真相に登場したしょうもないカップル、ジョーがピストルを手に入れるために会った落ちこぼれ達、といった脇役たちにもその皮肉な視線は容赦なく…うひゃー参るよなあ、なんて思うのですが、でもそれを否定してはいない。暖かくもなく、冷たくもない、でもそこに存在していることを認められている…ような気がして、この小説のある種の気色悪さにもかかわらず、読後感はむしろ良かったといっていいのでした。ただ、パリーのことは分かりません。やや、道具的に使われているような気がします。 で、この物語の主役は「愛」・・・愛しつづけるっていうこと。愛は続くのか?昔からあるこの疑問ですが、愛の最中にいる人は実はみんな「愛は続く」って思っているのではないでしょうか?ジョーはクラリッサとの関係がもはや終わろうとしてるにもかかわらず「ぼくらの関係が終わりだというクラリッサの主張は真剣に考える気になれなかった」なんていってるし。ジョーとパリーの間にはそんなに違いはないのかしら、なんて思いつつ読んでました。ところで、本当に愛って続かないのでしょうか?うう~ん、分かんない。 |
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不在の騎士Il Cavaliere Inesistente | 1957 |
イタロ・カルヴィーノItalo Calvino(米川良夫訳・国書刊行会) | |
フランク族の皇帝陛下シャルルマーニュは、パリの赤い城壁のもと、麾下の勇将たちを観閲して回っていた。そのなかにひときわ輝く白銀の甲冑をまとった騎士がいた。彼の名はアジルールフォ・エーモ・べトランディーノ・…(以下省略)、セリンピア・チテリオーレまたフェースの騎士だという。だが、名乗っても面を明かそうとしない騎士に皇帝は尋ねた「して、目庇をあげず、貴公の面を見せぬのは何ゆえか?」すると騎士ははっきりした声で答えた「なぜなら、わたくしは存在しなからでございます、陛下」・・・「意志の力によって、また我らの聖なる大儀への信念によって!」奉公するからっぽの騎士は、ある日、騎士としての資格を疑われる事態に遭遇する。 ★★★『我々の祖先』三部作の第三作。 時代は中世まで遡ります。 一点の乱れもない純白の甲冑を着込み、勇猛果敢に戦い、数々の勲功をキリスト教徒軍勢の栄光のために成し遂げた騎士アジルールフォ。しかし彼には、戦いのあと、鎧かぶとから解放されて紛うかたない人間の姿を取り戻し、安らかな大鼾をあげて眠る喜びも、皇帝陛下の宴会で素敵なご馳走にありつく楽しみも許されてはいません。なぜなら彼は「不在の騎士」空っぽの存在だったのだから。ただ、「意志の力」によって存在する彼は、そのあまりの人間味のなさ・・・考えてみれば当然ですが(^_^;)・・・全てに完璧を求め、動かしようのない正確さで彼らの手落ちを数え上げ、しかも彼の言うことはつねに正しい・・・によって武将たちの嫌われ者になっていました。しかし、彼は騎士であるという自分の存在(中身は空っぽであるにせよ)につねに大いなる自負を抱いていたのですが、ある日、かれの騎士としての資格に疑惑が持ち上がります。彼はその疑惑を晴らし、騎士の証しを立てるために旅立つことになるのでした。 これは、おもしろいっ!「不在」ってどういうこと?中身があることと、「存在する」ことはどう結びついてくるんだろう?なんて、いろいろ考えてしまいます。アジルールフォは中身がなくって、甲冑だけが彼の存在証明だった。私たちも、自分では中身があると思っているけど、実は見えないよろいを着込んでいて、それだけが人に見えている=存在している、ってこともあるのかもしれませんね。興味深いのはグルドゥルーという登場人物です。彼は「存在しておりながら、自分の存在しておることを知らずにいる者」、それに対してアジルールフォは「おのれの存在していることを承知してはいるが、その実存在してはおらぬ」存在。対照的に見えますが、自らの存在証明だった甲冑をつける資格をなくして、名さえも捨てて姿を消すアジルールフォにとっての「存在」の意味と、見たもの全てと一体化してしまうグルドゥルーにとっての「存在」の意味は、同じなんじゃないかな、なんて思いました。「存在」って、つねに相対的なものなのだから。 ・・・といつのものごとく独りよがりの読み方をしておりますが(^_^;)、三部作の中では一番、テーマに取り付きやすいというか、テーマに対して自分の考えを膨らませるのが楽しい作品だったと思います。あとがきによると、カルヴィーノ自身も、執筆順ではなく、『不在』『まっぷたつ』『木のぼり』の順で、「自由へと至る人間の三段階」が描かれている、と説明しているそうです。ちょっと変わった主人公の冒険譚…陳腐なんですが、この陳腐さがよいのです。存在ってなんじゃろ~、って自然に考えさせてくれる、やさしそうで実は深い物語なんですね。 この物語には二人の若者が登場し、それぞれに童話の、めでたしめでたし風のラストがついています。片方の、苦悩するランバルドには遊び心一杯の結末が…(^^ゞ、そしてもう一方、伯爵となって戻ってきて、村人たちに「あなた方には今では伯爵がついているんです」と言ったトリスモンドという若者に、村人たちは一体どんな返事をしたのか…是非読んでお確かめ下さい。 |
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木のぼり男爵Il Barone Rampante | 1957 |
イタロ・カルヴィーノItalo Calvino(米川良夫訳・白水社) | |
あの六月十五日、午餐のメインディッシュとして出されたのは曰くつきの「かたつむり」だった。一匹たりとも手をつけようとしないコジモにお父様は言った「食堂から出てお行き!」それから間もなく、窓から、彼がかしの木によじ登っているのがみえた。「おりる時は覚悟をしておきなさい!」「じゃあ、ぼくはもうおりません!」コジモはこの言葉を生涯守ることになる。木を渡り歩きながら過ごし、本を読み、他の木上生活者と交流し、恋をし、男爵位を継ぎ、母を看取り、革命を知り、フリーメースンの会員となり・・・、一生を木で過ごした男の物語。 ★★★『我々の祖先』三部作の第二作。 時は1767年のこと、コジモ・ピオヴァスコ・ディ・ロンドーがとうとう木に登ってしまった。きっかけは「かたつむり」だった。意地悪では天下一品の彼の姉がこしらえたかたつむり料理をコジモが拒否したことが、父男爵の逆鱗に触れたのだ。だがもともと、コジモには反逆の天性が備わっていたらしい。欄干すべり遊びの果てにご先祖の石膏像を粉砕し、罰を受けた時、彼の放った言葉はふるっている「お父さまのご先祖なんか、知ったことじゃないですよ!」いいぞ~!コジモ!(笑) 木の上で生活するというのはなかなか大変そうだ。「だけど、ずっと木をつたって、けっして地面に足をつけなかったんだ!」「なぜ?」弟の問いかけに答えはしなかったけど、「けっして地面に足をつけない」ことは、すでに一つの決意になっていた。「・・・いいんだよ。道はわかってる。ぼくだけの道を知ってるんだ!」ぼくだけの道…なんて誇らしげな響きだろう。だけど、子供っぽくもある。みんな、コジモはやがては疲れ果てて帰ってくると思っていた。もうちょっと冒険心を満足させたら・・・。「でも、木の上からだと、ずっと遠くにお尿(しっこ)できるんだ!」(再び)いいぞ~!コジモ!(笑) コジモは「人を避けない隠遁者」だった。快適な生活を否定してなかった。つまり「自然に帰れ!」みたいな理想を抱いて木に登ったわけじゃないということだ。コジモは人との関わりにも積極的だった。木の上からじっと、人々の生活ぶりを眺め、人々に話しかけた。恋にも憧れた。とても切ない失恋もした。木の上から物事に関わる、ということの意味、それが象徴しているもの、とは一体何なのだろう?「地面にけっして足をつけない」と、コジモに決意させる「地面」って、一体どんな忌まわしいものなのか、それらの意味は残念ながら私には分からない。他国の文化歴史に深く関わる部分を理解するというのは本当に難しいことだ。ただ、コジモが彼の生涯をずっとある信念のもとにすごしたこと、その純粋さには妙に心を打たれる。がんばれコジモ!と言いたくなる(コジモに頑張れ!という声援は似つかわしくないんだけど)。木の上に登って社会を眺めているコジモは、本当はとても人間を愛していたのではないかな、なんてことも思った。人間関係への喪失感と憧れっていうのかなあ~…かっこよく言うと(^_^;) ・・・というわけで、無理な深読みはすまい(って言うかしたくても出来ない^_^;)と思うのだが、そうなると純粋にストーリーの面白さが問題になってくる。この点ではワタシ的にはやや「長いよな…」って感じだった。エピソードそれぞれは面白いし、描写も素敵なんだけど、平坦。だけど、不思議と心に残る場面が多いのよ~(T_T)ラストはなんともほろ苦くて・・・彼の墓碑にはこう書いてあるそうだ《コジモ・ビオヴァスコ・ディ・ロンドー――樹上に生きた――つねにこの地を愛した――天にのぼった。》 |
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まっぷたつの子爵Il Visconte Dimezzato | 1952 |
イタロ・カルヴィーノItalo Calvino(河島英昭訳・晶文社) | |
むかしトルコ人との戦争があった。ぼくの叔父で、ジェノバ公国の由緒ある家系の一人であるテッラルバのメダルド子爵は、キリスト教徒の陣営へ合流、中尉を命じられた。科学の知識が皆無だったため大砲に真正面から近づいた子爵は、その体の真半分だけを残して吹っ飛ばされた。領地に帰還した半分だけの子爵はとんでもない悪人となっていた。目に入るもの全てをまっぷたつにしながら進む彼を村人は恐れた。ところがやがて、彼が善人になったという噂が流れる。 ★★★カルヴィーノ、『我々の祖先』三部作の第一作。 「イタリア文学が生んだもっとも面白い物語として読みつがれる、スリリングな傑作メルヘン」・・・表紙の裏にはそんな言葉が書かれてあったりするのですが、「面白い」って言うべきなのかどうなのか、悩むところですね。例えば着想の面白さ…これには文句はありません。戦争に行ってまっぷたつになった片割れだけが生きて帰ってきた、なんていうのはいかにもファンタジックですよね。しかし、帰ってきた場面の描写はこうです「海のほうから一陣の風が吹いてきて、いちじくの梢の枯れ枝が音をたてて折れた。叔父のマントのすそがはためき、風をはらんでふくれた。叔父はそれを帆のように押さえたが、風は彼のからだを吹き抜けてゆくかに見えた」うわ~、なんという不吉さでしょう。この不吉さそのままに、帰ってきた半分の子爵は「悪半」であったことがすぐに判明します。ところがやがて、吹き飛ばされて無くなったと思われていた子爵の「善半」が帰ってきて…。 「善」と「悪」というのは不思議なもので、乳母のセバスティアーナには半分ずつの子爵が別々の存在であるという風には思えなかったようですが、もともと「善悪」なんてものを区別することはとても難しいですよね。ただ、漠然と「悪」はわるい「善」はよい、と思っているだけで。「もしかしたら善い機械をつくることは人間の力を超えているのではないか」とピエトロキュードが疑ったような、人間を真に幸せにするような機械(システム)を作るには、一度まっぷたつになって自分の不完全性を認識するような経験が必要なのかもしれません。かつてまっぷたつだった世界は、一度は縫い合わされたように見えましたよね。でも、また裂かれてしまったのかもしれない。いつかトレロニー博士が戻ってきて手術が行われ、世界が完全な姿になる日が来ることを願いつつ(しかし、この、「完全な」という言葉は微妙だなあ^_^;)…それまでは「鈍い完全」のままで、「寒さが丘」にすむ人あれば、「きのこ平」にすむ人もあり…ということを認めてせめて人間同士、仲良くしたいものですよね。 ・・・と、いやに訓話的になってしまいました^_^;昨年(2001年)来、いろいろと思うこともありましたし。でも、本音を言うとこんなうがった読み方をするのは好きじゃないんだなあ(笑)「スリリングな傑作メルヘン」としての理屈抜きの面白さを楽しんだ方が、得策かもしれませんね。 |
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センセイの鞄 | 2001 |
川上弘美(平凡社) | |
「正式には松本春綱先生であるが、センセイ、とわたしは呼ぶ。「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」だ。」数年前、駅前の飲み屋で月子は「センセイ」と出会った(正確には再会である)。奇妙に注文の趣味の合うご老体がいるな、とおもったら、それが「センセイ」だった。「ツキコさん」「センセイ」と呼び合う、三十と少し年の離れた二人の関係は、その後つかず離れず続くことになる。キノコ狩りに行ったり、花見をしたり、遂には島へ旅行をしたり。だがツキコとセンセイの距離は近いようで遠く、遠いようで近い。 ★★★谷崎潤一郎賞受賞作。 どうも、川上弘美さんとは相性がわるいのか、ニ、三冊しか読んだことがないがピンとこなかったのね。こんどの作品は世間の評判は上々だし、書評をよんでみるととっつきやすい感じなので期待をもっていたのでした。がっ!やっぱりあんまりピンとこなかったです(と最初に白状しておこう^_^;) 三十八になろうかという独身OL月子と、彼女の高校時代の国語の先生(三十いくつ年上)との、なんちゅうか恋愛もの(?)なのである。この「センセイ」のほうは、茫々としたイメージがなかなか味があって悪くはない。ツキコさんのほうは・・・イマイチ魅力を感じないんだなこれが(爆)いや~わたしも正直言ってツキコさんと年齢が(ごにょごにょ)だから、気持ちわかるよ~!と共感する部分はたくさんあったけどね(そのせいでかえって、読んでてこっ恥ずかしかったということもあるかも)。ただ、しっくりはこなかったです。一杯飲み屋で出会った二人が、お互いに手酌&ワリカンで飲んでる、なんていう滑り出しはほんとにいい感じだったんだけどな~。センセイに「センセイ」と語りかけるツキコさんの声がどうしても想像できなかった・・・というのが最大の敗因でしょうか。ううん、この作品のすばらしさを感じ取れる感性が自分にないのが残念です~^_^;ま、そんな感じで読んでしまうと、文体や会話といった表現の部分すらも技巧的に過ぎるような気がしてきて・・・あ、もうこれくらいにしときます。人格疑われそうだし(-_-;) |
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チューリップ熱Tulip Fever | 1999 |
デボラ・モガーDeborah Moggach(立石光子訳・白水社) | |
「…人は生きていくために対価を支払わなければならないことを知っていた。祖国オランダは貿易国で史上類を見ない華々しい成功をおさめていたが、旦那さまと奥さまも取引をしたのだ。若さと富が交換され、飢える心配のない生活と引き換えに、(いずれ)子を産むことが求められた…」裕福だが年上の退屈な夫とのかわり映えのしない毎日に、ソフィアはある画家と出会った。折からオランダ全土に広がり人々を狂気の渦に巻き込みつつあった「チューリップ熱」・・・彼らはこの熱病とともに恋の成就を賭けてある大胆な陰謀を計画する。 ★★★作者デボラ・モガーは現代イギリスを代表する女性作家の一人、なんだそうです。 「チューリップ熱(Tulip Fever)」とは?あとがきによると「はじめは愛好家と栽培業者の間で取引されていたチューリップが、やがて多くの市民たちの投機の対象となり…珍しい品種の球根一個が邸宅一件分にも相当した」というような、つまりとってもバブリーな時代が16世紀末から17世紀のはじめ頃のオランダにあったんですね~。当時のオランダは経済的な繁栄とともに、芸術分野においても非常に開けていたようで、職業的な画家として成功することも多かったようですね。ヤン・ファン・ロースはさほど有名ということもなく、大家ではむろんないのですが、そこそこ裕福な市民から肖像画を頼まれたりする程度には腕があるといった職人画家のひとり。依頼人の夫人であるソフィアと道ならぬ恋に落ちてしまいますが、当時のオランダで二人の恋を成就させる方法はありません。たまたま、ソフィアの女中のマリアが身ごもったことが、彼らに悪魔的計画を思いつかせます。 その計画そのものも綱渡りだし、資金はいかにもあやうい「チューリップ熱」から手に入れようというのですから・・・結果は目に見えてますよね。しかし、この本の作りがなかなか凝っていて、ところどころに当時の作家(レンブラント、フェルメール、デ・ホーホ等々)の絵画がカラーで挟み込まれているんです。これが奇妙に効果的に、雰囲気を盛り上げてます。その当時、宗教や道徳に縛られつつもしたたかに、人間が確かに「生きていた」というのを感じさせてくれました。っていうか、この絵画たちのおかげで、なんだか深みのある物語であるかのような錯覚を起こさせているのかも(笑)やや「いわずもがな」みたいな部分まで描いているような気もしましたが、さらさら読めて、中世オランダに飛んでいったような気分にさせてくれるし、ハラハラドキドキもあるし(しかし、なんで○○にそんなこと頼むかね!)、まずまず満足といったところでしょう。 |
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