ロンドンLONDON | 1995 | |
エドワード・ラザフォードEdward Ruthefurd(鈴木主税/桃井緑美子訳・集英社) | ||
「ロンドンについて小説を書こうとすると、ある途方もない障害にぶつかる。この町にはすばらしい素材があまりにもたくさんありすぎるのだ。ロンドン子にはみなそれぞれお気に入りのスポットがある。そのため、あれやこれやの歴史の横道にたびたび気をそそられてしまうのだ。ロンドンのどこの教会区ひとつをとってみても、このような本を書くのに充分な素材を提供してくれる。だが本書はかなりの部分においてイギリスの歴史について書いたものでもあるので、私は特定の場所を優先して選ばざるを得なかった。私の選択がこの魅力あふれる都市を知り、愛する多くの人びとをひどく落胆させないことを祈るばかりである。」…はじめに、より… ★★★どうやってこの長い長い小説のあらすじをまとめようか、と思って悩んでしまいましたが、作者のエドワード・ラザフォードが巻頭に付した「はじめに」の最後の部分がとっても素敵だったので、これをそっくり拝借してしまいました(^^) 「本書は、なによりもまず小説である。本書のなかでその運命が物語られる家族は・・・・すべて架空の人びとであり、ここに描かれた歴史的事件でそれぞれがはたす役割もまた想像上のものだ」と作者はくぎをさしていますが、読み進むうちに彼の創りだした想像の世界と、真実の歴史のまぜこぜぶりが見事すぎて、ホントの歴史小説を読んでいるような気がしてきます。ま、真実の歴史、とかいったって、何が真実なんだか、実は全然分かってないのかもしれないし、歴史ってそんなもんだし〜(違うか^^;) 第一章は紀元前54年。額の前髪のところに一房の白髪があり、指を広げるとその間の第一関節のところまで薄い皮膚の膜(まるで水かきみたいな)があるという特徴(隔世遺伝するらしい)を持つ男の子が、ロンディノスと呼ばれた土地でユリウス・カエサルと出会う、という話。第二章ではその土地はロンディニウムと呼ばれるようになり、ローマ人によってドーヴァー・カンタベリー・ヨーク・ウィンチェスターといった地方へ道路網が整備されていきます。主人公はユリウス、やはり白髪と水かきをもって生まれてきました。第三章から第五章ぐらいまでで、登場人物の一族の先祖がほぼ出揃います。金持ちになったり、落ちぶれたり、貴族になるものまででてきたり。気質を受け継いでいるように見える一族のなかでも、いいヤツもいればわるいヤツもろくでもないのもいます。一人一人の個性に微妙にバリエーションをつけていて、「あ〜あの登場人物の末裔がこんなことに!」とか「この一族はまだ生き長らえていたのか〜」とか思いつつ読むのも楽しかったですね。 すごくよく調べたうえで、エピソードとしてさりげなく挟み込んである、って感じも好きです(^^)有名な人がちょこちょこ出てきたり、登場人物と関わったりするのですが、あんまりやりすぎると浅薄になって台無しになるところをうまく抑えてますね〜。それに、ときには社会情勢や通念上、理不尽なことになったりもしますが、ほとんどがまずまずハッピーエンドなのも嬉しい。 ところで、ヨーロッパの歴史というとどうしても宗教と切り離せないものなのでしょうが、実はあんまりわかってないんですよね〜。・・・この物語自体、宗教の歴史が多くを占めているというのに!(^_^;)カトリックとプロテスタントと、ピューリタンと、英国国教会(ま、まだほかにもあったかもしれない!)の、血で血を洗う争いというのはすごいですねっ。実は途中で何がなんやらわからなくなったりしたのですが、以前よりはちょっと理解できた部分が多くなったかも。(全登場人物の中で、マーサが一番怖かった私…^_^;)しかし、血統よりもなによりも、宗教が大切だったりするのですね…面白いっ。 そのほかにも、建築の話やロンドンのお店の話、上流階級の暮らしと下層の人々、近代では金融都市としてのロンドンとか(バブルもあるよ!)、もう書ききれないぐらい興味深いことがたくさん、物語の中に織り込まれて出てきます。文学的素養のある人にはまた、格別の楽しみ方があるみたいですが、そこらへんは…(爆)ま、無くっても楽しめますって! 上下巻二段組で各々500ページ以上あるし、単調だととても読み通せないと思いますが、独立した章ごとにそれぞれ主人公がいるし、ロンドンは変化していき、社会も変化していく、それらを巧みに溶け込ませたつくりになっているので、のんびり時間をかけた読書に向いているかもしれません。私は下巻を手にとるまで気がつかなかったのですが、両方に家系図がついているので、それをひきながら読むのも良いかも。ほんと、面白かったです(*^^*)漫画とか小説とか、夢中で読んだもので身についた歴史ってよく覚えているもんだけど、こういうのってなんとかお勉強のほうにも応用できないものでしょうかね〜?とりあえず、私はウエディングケーキ誕生の真実がわかって嬉しい♪しっかし、これって本当のことなんだろうか…(^_^;) |
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ワンダー・ボーイズWonder Boys | 1995 | |
マイケル・シェイボンMichael Chabon(菊地よしみ訳・早川書房) | ||
「私」グラディ・トリップはピッツバーグのとあるカレッジの英文学科教授。四番目(になるはず)の小説「ワンダー・ボーイズ」をここ五年間書きつづけ、今朝の段階でその原稿は2611ページに達していたが、作品は完成から程遠い状態にあった。愛人でもある大学の学長サラからは妊娠を告げられ、妻には捨てられつつあり、担当編集者クラブツリーはリストラの危機。散々な状態の「私」は落ち込みの激しい創作クラスの生徒ジェイムズ・リアーに何となく同情するが、ジェイムズはサラの愛犬を射殺、「私」は犬の死骸とともに抜き差しならぬ運命の渦の中に飛び込む羽目に。 ★★★マイケル・ダクラス主演で映画化されたらしいですが、例によって見てません(^^) 書くべきものが多すぎて、なんとも結末のつけようがなくなってしまった小説「ワンダー兄弟(ボーイズ)」。登場人物たちは作者の設定した荒れ狂う青空を横断する、常軌を逸した人生行路をたどりつつ、いまだに(2611ページを経てもなお!)天頂にさえ達していなかった。「私」グラディ・トリップはこの小説を完成させるメドが全然立っていないのだ。ところが編集者クラブツリーはクビになりそうだという。「ワンダー・ボーイズ」の出版も危うい(まだ書きあがってはいないけど)し、私生活は大変なことになりつつあるし、マリワナでも吸わずにはいられない。とはいえ……。 小説家の「創作」への尽きせぬ思いと恐怖をベースに、数々の突発的エピソードから膨らむストーリー。アクの強いポップな文体は、日本語にするとやや重たすぎる感があってわたしには読みずらい作品でした。展開も、いろんなことがたくさん起こる割には、な〜んかエンジンがくすぶっているとでもいうのかな〜、もうひとつリズムに乗り切れないまま、物語は半ばを迎えてしまいました。本筋のストーリーは、やっぱり主人公のトリップがつねにラリっているせいか(?笑)、どうも私の心にぴたっと寄り添ってこなかったのですけど、なんか、とりとめなく太っている主人公のイメージと、膨れ上がって収拾つかなくなった小説「ワンダー・ボーイズ」のイメージが重なり合って、その寄る辺のなさには涙がチョチョ切れそうになりました。「ワンダー・ボーイたちの心は、自分が書く運命にあると信じている本への恐怖と神秘で満たされている」さあて、この恐怖と神秘から解放されるということは、幸せなことなんでしょうかね?やっぱり? シニカルかつウエットな言い回しが魅力的なんだけど、ストーリーそのものはエピソードの羅列っていう感じで、イマイチだったかなあ〜、という感じがつきまとう作品ですが、作中作・・・というんじゃないんだけど、他の作家の作品として紹介されていたり、ジェイムズ・リアーの作品としてちょっと描かれている作品などが気になるところです。本筋より断然おもしろそう(笑) |
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やし酒飲みThe Plam-Wine drinkard | 1952 | |
エイモス・チュツオーラAmos Tutuola(土屋哲訳・晶文社) | ||
「わたしは十になった子供のころから、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない生活でした」父がわたしのために雇ってくれたやし酒造りの名人のおかげで、わたしは毎日225タルのやし酒を飲みつづけた。十五年たったある日、父が死に、続いてやし酒名人もやしの木から落ちて死んだ。もう一度やし酒名人に逢うために、わたしは旅に出た。”この世のことはなんでもできる、やおよろずの神の<父>”を名乗るわたしは、あらゆる不思議で奇妙で怖い生物と出会い、あらゆる災難をのりこえて、やし酒名人がすむという「死者の町」へたどりつく。 ★★★作者のエイモス・チュツオーラはナイジェリアの作家。鍛治屋になるのが夢だったのだそうです。 ナイジェリア、といわれても〜…ええ〜っと、アフリカ(?)みたいな(^_^;)地理音痴のワタクシですが、面白かったです〜♪まったく、ストーリーの紹介の仕様もないようなお話なんですけど、読み出したら止まりませんぜ。 主人公はジュジュマン(juju-man)とかいって、魔法使い?みたいな感じなんですけど、彼がやし酒名人を探すために「死神」、(完全な紳士に変装した)「頭がい骨」、(息子?)「ズルジル」、「えじきの精霊」・・・等々(まだ他にもいっぱいいる、すごい想像力^^;)奇妙で凶暴な生物に出会い、「不帰(かえらじ)の天の町」だの、「赤い町」だのといったおっそろしい町を通り、あるいは「ドラム」「ソング」「ダンス」や、「誠実な母」のような善良な生物にも助けられ、ついにやし酒名人と再会するという、荒唐無稽な冒険ものがたり、ですね。最初はすごい力を持っていた主人公が、いつのまにか妻の予言に助けられるようになったり(この妻は最初、全然影が薄いんですけど、突然、存在感を発揮しだすから面白い)、とにかく変なものに出会って、なんとかやっつけつつ旅は続くのであった…みたいな、なんだか前後の脈絡もあるのかないのか、ワケわかんないんだけど、別にワケがわかる必要性も感じないという(笑)不思議な感触が楽しめますよ〜♪まあ、ホントは色々深い意味があるんでしょうけど(^_^;) すごく、怖いんですよ・・・。暗い森で主人公たちが出会う生物(まさに「生物」、正体不明な)には基本的には慈悲の心はないし、本能だけで生きてる感じだし、すごく、原始的でとても強い者に圧倒されるイメージ。でも、とてもおおらかで、生き生きしている。死者と生者、天国と地獄が渾然一体で、あらゆるものが存在しているという感じがやっぱり、アフリカだよな〜♪(←意味不明 爆) |
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パイド・パイパー自由への越境Pied Piper | 1942 | |
ネビル・シュートNevil Shute(池央耿訳・創元推理文庫) | ||
引退したイギリス人弁護士ハワードは、戦争で息子を失った。痛手を癒すために南フランスへ向かったハワードは、そこで国際連盟に勤めるキャヴァナーの家族と知り合う。ジュラの山間の小さな村シドートンには戦争から遠く隔たった平和が残っていた。しかし戦況は厳しく、ついにダンケルク大撤退作戦が実行されるにいたり、ハワードはイギリス帰国を決意する。そんな彼に、キャヴァナーは子供たちを一緒にイギリスに連れ帰ってくれるように頼む。困惑と不安の末に子供たちを預かったハワードの旅は困難に満ちていたが、行く先々で寄る辺ない子供たちが一行に加わることになる。 ★★★1942年という、まさに戦時中にかかれた作品。 戦争さなかのイギリス、身の置き所のない辛さを味わっていた元弁護士のハワードは、息子ジョンの戦死をきっかけに南フランスへ向かいます。「ハワードは今年の春を見たかった。目の限り、余すことなく春を見届けたい思いだった。葬り去られた過去に代わって生まれ出る新しい命の息吹に触れたかった」ジュラ山地の雪解けとともに、ハワードの心も落ち着いた頃、彼はキャヴァナー一家に出会いました。およそ面白みのない夫婦ですが、二人の子供には心惹かれます。8歳のロナルド(ロニー)と5歳のシーラ。ハシバミの小枝で作った笛が、老人と幼い子供を一瞬近づけました。やがて戦局は悪化、ハワードは決心します。「私はイギリスへ帰ろうと思います。こんな時、人は自分の国にいなくてはいけません」彼は、キャヴァナー夫妻に託された二人の子供とともに帰国の途につきます。 何で?なんで子供たちを戦争のさなかに赤の他人に預けるなんて、そんなはた迷惑かつ無責任なことができるワケ?!というのが私の最初の印象。うう〜ん、、、でもまあ、戦争だし…、そういえば、日本人だって中国から引き揚げるとき、どうにもならなくなった子供を中国人に託したりしたんだもんな〜。夫婦が離れたくないから、という理由はいかにもヨーロッパ的ではありますが、親も必死なんだよね。なんて思いつつ、ハワードおじいちゃん、大丈夫かなあとよそながら不安を感じる出発でした。 子供は子供、戦争はカッコイイ戦車や大砲が見れるってことだし、旅は自動車にのったり、汽車の中で寝ること。屈託のない子供たちにハワードはきっと心和まされ、久しぶりの「自分の責任において遂行する」任務に気持ちも高ぶったことでしょう。しかし、現実に子供を連れて旅をするということは、生易しいことではありません。シーラは熱を出すし、小さい子供は何をするにも時間がかかる、計画は狂い、状況は悪化するばかり…。なんといっても戦争中のことですから、本物の危機がそこかしこに転がっているわけで、は〜、もう、次はどうなるんだろうとハラハラしどうしです。私だったら完全にキレて、子供たちを怒鳴り散らすか、一人逃げ出すところだと思いますが、ハワードはつねに「忍耐」です。すごい!しかし、この物語は老人と子供のふれあいファンタジーではないのです。ハワードにとって子供たちは任務の目的物。イギリスに届けなければならない荷物のようなものですが、そこには義務や使命感だけではない、彼自身の未来への希望のようなものが託されていて、微妙な距離感の中に愛(博愛?)が感じられるのです。子供たちはまだそれを受け止めるまでにはなってないかもしれないけど、ずっと先のいつか、自分の中に残された何かを感じる日が来るんだろうな〜、などと思いました。 ハワードの人柄にも似て、物語は淡々と誠実に進んでいきます。困り果てる状況になっても、ハワードのイギリス紳士らしい持ち味は損なわれることなく、気持ちをゆだねて読みつづけることが出来ました。ちょっと出来すぎの展開も、戦争のときにこんなことあるのかな?と思いつつ、いや、戦争だからこそ、こんなことがあるのかもしれない、とも思えました。ふれあいファンタジーではないよ、と書きましたが、やっぱりこれはスリリングでハードなファンタジーなんですね。 不思議に思ったのは、物語が進むにつれて強くなる、ハワードのアメリカ礼賛ぶり。当時のヨーロッパの人々の閉塞感のあらわれなんでしょうか?そこにいけば、すべての因習から解き放たれて、世界は一つになれる。特に、アメリカという国そのものというより、そういう象徴的な場所、という意味だったのかもしれませんね。 |
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朗読者Der Vorleser | 1995 | |
ベルンハルト・シュリンクBernhard Schlink(松永美穂訳・新潮クレスト) | ||
十五歳のとき、ぼくは黄疸にかかった。学校からの帰り道、気分が悪くなったぼくを解放してくれた女性、それがハンナだった。病が癒えて、お礼を言いに行ったぼくは、三十六歳のハンナと恋に落ちたのだ。のめりこむように彼女との関係に溺れるぼくだったが、やがて彼女の求めに応じ、本を朗読して聞かせるようになる。「朗読し、シャワーを浴び、愛し合い、それからまだしばらく一緒に横になる…」だが突然のハンナの失踪によって、そんな毎日に終止符が打たれる。ぼくが再びハンナに会ったのは、強制収容所ゼミの学生として公判を見学した、ある裁判所でのことだった。彼女の名が呼ばれ、立ち上がって前に進み出た時に、ぼくはようやく気づいた。 ★★★発売後五年間で二十以上の言語に翻訳され、アメリカでは二百万部を超えるミリオンセラーとなったそうです。 「ぼく」ミヒャエル・ベルクが恋に落ちたのは、二十一歳年上の市電の車掌、ハンナ・シュミッツ。ドアの隙間に、ストッキングを穿くハンナの姿をみてから、ぼくはハンナから目をそらせることができなくなった。一週間後、ぼくは彼女のものになった・・・。 少年だった「ぼく」は、ついに家族との別離の時を迎えます(もちろん精神的な意味で、ですが)。ハンナとの関係は、熱病的でせつなくて、「ぼくは完璧に幸せな気持ちだった」。ここまでは、少年の日に誰もが経験する、ひそやかでみだらな大人への通過儀礼。多分ハンナは、年上の女として「ぼく」の、青春の日の甘やかな記憶に残ることになったはずでした。ところが、思わぬ形でハンナと「ぼく」が再会してしまいます。戦犯として裁かれるハンナを、「ぼく」は傍聴席から見つめることになるのでした。 「わたしは……私が言いたいのは……あなただったら何をしましたか?」被告席で裁判長にこう問いかけるハンナ。戦争のときに犯した罪によって裁かれるということは理不尽なのか?それとも当然のことなのか?戦争そのもの、あるいはその時の思想そのものが罪だとしたとき、罰は誰が受けるべきなのか?ハンナは自分自身に問いかけ続ける人生を送ったに違いありません。 たぶん、ハンナが問いかけたこの言葉でほとんど言い尽くされていると思いますので、これ以上私がへたな言葉で何かを付け加える必要はなさそうです。ただ…私は自国の歴史についてやたらと自虐的になるのは嫌いなのです。戦争の時に何をしたのか、何が起こったのかを、臆せず正当化せず、次代にきちんと伝えつつ、なお自分の国を愛せるような国民になれたらいいなあ、と思っています。 ところで、この作品にはもう一つ、「文盲」という問題が盛り込まれています。ミヒャエルが刑務所のハンナに朗読のテープを送りつづけ、ハンナがそれによって文字を獲得していくのです。文盲であることを恥じ、たとえ罪を余分に着せられることになろうとも、誰にもその秘密を明かさなかったハンナ。その思いがもう、あまりにも切なくて哀しくて、やがてだんだん字を覚えてミヒャエルに朗読の感想を拙い字で書き送ったハンナが、返事(自分で読める返事!)をどんなに待ち望んでいたかと思うと…。なんで返事を書いてやらなかったんだよ〜!ミヒャエル!!・・・てなわけで、十五の子供時代ならいざ知らず、自分勝手な思いだけに酔っているとしか思えないミヒャエルに呆れ返るという意外な気持ちで本を閉じることになってしまったのでした。ちょっと残念。 |
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銀の仮面The Silver Mask and other stories | ||
ヒュー・ウォルポールHugh Walpole(倉阪鬼一郎訳・国書刊行会) | ||
短編集。T『銀の仮面』『敵』『死の恐怖』『中国の馬』『ルビー色のグラス』『トーランド家の長老』U『みずうみ』『海辺の不気味な出来事』『虎』『雪』『ちいさな幽霊』 ★★★表題作『銀の仮面』は江戸川乱歩によって「奇妙な味」の代表的作例として紹介され、日本でも大変有名らしいですね。それはともかく、めちゃめちゃ好みの作品揃いでした♪11の短編のうち、前半のTの方に入っているのは、「ノン・スーパー・ナチュラル系」、後半のUの方に入っているのが「スーパー・ナチュラル系」という分類だそうですが、実はワタクシ、そういう定義はあんまり分からないのですが、しかし、「恐怖」っていうものは人間の心の中で芽生え、膨らんで暴走し、ついには人を破滅させてしまう…そしてそこには本当に何がしの現象があったのか?それとも全て妄想の産物だったのか?いろんな読み方で出来て面白い作品ばかりでした。前半の作品は、人間関係の中に潜む落とし穴的恐怖が描かれていますが、あとがきに「主人公の主観と、第三者の客観とのあいだに生じるズレ」という表現がされていて、頷いてしまいました。この「主観」に振り回される主人公の姿に全く共感できない現代人はきっと少ないと思いますね。以下、簡単なあらすじなど。 『銀の仮面』一人暮らしの中年女性ソニアは、寒さと飢えに顫える青年の強引な願いに負けて家に招じ入れてしまった。「なんて美青年なのかしら」だが、彼はこそ泥でもあった。二度と家には入れない、というソニアの決意はもろくも崩れ、ソニアは青年とその家族との、のっぴきならない関係に引きずり込まれていく。・・・孤独な中年女にしのびよる美青年は、なぜかお気に入りの銀の道化の仮面の面影と重なって。「道化が笑みを浮かべている。いまやはっきりとした薄ら笑いに見えた」『敵』ジャック・ハーディングには一人の敵がいる。まさに犯罪者を連想させる大男、彼の名前はトンクスという。・・・人間関係って微妙。ほんとに微妙。『死の恐怖』わたしはロリンが大嫌いだ。だがそのロリンの妻はどこか不思議な女性で、ロリンは彼女に囚われているように見える。もう少しすっきりまとめて欲しい気もするが、圧倒的な印象が残る作品。『中国の馬』ミス・マクスウェルは、愛してやまない家を人に貸すことになってしまった。きちんと世話をしてくれるのだろうか?たしかに、執着って、自分でもどうしようもないことが多いけどね。『ルビー色のグラス』かわいそうないとこのジェーンが家にやってきてから、ジェレミーはイライラしどうしだ。それなのに犬のハムレットときたら!子供の世界って、大人のそれよりもはるかに怖いものをみていることがある。いずれ忘れるのだろうけど。『トーランド家の長老』トーランド一族を牛耳る老夫人は「最も邪悪で忍耐強い蜘蛛のようにこの家の暗い片隅に座っていた」。コンバー夫人の善意にいたぶられる前には。善と悪が戦って、善が勝ったってことでしょうか(皮肉すぎますか^_^;)『みずうみ』フェニックはつねに、フォスターの後塵を拝していた。友情だと?こんなに憎んでいるのに。水の恐怖のリアルさと、ラスト一章の静けさがすごく、効いている。『海辺の不気味な出来事』三十年前、私は「邪悪としか言いようがない」小柄な老人と出会ったことがある。も〜、理屈抜きに怖い怖い!『虎』うだるような暑さのニューヨークで、ホーマーは獣たちが地下の闇に潜み、じっと待ち構えていることに気がついた。鮮やかな語り口、主人公の妄想が徐々に膨らんでいく過程やクライマックスは見事で、結末にも恐怖の余韻が。『雪』「あそこにいるのはあの女ではないだろうか」アリスは、夫が前妻エリナーを引き合いに出して、自分を非難するのが耐えられない。執念って、降り積もる雪に似ているのかも。『ちいさな幽霊』チャーリー・ボンドが死んで以来、私は身を切られるような孤独を感じていた。気分を変えるために滞在した友人の屋敷で、私は小さな幽霊と出会った。これはちょっと切なくて素敵な物語。 |
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ドン・イシドロ・パロディ六つの難事件Seis Problemes para don Isidro Parodi | 1942 | |
ホルヘ・ルイス・ボルヘス&アドルフォ・ビオイ=カサーレスBorges&Casares(木村榮一訳・岩波書店) | ||
短編集『世界を支える十二宮』『ゴリアドキンの夜』『雄牛の王』『サンジャコモの計画』『ダデオ・リマルドの犠牲』『タイ・アンの長期にわたる探索』 ★★★ホルヘ・ルイス・ボルヘスとアドルフォ・ビオイ=カサーレスの共作「チェスタトン風」探偵小説。 アルゼンチン(あたり)が舞台。身に覚えのない殺人の罪で、二十一年の懲役刑を受け、獄中生活を続けている元理髪店店主、イシドロ・パロディのもとには、何故か奇妙な事件に巻き込まれた人々が相談にやってくるのだ。その人々の話たるや、饒舌というか冗長というか、やたらと長たらしい上に知識をひけらかす傾向もあり、その上自分本位な見方しか出来ないときては…。その上、名前は長ったらしいし(一体何者やねん、コイツ)、言ってることの半分も理解できないぞっ…と、泣く泣く読んでいたのですが、独特のリズム感はなかなか心地よいし、ときにはクスっっとさせられたりして、病みつきになる感じもあり。しかも、最後にイシドロ・パロディが導き出す真実は、これがまた深いんですよね。ものすごく遠い世界の出来事が、イシドロ・パロディによって突然、私たちの世界と結びつけられて共感させられたり、人間の生き死にってものをさらっと扱っているあたりは、なるほどさすが南米って感じもしたり、微妙な距離感が面白いです。万人にオススメってわけにはいきませんが、独りひそかにほくそえみたい、というタイプの方には良いかもです(^_^)以下、簡単なあらすじなど。 『世界を支える十二宮』新聞記者モリナリは人を一人殺してしまった。十二宮の順番をいい間違えたばっかりに。…やっぱ、閉鎖的な社会って怖いわ。『ゴリアドキンの夜』急行列車の相部屋の男は、皇女のダイヤを盗んだなどという法螺話を。…これが一番分かりやすいかも。ブラウン神父も出てくるし(笑)これ以降準レギュラーになるモンテネグロは最高のキャラ。『雄牛の王』ある手紙が紛失した。スキャンダルの種になりかねない手紙が。…この短編はワタクシ、理解できませんでした。とりあえず結末だけは分かったけど(爆)『サンジャコモの計画』勲章受勲者の一人息子の婚約者が不信な死。そして息子も突然の自殺。一体何があったのか?…真相はあまりにも酷く、哀しい。『ダデオ・リマルドの犠牲』ヌエボ・インパリシアル・ホテルで起こった殺人事件の犠牲者である貧相な田舎者は結局何者だったのだろう。…これも痛い真相だった。こんな動機があったとは。でも分かる気がする。『タイ・アンの長期にわたる探索』盗まれた宝石を取り戻すため、魔術師ははるか中国からアルゼンチンにやって来た。…イシドロ・パロディの素晴らしい推理と人間性に脱帽しつつ、護符の起こす奇跡って何なの?と思うのであった(*~~*) |
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ワイズ・チルドレンWise Children | 1991 | |
アンジェラ・カーターAngela Carter(立石光子訳・白水社) | ||
おはよう!自己紹介をするわね。ドーラ・チャンスです。こんな場末へようこそ!75歳の誕生日を迎えたドーラと双子の妹ノーラのもとに、大ニュースが。玄関の「おじいさんの時計」が8時にちゃ〜んと鳴ったことじゃないよ。求めても答えてくれぬまぶたの父、サー・メルキオール・ハザードの百歳の誕生日を記念する祝宴にご招待申し上げます、ってことなんだ。ホイールチェアをつれていざ出陣だ!「今晩なにを着る?」そう、パーティーは今晩だ。うたって踊るこの嬉しさ!60代の終わりまでストッキングのモデルが出来たこの足をぐっと見せびらかして、チャンス・シスターズの登場だよ。 ★★★アンジェラ・カーターの遺作。Wise Children=賢い子供っていうのは作中のペリーのセリフ(古諺でもある)「自分の父親を知る子は賢い子どもだ」、とつながっている。 ドーラとノーラは双子の姉妹。一卵性双生児だが、左右対称だったことは一度もない。ノーラは「そうね!」といい、ドーラは「かもね……」といいながら生きてきた。往年のシェイクスピア名優にして父のメルキオールには、自分の子どもではない、と正式に認知された(ところが、奇怪な偶然とはあるもので、父と同じ誕生日に生れ落ちたのだ)という悲しい過去。双子姉妹の母親は二人を産み落とすとすぐに死んでしまった、とこれまた悲しい過去。そこで「グランマ」こと、ミセス・チャンスが二人を引き取って育ててくれた(茹でキャベツで!)ってわけ。そしてある日、ペリーがやってきた。メルキールの双子の弟で、正体不明の大金持ち。大好きなペリーのおかげで二人は愛と、毎月の小切手に不自由しなかった。だけどね、やっぱり…「お父さん」…生まれてから一度も口にしていないこの言葉、考えただけで鳥肌が立った。 最初はなにがなんだかわからなかった。登場人物はややこしいし(双子がつごう…ええっと、5組!も出てくるんだ)、過去と現在は入り乱れているし、でもドーラのイキのいい語り口につられて読み進んでいくうちに、すっかり物語の中に入り込んでしまった。とにかくほんと「イキがいい」!双子のショウ・ガール、チャンス・シスターズの最初の役はスズメだった。パントマイムもやった。巡業にも行った。山ほど恋もした。ニューヨークはハリウッドにも行った(映画はとんでもない失敗作だったけど)し、危うく結婚するところだったこともある。ああ、輝かしい数々の思い出!どんちゃん騒ぎをくりかえしながら、精一杯、猛スピードで生きてきたのね。うたって踊る二人の横にもうしろにも、華やかなショウ・ビジネスの世界にうかんで消える(決して消えたりしないしぶといのも!あるいは、消えたと思ったらまた出てくるのも?!)人々の影が、そこはかとない哀愁を漂わせている。(ドーラには「アイシュウだって?何ソレ?」って言われそう。せいぜい、ヤルセナイこの気持ちっ!、ってとこか(笑)だけど、ドーラとノーラ、このはじけちゃってる双子の、心の底に流れてるやるせなさ…「…お父さん…!」この思いが素直に胸を打ち、見かけは新奇でありながら普遍的な感動をもつ作品になっていると思うのだ) 登場人物はどれも最高のキャスティングって感じだ。デイジーも魅力的だし、レディA(ホイールチェアのこと!)の味わいもいい。中でも、グランマ!ある日のピクニック、調子にのった魔術野郎ペリーとの会話がすごく気に入ってる。「ノコギリもってる人はいませんか?もしいたら、グランマを半分に切って見せます」「絶対にゴメンだね」とグランマ。「中から何か出てくるとまずいからね」…ああグランマ!結婚式に、ジンとキャベツと古い下着のナフタリンが混じってできるあの懐かしいアロマの香りとともに登場したときのあなたは素敵だった。これでもう安泰。「最悪に備えるのは、まず最善をつくしてからだろ!」 カーニバルも大団円が近づく。いや、これはただの「華々しい小休止」?ここで終わればハッピーエンド!だけど今日は私たちの誕生日、これからもいつまでも、「いずれコロっといくまで」うたいつづけて踊るんだ。うたって踊る、この嬉しさ! (ところで、この作品にはシェイクスピアから聖書から、あるいはアメリカンポップスからなんから、あらゆる引用が使われている。あまりの素養のなさからここらへんにはほとんど触れることが出来ないが、語り手のドーラはきっと、「What?You Will…」と苦笑いして許してくれるだろうと思うんだ) |
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