コルタサル短編集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇 | |
フリオ・コルタサルJulio Cortazar(木村榮一訳・岩波文庫) | |
短編集。『続いている公園』『パリにいる若い女性に宛てた手紙』『占拠された屋敷』『夜、あおむけにされて』『悪魔の涎』『追い求める男』『南部高速道路』『正午の島』『ジョン・ハウエルへの指示』『すべての火は火』 ★★★面白かった…。しかし感想はちょっと、言葉にならないというか。あらすじも難しいので、各作品の書き出しをそのまま。 『続いている公園』彼は数日前にその小説を読みはじめた。急用があって一度投げ出したが、農場にもどる列車の中でふたたび手にとって見た。・・・現実の切れ目は虚構の世界、それとも? 『パリにいる若い女性に宛てた手紙』アンドレ、本当はスイパーチャ街にあるきみのアパートに越したくなかったんだ。いや、子兎のせいじゃない。・・・子兎を産みつづける男、手の施しようも無くぼろぼろになっていく部屋、不気味なほど静まり返ったイメージ。たくさんの子兎がいるはずなのに。 『占拠された屋敷』あの屋敷は古くて広々としているうえに、曾祖父母や父方の祖父、両親、それに幼い頃の思い出が秘められていたので、ぼくたちはとても気に入っていた。・・・払ってもはたいても、すぐに積もってしまうほこりのように過ぎていく時間。何か、止まってしまったような。 『夜、あおむけにされて』ホテルの奥行のある玄関の中ほどまで来て、ふと間に合わないような気がした。あわてて外に飛び出すと、隣の守衛に頼んで片隅に置かせてもらっていたオートバイを引き出した。・・・目覚めている時が現実?見ているものは夢?フラットに交錯する世界の、どちらに生きているのだろう、私は。 『悪魔の涎』どう話したものだろう。ぼくは、と一人称ではじめるべきか、きみは、彼らはとすべきか、それとも何の役にも立たない形式をたえず生み出して行けばいいのだろうか。・・・一枚の写真をみつめる。雲が通りすぎて、写真の中の風景が活動をはじめ、見つめている自分が時間の中に閉じ込められて。見つめている青い空と、通りすぎる雲のイメージ。それは画面の中の世界。 『追い求める男』昼過ぎにデデーが電話をかけてきて、ジョニーの具合が悪いと言ったので、僕は急いでホテルに駆けつけた。ジョニーとデデーはニ、三日前から、ラグランジュ街のホテルの五階に泊まっている。部屋のドアを見たとたんにかなりひどい暮らしをしているなと思った。窓は真暗な中庭に面していて、新聞を読んだり、相手の顔を見ようと思えば、昼の一時でも明かりをつけなければならない。・・・この作品集では一番長い。なにかを追い求めるサックス奏者ジョニーと、彼の伝記を書くブルーノ。「お前が書き忘れたのはこのおれのことなんだ」ジョニーの追い求める、彼の神様。それは、本当の…なんというか、いわゆる「神様」ではなくて……。 『南部高速道路』最初のうち、ドーフィスの若い娘はどれくらい遅れたか時間を計ってやるわと息巻いていたが、プジョー404の技師はもうどうでもいいという気持ちになっていた。・・・永遠につづく渋滞の列。すぐ隣にある現実のなかにひそむ陥穽。ありえた別世界は甘美な夢のようで。 『正午の島』マリーニは礼儀正しく左側の座席のほうに見を屈めると、ランチのトレイを載せるためにプラスチック製のテーブルを起こしたが、そのとき初めて島を目にした。・・・この現実は、マリーニのための通過儀礼? 『ジョン・ハウエルへの指示』あとになって、つまり通りや列車の中、あるいは野原を横切っている時にゆっくり考えれば、全てがばかばかしいものに思えたことだろう。しかし、劇場に入るというのは、不条理と手を結び、その不条理が効果的でしかも豪華な形で演じられるのを目にすることにほかならない。・・・何から逃げるのかわからないが、ともかく逃げるのだ。勢いをつけて、暗い通りを走る。不条理の裂け目に迷い込んでしまったら。 『すべての火は火』熱気に包まれた円形闘技場で二時間も待たされたというのに、観衆は疲れも見せず歓呼の声をあげる。総督は腕を上げてそれに答えると、石化したようにしばらくその姿勢をつづける。いずれ自分の彫像もこのような姿になるのだろうと、皮肉っぽい思いで考える。・・・生々しい思い、押し殺された感情、退屈と熱狂。火がすべてを焼き尽くしたあと、そこには何が残っているだろう。 どうも、イメージの断片だけになってしまって、わけがわかりませんねえ(^_^;)あとがきに「メビウスの輪」という言葉が出てくるのですが、まさにそんな感じ。夢と現実、紙の裏表のような存在が、いつのまにか交わって、閉じ込められる。後半の作品では、脱出口が示されているようですが、その先はどうなっているのか、誰にも分からないのでしょう。足元をすくわれるような読後感、逃げ出したくなるような焦燥(でも、一体どこへ?)。いいです。全部面白かったけど、イチオシは『すべての火は火』ですかね〜。すごく、上手い。参りました。感覚的に好きなのは『悪魔の涎』。映像的な面白さがあります。これをもとにした映画もあるそうですね。オススメです。 |
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貴門胤裔 | 1999 |
イエ・グワンチン(吉田富夫訳・中央公論社) | |
清朝の初代皇帝ヌルハチの実弟コルハチを先祖にもち、愛新覚羅から金(ヂン)氏に改姓した一族。一人の父と三人の母と、十四人(男女半々)の子供たち。中国きっての貴族の末裔たちの物語。 ★★★作者は実際にも清朝有数の貴族エホナラ家の末裔で、かの西太后は作者の祖父の従姉なのだとか。すご〜い。物語は、やはり作者の血縁につながる詩人、納蘭性徳の「釆桑子」が原題で、その一句一句が各省の題名になっています。語りは末っ子にして、「ネズミっ子」のあだ名で呼ばれた七女舜銘(シュンミン)。 第一章「凄凉しき曲」一番上の姉シュンヂンのお話し。金家ではみなが京劇好きで、お坊ちゃんもお嬢ちゃんもなかなかの素人役者。なかでも一番上の姉(大格々)はいつもトリと決まっていた。大家の我儘お嬢のシュンヂンだが、なぜか貧相な胡琴弾きのドンゴオの稽古には素直に従った。京劇の華やかさが目に浮かぶような描写がいい。「好(ハオ)!」の掛け声が虚空に響いて消えていく。 第二章「風も蕭々」老ニ、老三、老四と呼ばれる次男、三男、四男のお話し。ホワンスーミーという女性を巡って火花を散らしていた三人だが、彼女は実は国民党の特務で…。造反派のつるし上げにあった三人のうち、老ニは自ら命を絶ってしまう。いろんな運命が狂った時代、恐ろしい…。 第三章「雨も蕭々」ニ格々、シュンメイのお話し。姉妹のなかでもひときわ美しい二番目の姉は、商人と駆け落ちして以来、縁を絶たれていたのだ。その姉の訃報も、頑なな心と永い断絶を解くことは出来なかった。遠い昔、シュンメイが病床の母に会いにきた雨の日のイメージが、物悲しく心に残る。 第四章「灯火痩え尽きて」ヂュウタイタイ(祖母の弟の夫人)とヂュウイータイタイ(祖母の弟の側室)が住む、「鏡児胡同」へ滞在する季節がきてしまった。私が一番行きたくない場所。二人がかつて養子として迎えたパオリーゴは、ある日出奔して行方知れず。ヂュウイータイタイが書き残したノートには、ちょっと参ってしまった。 第五章「何事の懐抱をめぐるぞ」四格々シュンミンとリャオシーデーのお話し。いまわの際に、遺骨の扱いはかつて親しかったリャオシーデーさんに従えと言い残したシュンミン。彼は建築家として成功した彼女の、最初のお師匠さんだったのだ。以心伝心って、本当にあるのかな?淡く確かな付き合いの結末に、ライラックの花はよく似合うかも。 第六章「醒めるも無聊」老五シュンベイとその息子ヂンルエのお話し。奇矯な性格で、乞食の真似などした挙句にアヘン中毒で死んだシュンベイの息子ヂンルエは、めったといない怠け者。農村下放中に、後家さんとくっついてダラダラと生きてきたのだが。お乞食さまだったシュンベイの茶碗がじつは値打ちものだということから、話はとうとう訴訟騒ぎに。ま、それもいいんじゃないかと。なんか生き生きしてるし。しかしみんな、シビアでこすっからいのね。 第七章「酔えるも無聊」五格々シュンリンとその最初の夫ワンイェンヂャンタイのお話し。財産もちの夫婦だった二人は働きもせず仙人のようにのんびり暮らしていた。夫のほうは酒と道教修行に明け暮れていたが、やがてこの二人にも危機が。この夫、愛すべき人物ではある。飄逸、洒脱、無心、恬淡とはよくいったもので。五行散なる薬を飲んで奇妙な歩き方をしてみたり、添油法をやってみたり、これはかなりの人物である。助けたくなっちゃうのかな〜、っていうか、助けないわけにもいかないんだろうな。 第八章「夢か」老六シュンヂェンとその身代わりヂャンシュンヂェンのお話し。生まれつき頭に角を、からだに鱗をもって生まれたという六男は、父の秘蔵っ子だった。留守中に急死した彼のかわりに、父はやはり頭に角のある子供を六児と呼んで可愛がっていた。人生とか、運命とか、抗えないものがあるんだなあ〜と思う。何とかしたくても、何ともね。 第九章「曲の罷れば……」老七シュンチュエンのお話し。靴下工場の女工リーリーインと結婚したシュンチュエン。風流な文人である彼と、女工だった妻は似合いの夫婦とはいえないが、娘を授かりまずまず幸せな家庭を持っていた。やがて肺ガンで倒れた老七は、先祖の墓地を見てきて欲しいと私に頼んだ。いろいろな人々の思いが渦巻く中、語り手にとっての最後の兄弟もついに死を迎える。思えば長い年月を、驚くべき激動の時代を、生きてきたものだ、この人たちは。 ・・・・・・。も、終わっちゃうのが勿体無いような、永い余韻ののこる作品でした。ちょっと上の感想をよまれると、すげ〜暗そう、と思われるかもしれませんが、とってもユーモラスで面白いんですよ。人物は妙にリアルで、嫌なヤツは嫌なヤツなりに滋味がある。薀蓄もたっぷりあってそのへんも楽しめるし。しかし、書かれている内容はかなりシリアス。文革はかれら知識階級には手ひどい仕打ちをしているし、昔親しくしていた人も、造反といって彼らを糾弾するために現れるし。人間って、怖い。でも作者はそれをさらりと描いているのがすごいです。乗り越えられるものなんだなあ。自らの階級意識も自覚しつつ、貴族という存在の空しさも、血縁というものへの強い思いも同時に抱え込んで描かれたところが、う〜ん、さすが中国四千年(?)って感じをうけましたね(←アホ丸出し)でも、ほんと、スケールでかいです…。 |
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海神丸 | 1922 |
野上弥生子(岩波文庫) | |
「十二月二十五日の午後五時、メイン・トップ・スクーナ型六十五トンの海神丸は、東九州の海岸に臨むK港を出帆した。目的地はそこから約九十海里の、日向よりの海に散在している二三の島々であった」晦日までに何かひと船積んで帰って、正月銭を余分に取ってやろう。船長の小谷は、そんな気楽な思いで、だが航海の無事を金毘羅様へ祈りつつ出帆した。乗組員は全部で四人。船長の甥で、まだ初心な若さの残る三吉、やや抜けたようなところのある五郎助、一癖ありげな利かぬ顔の八蔵。やがて船は猛烈な勢いの風と、波と雨に翻弄され、航路を大きく外れてしまう。 ★★★大正六年、実際に起こった高吉丸遭難事件に取材して虚構化されたモデル小説。 出帆してすぐ、襲い掛かる凶暴な波の姿に「追手がつづけば十時間ですべりつける島も、運が悪ければ三日や四日はかかるのは珍しくなかったので、一日流されたぐらい、気にもかけなかった」四人の乗組員たちですが、荒れ狂う海に翻弄されます。しかし、波と戦う彼らは平生よりも活気づいて、その顔は凛々しくさえあったのですが。やがて、「風の荒らし残したものは波が荒らした。波の手の届かぬところは雨が引き受けた」という状態に至り、海神丸はただ一本の帆柱を持つのみ、蒲鉾板一枚を水に浮かべたような漂流船となって漂いはじめます。そして、厨房係の三吉は叔父である船長に、米はもうあと一斗と残されていないことを報告します。 凄まじい状況なのですが、描写はどちらかというと坦々としていて、それがかえって臨場感を感じさせるものになっています。乗組員たちのことばも、九州弁でしょうか、強い感じの言葉でいかにも船乗りらしい。海へ出てすぐに嵐に遭い、気楽に受け止めていた彼らが、自然の本当の脅威にさらされて次第に絶望へと陥っていく姿が、迫真の筆致で描き出されていきます。やがて、八蔵はあまりの飢餓から、普段は口にしない獣肉のイメージが頭から離れなくなり、それはやがてすぐそこにある人肉への欲望に代わっていくのです。八蔵は五郎助を引き入れ、三吉を惨殺することに成功するのですが……。 究極の選択としてのカニバリズム。これは怖いテーマですね。結局、八蔵も五郎助も、人を殺したという実感の恐ろしさに耐えかねて三吉の肉を食う、ということは出来ずに終わるのですが。 殺人はまずいですよね。それは確か。しかし、「殺したけど、自分が生きるために食った」場合と、「殺したけど、人倫に悖るから食わなかった」場合には、後者のほうがより罪が軽いのでしょうか。またもし、三吉が自然死だったら?それでもこの究極の状況で、三吉を食わない、というのは正しいのか?というより、三吉を食っていけないのか?飢餓という、非常に人間の本能に根差した部分での危機に瀕したときに、どう行動することが「正しい」のか、というのはいくら議論しても空しいような、そんな気がします。いや、むしろ「正しい」などと言うことに何ほどの意味があるのだろうか、などとも。結局八蔵たちは三吉の肉を食うことをせず、船長は彼らを哀れみます。これを救いというべきか甘いというべきか、などと考えてしまいました。 ま、そんな重いテーマも孕みつつ、私が印象に残ったのは、板子一枚下は地獄、といわれる海に生きる男たちの信仰の深さですね。やや単純な、それだけに真摯な。「気まぐれなあの風と、ちょっとしたことにもすぐ怒って狂いたつ波を相手に暮らす自分らの渡世で、神様の力よりほかに何が頼みになるものがあろう。この決定的な信頼は、一枚のお札の前にも、彼らを子供のように手を合わさせた」。特に信仰を持たない私ですが、「信仰を持たない」などと言うことが寧ろ薄っぺらく感じるような。この単純さが本当の信仰なのでしょうね。 この文庫には、『海神丸』と、その海神丸を救ったという貨物船の乗組員の話が後日談として収録されており、なかなかに興味深い内容でした。 |
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午後の曳航 | 1963 |
三島由紀夫(新潮文庫) | |
「自分は今、たしかに目の前に、一連の糸が結ぼおれて、神聖なかたちを描くところを見たと思った。それを壊してはならない」部屋に外から鍵をかけられる夜に、密かに母の寝室を覗く登がみたものは、「宇宙的な聯関を獲得し、彼と母、母と男、男と海、海と彼をつなぐ、のっぴきならない存在の輪」であった。奇跡の瞬間に立ち会った感動は、やがて赦しがたい裏切りに対する憎悪へと変貌する。 ★★★昭和38年の作品です。ある種の少年犯罪を描いたものであり、登場人物の少年に「刑法第四十一条、十四歳ニ満タザル者ノ行為ハ之ヲ罰セズ。」などというセリフを言わせているあたり、テーマの普遍性を感じさせて凄いなあという感じもありますが、個人的にはそういう読み方ではなくて、一つの完成された世界観の中に在る少年たちの行動と、夢想と現実の間で揺れ動いて定まらず、やがて父親となるという悪徳によって少年を裏切る男の内面の対比が、奇妙にリアルに感じられて興味深かったですね。登が覗き見る母の寝室のひそかな淫靡さと、唯一赦すべきものである「海」のイメージ。二つを結びつけて登に「世界の内的関聯をたしかにキャッチ」させた船乗り竜二。しかし竜二は航海生活のなかに栄光はどこにもなかった、と絶望し、女の罠に自ら落ちていきます。少年たちにとってもっとも憎むべき堕落した存在である「父親」の役を演じようとする竜二を、登はそれが彼の罪科であると断じるほかはなくなります。 「彼らは危険の定義がわかっていないんだ。危険とは、実体的な世界がちょっと傷つき、ちょっと血が流れ、新聞が大騒ぎで書き立てることだと思っている。それが何だというんだ。本当の危険とは、生きているというそのことの他にはありゃしない」 生きていること、存在すること、成長すること。それは腐敗し、屍臭を身につけるということなのでしょうか。少年たちはそれを、特権と憐れみをもって許し、そして時に反撃する。この構図の中に在る大人たちの欺瞞に満ちた生活も、決して否定すべきものではないと思いつつ、少年たちの透徹した哲学のまえに砕け散ってしまいます。 現代人が読むと、どうしても「少年犯罪」の部分、残酷な猫殺しのシーンなどに最近の出来事を絡み合わせて読んでしまいますし、この繊細さや孤独感は現代ではより強いものになっていることでしょう。そういう意味で現代と合い通じるものがあることは確かですが、わたしはこの不思議なほどリアリティに満ちた小説をそういう観点で読むことは出来ませんでした。少年たちの眺めるプールの底の、恐ろしいほどの深さ、少年の感じる「体を支えるものなど何もない」という実感がなにか、圧倒的でぎりぎりで…うまく表現できませんが、少年犯罪の背景、というのとも違うような気がしました。 13歳の「首領」が言う、この世界に貼られた、「不可能という大きな封印」を剥がすことは、少年たちにとっても不可能なことだということは確かで、彼らの世界もやがてまた、空しい秩序に取り込まれていくしかないのでしょう。 |
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壜の中の手記The Oxoxoco Bottle and Other Stories | |
ジェラルド・カーシュ(西崎憲 他・晶文社) | |
短編集。『豚の島の女王』『黄金の河』『ねじくれた骨』『骨のない人間』『壜の中の手記』『ブライトンの怪物』『破滅の種子』『カームジンと「ハムレット」の台本』『刺繍針』『時計収集家の王』『狂える花』『死こそわが同志』 ★★★死から甦ったという伝説(?)を持つという異色作家なんだとか。 『豚の島の女王』・・・ポルコジト島、通称「豚の島」に上陸した船長は、途方もなく巨大な白骨を一体と、せいぜい2フィートほどの小さな骨格標本を二体分、そして長く美しい髪をもつ、手と足のない骨を見つけた。それは人間の亜種、というようなものではなく、難波した舟に乗っていたサーカス団のなかの「恐怖の巨人ガルガンチュア」と「双子の小人チックとタック」、それに「ラルエット」だった。これはとても短い、しかしとても印象的な作品だった。ある占い師はラルエットを身ごもった母親(伯爵夫人)に、子供は支配者に、女王になると言ったそうである。サンタ・マリア号が難破し、豚の島に流されたラルエット。「予言はその時、成就した。ラルエットは豚の島の女王となった。彼女には三人の臣下がいた。二人の踊る小人と世界で一番醜く力の強い男。ラルエットには手はなく、足もなく、そして美しかった」奇妙でグロテスクで、恐ろしくて美しくて、なんとも言い表せないような世界が広がっている。つかのまの幸福がそこには確かにあったのだろうか?この空間の不思議な静けさと闇を感じさせる抑えた筆致は、穏やかで残酷な時間の流れがたどりつく避けようもない悲劇にぴったりだった。 『黄金の河』・・・みすぼらしい男、ピルグリム。しかし彼はかつてアマゾンの支流のある村で、ティクトクというナッツを使った博打で黄金を手に入れたことがあるという。一千万個のティクトクのうち、知恵を授かったのはたったの一個なんだとか?ちょいと感動させて、しかしやはり欲のほうが強いのが人間ってことね。『ねじくれた骨』・・・どうだね、諸君。硫黄にミネラル豊富な塩水湖に低カロリーの食事、三拍子揃ってまさに温泉つき保養地ではないか。囚人たちの。ラスト一歩手前の真実があまりに皮肉で怖すぎた。『骨のない人間』・・・ちびで丸々と太ってる。骨のない人間。水源の奥の高地にはそんな生物がいたという。う〜ん、ナマケモノの描写とか、凄い臨場感。ぞくっ。『壜の中の手記』・・・アメリカが生んだ最高の作家のひとり「辛口(ビター)」ビアス。彼が休息を求めて困難な旅の果てにたどり着いたのは、ジャングルの奥の堂々たる石の邸宅。そこで彼は奇跡的なもてなしを受ける。ビアスと神父の会話が面白い。白い騾馬もかわいいな。そして待ち受けていたものは「魂の晩餐」。いかがわしさの後ろに見え隠れするのは真実?ビアスのイメージも、いかにも。『ブライトンの怪物』・・・人間のような形をしているが、喉元から足首にかけては極彩色の奇妙で醜怪な生物たちの模様で埋め尽くされている。ブライトへムストン(ブライトン)の怪物は災いを招く怪物だった。おお〜っ、ここに繋がってくるとは。こりゃ一体、反戦小説だとでもいうのかな。『破滅の種子』・・・胡散臭い口上で二束三文のがらくたを売りつけるジスカ氏。彼の最高傑作はやはり「破滅の種子」の驚くべき伝説だろう。いや面白い。こういう話は大好きだ。『カームジンと「ハムレット」の台本』・・・ついに食い詰めた旧友サー・マシーは蔵書を売ることに決めたと言う。商談をまとめることを頼まれた吾が輩はあることを専門家に依頼した。へへ、これも好き。ラストの落ちが最高。『刺繍針』・・・両親を失った少女とその伯母が住む家で、伯母が刺繍針を頭に突き刺されて殺されたという。これはあまり好みじゃない作品。ひねりも何となくも一つでゾクゾク感がない。『時計収集家の王』・・・かつて時計収集家の王に仕えた時計職人ポメル。彼の話はなんとも奇想天外な恐ろしさに満ちていた。宮殿内の時計が一斉に鳴り出し、そして息を潜めチクタクという刻音に戻る。からくり時計のさわがしさ。いかれた時計の面白い動き。想像するだに楽しくも恐ろしい、陰謀渦巻くこの宮殿、絶対住みたくない。『狂える花』・・・植物界に人間の精神異常をに似た病気を移し、それを治療することで、狂人のための確実な救済がはかれるのだ。ヒューイッシュ博士のイカレぶりが突き抜けてる。ジャック・ホプキンス、フォーフェクス卿という脇役陣も面白い。こういう奇想、好きだな〜。『死こそわが同志』・・・ごく普通の勤め人、ヘクトー・サーレク。勤め先の金物会社がクルーガー社に買収されたのを機会に、彼は武器を商うようになった。死の代理人として大成功をおさめたサーレクにも、ただ一つ手に入らないものがあった。ああ、凄く恐ろしい物語だった。どこまで行くのだろう?あまりにも、シニカルすぎた。 好みの作品揃い。伝聞調の描き方がいかがわしさを強調するのかな。中ではやはり『豚の島の女王』がいい。おぞましさの中の静謐な美しさ。『ねじくれた骨』これが意外にもイチオシかも。『壜の中の手記』は展開はそんなに、って感じだけど妙に読ませる描写とやっぱり主人公がビアスってところが。『ブライトンの怪物』は妙な気分にさせられる。『時計収集家の王』もかなり私の波長にぴったりだった。というわけで、オススメ。 |
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ぶたぶた・刑事ぶたぶた・ぶたぶたの休日 | |
矢崎存美(徳間デュアル文庫) | |
『ぶたぶた』・・・短編集。「初恋」「最高の贈りもの」「しらふの客」「ストレンジガーデン」「銀色のプール」「追う者、追われるもの」「殺られ屋」「ただいま」「桜色を探しに」 『刑事ぶたぶた』・・・長編。 『ぶたぶたの休日』・・・中編「約束の未来」「評判のいい定食屋」「女優志願」とショートストーリー「お父さんの休日1〜4」 ★★★ついに読んでしまいました、謎の「ぶたぶた」シリーズ(^^) 「・・・そこにはぶたのぬいぐるみが立っていた。「おはようございます」どうみてもピンク色のぶたである。とても小さい。バレーボールが立っているみたいだった。手足の先に、濃いピンクの布が張ってある。大きな耳の内側にも、同じもの――そして、右耳が少しそっくり返っている」え〜、こちらが主人公の「山崎ぶたぶた」さんでございます。ぶたぶたさんは中年のおじさんです。 ぶたぶたの職業は色々です。最初はベビーシッター会社の「人事相当部長」なる肩書きだったのですが、おもちゃ屋さんの店員だったり、タクシーの運転手だったり、フランス料理店のコックだったりします。ま、あまり詳しく書くと未読の方の興を削ぐ恐れがありますのでこれくらいで(笑)あ、わたし的にはタクシー運転手のぶたぶたさんがこのみです♪ ぶたぶたさんをはじめてみた人は、一応それなりの驚き方をしますが、なぜかすぐにぶたぶたさんを受け入れてしまいます。あまりに異質なものなので、ええ〜???と疑いつづけるより、受け入れてしまったほうが精神衛生上よいのでしょうね(^^)そして一旦納得してしまったら、ピンクの可愛らしい外見を持ち、渋い中年おじさんの声で喋るぶたのぬいぐるみにみんな夢中になるのです♪ 『ぶたぶた』での一番のお気に入りは、「追う者、追われるもの」。ある女性からぶたぶたの尾行を依頼された私立探偵の内面の葛藤と、依頼主とぶたぶたの衝撃の関係が楽し〜(笑)あと「ストレンジガーデン」の女の子も可愛かった。「わたし、あなたのことがぬいぐるみにみえるんです」ぶたぶた、絶句(^_^;) 『刑事ぶたぶた』は赤ちゃん誘拐という事件を一つの柱に、幾つかのサイドストーリーを絡ませた構成。この本ではぶたぶたはずっと刑事です。新人刑事立川が、ぶたぶたの部下(ぶたぶた係?)に任命され、刑事として成長(?)していく姿を描いたもの。他愛無く笑えて、ちょっとじわんとなるような、ちょっと切なくなるような。う〜、しかし、ぶたぶた可愛い(^^)完璧な囮になるために、決死の洗濯に挑むぶたぶたさんの、脱水機からきこえる「きゃー……!」というかすかな悲鳴。どうしたらいいんだ〜(笑)はっ、笑っちゃいかん!と思いつつも笑えます。「人を殺す時っていうのは、こんな気分を味わうのか――。」立川君もお勉強になったみたいで♪個人的には祐輔とじいちゃんがすきです(^^)あ、島さんもすきです(うふ) 『ぶたぶたの休日』では、またまた職業を点々と。この中では「評判のいい定食屋」がよかったかな。甘酢揚げなす定食がいかにも美味しそう(^^)ほかの中編よりは、私は「お父さんの休日」のほうが好きでした。とくに「女優志願」のようなお話しとぶたぶたはどうもそぐわない気がします。 ぶたぶたはなぜ、ぬいぐるみなのか?ぶたぶたさんもきっと、悩んだことがあるんでしょうね。何で僕はぬいぐるなんだろって。なんかそんな哀愁もちょっぴり感じさせる、表情豊かな黒い点目が魅力的な中年紳士のぶたぶたさん、好きです♪うふ(*^^*)基本的に「ちょっといい話」系は苦手な私ですが、ぶたぶたさんのキャラにはすっかりやられましたね〜。普段は結構ひねくれ系のストーリーの方が好きだったりするのですが、このシリーズに限ってはホノボノ系のほうが断然好みでした。 |
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百年の孤独Gien Anos Soledad | 1967 |
G・ガルシア=マルケスGabriel Garcia Marquez(鼓直訳・新潮社) | |
「マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった」ジプシーのメルキアデスがやってきて、「マケドニアの発明な錬金術師の手になる世にも不思議なしろものを」見せられたホセ・アルカディオ・ブエンディアは、メルキアデスに贈られた錬金術の工房にこもり、あるいは遥か北方にある文明社会との接触の可能性を求めて旅に出る。十六世紀に海賊のフランシス・ドレイクがリオアチャを襲ったことに端を発するホセ・アルカディオ。ブエンディアとウルスラ・イグアラ夫婦は、「愛よりも強いきずなで、同じひとつの悔いによって結ばれて」おり、二人の間からはたくさんの命と数奇な運命が生まれることになる。 ★★★ノーベル賞作家G・ガルシア=マルケスの大ベストセラー。 若き族長としてマコンドの町の建設に尽力してきたホセ・アルカディオ・ブエンディアは、ジプシーのメルキアデスの感化をもろに受け、地球がオレンジのように丸いことを発見したり、つい鼻の先の、あの川の向こうにあるといういろんな不思議なもののことを考えてしまったり。妻のウルスラはそんな夫が歯がゆくてたまらない。ところが実際に川の向こうの文明をマコンドに持ち帰るのは、ジプシーについて行った息子のホセ・アルカディオを追って村を出たウルサラのほうだった。失踪した息子のホセ・アルカディオと占い師ピラル・テルネラの間に出来た息子(孫)アルカディオを育てつつ、娘のアマランタ、またいとこに当たるという口実で送りつけられた少女レベーカまでも預かって大忙しのウルスラだが、もう一人の息子で寡黙な金細工職人だったアウレリャノは、ブエンディア大佐と名乗り反乱軍の指導者になってしまう。 などとあらすじを追っていたら一生終わりそうにないのでこのへんで(^_^;)もうこれは、自分が読むのに時間がかかったから言うわけではないのですが(笑)じっくり読んでいただきたいですね〜。すんごく面白かったです。アルカディオとアウレリャノ、あるいはウルスラとアマランタという名前が繰り返しでてくる一族、運命の閉じられた輪のなかで作り出され、壊されあるいはほぐされて、また再生していく物語。ちりばめられたエピソードの多彩さ、異様さ。血の暖かさを感じさせるのに、なぜが孤独のなかに埋没してしまう登場人物たち。 とにかく同じ名前が山ほど出てくるので、記憶力に不安のある私はちょっと困ってしまいましたが、実際のところほとんど混乱することはなかったですね。きちっと描き分けが出来ていて、ここらへんはやっぱり並の作家じゃないな〜みたいな(私の基準で決めるのもどうかと思いますが^^;)。エピソードも奇妙な話が多くて面白いのですが、一番気に入ったのはレメディオスの昇天のところかな。「ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた」夢みたいに綺麗です〜♪全体的には女性のほうが個性的で印象深かったかな、どちらかというと。とくにアマランタなんか、何でそんなに執念深いんだあ〜、グズグズ考えずに幸せになれば?とか思いつつ、なんかわかるのよね。アマランタの死の場面も印象的でしたが、この作品に描かれている「死」についての観念は、何というかちょっと頷いてしまう。「人間は死すべき時に死なず、ただ、その時期が来たら死ぬんだとね」(257P:アウレリャノ・ブエンディア大佐) あ〜だめだ。何か、言いたいことが多すぎて書ききれない〜(爆)しかし、これって悲惨な歴史を描いていると言う側面も大きいんですよね。コロンビアの歴史に詳しくないのですが、内乱はかなり激しく、犠牲者も多かったのでしょうか。あるいは不眠病だの、考えられないほど長期にわたる雨季と乾季だののエピソードに込められているのは、過酷な自然現象に苦しめられた歴史があったということでしょう。それをこういう怪物的物語に押し込めて、誇大に描き出して、それを笑える(笑っているんだと思うけど)というのは、凄いことですな〜。さすがはラテンの血。日本だったらもう、すげ〜悲惨なだけの話になりそうで、それだけで読む気半減って気がしたり(笑) で、最後に…「最初の者は樹に繋がれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる」・・・ふわ〜、ここに戻ってくるんかいっ!みたいな結末でした。すごいな〜、うん。イメージより遥かに読みやすいし、オススメです。 |
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コレクターThe Collector | 1963 |
ジョン・ファウルズJohn Fowles(小笠原豊樹訳・白水Uブックス) | |
「・・・彼女を眺めるために、ぼくは珍しい蝶をつかまえるときの気持ちになる。息を殺して、そうっと近寄るときの感じだ。たとえばミヤマモンキチョウ。ぼくはいつも彼女のことをそう思った。・・・・・・とにかくほかの蝶とはちがう。ただのきれいな蝶ともちがうのだ。・・・」市役所につとめる蝶コレクター、フレデリック・クレッグはフットボーツ賭博で大金を手にする。そして突然、ミランダをお客に呼ぶという考えが、フレデリックを虜にする。「ひとたび知り合ってしまえば、彼女はぼくの美点を認め、ぼくを理解してくれるはずだった」。郊外の古い別荘を手に入れたフレデリックは、その地下室をちょっとしたアパートの一室のように飾りつけた。 ★★★イギリス人作家ジョン・ファイルズのデビュー作。 父の交通事故死と母の出奔により、伯母夫婦に育てられたフレデリックは、勤め先の市役所の別館の窓から美術学生ミランダの姿を眺めていた。「彼女は絵を書き、ぼくはコレクションに専念する。ぼくとぼくのコレクションをいつも愛してくれる彼女は、木炭や油絵具でぼくのコレクションを描く・・・」白日夢に浸っていたフレデリックに、思いがけない幸運が舞い込む。賭博で大金を手にするのだ。市役所を辞め、気儘な生活をはじめたフレデリックだったが、たとえ金を湯水のように使っても、手に入らないものがあることに気がつく。結局その金は、フレデリックとミランダが幸せに暮らすはずの家を買い、その地下室を飾りつけるために使われることになった。 ストーリーはシンプルで、孤独な蝶コレクター、フレデリックの語り、囚われたミランダの日記、そしてまたフレデリックの語り、の三部構成。フレデリックの目で見た出来事が、ミランダの日記の中で再構成される。今でもそうかもしれないが、イギリス社会のヒエラルキーがいかに人格そのものにまで入り込んでいることか、と感じられてちょっと不愉快な部分もある。フレデリックは終始おどおどと自信がなく(たとえ金があっても何にもならない)、ミランダは「スノッブは大嫌い。私、人を差別したりしないわ」などと言いつつ、彼の労働者階級的言葉遣いに我慢できない。「階級のことを考えるのはやめなさい、と彼女は言う。金持ちが貧乏人にむかって金のことばかり考えるのはやめなさいと言うように」。だが、この場で本当に力を握っているのはフレデリックのほうで、ミランダは無力だ。支配するものとされるもの。フレデリックを支配しているのはミランダ。 サスペンスフルな展開は、とくに中盤から後半にかけて素晴らしい出来栄えだ。どちらかというと静的・内向的なフレデリックの語りから、見えない外へとエネルギーを爆発させようとするようなミランダの日記へ。まったく同じ出来事を見ている二つの対照的な目が、読むものの心の中で交錯する。 ミランダ、という女性がとにかく生きている。決して立派な人間ではないが、生きていて、しかももっと生きたいと願っている。フレデリックのお金を「土を食べている子供たちのために寄付して」といい、「あなたを赦すわ」といったミランダは、立派な人間ではないからこそ素晴らしい。それに対するフレデリックの描き方、これは一体なんなのだろうか。希望が死に絶えたあとには、なにものも成長できない。当然の帰結、これ以外にはありえないラスト。確かにそうなのだが、なんともいえぬ苦いものが残る。 |
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