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林檎の木 1916
ゴールズワージーGalsworthy(三浦新市訳・角川文庫)
アシャースト夫妻が銀婚式の日に訪れたのは、二人がはじめて知り合ったトーキィの町、そしてデヴォンシャーの荒野(ムア)のはずれ・・・そこでアシャーストが見つけたのは十字路にある小さな墓、自殺者の墓だった。そして彼は思い出す。この景色、細い道、古びた生垣。その先にある農家からトーキィの町に出かけて以来、二度と戻らなかった若い日のことを、そしてメガンという少女のことを。
★★★大学の最終年、友人と徒歩旅行に出かけた先で、アシャーストはメガンと出会います。足を痛めて先に進めなくなったアシャーストはメガンの伯母の農園に滞在し、そこでメガンと愛し合うようになりますが・・・
描写が素晴らしく美しい小説です。デヴォンシャー地方の自然の風景が目の前に浮かぶようで、特に季節は春!あらゆるものが柔らかく輝く季節にこの短い恋物語ははじまり、終わりを告げるのです。
林檎の木の下で交わしたメガンとの約束を、最初は守るつもりだったアシャースト。でも、トーキィの町で友人一家に出会ってから、その気持ちが微妙に変化します。いや、変化というより、あの農園で見ていたのはただの夢だったのだと気がついたのでしょうか。それは本当にひどいことでした。でも・・・メガンはあの農園においてこそ素晴らしい。ロンドンで暮らすとメガンの「野の花」のような感受性は、輝きを失うに違いありません。そして、アシャーストの中に階級主義的優越感があったことも否めません。メガンをロンドンに連れて行ったところで、恥ずかしいように思って人に紹介も出来ないことでしょう。
それでもなお、メガンがアシャーストを追ってトーキィを彷徨う場面は胸が詰まります。アシャーストは彼がなじんできた世界に住むステラと、果樹園の林檎の木の下にたたずむメガンをおもって、静かにはぐくむ愛と、熱狂的な恋をくらべて、ステラを選ぶのです。廉潔という報い?善良な青年!苦笑いする彼は若い。そしてメガンは・・・
「不思議でごぜえますなあ。娘っ子が恋のために何をするかってこたぁ」今さらアシャーストにできることはありません。ただ、恋の女神シィプリアンの復讐をわが身に受けるだけです。
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魔法飛行  
加納朋子(創元推理文庫)
「私も、物語を書いてみようかな」―駒子が学校を舞台に、愛すべき友人たちを登場人物に描く物語。『秋、りん・りん・りん』『クロス・ロード』『魔法飛行』『ハロー・エンデバー』・・・そして不思議な三通の手紙。
★★★『秋、りん・りん・りん』十月の甘い風の中、彼女は立っていた。駒子が「茜さん」とひそかに名づけた彼女は、駒子と同じ授業を受け、複数の名前を出席簿に残していた。奇妙に思う駒子を、「茜さん」は昼食に誘う。毒のある言葉をはきながら、駒子の友達がくるとさっさと席をたった彼女に駒子は当惑を隠せない。いったい「茜さん」の正体は?「茜さん」からの、あまりにも不可解な悪意。「茜さん」がどうしてこんな行為をしたのかは、おぼろげながら理解できるけれど、駒子に直接向けられた敵意の謎は、この段階では解き明かせません。虫の音に包まれて、我が家の玄関先の蛍光灯にほっとする駒子の心細さが痛いほど。りん・りん・りん・・・ライカ犬クリャドフカが聞いたこの鈴の音の向うに広がる永遠の闇と孤独は、どこかにつながっているのでしょうか?
『クロス・ロード』駒子が行きつけの美容院で聞いた「宮下町の交差点の噂」。一年前の暮れ、そこで少年が車に轢かれて死んだのだという。絵描きだった子供の父親が交差点の壁に描いた少年の絵が、真夜中に動き出す、という。その絵を見に行った駒子は、絵が変化していることに気がつく。絵画に封じ込められた「凍りついた時間」。しかしこのコンクリートの壁の絵はその「凍りつく時間」へと変化していった。その「とき」を忘れさせはしないという執念を込めて?十字路に立ちすくむ画家は、この絵がすっかり変化を遂げたとき、一歩を踏み出すことが出来るのでしょうか。そして同じこの交差点で、駒子は昔、車に轢かれかけて見知らぬ人に助けられたことを思い出します。
『魔法飛行』学園祭の受付嬢をやる羽目になった駒子は相棒の野枝とともに、秋風吹き抜けるテントに座っていた。パンフレットを売ったり、子供たちには風船をプレゼントしたりするのが役目だ。そこへ野枝の幼馴じみ、卓見が現れる。UFOなどを撮影するのが趣味の「変なやつ」だ、と野枝はにべもない。そんな野枝に卓見はテレパシーを見せる、と言い出す。がちがちのリアリスト、野枝と、夢多き青年、卓見の恋物語。ボイジャーが届けるメッセージに託された夢を嬉々として語る卓見に対して、「何たるロマンティスト」とため息をつく野枝はいいカップルだなあ。卓見が見せた魔法に対して、魔法で答える野枝。心が飛行した瞬間、人はきっと、いろいろなものを飛び越えてしまうんでしょうね。
この三つの話を見ていたある人物から、三度目の、そして最後の通信が届く。
『ハロー、エンデバー』ふみさんや愛ちゃんとクリスマス・コンサートに行った帰り、いつの間にか手紙は駒子のバッグに入っていたのだ。その遺書めいた手紙に驚いた駒子は差出人「坂口亮」を探すため、瀬尾に助けを求める。彼の助言で図書館に行った二人は、図書館職員「坂口亮」の存在を知る。彼の家を訪ねた駒子はそこで「茜さん」に再会する。一体「坂口亮」とは誰なのか?「知らないところでどんなことが起こったって、それはなかったこととちっとも変わらないものな。・・・ライカ犬という唯一の聞き手を亡くした後で、いくら鈴がきれいな音で鳴り響いたって、それは何の音もしなかったこととまるきりかわらない」「でも、手紙は私のところへ届いたわ」―伝えたい思いがあって、伝えたい相手がいて、それがつながることは奇跡のようなものなのかも。(世の中にこんなにたくさんのカップルがいるのが不思議に思えて仕方ない私としては^_^;・・・心がつながるのって難しいし、努力が要るもんですよね?魔法を見せるような・・・)ハロー、と呼びかける遥か彼方のエンデバーからの通信が、私たちに届くことができるように、私の心も遥かな時と空間を越えて、見えないあなたに届きますように・・・。そしてぐるぐる回る回転木馬の上から発信された駒子のハローが、あの人に届きますように。
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K−パックスK-PAX 1995
ジーン・ブルーワーGene Brewer(風間賢二訳・角川文庫)
その男は運動家(アスリート)のような筋骨逞しい体つきをしていて、浅黒い肌、漆黒のふさふさした髪を持っていた。瞳の色はわからない。男はいつもサングラスをしていたから。K−PAXのほとんどの時間はこの地球の黄昏時のような明るさなのだから。「なんてここは明るいんだ」―遥か七千光年の彼方、琴座にある惑星「K−PAX」からやってきたその男、プロートと、精神科医ブルーワーのセッションはいつも果物を食べるところから始まる。素晴らしき故郷の惑星「K−PAX」を語るプロートは豊富な知識と、不思議な魅力の持ち主だ。かれはブルーワーが診断したとおりの妄想患者なのか?彼が来て以来、精神病院内の患者たちに起こった変化は、ブルーワー医師を戸惑わせる。やがて彼は「K−PAX」に帰る日が近づいたと言い出し・・・
★★★「彼を異星から地球―夢から現実の世界に連れ戻してやることができるのだろうか?」
精神科医ブルーワーからみたプロートは、まさに妄想患者であり、記憶喪失症である。まあ、それは本当のことだ(多分)。病名を付けないといけませんからね。そして病名がついたからには、直さなくてはいけません。ブルーワー医師はセッションを重ねることで、「K−PAX」など妄想の作り出した絵空事だと、プロートに納得させようとします。しかし、この戦いはプロートの方が一枚上を行き、チェシャ猫のような笑い(想像するだにいらいらしそう)で医師の心をかき乱します。ここらへんの、医師と患者の戦い振りは面白いですね。医師の連戦連敗が続きますが、あるとき医師は彼の存在が他の患者たちに有益に働いていることに気がついてジレンマを感じます。確かにプロートと「K−PAX」の存在は、現代社会に適応できない心を病んだ人々のよりどころになっているようです。でもなぜ?なぜ、みんな「K−PAX」に連れて行ってくれと熱望するのでしょうか?
ブルーワー医師の、プロートを夢から現実の世界に連れ戻そうという努力には敬意を表しますし、最終的にはプロートが現れた原因が見つかることは大切なことだったんだな・・・とわかります。でも現実の世界に戻る、ということはそんなに大事なことなんだろうか?幸せである、ということと矛盾することはないのだろうか?と考えさせられてしまいました。
精神を病むことからくる苦痛をなくし、心安らかに生きていけるようにすることが、精神医学なのか?たとえば、トラウマを処理しきれずに人格分裂が起きた場合、どこまで治療するのがよりよいやり方なのだろうか?もし、そういうことに自分が陥ったとしたら、どこまで治療を望むのだろうか?なんだか、わからなくなりました。エルニーもハウイーも退院した後「とても生産的な生活を送って」いるそうなので、それはとっても喜ばしいことなんですが。・・・なんにしろ、この世に適応して生きていくって言うのは大変なことです。彼我にはほんのひとまたぎほどの川が流れているだけに過ぎない、ということを実感せずに生きている現代人は少ないのではないでしょうか。
「地球人より退屈な生き物がいるか?」・・・ねえ、もしかしてETがいるとしたら(出会えなくても、絶対いると私は思うんだけど)こんな風に思われたら、シャクですよね〜。
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ななつのこ  
加納朋子(創元推理文庫)
(・・・懐かしい)麦藁帽子の少年がたたずむ表紙絵に惹かれて買った短編集『ななつのこ』の作者にファンレターを送ったことから、短大生入江駒子と作家佐伯綾乃の文通は始まった。いや、文通というより、駒子が遭遇する小さな謎に、綾乃が答えを見つけてくれる、そんなやりとりだ。日常にあふれている、ささやかで、本当は大切な謎・・・ななつの事件を通して駒子と綾乃がともにたどる真実とは。
★★★麦藁帽子の少年はやてとサナトリウムにいる「あやめさん」が織りなす物語は、駒子に日常の出来事を連想させます。『すいかお化け』ははやてが任されたスイカ泥棒の見張り役に失敗したと悔しがるお話。「弱虫はやて」の汚名を返上しようと頑張ったのに・・・この話を読んだことから連想した 『スイカジュース事件』を書き送った駒子は意外な真相を知ることになりました。実はこの『スイカジュースの涙』では私は少々戸惑いました。あんまり好きな作品じゃないかも・・・?と思いつつ『金色の鼠』といういやにシリアスなお話から出てきた『モヤイの鼠』・・・この話は好きでした。高校時代美術部で一緒だったたまちゃんと美術部の顧問の先生と、わたし。三人三様の絵に対する考え方が面白いですね。本物である、ということの意味を考えさせられます。『空の青』というほほえましいお話から出てきたのは『一枚の写真』。アルバムからなくなっていた写真が返ってきたことに関しての謎解きにはほとんど意味はないでしょう。大事なのは、物事が本当にあるべきところに存在するということの大切さ、でしょうか?『水色の蝶』から出てきたのは『バス・ストップで』。人間って自分勝手ですよね。おかしなものを作り出したり、境界を決めちゃったり。もっとおおらかに生きられるといいのにね。『竹やぶやけた』からは『一万二千年後のヴェガ』。プロントザウルスのたどった運命に、人の世の妙を感じます。何が幸いするかわからないから・・・(幸いしないかもしれないから)この世は面白い。『明日咲く花』の紫陽花の青色は『白いタンポポ』の存在を駒子に知らせます。あまりにも情報が溢れていて、そして物事を判断するすべすらその情報から得ようとするあまり、本当の姿を見ることが出来ない、というのは怖いこと。真雪ちゃんの周りにいたのは決して悪意の人々ではないけれど、それでも彼女が駒子に出会えたことがどれほど大事だったか。巡り会いですね。そして『ななつのこ』。ここで駒子はあのイラストを描いた麻生美也子、宇宙好きの青年瀬尾、作家佐伯綾乃、白いタンポポを描いた少女真雪らと再び出会い、そしてある真相にたどり着きます。彼らの出会い、もしかしたらそれは、『ななつのこ』を救うための運命だったのかもしれません。
全編を通じて駒子の友達たち、お嬢の愛ちゃん、芸術家気質のたまちゃん、まっすぐなふみさんという個性豊かな面々が物語に彩りを添えています。そして駒子自身、お気楽そうでちょっとおセンチで八方美人でもあるのかもしれないけど、でもとても深く強い心をもった人なのです。「野山を歩くとき、人はもちろん、自分の意思以外の理由で立ち止まりはしない」―駒子さんが憧れたように、私もこんな歩き方のできる人間になりたいものです。
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マンスフィールド短編集The Garden Party  
キャサリン・マンスフィールドKatherine Mansfield(安藤一郎訳・新潮文庫)
『園遊会』『パーカーおばあさんの人生』『新時代風の妻』『理想的な家庭』『声楽の授業』『小間使』『ブリル女史』『大佐の娘たち』『初めての舞踏会』『若い娘』『船の旅』『鳩氏と鳩夫人』『見知らぬ乗客』『祭日小景』『湾の一日』
★★★人生にはやさしさや穏やかさに包まれる日もあり、哀愁と皮肉に笑ってしまう日もあるんだなってことを感じさせる短編集。
いくつかの短編は子供、特に少女時代の心の微妙な動きを描いたものです。『船の旅』ではフェニラの、自分の運命に対する微かな不安感が、暗い船室の一夜に投影されているようですし、『園遊会』のローラの豊かで繊細な感受性が、まわりの人々の鈍感さに傷つけられないように祈りたい。人生の価値、をこんなに幼くして感じ取ることができることもあるんですね。『初めての舞踏会』のリーラ。君が感じたことは真実なのだよ。これは最後の舞踏会の始まり・・・。それがわかっていてなおかつ、舞踏会で踊ることには価値があるのです。そして『若い娘』の娘の未成熟さが、わたしは好きです。
ところが、大人の女や、ちゃんとした夫婦に対すると、妙に皮肉っぽくなったりして。『新時代風の妻』のイザベルが求めているものは一体なんなんだろう?無理してるのかなあ・・・まあ、ウィリアムの魅力のなさを考えると無理もないですか。『理想的な家庭』の老ニーヴ氏の気持ちがこんなにわかるなんて、マンスフィールドは女嫌いなのでしょうか。『声楽の授業』のミス・メドウズのこともすごく辛らつに描いてあるし。『小間使』のエレン。あんまり考えない方がいいんでしょうね、自分の人生の選択について・・・考えなければ後悔することもないし。『ブリル女史』は悲しい物語です。自分が他人を見ているように、他人に見られているって怖い。しかも他人は全く自分の望んだようには、自分を見てくれてないし。でも、ケーキのエピソードは妙に心を打ちました。『大佐の娘たち』のジャッグとコニーは、これから先どうやって生きていくのでしょうね?やれやれ・・・『鳩氏と鳩夫人』のつがいの鳩の話、なんとも面白くって気に入りました。戻っちゃいかんのだよ、レジナルドくん。『見知らぬ客』のハモンド夫妻の間にはとっくに見知らぬ客が入り込んでいたのでしょう。悲しいけどそれが現実だってば。
『湾の一日』は、子供の世界と大人の世界が対照的に描かれています。無邪気に遊ぶ子供たちにしても、いろんな生活があるし、大人たちもそれぞれ深い思いを抱いて生きていくしかないのだし・・・。『祭日小景』の縁日にはなんだか空疎でむなしいけど、それでも行かずにいられないような焦燥感を感じます。そして『パーカーおばあさんの人生』・・・パーカーおばあさんが持つ深い孤独と、人生に対する疑問は誰に聞いても答えは出ない。答えはないから。本当はだれも、行くところなど持ってはいないんだと思う。
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幽霊たちGhosts 1986
ポール・オースターPaul Auster(柴田元幸訳・新潮文庫)
「まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる」私立探偵ブルーがホワイトから依頼された仕事は、ブラックを見張ることだった。ブラックの住まいの真向かいのアパートで、ブルーのいつ終わるとも知れない見張りの毎日は始まった。1947年二月のことである。ブラックの日常には、ほとんど変化はない。机に座って書き物をする、食事をする、読書をする・・・。読んでいる本はソロー著「ウォールデン」。はじめ、ブラックの身辺に空想の羽を広げていたブルーだが、徐々に自分とブラックの間に奇妙な調和を感じ、しかも同時に孤独感にさいなまれるようになる。ついにブルーは実行可能な行動にでるが・・・
★★★オースターの「ニューヨーク三部作」の二作目です。ミステリかなぁ?
ブルー、ホワイト、ブラック、と色の名前を冠されたこの登場人物たちは、何者なのか?ブルー一人の心理描写で成り立っている物語ですが、ブルーはブラックであり、ブラックはホワイトであり、別に他の色の名前がついてたっていいわけで、結局「私は何者である」という自己認識の出来ない世界なんですね。自己認識をするために、ブラックは書いているし、ブルーは回想している。私が、自分の物語の主人公である、ということを私たちは当然だと思っているけれども、もしかしたら自分の物語を書いているのは誰か他のひとかもしれない・・・。
関係ないんですけど、アイデンティティとかって、他人の書いた物語の集大成じゃないの?と常々おもっているんです。「私の」考え、「私の」内面、なんてものは、全て他人から貰ったもので作り上げられているんだ。そう考えると、自分の本質って、なんなんだろう?私を、他の誰でもない「私」にしているものって・・・。自分のほかの人にもすべからく「自我」があって、「私の・・・」って、考えていると思うと、不思議じゃありませんかぁ?私は時々とても不思議になるのですよ。・・・なんて、かなり的外れですね。
私、がここに存在しているというのは、一体どんな必然なんだ?いや、必然と思っているけれども、それは私にとっての必然ではなくて、誰かにとっての必然だったりして。いやいや、もしかしたら存在しているというのもあやしいぞ・・・と不安は際限ないのであった。
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月の骨Bones of the Moon 1987
ジョナサン・キャロルJonathan Carroll(浅羽莢子訳・創元推理文庫)
「あたし」カレンには、世界一素敵なだんな様ダニーもいるし、もうすぐ可愛い赤ちゃんが生まれる予定だし、ああ幸せ。しかも最近はちょっと素敵な夢を見る。そこは「ロンデュア」・・・息子の「ペプシ」と大きな獣たちの住む世界。帽子をかぶった犬の「ミスター・トレイシー」や、狼の「フェリーナ」、駱駝の「マーシオ」と旅を続ける。何のために、どこに行くのか?じょじょに「あたし」は思い出す。五本の「月の骨」を捜す旅なのだ。邪悪な支配者「ジャック・チリ」に代わって、ペプシが「ロンデュア」を支配するために・・・。夢と、現実が交錯をはじめたとき、「あたし」の世界が壊れ始める。
★★★ファンタジー?いやいや、そういう甘いものではないな。では、ダーク・ファンタジーか、という所でしょうけど、ダーク・ファンタジーって言葉が嫌い(安っぽ〜い)なので、まぁジャンル分けはよくわかりません^^;
怖い話・・・でもないんですよね。うそ臭いほど幸せな「あたし」の現実生活と、「ロンデュア」を旅する「あたし」の夢の世界。ともに独立していれば何の問題もなく、あ、もしかしたらちょっと悪夢にうなされるという悩みはあるかもしれないけど。でも現実と夢が混ざり始めたら・・・?しかし、現実と夢、といったって、どっちがどっちだと、なにを根拠に言い切れるのか?「あたし」にとっての本当の居場所は「ロンデュア」であるとすれば、現実のほうが夢だし・・・なんてこともちょっと不毛な議論でしょうか?
「ロンデュア」の支配者をめぐる攻防がいわゆる「夢の世界」での主要テーマです。不思議な場所「ロンデュア」を現在支配しているのは、世の中の邪悪の総括のような「ジャック・チリ」。いよいよ彼のすぐそばまで近づいたとき、空一杯に広がる彼の顔、という描写が存在感をあらわしてますよね。コワコワ(T_T)しかし、その「ジャック・チリ」の上位にたつ存在(神?)がいるということなんだ。さてさて「ペプシ」と「ジャック・チリ」のどちらが、その上位の存在の試験に受かることができるのでしょうか?一体合格基準は何なんでしょうね?とまたもや不毛な疑問が(ーー;)しかし、物語の結末は・・・(悲)あたしのお気に入りの・・・を連れてっちゃうなんてひどい!悲劇と甘やかさの混ざり合ったなんともいえない結末に呆然でした。でも、本当の悲劇は「あたし」のなかで芥子粒ほどにも小さくなってしまったダニーの存在でしょうか。
怖くはない・・・ですよ、うん。でも「あれ、今そこにいたよね・・・?」とか「ん?これってみたことあるような・・・?」って言う体験て、誰でもしたことがあるでしょう。ちょっと後ろを、そっと窺いたくなるような不安感とか。それの増幅版。多分誰でも「ロンデュア」の住民だったことがあるに違いありません。忘れてしまったその世界に、私たちも再び招待される日がくるかもしれませんね。そしてある日、「現実」と「夢」が融合して爆発する・・・げっ、やっぱり怖いや^^;
ちょっと蛇足っぽくなるんですけど、この物語、キャラクターがどれも素晴らしいです。「ロンデュア」という世界そのものにしても、またそこに住む住民たちも。あるいは「現実」の世界に住むちょっとおかしな映画監督とか、ゲイの人とか。そして「まさかり少年」・・・彼の手紙にはまいりました。妙に筋が通っているんですもの・・・
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死霊の恋・ポンペイ夜話他三篇 1831〜1852
ゴーチエTheophile Gautier(田辺貞之助訳・岩波文庫)
短編集『死霊の恋』『ポンペイ夜話』『一人二役』『コーヒー沸し』『オフェフリウス』
★★★どれも描写の美しい、絢爛たる小説世界という感じですね。
『死霊の恋』世間と没交渉に生き、いよいよ僧となって神に一身をささげることとなった神学生が、その儀式の晴れの日に、生まれて初めての恋をした。相手は遊女クラリモンド。会うこともかなわず、恋に身を焦がす彼が、再びクラリモンドと会ったのは、彼女の死の床であった。思わず接吻をしたそのとき、彼女は再び会うことを誓う。果たして彼女は迎えにきた。彼を夜毎の夢の宮殿にいざなうために。この世の享楽を尽くして死んだクラリモンドと、生涯ただ一度の恋にもだえる若い僧が繰り広げる放蕩三昧の生活。信仰と堕落に引き裂かれる若い僧侶にとりついていたのは実は、吸血鬼だったのです。この美しい吸血鬼が、自分の命を長らえるためにほんのぽっちり、彼の血を吸うところは彼ならずとも、少しも惜しくはない・・・と思わせるかもしれませんね。
『ポンペイ夜話』ナポリの博物館で出会った凝結した黒い溶岩。オクタヴィアンが強く心惹かれたそれは、二千年の昔、噴火による溶岩が女体の輪郭を包んでその形を残したものだった。ポンペイ見物の夜、一人町を彷徨うオクタヴィアンはいつしか時を越え、アッリア・マルチェッラと出会う。ポンペイの町の描写が素敵です。アッリア・マルチェッラの肖像にしても、まさに絵画を見ている感じ。それにしても、彼の恋心がはるかな昔のポンペイをよみがえらせたのか、若くして死んだアッリアの執念が彼を呼び寄せたのか・・・?
『一人二役』大俳優を目指すハインイリッヒは、最近の芝居で演じている悪魔役で評判を取っていた。ある夜の居酒屋でもその話で盛り上がっていたのだが、一人の男に、まだ多くのものが欠けている、言われる。その後、またもや悪魔を演じているハインリッヒの前に男が現れた。本物の悪魔にはかないませんでしょう。どんな笑い声だったのか・・・それにしてもやっぱり、悪魔っていうのは、人をとりこにするみたいですね。
『コーヒー沸し』友人が持つノルマンディーの奥の地所に遊びに行った夜、ぼくが眠った部屋では不思議な舞踏会が繰り広げられた。壁にかけられた絵から抜け出してきた人々の座るテーブルの周りをコーヒー沸しは跳びまわり、茶碗は自然と降りてきた。彼女はダンスに未練が残っていたのだろうか?コーヒー沸しとなっても死者たちのダンスパーティに参加したかったのかな〜・・・哀れなり。いや、哀れなのはそのコーヒー沸しにとらわれてしまったぼくのほうでしょうか。
『オフェフリウス』画家であり、詩人でもあるオフェフリウスは、なにをやってもうまくいかないことに気が付く。幻想世界に住む彼は、その幻想ゆえに恐れの多い生活を送っていた。彼には現実の些細なこともすべて超自然的に思える。悪魔を愚弄した絵を書いたことを思い出した彼は、うまくいかないことの全ては、悪魔の仕業と考えるようになっていく。幻想の悪魔にとらえられて、自滅していく多感な芸術家のたどる運命を描いた作品ですが、彼の目に映る悪魔の描写が真に迫っているので、本当の悪魔だったんじゃないか、とも思えたりする・・・怖い。正気と狂気の境目というのは、あいまいですね。自分に見えているものは、現実である、と普通、人は思って生活しているのだし。・・・もしかしたら、わたしもちょっぴり狂っているかも?いないと言い切れますか?
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