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歳月の梯子Ladder of Years  
アン・タイラーAnne Tyler(中野恵津子訳・文藝春秋)
性格の暗い、心配性のくたびれた四十歳の主婦コーディーリア(ディーリア)・グリンステッド。彼女は最近何となく満たされない。夫のサムからも、三人の子供たちからも「バカで役立たず」だと思われているような気がする。サムが自分と結婚した理由も、ただちょうどよかっただけらしいということが判明した。スーパーで変な出会い方をしたエイドリアンとちょっと付き合ってみたけど、ロマンス小説の主人公のようにはいかないし。毎年恒例の夏の家族旅行に出かけた彼女は大きなヴァンにのった男に出会い、なんとなく家出をしてしまう。新しい町、見知らぬ人々。彼女は「ミス・グリンステッド」としての人生をスタートさせるのだが。
★★★ディーリアがはじめた冒険は、どんな結末を迎えるのか?最初の120ページくらいを読んで「え、亭主と三人の子供をすてて家出するなんて、なんて無責任な女だ〜!」と怒った人はとりあえずやめといたほうがいいかも。ついでに「束縛された生活からの開放を求めて出奔するなんて、なんてカッコイイの(^^)」と感動した人も・・・どうなんだろ(^_^;)でもやっぱり、読んでほしいですね。
ディーリアは無責任な人間でもないし、カッコイイ人間でもありません。やってしまったことはかなり思い切ってますが。休暇用の500ドルを持ってきてしまったことを反省したりしている(この反省の理由がすごく「わかる!」のよね)、青臭くも誠実なヒトなんですよ。
物語は徹底してディーリアの居る場所から、見える範囲のことを描いているので、読んでいる私も彼女が家族から離れている間はずっと、家族の姿を見ることはできません。時々届く手紙がすべて。サムはどう考えているんだろう?迎えにくるのかしら?何でこないのかしら?子供たちは私のことをどうおもっているんだろう?・・・分からないですよね。家族のほうもそれは同じ。まったく、一緒に暮らしていても、気持ちをわかりあうどころか身長さえおぼろなんだから(^_^;)
よく感じるんですが、人って自分は歳月の梯子をのぼっていろんな変化を自分の中に感じているのに、他人の変化には鈍感ですよね。相手も同じように時を経て、変わっていくのに、それに気がつかない。(白髪が増えたとか、しわが増えたとか、頑固になったとか、そういうことばっかり^_^;)というか変わっていく事を認めたくないだけなのかもしれないですが。私も自分の周りのいろんな変化を全て受け入れられる自信なんてないです。(自信のある人なんているのか^_^;)ディーリアも結局戻っていきますが、その場所は出かけたときとはちょっと違う場所になっています。御伽噺のそのあとの、連綿とつづく味気ない、でも彼女自身のストーリーの中に、その場所を見つけることができたとしたら、彼女はラッキーなひとですね。そう、よくある話ですよ。自分の周りにもこんな勝手なことした主婦、いたいた!って思うかもしれません。よく平気な顔して帰ってこれたもんだって。でも「よくある話」もすべて違ったストーリーがその後ろに隠れているって、思ったことはありませんか・・・?
最後まで読んで、え〜ここまで引っ張っておいてそりゃないぜ!と思う人も多いと思う。力強く人生を切り開いていく物語に勇気付けられる人も多いと思う。でも、本当に心が疲れているとき、私はあんまり強いひととは向き合えないのです。そんなときはこの主人公のような、平凡で身近な、でも清清しい人の人生を覗いてみるのも、いいなあと思うのです。
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ディア ノーバディDear Noboy 1991
バーリー・ドハティBarlie Doherty(中川千尋訳・新潮社)
シェフィールドを出て、ニューカッスルの大学へ。出発の前日に届けられた包みに入っていたヘレンからの手紙の山の、書きだしはどれも同じ、「ディア ノーバディ」。その言葉に秘められた意味を探るように、クリスは回想する。始まりは1月だった。―共に十八歳。それぞれの夢を追っての大学進学を前に、二人はセックスをした。そして「ノーバディ」がヘレンのなかに宿ったのだ。とまどいと不安、時には憎しみ。妊娠の事実は当事者の二人だけでなく、彼らの父母や祖父母の心にも葛藤をよんだ。苦悩の末に出産を決意したヘレンと、心ならずも遠く隔たっていくクリスの前途は、再び交わることはあるのだろうか。
★★★十代の妊娠は、いまでこそ現象としてはさほど驚くようなことではなくなって、TVなどでもギャルママなどといって、あっけらかんと紹介されています。人生の選択肢として、若い妊娠もだんだん認知されつつあるのかな、と思う一方、その選択の影にあるべき、一人の人間を産み育てるということへの、真摯な決意というものがあるのかしら?と不安に思うことも多いですね。この主人公の二人も、突然このような重大な決断をせまられて、現実を受け止めかねて悩み苦しみます。ヘレンの「ノーバディ」に宛てた手紙と、クリスの回想という形でつづられたこの物語は、二人のその時々の素直な思いがストレートに伝わってきて、想い合いながらも食い違う二人の隙間を埋める、偉大でささやかな「命」のいとおしさをしみじみと感じました。なかでも印象的だったのは、二人の両親、祖父母などの大人たちの輪郭が、手紙と独白という描き方をしているためにその内面を深く探るような描写はなかったにもかかわらず、くっきりと浮き出して見えたことです。特に二人の「母親」との関係の危うさと確かさの微妙なバランスが、とってもイイですね。子供は自分の生まれ方も親も選べないことを、私たちは実感として知っています。だからこそ、「ノーバディ」から「エイミー」になったちいさな命が、多分まだこわばった表情のままのヘレンの母へ、そしてその母へと渡される、この静かな情景が心に残るのかも知れません。
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蛇の石(スネークストーン)秘密の谷The Snake-Stone 1995
バーリー・ドハティBarlie Doherty(中川千尋訳・新潮文庫)
15歳のぼく(ジェームズ)は生まれてすぐ、いまの両親の養子になった。育ての両親はそれをオープンにした上でぼくを育てて、ぼくは幸せに育ったのだ。でも、「養子」という言葉をじぃっと見つめているとだんだん不安になる感じ。ある日も、「赤ちゃん箱」のなかに入っている、養子になった時に着ていた手編みのベビー服を見ていると不思議な気持ちになった。そしてぼくは見つけた。「サミーをおねがい」とへたくそな字で書かれた紙切れと、一緒にあった小さくとぐろを巻いた石を。紙切れに残された住所の一片から、ぼくは自分の生まれた場所、ぼくを生んだ母をさがす旅にでる。どうしても、見つけ出したい「自分」をもとめて。
★★★爽やかなお話しです。養子として育てられた少年が自分の「アイディンティティ」をさがす旅に出る。そこには暗い影や屈折した思いを窺うことはありませんが、「養子」という言葉にひそむまがましさが、15歳という微妙な年齢の少年の心を少しづつ侵食していきます。動揺するような出来事があったときに、どうして知りたいとおもう「本当の」お母さん。「産んでくれたお母さん、と言ってちょうだいね」という(育ての)お母さんの気持ちはよくわかるんだけど、ジェームズの思いはつのるばかりです。
よくTVなどでご対面〜、という番組をやっていますね。養子であったとしても幸せな育ち方をした人が、それでも自分の「本当の親」を知りたいという欲求のつよさは、時に不思議なほどですが、とても根源的なものなんだろうなという想像は出来ます。ジェームズにしても、お母さんをさがす旅では15歳というには子供っぽい行動や考え方をする場面があり、その一途さと、育ての両親をみる冷静であたたかな目との対比を、とても面白く読みました。
この作品も、主人公の少年と、少年を産んだ母である少女の独白が交互に語られるという形式ですが、少年の、他人を巻き込んで前進する明るさと、少女の、内部に蓄積していくような深い思いが、本来なら決して出会うことのないような秘密の谷底に流れる川での一瞬の出会いを実現する場面までが、実に軽やかに描かれて一気に読まずにはいられません。
「血」というものは、不思議なものなんでしょうね。「血縁」の中にある見えないつながりって、つくづく面白い。でも人はそれだけで出来上がっているわけではない、と実感したときに人は自由になれるものなのですね。飛び込みの選手として有望視されながら、踏み切りに切れがないという弱点を自覚していた主人公が、解き放たれたようにのびやかに水に飛び込む場面で終わるこの物語は、心地よい余韻をのこしてくれます。
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待ち暮らしWaiting 1999
ハ・ジンHa Jin(土屋京子訳・早川書房)
「毎夏、孔林(クオン・リン)は妻の淑玉(シユユイ)を離婚するため、鵝(ガチョウ)村に帰省した」―孔林は親の決めた妻を初めて見たときにがっかりしてしまった。両親の説得に屈して結婚したものの、一人娘が生まれて以来17年間、触れることすらなく過ごしてきた。というのも、林は軍医として木基市の陸軍病院の寮に住み、そこに勤務する看護婦、呉曼娜(ウー・マンナ)と愛し合っていたからだった。別居18年を過ぎれば、相手の同意なく離婚できる、という軍規によって、ひたすら待ちつづける二人。長い歳月の果てについに離婚が成立し、結婚した林と曼娜だったが、幸せになれるはずの二人の新婚生活は、なぜか噛みあわなかった。
★★★孔林が妻の淑玉と結婚したのが1963年、文化大革命が1966年から1976年で、離婚が成立したのが1984年ということですから、あの中国の異常ともいえる時代が背景にある物語です。しかし、その部分は小説の中ではほとんど触れられていないので、読み手にとっては歴史的背景というものがあまり負担にならず、読みやすいものになっていると思いました。
そうはいっても、近代中国の社会生活については、意識しないわけにはいきませんね。中国という国のなかで個人生活というものがどんな位置づけをされているのか、軍人と民間人とか、都市部と農村の生活とか、興味深い部分がたくさんありました。人々の道徳観などは、戦前の日本と似ている部分もあるのかもしれませんが、よくわかりませんね〜。建て前の部分の厳しさが正義となって全てを断じているようでもあり、でも本当はみんなうまいことやってるのよ、みたいな寛容さもあるのか。難しい部分はあるのでしょうが、それに対してしり込みばっかりしているのが孔林という男です。彼が妻を気に入らない理由は、身勝手ながらも理解できるし、煮え切らない態度も彼の内面を覗き込めば、分からないわけではない。でも理解できるのと許せるのとは、違うわっ(ーー;)
では曼娜のほうはどうなのか?オールドミスといわれることへの怖れと閉塞された環境で八方ふさがり。いろいろ努力はしてみるものの、どうにも抜け出せない。しかし、彼女にとっての孔林の存在は、自分が変わらないことへの言い訳だったのではないか、と私には思えてなりません。18年という数字に逃げていた男と、その男を言い訳にしていた女の組み合わせなんて、あんまりぱっとしませんね。ただ、私が思ったのは、「待ち暮ら」していた18年という年月は長いように思われるかもしれないし、こんなに無駄な時間を過ごすなんてアホじゃないの、というのは簡単だけど、ふとしたはずみをなくしてしまうと、一年ごとの積み重ねとしての18年なんて年月はすぐに過ぎてしまうものだろうな、ということ。恐ろしくも現実味のある共感を覚えたのでした(ーー;)
人生の思わぬ成り行きに狼狽する孔林の姿や、結婚生活に貪欲さをみせる曼娜の描き方は、かなり厳しくてあからさまです。読んでいる私は、二人のためにため息のつきっぱなしという感じでした。そんななかで、孔林の元の妻淑玉の不思議な強さ、存在感が印象的でしたね。孔林という男は淑玉を自分でも気付かないままに支えにしつつ、曼娜と生きていくことでしょう。それでもいいから、とりあえず曼娜と二人、病院の塀の外を歩いてみることから始めて欲しいですね。曼娜は心臓病ということですが、多分とうぶん死なないと思いますので(笑)
全米図書賞・PEN/フォークナー賞受賞作だそうです。
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きのね  
宮尾登美子(朝日新聞社)
生家の窮状から、血のつながらない伯母の家に厄介になっていた光乃は、十八になり女学校も卒業したこともあり、独り立ちを余儀なくされる。桂庵で紹介されたのは、歌舞伎役者竹元宗四郎宅の下女中の仕事だった。しきたりの難しい役者の家で、掃除の見習いから始まった光乃の女中奉公だったが、まじめで無口、言い換えれば口の堅い光乃はすぐに周りから信頼されるようになる。ある日、光乃は初めて歌舞伎座で「柝の音」を聞く。心に深く打ち響いたその音とともに、はじめてみた宗四郎の長男、雪雄の舞台姿は光乃の胸に鮮やかに灼きついた。このときから、光乃は生涯を雪雄(のちの十一代松川玄十郎)とともに歩む運命を、力強く生きていくことになる。
★★★宮尾登美子さんの小説ということで、どんなきりっとした主人公が登場するのかしら、と思って読み始めたのですが、ちょっと違いました。もともと、「きのね」って何かしらん?木の根?などととぼけたことを考えていましたので、全く心がけが悪いですね^_^;
物語の背景は歌舞伎界です。あんまり(ほとんど?)知識はないのですが、古いしきたりを守っている、なんだかミステリアスだけどかっこいい〜♪などという漠然とした憧れみたいな感情と、嫁にいったら大変なんだろうな〜^^;というちょっと引いた目線でしか見たことの無かった世界ですが、やっぱり大変みたいですね。身分が高いかどうかはしりませんが、役者(この場合は歌舞伎役者)の華やかさ、その裏の厳しさ、あるいは伝承していくことの難しさは経済的なことも含めて、ここまで頑張らないといけないものなのか、と目を瞠る思いがしました。しかし、役者をとりまく「色」や「匂い」が薫るようで、玄十郎という役者のあでやかさが想像できますね。
主人公光乃の夫松川玄十郎というのは、十一代市川団十郎と言う人物をモデルにしたらしいですが、う〜んよくここまで書けたなあ、というのが正直な印象。とにかく癇癪もちの乱暴もので、少しでも気に触ると殴る蹴る、食卓はひっくり返す。こんな男と一日も一緒には暮らせそうもありません。(私は暴力をふるう男が大嫌いだし、我慢などクスリにしたくてもないヤツなのだ〜)ところが光乃の辛抱、献身ぶりときたら尋常ではないのです。感心するというよりもあきれる感じなんですが、こんな私のような自分勝手な人間でも、光乃のすることが本能的に理解できるというか。いや理解などといったら言い過ぎなんですが、心の深〜いところに、自分にも同じような部分を発見するような気がするのです。それに光乃という人は、表向きには雪雄に対してご無理ごもっともで仕えているだけの人間のように見せていますが、本当は非常に自我の強いひとなんですよね。流されているようでありながら、自分の欲しいもの、進む道はひとつだけだという事をはっきり自覚して、そしてそれを掴みにいっている。ここに描かれているのは、特異な例だけど、確かに生きた人物だなあ、としみじみ感じました。
現代では、生きるための選択肢がたくさんありすぎて、平凡に生きていることがなんだか罪悪のように感じられることもある時代ですが、昭和初期のこの頃、女が生きていく方法は本当に少なかったのですね。そんな時代に女中として主人に仕え、やがて手が付いて「おさわりさん」などと蔑まれたり、ついには子供が生まれて後妻に納まるという、ある種典型的な女の出世物語を描きながら、なぜか清清しくも哀しいというこの読後感は何なんでしょう?それはきっと柝の音のせいですね。この音からはじまった舞台を光乃は立派につとめあげ、この音とともに幕を引いた。ちょっと演じたくなるような舞台ですが、なまなかな覚悟ではつとまらないようです。(あ、でも私はこんな人生絶対いや^^;殊勝なことを考えてても、三日ともたないこと請け合いです。演じたくなる、というのは文字通りの意味。女優だったら、ちょっとやってみたいような気がしませんか?)
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お菓子と麦酒  
サマセット・モームW.Somerset Maugham(上田勤訳・新潮文庫)
売れない文士の「わたし」は、売れっ子作家オルロイ・キアから昼食の誘いを受ける。彼にはここ三ヶ月もあってないし、第一そんなに親しいわけでもない。いぶかしく思いつつも彼に好意を抱いていた「わたし」は、彼の隠された魂胆に興味を持ち、誘いを受けることにする。食事も終わり、コーヒーとブランデーという段になってようやく、オルロイから何気なく出された名前に「わたし」はなつかしさを覚える。エドワード・ドリッフィールド。高名な作家だが、「わたし」はかつて少年時代、彼と同じ土地に暮らしていたことがあり、親しく交際していた。そして「わたし」は彼と、彼の最初の妻、ロウジーのことを久しぶりに思い出す。
★★★「はにかみやさんでしてね。わたしはこの人に自転車を教えたものでしたが。」―ブラックステイブルというケント州の田舎町で出会った「わたし」とエドワードの間柄は、最初は親しくなりそうもありませんでした。牧師の伯父と、ドイツの貧乏貴族の出身だという伯母とともに住んでいた「わたし」にとっては、エドワードは親しく口を利くには到底身分が低かったようです。しかしある日、自転車の練習がうまくいかなくて腐っていたところに、エドワードの妻ロウジーがやはり自転車で突っ込んできたことから、三人は付き合うようになります。「わたし」のほうは幾分「身分違い」の意識が抜けないようですが、エドワード夫妻にはそういうこだわりはなく、「わたし」にしても、いつも尊大な伯父の意向にそむく行動ができることも、喜びの一つでした。
このお話、面白いです(^^)ゆったりしていて、どこか皮肉っぽくて。登場人物もいいですね。エドワードが「わたし」に久しぶりにあった場面でウインクをする、なんてのもちょっと楽しいではありませんか。オルロイ(ロイ)の俗っぽさもいいし。「わたし」にエドワードのエピソードを聞かせて欲しいなんていいつつも、本当の物語は全然耳に入っていかないみたい。結局そうやって作り出されたドリッフィールドの伝記が、人々の人気を集めてエドワードの名声もまた高まる、という仕掛けなんでしょうね。また「わたし」の伯父伯母夫婦の生活ぶり、というか、その当時(19世紀の終わり)のものの考え方の狭苦しさも、かえって新鮮で、どこかユーモラスですらあります。
途中で「わたし」がつらつらと考える文学作品や作家についての定義には、とても興味深いものがありました。作家は長生きしてこそ、というのはかなり真実をついていそうな気がしましたし、「美は一つの袋小路である」「美はかなりやりきれない退屈な代物なのだ」なんて、ついついうなずいてしまいす。
ロウジーはけっして美人でなかったのですが、唇と眼に湛えられた微笑には妙に楽しくなるようなものがあります。白い朝霧を通してみた太陽のような感じの光を放つロウジーの、魅力的なことといったらどうでしょう。それは「わたし」がどう言おうともロイには伝わらず、エドワードにとっては、失ったあと看護婦との再婚を決意させるようなタイプの魅力なんですね。そんな彼女がジョージ旦那についてニュウヨークまで行った理由は?いかにもロウジーらしいとしか言いようがありません(*^^*)
エドワードが書いた「生命の盃」はどんな話なんだろう?と興味を抱きつつ、作家がこういう話を書く衝動とはいかなるものか、と考えずにはいられません。そうして書き上げた作品に対して、世間が(ときに見当違いに)持ち上げたり、あるいは罵倒したりしたとき、それは作家にとってどれほどの意味があるものなんでしょうね。(いや、やっぱ、ベストセラー書きたいか^_^;)
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モーガンさんの街角Morgan's Passing 1972
アン・タイラーAnne Tyler(中野恵津子訳・早川書房)
「いつのまにか他人になりすまして、にせのイメージを振りまいてしまう。わざとやってるんじゃないんだけどね。誰かに背中を押されたみたいに、ポンとそこに押し出されてしまうんだ」家から一歩外に出ると、ユダヤ教のラビだの、ギリシャの船舶王など突拍子もないさまざまな人物になりすますモーガンの本職は「カレン金物店」の店長だ。ある日、産気づいた妻のために医者を探している若者を見かけて、例によって医者になりすましてしまったモーガンは、レオンとエミリー夫婦の子供、ジーナを取り上げることになる。若い二人の生活ぶりに共感を覚えたモーガンは彼らとの付き合いを深めていくが、やがてエミリーに本気の恋をする。
★★★主人公モーガン氏は、全く変わった人物です。彼の行動を読んでるだけでも、なんだかへとへと。そばにいたら、疲れることは間違いなしですよ。もう、最初のころは、なんだこの人?!デリカシーもないし、人の気持ちもわからないし、ってかなり拒否感が強かったんです。でもね〜、だんだんなんか分かる気がしてくるんです、なぜモーガンさんはこんなに彷徨っているのか。
モーガン氏は自分の家庭が窮屈でたまらないみたいです。妻の金持ちの父親が建ててくれた家のなかに、子供が七人(娘ばっかり)、その上モーガン自身の母親と出戻りの妹まで。ごちゃごちゃ!妻は限りなく包容力のある女だ。何もかも取り込んで、全てをかかえこんでいる。そういうのがたまらないのです。自分の居場所なんかないじゃないか。娘は知らないうちに結婚することになってるみたいだし。「子供たちはみんな死んだんだよ。ただ予想していたより、ゆっくり死んだだけだ」大事なものは何もかもなくなって、余計なものばかりが増える。そんな時出会ったレオンとエミリーのシンプルこの上ない暮らしぶりには大いに惹かれて、自分勝手な理想を押し付けたりしてしまいます。
最初モーガンを完全に拒絶していたエミリーが、モーガン氏の告白をきいてちょっぴり共感を覚える場面があります。「彼はただ・・・自分の生活から抜け出さずにはいられないのよ、ときどきね」駆け落ちしてレオンと結婚したエミリーも、生活を徐々に侵食する何かから、逃げ出したい時があるようです。
何かが違う・・・と思いつつも、ではどこへ行けばいいのか分からない。行く方法も知らない。そんな閉塞感ばかりのこの世の中で、無責任といわれようと自分のいるべき場所(というより、いたい場所)にモーガンさんはとうとう行ってしまうんです。無茶やるな、このやろ〜!という感じではあるけど、なんだか羨ましい。ちょっと自分じゃ出来ないことですし。身内にこんなやつがいたら、めっちゃくちゃ腹立ちますけどね。(人間は矛盾だらけなのだ)
モーガンさんが探している場所ってどんなところでしょう?永遠に変わらない何かがある場所でしょうか?そこのところはよくわかりません。モーガン自身にだって分かってないに違いない。でも、エミリーと一緒なら、見つかるような気がしているんでしょうね。見つかるかな〜。
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アクシデンタル・ツーリストThe Accidental Tourist 1985
アン・タイラーAnne Tyler(田口俊樹訳・早川書房)
やむなき旅人ーアクシデンタル・ツーリストのためのガイド本ライター、メイコン・リアリーはとうとう妻サラから離婚を言い出されてしまった。一年前息子を殺されて以来、二人の仲はじょじょに崩壊していたのだ。一人で暮らし始めたメイコンはある日、階段から転げ落ちて足を骨折してしまう。やむなく二人の兄と妹が住む実家に戻ったメイコンは、おしゃべりで無神経な犬の調教師ミュリエルと知り合う。サラとの復縁をひそかに夢見つつも、積極的なミュリエルに魅入られたように同棲をはじめてしまうメイコンだが、いまひとつ人生の決断を下しきれない。
★★★メイコン・リアリー、「システムおたく」?とにかくまじめなんだかちょっと変わっているというのか分かりませんが、彼の生活上での「システム」に対するこだわりはなかなかなものです。サラが出て行ったあと、朝食を食べるためのシステムを作るくだりでは、こいつはぁ・・・とおかしくもあり不安にもなったのですが。これはリアリー家の「血」なんですね。最初の印象では妹のローズはまともなんだ、と思っていたのですけど、実は彼女が一番変わってたりして。日用品をアルファベット順に並べるし(笑)
とにかく、一緒にいるとかなりむかつきそうな男です。言葉の間違いをいちいち訂正されたあかつきには^^;でも、妙にこの人の弱点が(自分でもかなり分かっているんですよね)なんか・・・困ったやつだなあ(^_^;)、という感じなんですよ。
ミュリエルとの関係にしても。あ、ミュリエルなる女性は、なぜか魅力的には描いてありません。やせた若い女で、黒い縮れ毛を肩までたらし、目は小さくてヒメウイキョウの種(?)みたい、顔は鋭角的で色がなかった・・・こんな書き方です。しかも機関銃のごとくよくしゃべる女で、話す内容は自分の昔の話。とても好きになれそうな女ではありません。メイコンも逃げに逃げるのですが、ついにつかまってしまい、やむなき旅人のごとく彼女との現実味のない同棲生活に突入してしまいます。困ったやつ。根はまじめな彼らしく、ミュリエルの一人息子アレクサンダーとも真剣に向き合ったりして、信頼関係を築くようにまでなりますが、そのことはメイコンにとってどれほど意味があることだったのでしょうか。ほんとに困ったやつです(ーー;)
実を言うと、ミュリエルのことは、私は最後まであまり好きにはなれませんでした。さてさてメイコンとミュリエル、さほどお似合いともいえないこのカップルはこれからどうなるのでしょう。しかし、メイコンは最後に自分からある行動をとったのです。やむなくここにいる、というわけではないのです。「システムおたく」からは脱却できそうにないけど、ミュリエルはそれをらくらく受けとめて、新しい二人のシステムを作り上げることのできる人でしょう。だから案外、こんなおかしな恋愛もアリ?なんて思わせてくれる、幸せなラストでした。
わたしとしては、一番のお気に入りキャラ、ローズがとても幸せになりそうなので、大満足(*^^*)です(リアリー家に伝わるカードゲーム”予防接種”もジュリアンなら覚えてくれそうではないですか?私もちょっとやってみたいけど^_^;)とにかく、人間って面白いなぁ、と感じられた、不思議にほっとする小説です。
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