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いのちの初夜 1936
北條民雄(角川文庫)
病気の宣告を受けて半年、幾度となく死を決意してそのたびに死にきれず、尾田はついに病院の門をくぐった。青葉に覆われた武蔵野の、深い木立のむこうに、その癩院は思いのほか平和そうに見えた。しかし、病室に入った尾田が目にしたものは、癩病の恐るべき現実、自らが歩むはずの希望なき未来だった。ふたたび自殺を決意するが、やはり死ぬことは出来ず、行き場のない焦慮にさいなまれる尾田に、同じ患者で付添夫の佐柄木は「癩に屈服して、しっかりと癩者の眼をもち、さらに進む道を発見する」ことが大事だと話す。表題作『いのちの初夜』、ほか七編収録。
★★★今年(2001年)五月、「らい予防法」に関する国家賠償訴訟で、元患者ら原告が勝利し、ハンセン病という病に加え、隔離政策といった非人道的な扱いを受けて苦しんでいた人々にも、ようやく希望の灯がともりつつあります。
この作品の作者、北條民雄は、昭和九年、東京下東村山の癩療養所全生病院に入院し、昭和十二年に24歳の若さでこの世を去りました。表題作『いのちの初夜』は主人公尾田が、病院に入った最初の日と夜の出来事を描いたものです。当時の癩院では新しい入院患者はまず、一週間ほど重病室に入れられ、医師の診察を受けた後、普通の病舎に移るというかっこうだったそうです。入院したばかりの患者にとって、そこは悪夢のような場所でした。尾田も患者たちの姿に自分の将来を発見して、暗澹たる思いに打ち沈みます。そんな彼にとって、淡々と重病者の付添いをする佐柄木は不思議な存在でした。死ぬことも生きることもかなわぬ、と苦しむ尾田に対し佐柄木は、きっと生きられる、と言います。
そこにいる重病者たち、それは「生命そのもの」。彼らの「人間」はもはや失われてしまった。しかし、もう一度、「癩者の生活を獲得する時」、彼らは生き返るのだ、と佐柄木はいうのです。
宿痾を受け入れ、癩者として生きていくこと……それは多分、長い長い絶望と苦悩の果てにたどりつく、もしかしたら自分を慰めるための方便なのかもしれません。そうした思いにたどり着かねばならぬほどの絶望も苦悩も私は知らず、この圧倒的な現実の前には、眼を伏せることしか出来そうもありません。ただ、どんな絶望の果てにも、自らを生かす道を見つけることができるものなのかもしれない…人間にはそんな強さが備わっているのかもしれない…と。到底確信できない、幻のような思いです。
他の収録作品『眼帯記』−病の進行への不安と、空しいと知りつつせずにはおられない努力と。痛々しい作品です。『癩院受胎』−これは青春小説と言ってもいいような作品だと思うのですが、やはり病は暗く濃い影を若者たちに投げかけています。『癩院記録』『続癩院記録』−病院の様子が描かれています。患者たちが病院内の労働力として使われていたようです。経費節減の為だったのでしょうか。『癩家族』『望郷歌』−社会や家族との関係の難かしさは私たちの想像以上でしょう。『吹雪の産声』−新しい命への渇望、いのちがいのちへつながっていくというあたりまえのことも、ここでは難しかったのでしょうか。
これらの作品は、まだハンセン病の治療法が確立されていなかったころのことですから、社会から隔絶されることの苦悩もさりながら、病の進行に対して自分がどう立ち向かっていくことができるのか、ということが主眼になっています。当時、ハンセン病は長い時間をかけて確実に進行し、とくに人間の「姿」に著しい変化を与えるものであった為、患者にとっては勿論たいへんな苦しみですが、当時の社会にとって彼らが脅威と見られてしまったであろうことは、想像に難くありません。しかし治療薬の発達によりこの病は恐れる必要のないものとなり、やがて、もはや隔離の必要はなくなったにもかかわらず、無知と怠慢とで彼らの存在を見ないようにしていた私たち。数十年という絶望的に長い時間を、病の苦しみと、偏見とに痛めつけられた人々に対し、せめて今後は幸せな余生を、と願ってやみません。
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日の名残りThe Remains of the Day 1989
カズオ・イシグロKazuo Ishiguro(土屋政雄訳・中公文庫)
「ここ数日来、頭から離れなかった旅行の件が、どうやら、しだいに現実のものとなっていくようです」ダーリントン・ホールでアメリカ人の主人に仕える老執事スティーブンス。かつての同僚、女中頭のミス・ケントンからの手紙に郷愁を読み取った彼は、彼女に会うためにイギリス西部への短い自動車旅行に出る。素晴らしい田園風景のなかにある品格に心を奪われた彼は、かつてダーリントン・ホールで行われた重要な会議の数々、そこを訪れた人々、そして心を込めて仕えたダーリントン卿を懐かしく思い出す。もはや戻ることのない、だが輝かしい過去の日々を、彼は思い出す。
★★★イギリスそのもののような小説です。外国人であり、古きよきイギリスを書物でイメージする程度の知識しかない私が言うのでは、あまり説得力はありませんが。
長くイギリス紳士に仕え、大邸宅を切り回してきた老執事スティーブンスは、その屋敷がアメリカの実業家の手に渡った後も屋敷に残り、新しい主人に仕えます。常に「偉大な執事とは何か」ということを考え、その信念の元に働いてきた彼は、その意味する偉大さをイギリスの風景の中に見出します。「・・・イギリスの風景がその最良の装いで立ち現れてくるとき、そこには外国の風景が、決してもちえない品格がある」「この品格は、おそらく「偉大さ」という言葉で表現するのがもっとも適切でしょう」
これほど、イギリスそのものを具現した小説を読んだことはありません。国土の美しさの描写の的確さや、そこはかとない上質の、たくまざるユーモア、真に紳士たる主人と、彼らに対する確固たる忠誠心、あるいはアマチュアイズムへの礼賛。品格、という言葉が何度となく登場しますが、この作品そのものが品格である、と言って差し支えないのではないでしょうか。
登場人物にしても・・・私たちがイメージする、絵に書いたような執事スティーブンスに、ミス・ケントンの不器用な情熱、父と子の関係、けっして表ざたにはされないほのかな、恋愛ともつかぬ感情・・・。典型的で、陳腐といってもいいでしょう。しかし、廊下にさしこむオレンジ色の光、ドアの向こうから主人公を呼ぶミス・ケントンの声、窓の下を「まるで落とした宝石でも捜しているかのように」ゆっくり歩いている主人公の父・・・、こうした光景が不思議な鮮やかさで目の前に浮かぶのです。同じ小さな島国とはいえ、西と東に遠く離れた国の、それもはるか昔のこんな空間になぜ親しみや懐かしさを感じるのか、それは自分でもよく分からない感情です。
執事という職業(いや、もはや職業とはいえないのかもしれませんが)に、大いなる自負を抱いていたはずのスティーブンスですが、もしかしたら、主人に仕えるだけだった日々、選択をすることを自らに禁じていた日々に疑問を感じる日もあるのかもしれません。栄光の日々は遠く、すでにあたりは夕べを迎えています。でも、ジョークを研究して新しい主人をびっくりさせて差し上げよう…そんなことを考えるスティーブンスに、偉大なる老大国イギリスの余裕を感じて微笑んでしまったのは私だけでしょうか。
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エレンディラLa increible y triste historia da la candida Erendira y de aduela desalmada  
G.ガルシア=マルケスGabriel Garcia Marquez(鼓直・木村榮一訳・ちくま文庫)
『大きな翼のある、ひどく年取った男』『失われた時の海』『この世でいちばん美しい水死人』『愛の彼方の変わることなき死』『幽霊船の最後の航海』『奇跡の行商人、善人のブラカマン』『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』
★★★なんともふしぎな感触の物語。神秘的、というのもちょっとしっくりこない気がします。幻想的なのに現実的、湿っぽいのに深刻ではない。ラテンアメリカに伝わる民話などが元になっているそうですが、奇想天外な展開が普通の生活のなかに妙に溶け込んでいるのが不思議な世界。真夏の夜、じっとりとした熱気の中、窓を開けて有るか無きかの風に吹かれながら読むといい感じかも。
あらすじと簡単な感想、というかちょっと感じたことだけ・・・
『大きな翼のある、ひどく年取った男』雨が降り出して三日、家の中は蟹の死骸で溢れている。死骸を始末して家に戻ったぺラーヨは中庭のぬかるみで年取った、大きな翼を持つ男を見つけた。残酷で滑稽で、なんか哀しい。どこへ行くのか知らないが、頑張れよ〜と後姿に声をかけてやりたい。
『失われた時の海』海からバラの香りが漂ってきた年、ハーバード氏はやってきた。富を公平に分配するために。やがて海はバラの芳香を放つのをやめ、トビーアスは海底で死者たちの村を見た。南アメリカでは死者を海に流すらしい。彼らは長い旅をして、その村に行き着くのだ。
『この世で一番美しい水死人』とてつもなく大きくて美しい水死体が浜に打ち上げられた。村人たちはなぜか、この水死人を愛するようになり、村中のものが水死人のおかげで親戚になった。主人公が水死体だというのに、すごく綺麗な物語。なんで名前がエステーバンなのかがわからないのは残念。
『愛の彼方の変わることなき死』幸福な上院議員は、死の宣告を受け、すべてが一変してしまった。選挙の遊説でやってきたある村で、彼は生涯を決定付ける女性と出会う。虚しい…それに対して女の親父のしたたかなこと。
『幽霊船の最後の航海』毎年三月になると、彼は陰気で巨大な幽霊船の幻を見る。惨めな孤児の生活に怒った彼は、世間に対し、目にものみせてやるといきまく。彼に誘導されて進む幽霊船の描写がすごい迫力。さすがの村人もビックリ?それにしても執念深い。
『奇跡の行商人、善人のブラカマン』初めてあの男を見たとき、男は体を張って解毒剤の行商をしていた。ぼくは男に目をつけられ、一緒にやっていくことになった。めちゃ面白くて、めちゃ怖い。ぼくの華麗な転身ぶりをごろうじろ。しかし、夢に出てきそう。
『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』その日、祖母にこき使われて疲れきったエレンディラの、不運の元となる風が吹いた。祖母に対する莫大な負債を抱えたエレンディラは、祖母に言われるとおりに客を取る。密輸商の息子ウリセスはエレンディラに一目ぼれ、だが、祖母の固いガードに手も足もでない。やがて二人は祖母の殺害計画をたてるが、どっこいこのおばあちゃんは一筋縄では死なない。おばあちゃんの怪物ぶりがすごすぎる。砒素も効かないとは〜。しかも流す血は緑色!このおばあちゃんにぴったりの色。やはりすでに人間ではなくなっていたらしい。それにしては最後のころ、へんに可愛らしかったのが不思議だが。しかし、エレンディラもおばあちゃんの血を受け継いでいる、ってことか。
・・・私なんぞにはこの作品の雰囲気を伝えるのはとても無理なので、何がなんやら?ですね(爆)う〜ん、夢と現、生と死が混沌としていた原始が今日の世界のなかに力強く息づいている、っていうか……なんかそんな感じです。ふぅぅ〜(^_^;)
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我らが影の声Voice of our shadow 1983
ジョナサン・キャロルJonathan Carroll(浅羽莢子訳・創元推理文庫)
両親の、殊に母親の有り余るほどの愛情を受けて育ったロイとジョー兄弟。だが二人の性質は全く違っていた。面白くて、とんでもないワルで残酷なロイ、そのロイにいじめられながらも愛されたいと願う、いい子の僕(ジョー)。そのロイも僕が13歳のときに死んでしまった。何かの弾みで転び、感電死したのだ。僕はいまウイーンにいる。ロイとその仲間たちの事を書いた習作がある雑誌に載り、それをもとにした戯曲が大当たり。僕は一生困らないほどの金を手にした。そして僕は、彼ら、ポールとインディア・テイト夫婦に出会った。僕は二人が大好きになった。彼らも僕が大好きになった・・・。
★★★感想を書くのがとても難しい・・・面白かったって言うだけじゃダメ?(笑)なんちゃって、だれもダメだなんていうはずないのに何か言いたがっているのは私の勝手ですよね〜(^_^;)
しかし、そうですね〜、ネタバレってわけではないですが、先入観を持ってしまう危険がありますので、近々読む予定の人は以下は読まないほうが(^^)
ジョーっていうヤツは自尊心とグズで卑屈なところが混ざり合ってて、あんまり魅力的な男ではないんですが、ロイみたいな兄貴を持ったらしょうがないって気がします(笑)すごくエネルギッシュで個性的で、圧倒的な人間のすぐそばにいる人って、こういう風にならざるを得ないんですよね〜。ジョーって根本的にはとてもいい人だと思うから、劣等感を刺激されて変なほうに行きかけても、まともな部分がブレーキをかけて中途半端な人間になってしまうのね。そういう意味ではジョーがすごく可哀相だったです。
ストーリーはじわじわ加減が素晴らしくって、読み出すと止まりません。人生を楽しむこと!それがすべてって言う感じのテイト夫妻。彼らに出会って幸せ絶頂のジョー。ちょっと不自然なほどの親密さ、そしてそのバランスが崩れる日・・・。何かの陰謀のように嫌いなものが並んだ食卓や、リトル・ボーイの不気味な手品、このくだりを読んでいる頃にはもう来るべき破局の予感でワクワク(^_^;)フツーの日常の中に非日常を混ぜ込むのが大変上手く、読者はいつのまにか奇妙な世界に連れ込まれてキョロキョロしてしまうって感じ。しかも後になって、伏線あったんじゃ〜ん(~_~;)と悔しがらせる、この手腕は見事!
リトル・ボーイに合格を宣言され、かつ「生きることの喜び」の大切さに気付いたジョーが、すべてをインディアと分かち合おうとして階段を駆け上がる・・・ハッピーエンディング?!いやいや、とんでもない。ジョーの悪夢の創造主はけっして・・・。
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嘘をついた男L'Adversaire 2000
エマニュエル・カレールEmmanuel Carrere(田中千春訳・河出書房新社)
ドクター、ジャン=クロード・ロマン。彼は愛する妻と、可愛い二人の子供、WHOの研究員という社会的地位を持った立派な人物。両親も彼のことをどれほど自慢に思っていたことか。だが、火事で焼け落ちた自宅から、鈍器で殴り殺された妻と銃で撃たれた子供たちの死体が発見され、悪夢のシナリオは終わりを告げることになる。彼はWHOの研究員どころかドクターでさえなかった。大学二年の学期末試験の追試を受けなかったときに、彼の十八年間にわたる欺瞞の人生は始まっていた。長い長い二重生活の間、彼は何を考えていたのか?作者(カレール)はこの男に手紙を書き送った。「なんとかして起こったことを理解したい」
★★★この作品は1993年にフランスで実際に起きた「ロマン事件」に基づいているそうです。ある医者が妻と子供を殺し、両親の家に行って彼らを殺し、帰宅して長い時間がたった後、期限切れの睡眠薬を飲んで自宅に火を放ち、結局自分は消防隊員に助け出されます。最初は彼にとって大変な悲劇と思われ、次に彼の犯行と分かってからは心中事件かと思われたこの事件の特異性は、彼、ドクターロマンが進級試験に失敗したのちも学校に通い卒業した振りをし、インターンをした振り、WHOへの就職をした振りをしつづけ、しかもその間に結婚し、二人の子供をもうけ、虚構の世界を営々と築いていたことにあります。職場に行く振りをして家を出た後、彼は毎日車をどこかの駐車エリアに停め、本を読んだり居眠りしたり、町をぶらついたり、森を散歩して過ごしていたといいます。そんなときに彼の脳裏に去来していた思いとは一体なんなのか?それをしりたくて作者は彼に取材を申し込んだのです。
彼の幼少時代からはじまり、殺人に至るまでの嘘の塗り重ね人生の部分は、頭を捻りながらもとても興味深く読みました。(『冬の少年』はこの事件から着想を得て書いたということです)しかし殺人後の彼は・・・なおも自己を正当化しようとし、あるいは信仰のなかに生きる道を見出したといい、懺悔する罪びととして神に愛されていると感じ、涙を流します。なかには彼のそんな姿を真実の彼であると考えて、心から支援する人もいるのです。彼は「祈りの輪」というグループに参加して日々祈りの毎日を送り、心の平安を取り戻しつつあるということです。「願いはすべて叶えられた。・・・伝記にはなる。聖人になる日も近いわ、きっと」と作者を非難したあるジャーナリストの意見に、わたしはもっとも賛同できました。
この本のテーマとは少しずれるのですが、ちょっと思ったことを書いてみようと思います。
わたしはある種の犯罪においては犯罪者と被害者は、その犯罪が行われたときに彼らの世界は二つに分かれ、もはや交わることはないように思うことがあります。以前、幼い我が子を殺された母親が、犯人に対して、毎日精神的に苦しみつづけてほしい、というような意味のことを言っているのを聞いたことがあります。心にこれほどの憎しみを持ちながらこれから何年、何十年と生き続けていかなければならないとは、なんという苦しみでしょう。被害者にとって、加害者が反省し、更生して心の平安を取り戻していくことは、何かの慰めになるのでしょうか?とくに少年犯罪などでは被害者は、加害者の更生だけで満足せよ、といわれているような気がします。そして加害者がその後、素晴らしい人格者になったなどと言われれば、少しはその苦しみが和らぐのでしょうか?
作者自身はこの作品を書くことが、この人殺しの人生を意味深いものにするのではないかと危惧していたようですが、確かにロマン自身にとっては大変意味のあることであったろうと思います。彼は危ない橋を渡りながら、常に成功してきました。彼の最後で最大の成功がこの本を書かれることだったということは確かでしょう。それは作者が本の中で、彼のことをどう断罪していようと同じことだと思います。
犯罪者の人生を振り返り、その精神構造を探り、犯罪に至った心理を知ろうとすることの意味はどこにあるのでしょう。一体誰のためにやるんでしょう。そうすることそのものが犯罪者のおもうつぼ、なんてこともありうると思うと、なんだか虚しいですね。
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冬の少年La Classe de neige 1995
エマニュエル・カレールEmmanuel Carrere(田中千春訳・河出書房新社)
内気で目立たない少年ニコラ。九歳の彼はクラスメートとともにスキー教室に参加する。ほかの子供たちは皆バスで一緒に行くというのに、彼だけは事故を恐れた父親の車で送られてきた。営業マンである父の車のトランクに入れていたはずの荷物を取り出し忘れたために、彼はパジャマを級友から借りる羽目になる。おねしょの恐怖に怯えるニコラは父親が荷物を届けてくれるのを待ちわびるが、なぜか父はやってこない。どうしてやってこないんだろう?そうだ、事故にあって死んじゃったのかも・・・?ニコラは空想のなかで甘美な悲劇の主人公になる。やがて雪山の近くの村で、少年が行方不明になるという事件がおこる。
★★★『ニコラ』(邦題)という題名で映画化された作品です。
主人公はニコラという少年。高圧的で支配的な父親と、存在感のない母親、それに弟の四人家族。父親はいつも長期出張中で、医療用外科器具の販売をしているということです。突然の転居や、電話にさえびくびくする母。学校で皆と一緒に給食を食べる、などということから育つ仲間意識とも無縁の生活。スキー教室でも・・・おねしょしたらどうしよう。ビニールをひけば大丈夫?どうやってみんなにばれないでビニールをひいたりできるだろうか?うう〜分かるわこの感じ(T_T)夢遊病のこと、その後の風邪、みんなに優しくされ注目され、気にかけてもらえる快感・・・荒唐無稽な空想にふけるニコラに、幼い日の自分を重ねないではいられません。そうか、こんなことを考えていたのは私だけじゃなかったんだね(^_^;)しかしやがてその空想は、父親に聞かされた恐ろしい事件や、怪奇小説などとまじりあって、手におえないほどに膨れ上がっていきます。
少しいじめられっ子ぽいニコラを、今回のスキー教室ではなぜかホトカンという少年がかばいます。ホトカンはちょっと屈折した少年で、その真意はわかりません。村の少年が行方不明となり、やがて殺人事件へと発展するなか、ニコラはホトカンに空想とも願望ともつかない作り話を聞かせます。やがて事件を調べる刑事がやってきて、空想が現実にとってかわる時はすぐそこに。
なんだかもう、どきどきしながら読んでしまいました。ニコラの罪のない幸せな夢想が、だんだん現実に侵食されておぞましいものになっていく様や、殺された少年の悲劇の裏返しがニコラ自身の救いのない現実につながっていくところ……ニコラの父親って、のっぺらぼうの黒い影のイメージなんでけど、ニコラの心の中の父親像もきっとそうなんじゃないかな〜。
持ってまわった言い回しなどない率直な文章で、訳もとても読みやすいです。終わりに近づくにつれ、もうどうしよう〜(T_T)という気分になっていきます。ラストはズキっと胸に突き刺さる感じ。ただ、途中にはさまれた一章にやや疑問が。確かにこれで救われたと言えなくはないですが、同時にひどすぎるし余分だという気持ちもあります。26章をみなさんはどう読まれるのでしょうか。
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ジャイアンツ・ハウスThe Giant's House 1996
エリザベス・マクラッケンElizabeth McCracken(鴻巣友季子訳・新潮クレストブックス)
「わたし」、ペギー・コートは人間があまり好きでない。あまり賑やかでもない観光地で、図書館の司書をしているさえない「わたし」のこころをとらえたのは一人の少年だった。11歳のジェイムズはきれいなストロベリー・ブロンドで、すこし目が悪くて・・・巨人症にかかったのっぽな男の子。恋愛経験もない不器用な年上の女と、とどまるところを知らぬげに伸び続ける身長を持て余し、成長力によって殺されてゆく運命を背負った少年の、ぎごちなくて純粋なラブ・ストーリー。
★★★これは、ジェイムズが11歳で185cmのときに始まり、20歳と3ヶ月で258cmで亡くなるまでの、緩慢でじっくりとした恋物語です。設定そのものが、年上で堅物(というか、人間嫌いを標榜する)の図書館司書の女と、巨人症という病気を患う少年の恋、ですから、かなり突飛で面倒くさい展開になってしまうのではないか、と危惧しながら読み始めたのですが、読み終わってみると、「おや、これって唯のラブストーリーじゃん」と驚いてしまいました。
主人公のペギーは本当に不器用な人で、人間間嫌いなどといいつつも、実は人とのつながりを誰よりも大切に思っているということは物語のそこここに感じられます。「他人に対しては失うものがなにもない」「もし選択の余地があり、ひとが勧めてくれるなら、わたしは自分に入場料をつける」――印象的な場面も多く、偏屈で寂しがり屋のこの主人公が、なんだか身近な存在に感じられます。実際にお付き合いしたら彼女のことが好きになれたかどうかは疑問ですが(笑)一人称で語られる彼女は、超然とした皮肉ととおずおずとした優しさがない交ぜの、人間らしさに溢れています。
ただ、この描き方ではジェイムズの内面にまで深く踏み込んだものにはなりにくいので、あえてペギーの方を主人公にしたことで、作者はこの物語を普通のラブストーリーとして描くつもりだったんだろうなあ、と思います。しかし、終盤のペギーの行動に関しては、分からないでもないけどやや唐突に過ぎる感もあり、何となくがっくりしてしまったのも確かなら、何となく羨ましいのも確かでした。できればあまり共感したくない人生に、かなり共感しちゃっている自分が少し哀しい、といったところでしょうか(^_^;)それにしても、後から思い出されるのはジェイムズのことばかりです。なんか、忘れられない人ってかんじ。
筆致はからっとしていて、ちょっと厚めの本ですが驚くほどさらりと読めます。また、あとがきに書いてあるのですが、語り手が「美しい」と言っている人が、その人の対する描写の中ではちっとも美しく感じられなかったのはわたしも同感でした。このちょっとずれた感じが面白いですね。ジェイムズの悲しすぎる運命にはただただ涙だし、ラストはもう少しさらっとしていてもいいような気がするけどなんだか重く、不気味でさえある。それなのになぜか、暖かく乾燥した風が吹いているような読後感です。
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ねじの回転The Turn of the Screw 1898
ヘンリー・ジェイムズHenry James(蕗沢忠枝訳・新潮文庫)
子供に幽霊が出る――クリスマス・イヴの怪談話に興じていた私たちに、ダグラスはある女性が残したという原稿を読み聞かせた。彼女は、二人の大変愛らしい兄妹の家庭教師としてある田舎屋敷にやってきた。兄妹の伯父である後見人に対して、絶対に二人のことでわずらわしい問題を持ち込まず、二人に関する一切合財を引き受けること、という条件付きで雇われたのだ。やがて彼女は男と女の亡霊に出会った。かつて兄妹の世話役をしてた彼らが、子供たちに会い、連れ出そうとしていると考えた彼女は、兄妹を彼らから守る決意を固めるが、実は兄妹は彼らの存在を受け入れているらしいことを知って愕然とする。
★★★ゴシック・ロマンの古典としては有名な作品です。しかし読んでみるとなんとも面妖な作品でした。いや、幽霊譚なのですから面妖なのは当然と言えば当然ですね。
まず、語り手である女家庭教師の存在がなんともつかみ所がないのが象徴的で、物語はすべて彼女の目に映り、彼女の内部で進行していくため、それが現実とも思えるし、あるいはノイローゼの産物とも疑えるような描写になっています。女教師の、雇い主である青年紳士への思慕と、そこからくる子供たちへの責任に対するやや異常なまでの自負心、子供たちに対する熱狂ぶりなどを考えると、どうも通俗的ではありますが「性的に抑圧されてヒステリックな妄想にとらわれた女家庭教師」という印象が強くなっていくのは確かです。一方で、亡霊の存在が女教師以外の誰にも見えていないらしいということが、亡霊の存在そのものを、疑問にも、あるいはより強い恐怖にも解釈することができるという、矛盾した感想をもちました。そう、それは確かに「いた」のかもしれないのです。(実はそう考えるほうが好きだったりします^_^;)
あとがきを読むと、亡霊と子供たちとの関係には同性愛という意図が込められていたという解釈が多くされているそうですが、私はそんなことはまったく考えなかったのでビックリ仰天しました。難しいもんですね〜(^_^;)私は、ただ単なる幽霊話として書くよりも、女家庭教師の一人ぼっちの体験談とすることで現実と怪異、正気と狂気のあわいに確かに存在する不思議で奇妙な世界のまがまがしさがより強く表現できているのではないかと思いました。ねじの一回転がどちらの方向に回されたのか・・・それは読者自身の感じた通りでよいのではないでしょうか。
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