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エドウィン・マルハウスEDWIN MULLHOUSE 1947
スティーヴン・ミルハウザーSteven Millhauser(岸本佐知子訳・福武書店)
僕がエドウィンに初めて会ったのは、1943年の8月9日だった。生後六ヶ月の僕(ジェフリー・カートライト)の心臓は激しく高鳴った。・・・のちにアメリカ文学史上に残る傑作『まんが』をのこし、11歳にしてこの世を去ることになる天才、エドウィン・マルハウスと僕は、コネティカット州ののどかな郊外の町ニューフィールドの隣り合った家でともに成長した。初めての出会いから、僕はエドウィンを「全知なる伝記作家」の目で見つめつづけてきた。アルファベットの絵に、言葉に、数字に興味を覚えて非凡なものの見方を披露するエドウィン、恋に苦しむエドウィン、創作するエドウィンの姿を僕は克明に記憶に残す。そして遂にあの不朽の名作『まんが』を完成させたエドウィンが次になすべきと決めたこととは。
★★★これは『エドウィン・マルハウス――あるアメリカ作家の生と死(1943−1954)ジェフリー・カートライト著』(Edwin Mullhouse:The Life and Death of an American Writer 1943-1954 by Jeffrey Cartwright)という題名の、スティーヴン・ミルハウザーによる処女長編です。
伝記作家の僕(ジェフリー)とエドウィンは同い年で、ジェフリーのほうが半年早生まれ。生後六ヶ月の時、生まれたばかりのエドウィンのことを、ジェフリーはその卓越した記憶力によってはっきりと覚えており、その後も彼の成長ぶりを、初めての発声から、その凄絶な創作活動、血塗られた死に至るまで、「伝記」という形で書き記したものをのこし(しかもそれは彼がわずか11歳から12歳の時の事)、いま、もはや彼の行方は杳として知れません。
奇妙ですか?確かに。わずか11歳で傑作を残して死んだ少年の伝記を、同い年の友人が、その死のあとにすぐさま書き上げたとは。しかもそれは少年の誕生の直後から始まり、その死まで、驚くべき密度で書き綴られているのです。しかしそこに違和感を感じるというよりもむしろ……その色彩溢れる世界に虜にされてしまうのです。ミルハウザー独特のテクニカラーの「”鮮明で不可思議な”と形容した独特の世界」。とにかく私たちはその世界に、取り込まれる、のです。そしてそのあまりの鮮やかさに目を眩まされ、はっと気がついたとき私は、なんだか巨大な騙し絵の中に投げ込まれてしまったのではないか、と思いました。
「しかし、僕はこの機会にエドウィンに――彼が今どこにいるのであれ――こう問いたい。伝記作家の果たす役割は、芸術家のそれとほとんど同じぐらい、あるいは全く同じぐらい、ことによると比べものにならないくらい大きいのではないだろうか?なぜなら、芸術家は芸術を生み出すが、伝記作家は、言ってみれば、芸術家そのものを生み出すのだから。つまり、こういうことだ――僕がいなければ、エドウィン、君は果たして存在していただろうか?」(118〜119P)
この一文は後書きでも引用されていますが、あえてここにも書いてみました。この部分を読んだ時、私は作者の「あなたが考えていることを当ててあげましょう」という言葉を聞いたような気がしたのです。なにかがおかしい、どこかがユガンデル…そう思いながらもせかされるように読みすすめるしかなく、伝記作家ジェフリーの筆はますます冴えわたり、凄まじい緊張感のなか、あの『まんが』が誕生します。そして・・・最後には本を持った手が震えました。これは一体なんという小説だったことでしょう!やがて戦慄の中に、一つの疑問(興味?)が浮かんできます。ああ、今私はそれを誰かと話し合いたくってたまりません(作品に対する不満ではありません、念のため)。
さて、最後にもう一箇所、印象に残ったところを引用して終わりにしようと思います。それはジェフリーがエドウィンの天才について語った部分の最後です。「僕が”成熟することの醜怪さ”――その言葉は奇妙に僕の記憶に残っている――についていつになく熱弁をふるった時、エドウィンの顔に浮かんでいた苦い笑いを、僕は忘れることができない」
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くもの巣の小道Il Sentiero Deinidi Diragno 1947
イタロ・カルヴィーノItalo Calvino(米川良夫訳・福武書店)
「トンネル露地」に娼婦の姉と住む少年ピン。年をとった子供というようなしゃがれ声をしているピンは子供たちからは仲間外れだ。だからといって大人たちも、ピンの卑猥な言葉や奇想天外な悪態をいつも笑ってくれるわけではない。今日もも大人たちはピンに背を向けて話に夢中だ。仲間に入ろうとしたピンは、邪魔にされた挙句に姉さんの客のドイツ兵からピストルを盗み出す羽目に陥る。これがきっかけでファシストどもにつかまったピンは、政治犯ルーポ・ロッソと出会い、やがてパルチザン部隊にもぐりこむ。
★★★ネオ・レアリズム小説の傑作ということですが、リアリティに溢れているようでいて、でもちょっと違うような気もします。
少年ピンとその姉ネッラは船乗りの父親が港につくった私生児らしく、彼らの母親が死んだあとは父親が彼らの前に姿を見せることはなくなってしまいました。しめっぽい孤独の影を背負ったピンは、せめて自分を受け入れてくれそうな大人たちの世界に身を置いて、彼らをからかうことで居場所を獲得していますが、それがいつも通用するわけではありません。そんなピンの姿を描き出す抑えた筆致は秀逸で、ぶん殴ってやろうかと思えるような可愛げのない、でも、くもが土の中に巣を掘っている大事な秘密の場所を共有することのできる友達を渇望して目を見開いている孤独な少年がそこにいます。
ピンが一つの居場所を見つけたパルチザン部隊は、なぜか落ちこぼれ達の吹き溜まりでした。病気だと称して寝てばかりいるくせに、むやみに命令を下したがる隊長ドリット、極左過激主義のマンチーノ、女嫌いの孤独なクジーノ、怠け者の、のっぽのゼーナ、武器と女に情熱を燃やすペッレ、もと憲兵の憲兵・・・・勇敢なるパルチザン部隊の兵士とも思えぬ面々です。彼らはなぜここに集まったのか?彼らにとって「黒シャツ旅団」つまりファシストの側に立つことと、こちら側に立つことと、どれほど違いがあるのか?彼らはなぜ戦いに行き、死んでいったのか?ピンは勿論のこと、ここにいる連中はレジスタンスの理想などには実はうんざりしているというのが本音だったりします。彼らはただ…「ただ何者かに反対したいという紛れもない意志だけでやってきた若者たちだ」。
この作品はいわゆる正義(?)を求めて戦った英雄たちの話ではなく、つまらない連中のつまらない意地の物語なのです。「ピンには戦争をしているときと、戦争のないときとの違いがよく分からない」・・・戦争はいつでもそこにあったし、何かに向かって行く以外に生きる道はない。何に向かって行くのか?戦争で死ぬって、なんて不可解なんでしょう。また、だからこそ、最後にドリットが見せる態度に、同じつまらない人間としてささやかな感動を覚えるのだと思います。
物悲しいのに、なんだかきらきらして躍動的な、不思議な感触。ラストのなんともいえぬほろ苦さが忘れられない作品となりそうです。ただ、少しメッセージ性が強く出すぎている部分があって、やや風味を損ねている気もしました。
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薔薇の名前Il Nome della Rosa 1980
ウンベルト・エーコUmberto Eco(河島英昭訳・東京創元社)
時は14世紀の初めのイタリア、皇帝ルードヴィヒと教皇ヨハネス二十二世の対立は激しく、聖職者の間では宗教運動が盛んに行われ、異端裁判の恐怖が蔓延していた。「わたし」ことメルクの見習修道士アドソが、師であるバスカヴィルの修道士ウイリアムとともにその僧院を訪れたのは、皇帝側と教皇側双方の使節団による予備会談を設定するためであった。ところが、思いがけず修道士の突然死の真相を突き止める役目を僧院長から依頼される。やがて写字僧の一人も死体となって発見され、ウイリアムたちは僧院の奥に聳える謎の文書館と、「アフリカノ果テ」という言葉に犯罪をあばく鍵があると考える。
★★★世界的記号学論者による、初めての長編小説。
ものすごく難解な小説、というイメージを持っていましたが、読み方によっては素晴らしく楽しい小説ですよ(^^)メルクのアドソの手記、という形をとっているのですが、冒頭に「手記だ、当然のことながら」という題をつけてこの手記が世に出た顛末が書いてあるのですが、ここで相当怯みました。ついで「プロローグ」もかなり堅苦しい感じで、キリスト教暗黒史の一端が語られるため、「こりゃ〜いかん」と思っていたのですが、そのあと案外スラスラ読めました。セリフの部分も多いし、なにより主人公のウイリアムとアドソの師弟コンビのキャラクターがいいですね〜♪修道士ということですから、宗教的な問答もたくさんあるのですが、非常に人間的で面白いのです。背景となっている僧院の荘厳で重苦しい雰囲気と、この二人の軽妙(と言うといい過ぎかも?)さがとてもバランスいい。登場して、早速ブルネッロの謎について一席ぶつウイリアムに出会ったら、きっとあなたも彼らに夢中になれることでしょう(笑)
ストーリーの一つの柱としては、幾つかの殺人事件の犯人探しという部分があるのですが、これは昔読んだ冒険小説を思い出させるようでワクワクします。迷宮のような複雑な構造をもつ謎の文書館でおこる怪奇現象、枠札の言葉が示すものは?「アフリカノ果テ」への秘密の入り口は?…暗い納骨堂を通って冒険に繰り出す二人は、そこで宝物のような書物に出会い夢中になります。羊皮紙に書かれた細密画、あらゆる言語で書かれた書物たち…そう、この事件は「禁じられた一巻の書物をめぐる事件なのだ」。
「書物にとっての喜びは、読まれることにある。書物は他の記号について語る多数の記号から成り立つのだが、語られた記号の方もまたそれぞれに事物について語るのだ。読んでくれる目がなければ、書物の抱えている記号は概念を生み出せずに、ただ沈黙してしまう。ここの文書館も本来は収蔵されている書物を守るために生まれたのであろうが、今はそれを死蔵するために生きている。ここが不敬の温床となってきたのはそのためだ。」(下巻226P)
もう一つの柱は対立する教義解釈にまつわる部分。「清貧」なんていい考え方じゃん!と気楽に思ってしまうところですが、そうでもないんですね、狂信的な人たちにかかると(^_^;)強欲な連中にとっては目障りな考え方だし、ということでここらへんは本当に複雑。でも、「所有」に関する論議の展開などは、面白く読めました。
まあ、この部分に関してはあまりよく分からないのですが、対立する聖職者たちがお互いにののしりあう場面が最高に面白かったですね。しかし、この時代に生きた聡明な人たちって、宗教(キリスト教)のもつ暴力性に嫌気がさすってことはなかったんでしょうかね?「だが、何であれ、純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」(下巻208P)という言葉も印象的ですが、性急な革新派もいれば、埒もない論争に明け暮れている僧もいるし(時には命がけらしいけど)、平信徒にとってはもしかしたら信仰とは恐怖と同義語だったのかもしれない。まったく宗教って恐ろしいですね。しかし、目先のことで精一杯の人々に比べ、狂信的とはいえホルヘの予言のすごいこと。僧院の一つくらい焼き尽くすエネルギーを感じましたね、確かに(^_^;)
と、なんとも言葉足らずの上滑り感想ですが、難しく感じる部分は自分なりの解釈で、ってことで(爆)ところどころに散らばっている迷信、魔術、あるいは科学(?)のウソかマコトかのエピソードも大変楽しめますし、とにかく「読めば分かる」おもしろさです♪
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怪奇探偵小説傑作選-5海野十三集−三人の双生児−
海野十三(ちくま文庫)
『電気風呂の怪死事件』『階段』『恐ろしき通夜』『振動魔』『爬虫館事件』『赤外線男』『点眼器殺人事件』『俘囚』『人間灰』『顔』『蝿』『不思議なる空間断層』『盲光線事件』『『生きている腸』『三人の双生児』
★★★短編15編と付録「三人の双生児」の故郷に帰る・盲光線事件(脚本)、を収録。
『電気風呂の怪死事件』電気風呂の銭湯で客が感電するという事件が起こる。騒然としたその最中に大胆にも女客が吹矢で殺された。電気風呂はあんまり関係なかった(笑)しかしいくらなんでもその格好で逃げ出したら人目につくでしょう。ラストは悪趣味(ーー;)
『階段』駅で乗客の統計をとる仕事の手伝いで、僕はある女性の白いふくらはぎの虜になった。やがて僕はその女性と再会し…。なかなか微笑ましい話かと思っていたらとんでもなかった。みんなして「足」に注目しているところが面白い。
『恐ろしき通夜』航空大尉と理学士と軍医が共同の動物実験をする夜、三人は栄螺の壷焼を肴に各々の面白い体験談を語ることに。鬼か魔か?とにかくチョ〜気色わるい話。食べられなくなったらどうしてくれるの?!
『振動魔』僕の友人柿丘秋郎は、恩人の妻を妊娠させた為、窮地に陥った。そこで彼は奇怪きわまる実験を企てる。この荒唐無稽さ、恐るべき結末、あやういバランスのうえに見事に構築されているのがすごすぎる作品。
『爬虫館事件』私立探偵帆村荘六は動物園園長失踪事件の捜査を依頼される。爬虫館で飼育されている9頭ものウワバミをみて、探偵は考えた。そんなことだろうと思ったけど、もうちょっと科学的な物質かと思ってました、その液体…(げげっ^_^;)
『赤外線男』列車婦人轢死体取り違え事件の謎も解けぬある日、赤外線テレヴィジョン装置には不気味な「赤外線男」が映し出された。「赤外線男」に関する考察がめちゃめちゃ面白い。帆村荘六も名探偵ぶりを発揮して、どんでん返しの結末にいたるまでうまい構成です。やられちゃった(笑)
『点眼器殺人事件』帆村荘六は不可解な殺人事件の捜査をするはめになる。どことも知れぬその現場では、関係者たちも正体をあらわにしない。これはなんといったらよいのでしょうか(爆)関係ないけど、犯人は誰でもいいんなら、無理に探偵を呼ばなくても(^_^;)
『俘囚』妻を忘れた夫よ、呪われてあれ。夫もまんまと殺したわたしは愛人との生活を始めるが、そこへ死んだはずの夫が!これはいい(笑)ここまで陰惨な話を、こんな風にかかれちゃうとどうしたらいいのか分かんない、けど面白い(^_^;)
『人間灰』空気工場で次々と雇人が失踪するという事件が。それはいつも西風の強い日だったという。そしてその夜も大西風が吹き荒れた。何で犯人はわざわざ実験を?わからん・・・。
『顔』四つの顔の物語。「寝室の顔」…二人の男に求婚され、一方と結婚した若妻の苦悩とは。帆村の発見した公式の怖いこと。
『蝿』蝿七話。短いものばかりだがどれもなかなかの秀作。とくに第五話「ロボット蝿」がお気に入りです。
『不思議なる空間断層』私は友人友枝八郎から、夢の話を聞かされる。彼は夢の殺人事件で、夢の刑務所に入っているらしい。あれ?夢を見ていたのは一体……?
『盲光線事件』小山内虎二は、現像したフィルムに覚えのない写真が写っていることに気がつく。やがてその写真を懸賞に応募して一等をとることが出来た。活劇風の展開が楽しい。脚本のほうは最初からネタバレしているが、まとまりがいい。
『生きている腸』医学生矢吹隆二は生きている腸を手に入れて、その飼育に成功する。チコと名付けたその生ける腸によって大論文をものしようとする彼だったが。生ける腸(はらわた)の描写もいいが、なんといっても皮肉たっぷりの結末が好き(^_^;)
『三人の双生児』妾(わたし)には「はらから」がいる。幼い記憶と、父が残した謎の言葉「三人の双生児」を頼りに、「はらから」を探す妾のもとへ訪ねて来たのは。幻想的な描写ではじまったわりにはろくな人間が出てこない(ーー;)ラストは……怖すぎる。
これらの作品に使われている科学は、基本的には正しいものを空想的かつ発展的に使っているのだろうと思いますが(わかんないけど^_^;)ぶっ飛びます(笑)名探偵、帆村荘六は「シャーロック・ホームズ」の音をあしらって名付けられたとか。
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死んでいるBeing Dead 1999
ジム・クレイスJim Crace(渡辺佐智江訳・白水社)
ある火曜日の午後、動物学者夫妻ジョゼフとセリースは、バリトン湾に続く歌う砂丘を訪れて、そこで死んだ。いや、死んでいる。強盗の振り下ろす花崗岩の塊が、二人の命を打ち砕いたのだ。セリースは即死、ジョゼフは少しの間だけ生きていて、彼の腕はセリースのふくらはぎをつかんでいた。死体を最初に発見したのは一匹の甲虫、そしてヤドリバエとカニ、カモメが一羽…。物語は彼らが出会った30年前へ、あるいは事件当日の朝へと遡る。二人の娘シルが両親の行方を追う中、死体は刻々と腐敗と侵食が進んでゆく。
★★★2000年度全米批評家協会賞を受賞した問題作。
バリトン湾の後浜で行われた潮汐研究所の研究のための合宿。そこでセリースとジョゼフは初めて出会いました。チビで(「ぼくは背が足りないから」が口癖?)まぬけのジョゼフに最初はうんざりしたセリースは、彼の素晴らしい歌を聞いて興味をもちます。一方ジョゼフもセリースに自分と同じ匂いをかいで、気を引く作戦を立てたりして、結局二人は結ばれるのですが…その合宿の最後に火災が起こり、仲間の一人が死ぬという事件があって、セリースは結婚以来決してバリトン湾を訪れることはありませんでした。しかしある建設計画が持ち上がったことから、最後にと二人はそこを訪れることにします。そして、二人はそこで「死んでいる」六日間を過ごす羽目になってしまうのです。
時空軸のやや複雑な展開がなかなか効果的で、面白いと思いました。「死んでいるbeing dead」二人の刻々と変化していく過程の描写は、文字で追う限り淡々として、科学的な醒めたまなざしをもって読めるため、ある意味では興味深いともいえますね。生きてきた数十年間と、死んでいる数日間を対比させながら、生の終わりに必ずやってくる死の静けさが不思議と心を落ち着けてくれます。
ただ残念ながら、私はあまり心を動かされませんでしたね〜(^^ゞあ、いや、心を動かされなかったと言うとちょっと違うかな。死というものを非常にシンプルにとらえたテーマの部分はとても面白いと思ったんですが、そこになにも愛とかを持ち出すことはないじゃんと鼻白んだという天邪鬼ぶり(爆)丹念によく書いてあると思うのですが、かえって語りすぎという感をもちました。その内容がまたありきたりの家族物だったりで平凡だし、主人公の一人が語る生死観にも目新しさはないし。勿論、平凡な人生の果てにある死の意味、というところがポイントなのかもしれませんが。もう少しすっきりと、無機質にまとめてあった方が、反対にいろいろなものが見えてきたのではないかなあ。でもまあ、そこのところは好みってことで(^_^;)
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三つの小さな王国Little Kingdom 1993
スティーヴン・ミルハウザーSteven Millhauser(柴田元幸訳・白水Uブックス)
『J・フランクリン・ペインの小さな王国』『王妃、小人、土牢』『展覧会のカタログ――エドマンド・ムーラッシュ(1810−46)の芸術』
★★★ピューリッツアー賞作家の中編小説集。
『J・フランクリン・ペインの小さな王国』
幼いころ、写真を現像する父の手伝いをいつもワクワクしながら手伝っていたフランクリンは、「ワールド・シチズン」紙美術部の専属アーティストとして挿絵やコマ割漫画を書いていた。白い紙に生命が浮き出す瞬間、それを何よりも愛したフランクリンは今、アニメーション作成に没頭している。一秒16コマ、四分なら四千枚近いドローイングをコツコツと書きつづける。セルをつかう手法には納得できないのだ。家の中で一番高い位置にある、ランプのともった塔の部屋で、フランクリンは知らぬ内に季節が過ぎていくことに気付いてはっとする。
細部に異常なほどこだわるフランクリン。まず彼の描く漫画、アニメーションの怪奇でシュールな、想像も及ばない世界、その完成度の高さに非常に惹かれる。これらの作品を、コツコツと丹念に描きつづけるフランクリンの姿は空恐ろしくもいとおしい。漫画「ハーヴィー」では、自分の描いた世界に入っていく男の子は最後には自ら脱出の道を描くが、最後のアニメーション「月の裏側への旅」では、主人公の通るそばから世界は消えていき、最後には遂に自らを黒板消しで消してしまう。月の光に誘われて塔の部屋から抜け出す幻想的なシーンで始まった物語は、最後には大きな月の白さに呑み込まれる恍惚のなかに溶けていく…二つの世界は一つになった。なぜかふと、環が閉じられてしまった、とでも言うような哀しみを感じた。
『王妃、小人、土牢』
昔々、美しい王女がいて…美男の王と結婚した。二人はこの上もなく幸せだったが、ある夜、旅の男が現れた時、その幸せは終わった。一介の辺境伯と名乗るその男と王妃の間にあらぬ疑いをかけた王は、王妃に、辺境伯と添い寝してその潔白を証明せよと命じた。小人スカルボは王妃に近づき、辺境伯の罪を認めてしまえとけしかける。追い詰められた王妃は遂に。
これはちょっと変わった構成の作品。お城のお話は、想像力を刺激して素晴らしい。町の描写も謎めいていて、引き込まれる。王と王妃と辺境伯の話は、遠い遠い昔のお話。川の向こう岸のお城のお話。私たちの町は高い城壁に囲まれている。そこは素晴らしい町。私たちは昔むかしの城をめぐるもろもろの物語を今も伝えつづけている。それには色々なバリエーションがある…。その話は本当の話なのか、どこからか違ってきたのか、それともただの「お話」なのか?過去と、町民たちが語り継ぐ話とが溶け合い、一体となって、どこまでも続いて欲しいような「物語」となっている。傑作!
『展覧会のカタログ――エドマンド・ムーラッシュ(1810−46)の芸術』
展覧会のカタログ、という形で、26枚の絵画に関する説明を通し、エドマンド・ムーラッシュと言う画家の生涯を浮き彫りにする。
これも聞いたことのないような手法だ。しかも素晴らしく効果的。ムーラッシュとは架空の画家だ(とおもう)が、大胆で辛辣で、嘲笑的な画風の作家と見受けられる。残された絵画と、妹エリザベスの日記や、友人たちの記録から、この人物の人となりや生き様が見えてくるという仕掛け。面白い趣向だし、しかも小説として十分読み応えがある。奇をてらっただけではない底の深さを感じた。この展覧会は見てみたいものだと思う、が、これもまた想像を絶する。
以上、いずれも確かに小さな世界の物語だといえる。しかしその奥行きはとても深く、なんだか迷路に誘い込まれたような不安感を感じる。この作家の世界はとても気に入った。もっと読んでみたいものだ。
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エヴァが目ざめるときEva 1988
ピーター・ディッキンソンPeter Dickinson(唐沢則幸訳・徳間書店BFT)
高層ビルが林立する都会でひきめきあい、人々は閉じこもってシェーパーに見入り暮らしている近未来。自然は破壊され、野生動物はことごとく絶滅してしまった。そんな世界で、ある一人の少女が二百日を超える眠りから覚醒した。少女の名前はエヴァ。大事故により損壊した彼女の体の替わりに、エヴァの記憶は「ケリー」の脳のなかに再現された。目ざめたとき、エヴァは自分がチンパンジー「ケリー」の中に生きていることに気がつく。何とか折り合いをつけようとするエヴァだが、自分の中に深く息づくケリーの無意識下の記憶を無視することは出来ない。
★★★異色のSFということですが・・・。
エヴァは卵型の輪郭、高い頬骨、濃く青い目に長いつやつやの黒髪をもつ美しい少女でした。あらゆる野生動物が絶滅するなか、唯一生き残ったチンパンジーの研究者であるパパの影響で、幼いときからチンパンジーに慣れ親しんだ環境で育ったため、自分自身がチンパンジーになってしまったときも、比較的冷静にそれを受け入れることができました。エヴァにとってつらかったのは、チンパンジーになった娘を受け止めきれなくて苦しむママの姿、怖いもの見たさだけで大騒ぎするメディア、そして「ケリー」のこと。ケリーはこうなることを望んだわけではないはずだ・・・。ケリーがエヴァに見させている夢は、やがてエヴァをチンパンジーの仲間との交流へと導きます。エヴァは徐々に、自分が生まれ変わった意味を考え始め、それは彼女に一つの行動を決意させます。
いや、もう、設定がすごいんでのけぞりますね〜(*_*)目が覚めたらチンパンジーになってるんですよ?!私だったらその時点で気が狂いますね。しかも、パパは自分の研究対象として素晴らしい素材が手に入ったことを露骨に喜んでいるし、ママはおどおどしているし。愛するお前の命を助ける為だったんだよ、なんていわれてもねえ〜(ーー;)ところがエヴァは勇敢に冷静に、チンパンジーになった自分を受け入れようとするんですよ、信じられないほど(T_T)
この作品では、地球レベルでは環境破壊、人間レベルではメディアのあり方とか、進歩する科学や医療のいびつな部分、親と子の関係などといった今日的な問題がとても考えさせる形で提出されており、私たち人類がやがて迎えるであろう終末が非常に端的に描かれていると思います。その姿と裏腹に、エヴァがチンパンジーとして生き、チンパンジーの中に何かを残そうと努力する姿は、人類に対する皮肉に満ちています。
エヴァはなぜ、人間としての生活を捨て、仲間とともに自然を求めたのでしょうか。人間の中で生きていくことから逃げたのではありません。彼女はそんなヤワじゃないし、チンパンジー生活のほうがずっと大変そうなのに。でもなぜか、彼女はそれが自分の使命(?)であると知っていたかのように、チンパンジーの指導者になっていくんです。そう考えると、「エヴァ」という新しい存在の誕生はやはり地球の歴史の必然というか、組み込まれたプログラムの一つなのかも、なんて思ってしまいました。この物語は、未来の話であると同時に、歴史を語っているものでもあるのでしょう。
人類という種は、ある意味では弱いのに、ヘンに強くなりすぎちゃってますよね。どうやって滅亡したらいいのか分からないままに、ぶざまに滅んでいくような気がします。そのときにせめて、エヴァたちが生きていける自然を残すことができるのでしょうか。
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女たちの遠い夏A Pale View of Hills 1982
カズオ・イシグロKazuo Ishiguro(小野寺健訳・ちくま文庫)
イギリスの田舎町に住む悦子のもとへ、娘のニキがやってきた。姉の景子が自殺したときには、葬式にも出席しなかったニキが来た理由は「要するに、わたし(悦子)には景子の死にたいする責任はないと励ましに来て」くれたのだと分かっていた。ニキと過ごす数日の間に悦子は、佐知子とその娘、万里子のことを思い出していた。イギリスへくるずっと前、戦後の混乱を耐えてようやく社会に明るさが戻りつつあったころ、長崎で、悦子は佐知子と知り合ったのだった。そのころの悦子は、夫と二人暮し、お腹には景子がいた。ちょうど舅の緒方さんも滞在していた…。
★★★ブッカー賞作家、カズオ・イシグロの初めての長編小説。
舞台は戦後復興しつつある日本、しかも原爆の被害を受けた長崎です。長崎は作者が5歳で渡英するまで住んでいた場所ということですが、原爆によって完全に破壊された町に、並んで建てられた四角いコンクリートのアパート、という描写は、戦後、全く違ったものに変貌しようとしている日本の情景をよく表しています。
悦子はそのアパートの住人です。環境はあまりよくないけれども、まずまず将来に希望の持てる暮らしで、幸せといえる生活を送っています。そんな時、川岸にただ一軒残された古い、軒の深い木造の家に、佐知子と万里子が越してきたのです。三十半ば(?)の佐知子にはアメリカ人の愛人がいて、彼と万里子の三人でアメリカに渡ることを夢見ています。
「あの子が、こんなところを好きになるはずがないでしょ?」佐知子のセリフが耳に残っています。あの子、とは万里子のことですが、実際には自分自身のことを言っているのでした。「ただ空いている部屋がいくつかある、そこに座りこんで年をとっていくだけ」の人生への恐怖、足元から湧きあがってくる焦燥、たとえ何かを犠牲にしようとも…。佐知子を無責任な、馬鹿な女だ、と批判することはたやすいことですし、私もそう思います。それでもなお、彼女が何に渇いていたのかは分かるような気がしました。掘り返され、むきだしになった自分の根っこをもう一度生やして伸ばす土地と、水。
悦子がやがて景子を連れ、二度目の夫とともにイギリスに渡る事情は、何も記述がありません。ただ、佐知子と万里子の思い出話のなかに、それを映しだしているだけです。イメージのような映像を重ねることで、のちの悦子の人生で起こるであろう出来事や、心の葛藤までも想像させることに成功しています。
日本は戦争に負けました。わたしがこの小説を読んで強く実感したのは、戦争での破壊による物質的な喪失はもちろんですが、それと同じように、特に敗戦国にとっては従前の価値観が意味のないものになること、混乱することというのが、人間の精神面においていかに大変な痛手であったか、ということでした。よりどころとしていたものをなくし、新たに自我を獲得していくことは誰にとっても困難で、犠牲を伴うことだったのかもしれません。
ゆらゆらとした妖しい情念を感じさせる遠い夏の日と、穏やかで理性的な今日。日本とイギリスは、彼女の中では分かちがたく結びついているようで、そのことは悦子の、自分の人生の選択に対する悔恨にもつながりますが、同時にニキという新しい価値観を生み出すこともできたのです。正しいかどうかはともかく、それは新たな土地に生えた「希望」という芽です。
ところで、この作品にでてくる「緒方さん」ですが、懐かしい、なんともいい味わいの人物に描かれているのです。なぜ懐かしいのかな〜、と思っておりましたらあとがきで作者が小津安二郎の映画から受けた影響についての言及がありました。そうだ!笠智衆さんでした(^^)そういう目でみると、いかにも典型的だなあというふうにも感じられますが、作者が描きたかった日本がよく出ていると思いました。ただ、話し言葉には引っかかりを感じました。別にそれが悪いということではなく、言葉って言うのは微妙なもんだな、奥が深いなあ〜とつくづく感じたということです(^_^;)戦争に負けても日本語が残って、よかったですよね?
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