ナボコフの一ダースNabokov's Dozen | |
ウラジミール・ナボコフ(中西秀男訳・ちくま文庫) | |
「ぼくはフィアルタが好きだ。―どこか眠たいような気分があって心が清められる思いがするからだ」―フィアルタの狭い坂道を上りながら、どんより曇った春の日の息吹きと香りを楽しんでいたぼくの目に映ったニーナの姿。15年前からの知り合いの彼女とは、いつ会ってもかならずいま着いたところか、これから立つところなのだ。クック旅行社のカウンターで旅行社のものが鉛筆を手にニーナと二人考え込んでいる・・・永遠の寝台車をどう予約したらいいか。何度も出会いと別れを繰り返し、「船が通ったあと浜辺によせてくる名残のさざ波のように、だんだん間遠くなり夢のようになる」ニーナ。ぼくはニーナと会うごとに不安になる。「何か美しい、微妙な、二度と得られないものを取り逃がしていはしないか・・・」―「フィアルタの春」ほか12編収録。 ★★★「ロリータ」で有名なナボコフの短編集です。1931年から1952年の間に書かれた作品が集められています。ロリータの出版が1955年とのことですから、まだナボコフの名前があまり世に出ていなかったころに書かれた作品ということでしょうか。「フィアルタの春」ニーナと「ぼく」が最後に出会ったのが、フィアルタだったということがきっと運命だったんでしょう。積もった悲しみの感情も、多分この町に溶け出して・・・。 「忘れられた詩人」ロシヤ文学振興協会が半世紀前夭折した詩人ペローフの記念祭を開催した。そこに現れたのは着古したフロックコートを着た体格のいい老人。「ペローフです」と名乗る老人を誰も相手にしなかったが、とめる間もなく彼は演壇にすすみ。もてはやされる栄光って何?思想と文学があるときマッチしたら、またいつか復活できるかも。 「初恋」20世紀のはじめ、「北海(ノール)急行といえばそのころすごく豪華なもので・・・」ぼくはその列車でパリまで行った記憶がある。夜の特別急行の魔力にとりつかれながら。そして、別荘のあるビアリッツで出会ったコレットと逃げ出した思い出も。なんだか懐かしい。物から喚起される思い出には甘美なものが多いようです。 「夢に生きる人」蝶の標本を売る小さな店を営むピルグリム。彼にはささやかな夢があった。遠い国々で珍しい蝶を自分の手で捕りたい。その夢が実現する日がやってきた。う〜ん、不条理なのかもしれないけど・・・とにかくなんか寂しい。誰にとっても。 「城・雲・湖」チャリティの福引で観光旅行旅行券を引き当てた男がその旅行でであった運命とは。すごく怖い話でした。 「一族団欒の図、一九四五年」困ったことにぼくには一人迷惑な同名異人がいる。ぼくが招待された集会もどうやら。人間って自分の都合のいいように物事を解釈するものなんですね。ラストがいいです。 「マドモアゼルO」美しいフランス語を話し、どこまでも傷つきやすい家庭教師のマドモアゼルO。老いてスイスに住む彼女を久しぶりに訪ねるぼく。異国で家庭教師として暮らすマドモアゼルの真の「悲しみ」のすがたを、理解できる人などいなかったんですね。「ぼく」もはたしてその「傷ましさ」を、彼女の「思い」をつかむことができたでしょうか。 題名には、一ダースとなっていますが、収録されているのは全部で13作品。英語では13個を俗に「ベーカーズ・ダズン」(パン屋の一ダース)というそうで、昔パン屋が目方をごまかすと処罰される法律のあったころ、それならパン一ダースあたり13個渡しておけば文句はなかろう、とパン屋が考えた―そこからこの言葉ができた、という説があるそうです。(訳者あとがきより) |
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ソラリスの陽のもとにSolaris | |
スタニスワフ・レムStanislaw Lem(飯田規和訳・HSF文庫) | |
観察ステーション駐在員としてソラリスへやってきた心理学者ケルビンが遭遇したのは、ステーション内の異様な状況だった。三人の駐在員のうち、スナウトは何かに憑かれたように意味のわからないことをしゃべり、サルトリウスは部屋から一歩も出ようとはせず、ギバリャンは自殺したという。説明を求めるケルビンに対し二人はおびえたように、何も知らない、と繰り返すだけだ。「きみのところへだって、お客が来るようになれば、何もかもわかるようになるさ」―はたして、ケルビンの元にも「お客」がやってきた。かつて彼が愛し、その死がいまも心に重くのしかかっている女性ハリーが・・・。自分は幻覚を見ているのか?精神に異常をきたしているのか?そのどちらでもないとわかったとき、この事態を引き起こしている惑星ソラリスに対して人間はいったい何ができるのだろうか?惑星は何らかの意図を持っていると言うのだろうか。 ★★★惑星ソラリス、赤と青の二つの太陽を持つ二重星ながら安定した軌道をたどる惑星。直径は地球より二割ほど大きいが陸地はヨーロッパの面積よりも小さい。「すみれ色の靄におおわれて、ものうげにのたうっている」海はゼリー状のシロップにも似て、その表面は地球上では想像し得ないようなさまざま形態をとる。「生命をもつ惑星、しかもたった一個の生命しかもたない惑星」 このひろい宇宙の中、(いや、外、と言うべきでしょうか)地球だけが生命の誕生や発達を成し遂げることができた、なんてことはありえませんよね。私はきっとたくさんのET(地球外生物)がいるに違いないと思っているのですけど、はたして私たち人類が今後彼らに出会うことができるかどうか、と言う点に関しては???です。ほんのちょっと時間がずれていただけで、もう決して遭遇することなどないのだし、人間にしても、ここまで科学が発達したと言ってもいまだに月に到達するのが精一杯ですもんね。それにしても、もし・・・他の知的生命体に出会えたとしたら・・・?人間が未知の物に出会ったとき、はじめは恐れ、不安、そして好奇心が芽生えてくるものでしょう。そしてお互いに理解できる部分が見つかったら、受け入れられるかもしれませんが、もし、まったく理解を超えるものだったとしたら・・・?拒絶、抹殺と言うことになってしまう可能性が大です。しかし、考えてみたら、将来出会うかもしれない地球外生物が、私たちにも理解できるような形をしている、あるいは同じような精神構造をもっている、なんてことは万にひとつの可能性もないのではないでしょうか。そんな、私たちの理解を超えたものに出会ったとき、人間はどんな選択をすることができるのか?それは今後人類がどんな風に成熟していけるのか、と言う問題に帰結するのでしょう。 ほんとうのところ、私は上記のような感想を持ったのですけど、この小説の深いところは読みきれてない気がしています。ま、いつものことですけど(~_~メ)なぜソラリスは、海、なのか、とかそれが象徴しているものは何なのか?とか疑問は尽きないのですけど、少なくとも未知との遭遇は決して予見できるものではないし、われわれにとって都合よく運ぶはずもない、それでもなおわれわれは未知のものを探そうとするだけの覚悟があるのか、ということもテーマのひとつであると思いました。 ソラリスの海、思考活動をする巨大な海、もしかしたら本当にそんな存在が宇宙のどこかに・・・? |
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理想の結婚An Ideal Husband | 1895 |
オスカー・ワイルドOscar Wilde(厨川圭子訳・角川文庫) | |
舞台は十九世紀末期のロンドン社交界。登場人物は将来を嘱望される政治家チルターン准男爵ロバートと誠実にして高邁な理想主義者の妻ガートルード、ロバートの妹の陽気なメイベル、外見は「しゃれ者」実は「切れ者」のゴーリング子爵アーサー、そして華やかな社交界を彩る面々。そこへ現れたウィーンから来た謎の美女チェヴリー夫人の魂胆は、ロバートの過去をネタにした脅迫だった。ロバートは昔、内閣の秘密を株式取引の投資屋にうり、一儲けしたことがあったのだ。政治生命の危機にさらされた彼は一時は夫人の脅しに屈服しそうになるが、そのことを妻に問い詰められて進退きわまってしまう。理想主義者の妻を深く愛している彼は妻にだけは過去を知られたくない。しかし脅迫に応じないとなると・・・。 ★★★もともとは「理想の夫」と言う邦題で出ていたものです。その通り、理想の夫とは、一体なんぞや?というのがテーマですが、登場人物一人一人の性格描写がたいへんおもしろいです。政治家としての手腕はともかく、どこにでもいそうな男ロバートと、その彼を心から崇拝し、ほとんど神格化することによって愛している妻ガートルード。このガートルードの頑ななまでのまじめさが、とてもかわいいんですが、そばにいられるとうっとおしいだろうなぁ。何事もまじめに考えたり行動することを恥かしく思っているらしいアーサーも友人夫妻の危機には一肌脱ぎます。「一分の好きもないしゃれ者」である彼が実は一番「人間性」というものに精通しているのです。そしてメイベル、彼女はお話のアクセント的存在ですが、彼女が一番気に入りました。世の中をすいすい、苦もなく楽しく渡っていけそうな、たくましい感じのする女性ですね。 お話自体は、脅迫事件と、夫婦の危機、そして愛情の確認といったところで、目新しい素材は特にないですけど、テンポと構成はとてもいいと思いました。盛り上げ方、台詞の的確さなんかはさすがさすが、最後までうまくもってかれてしまいます。台詞が説明的でないのが、とてもいいです。説明台詞の多いドラマは、ホントにいらいらしてしまうほうなんで・・・(^_^;)時代的にはヴィクトリア時代末期なんでしょうか。道徳だの誠実だのにそろそろ飽き飽きし始めたころ。もともとイギリス上流社会には、あまりそぐわない思想だったんでしょうか?題名の「理想の夫」に関する記述にもこんなのがあります―「ねえ、私たちはちっとも欠点のないハズバンドと結婚したものだから、その当然のむくいとして、罰を受けているんだわ」「理想の夫ですって!あら、私そんなの嫌いだわ。理想の夫なんて、なんだかあの世のお話みたいですもの」―夫も妻も、理想を演じあっていても幸福にはなれそうもないみたいですね。 時代は変わっても、人間性というものはあまり変わらないものなのかもしれませんね。確かに大時代的でかなり笑える部分も多いんですが、うなずける部分もたくさんあります。盛り上げ方や起承転結がしっかりしているので、読みやすいし、気持ち良く読み終えることの出来る作品でした。多分舞台で上演されたら、とても引き締まったものになる構成だと思います。幕ごとに出てくる脇役たちも、なかなかいい味をだしてるな〜、なんてね。(実は舞台の芝居なんて見たことないんでえらそうなこと言えないんですけど・・・^^; ) |
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愛を乞うひと | 1992 |
下田治美(角川文庫) | |
二十二年という歳月を経て、照恵は父の遺骨を探す旅に出た。結核で死んだ父の喪主を務めたかすかな記憶を頼りに病院を訪れるが、そこに父の記録はない・・・。父親の違うおとうとの起こした詐欺事件で警察に呼ばれたことがきっかけとなり、照恵は封印してきた忌まわしい過去を娘に語り始める。それは十歳の時、父の死後預けられていた施設に母が「ヒキトリ」に来たことからはじまる、壮絶な闘いの日々だった。 ★★★児童虐待は、いま大変問題になっていますが、この本はそれとはちょっと違っているように感じました。確かに非常に悲惨な虐待の実態が描かれていて、正直読むのもつらいという思いだったのですが、この本のテーマはそれではなく、親子の絆をとりもどしたい、そのために父親の行方不明になっている遺骨を探す、ということのようです。 実際のところ、小説としてこの本を読むと、少々ものたりない、という感じを受けました。ドキュメンタリーとかノンフィクションならこういう展開はあり、だと思いますが(人生何が起こるかわからないものね)しかし、小説として読ませるには、構成的には不充分なものを感じました。まず、照恵が父親が最後に入院していた病院を訪ね、父親の記録を探してもらうくだりで、記録がないのです。だったら、病院を勘違いしているのではないか、と普通思いそうなものなのに、その時はそんなこと考えもせず、ずっと後になって病院が違っていたというのがわかる、しかもその間に彼女はなんの手掛かりもなく父の故郷台湾を訪ねている(言葉すら通じないのになんの手段も講じていない)そこで非常にラッキーな事に父の親戚とめぐり合うことが出来る・・・などなど、考えが足らない、偶然の幸運にたより過ぎの展開にはリアリティを感じにくい。 児童虐待の問題にしても、「母親」という存在はただただ恐ろしいだけに描かれていて、結局精神異常者という扱いなので、もしかして母親という人にも何か深い事情や、精神を病んでいるならそれ相当の理由などがあるのかな、と思っていたのに、そうでもないので、なんだか読んでいる方としては肩透かしを食わされたような不満が残ります。もちろん現実の人間って、結局そういうものなんだ、わけもなく子どもを虐待するような母親だっているんだ、そしてそんな母親に対しても、子供というものは愛を乞うものだ、ということが言いたかったのかもしれませんが・・・。 私は児童虐待の事件などを聞いていつも思うのですが、自分の愛する女、あるいは男が子どもを虐待する姿を目の当たりにして、一体その愛は変質したりなくなったりしないものなのでしょうか?弱い者を虐待するような人間をそれでもやはり愛しているといえるものなのか、とても不思議です。確かに愛には精神と肉体二つのかたちがあるとは思いますが、その一方が信じられなくなったら、もう一つもだめになりそうな気がするけど・・・そんなに単純じゃないのかもしれませんね・・・。でも、私はそれをそういう人間を認めるつもりもないし、多分愛することは出来なくなると思いますが。 |
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風の盆恋歌 | 1985 |
高橋治(新潮文庫) | |
富山県婦負郡八尾町。九月はじめの三日間、この町は顔つきをかえる。風の盆、と呼びならわされた年に一度の行事、民謡越中おわら節を人々は歌いそして踊る。とめはこの町で変わった仕事を依頼されていた。風の盆の三日間だけのために、東京に住むある男が買った家の管理と、風の盆の期間だけ食事などの支度をする仕事だ。都築克亮というその男はひとりで来て、風の盆を過ごし、帰って行く。とめは不審に思いながらも、何か心引かれるものを感じていた。そして四年目、都築がいつものようにやってくると、その庭に酔芙蓉の花が植えられていた。えり子がくるのか・・・。その予感どうり、えり子はやってきた。三十年前にかなわず、七年前に再会してからずっと心に秘めていた二人の思いが、ついに叶う時がきたのだろうか。 ★★★おわら風の盆。この有名な踊りを見に行きたいと思い思い、いまだに叶いません。この小説の中でも繰り返しその美しさが描写され、ますますいってみたくなりました。―「緩やかなテンポにのり、手を伸ばし、体を反らせ、倍速のテンポで速い振りを交え、突然美しい形で静止して見せていた。・・・その静止と動きの繰り返しが、一種危険なものをはらんでいる」「水の音に胡弓の音色がいかにも良く似合う。その上、裏声に近い高音で歌い切るおわらも、胡弓はしっとりと寄りそう。・・・だから聞きようによっては、おわらは人が歌うものではなく、胡弓が歌っているようにも聞える」―雪流し水と言われる水音がどこにいても聞える八尾の町で、それに寄り添って響く胡弓の音と、おわらの歌。静かにおどる人々。そんな光景がまさに目に浮かぶような素晴らしい描写です。都築とえり子の秘めやかな、年に一度の出会いはこの地にいかにもふさわしく、他のところではあり得ない、という気さえしてしまうのです。もしかしたらどろどろした不倫ものに傾いてしまうかもしれない題材ですが、この幻想的な舞台ではなんだか現実を超越してしまったような、気がするのです。小道具も酔芙蓉に、白麻の蚊帳、うつつ、と織り出した紬。凛としていて、しかもなまめかしい。都築にも、えり子にも後ろに抱えている大きなものがあるのですが、風の盆と共にこの地にいるときは、二人はただお互いのためだけに存在しています。 都築とえり子の結末は、二人にとって幸せだったのか、それはわかりません、でも・・・―「幸せって、いいことなの?人間にとって、生きたって実感と、どっちが大事なの」―幸せであれば、生きたといえる、と普通誰でもそう思い、それで満足しているはずです。でも、もしかしたら、いや多分、この二つは違う意味を持っているのでしょう。都築とえり子にとってはおわら風の盆こそが二人が本当に生きて結ばれるために必要な舞台だったのですね。多分もう離れることはないでしょう。とめや清原、杏里など、土地の人々の心の中にもきっと残り、それがやがておどりのなかに解き放たれる日が来るに違いありません。誰の心にもおわら風の盆があって、わたしたちを狂おしくさし招いているのでしょう。それに向かって行く勇気があるのかどうか・・・それだけなんですね。 |
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おとうと | 1956 |
幸田文(新潮文庫) | |
げんには三つ違いのおとうとがいる。今年中学に上がったばかり。彼女はこのおとうとのことが心配でならない。もの書きの父親は、どこか家族から目をそらしている様で、げん達からは義理の母になる妻との仲もさほどしっくりいっているわけではなく、その義母もリュウウマチという病を抱えて子供達にかまける余裕はない。自然とげんにこまごまとした家事、おとうとへの気配りなどの負担がかかってくるのだ。家庭がうまくいってないことが原因なのか、おとうとの生活はある一つの不運とも言える出来事の後、坂道を転げ落ちるかのように、何もかもうまくいかなくなってしまう。げんはおとうとを案じながらも、若い女の身では思う様にはならない。 ★★★なんだか淋しい情景です。細かい雨の降る土手を、肩をすぼめがむしゃらに歩いていくおとうとと、そのあとを一生懸命追いかける姉。傘の骨が折れたのを修繕に出してくれなかった母。母には母の思いもあろう、もしかしたら修繕費にも事欠くのか。げんはさまざまな思いを抱くのですが、おとうとにしてみれば、義理の母のすることです。。おとうとは生来の明さも持っていて、今日傘がなかったことを恨みに思っても、次ぎの日晴れていれば、もう気にならない、というふうなのですが、げんはあれこれと気を回し母にも父に気を使い、一人損な役回りです。やがておとうとは心ならずも不良の仲間入りをしてしまい、学校を退学になったり、遊び回ったりで、げんは心を痛めます。げんはおとうとのことがはがいくも、可愛くも、そして哀れでもあるのです。おとうとが結核にかかり、入院生活を余儀なくされるようになって、げんはずっとおとうとのために生きている様に見えます。しかしそこにはげん自身の人生への疑問や不安がいっぱいで、縁談があるなどというと心は騒ぐし、結核持ちのおとうとがいる自分に対する世間の目、というものにも敏感です。とても人間らしく、迷ったり怒ったり、しかし最後までおとうとに対する思いは変わることはありません。そんなげんをずっと見ていたおとうとは、ついに結核に打ち勝つことは出来ないのですが、心が徐々に平らかになって、最後の時を迎えることが出来るのでした。 一つの家族の姿として、父親がおり、義理の母親がおり、そしてげんとおとうと。この現実の中でそれぞれがそれぞれに与えるものは決して愛情だけではない。憎しみも、無関心も、不安も、お互いにどうしようもなく押し付けあってしまう。生きることは淋しさに耐えることかもしれませんが、口に出して言うことはなくても、お互いの淋しさを分かり合えるのも、多分家族でしょう。傘なんてなくったって平気だよ、とばかりにポケットに手を突っ込んで出かけるおとうとと、自分の蛇の目をさしかけてやりたくて一生懸命後を追う姉、その姉を振り向いて手を振って笑い、なお早い足取りで駈けていくおとうと。この小説のはじまりで描かれたこの情景こそが、全編を通じて流れる姉弟の心の触れあいの原点だと思われてなりません。 |
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流れる | 1955 |
幸田文(新潮文庫) | |
梨花がたどり着いたのは、芸者置屋の住み込み女中という地位。かつては女中を使う側の人間だったが、さまざまな職業を経て、案外このくろうとの世界が生にあっているように感じている。そこはかつての華やかさはなく、芸者も次々と鞍替えをしているような按配だ。花柳界特有の風習や、芸者達の生き様は、梨花にとっては新鮮な驚きの連続だった。 ★★★戦後落ちぶれた人たちというのはきっと沢山いたのでしょうが、この梨花という女性も、かつては女中も使ったそれなりの生活をしていたはずが、今では使われる身となってしまっています。しかし、しんからの女中と言うわけではないので、身についた教養がにじみ出るところがあって、それはそれなりにここの主人たちをたじろがせたり、不思議がらせたり。そして梨花から見た、落ちぶれた芸者置屋の生態が、奇妙なほど醒めた目で綴られています。いや、醒めた目、といっても梨花自身が冷たい人間と言うわけではないのです。しろうとの世界から来て、くろうとの世界のことをなにも知らない、と思われるのが悔しさにちょっと突っ張ったところはあるにしても、ここに住む女たちに対する梨花の視線にはとてもやさしいものがあります。頼るところがないものの持つ強さ、それが梨花にこの花柳界で生きている女達の寄る辺ない心細さを理解させ、女中の立場からではあるにせよ少しの心遣いとして表現されます。ここで生きている女たちはみな強い、けれど弱い。外、つまり素人の世界でで生きていく術を持たない人たちです。そんな女達の日常が、梨花の目を通して淡々とつづられて、とても心を打ちます。とくに擬声語を多用した独特の表現で、その感情や場面の動きがとても感覚的に捉えられます。 「しろうとの世界は退屈で広すぎる。広すぎて不安である。芒っ原へ日が暮れていくような不安がある」―梨花のそれまで暮らしてきた世間の、居るべき所がないという思いが胸に迫ってせつなくなります。案外わたしたちも、この世の中で自分の居るべき場所とは・・・と考えた時、こんな思いを抱くことも多いのかな、などと考えました。 |
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