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司馬遼太郎(1923〜1996)
大正12年大阪に生まれる。
昭和35年『梟の城』で、第42回直木賞受賞。
昭和41年『竜馬がゆく』『国盗り物語』で、菊池寛賞受賞。
昭和47年、吉川栄治文学賞受賞。
昭和51年、日本芸術院恩賜賞受賞。
昭和57年『ひとびとの跫音』で、読売文学賞受賞。
昭和58年「歴史小説の革新」についての功績で、朝日賞受賞。
昭和59年『街道をゆく”南蛮のみち”篇』で、新潮日本文学大賞受賞。
昭和62年『ロシアについて』で、読売文学賞受賞。
昭和63年『韃靼疾風録』で、大佛次郎賞受賞。
日本芸術院会員。
以上文藝春秋文庫著者紹介より

 


燃えよ剣(上・下)(新潮文庫)
竜馬がゆく(一)〜(八)(新潮文庫)
□風神の門(新潮文庫)
□梟の城(新潮文庫)
□新選組血風録(角川文庫)
(新潮文庫)

 


燃えよ剣・竜馬がゆく  
中学生の頃、何故かは分らないのだが、沖田総司が大好きになっててしまった時期があって、その頃新選組に関する本を読み漁っていた。幕末にあって、滅びゆく徳川幕府に忠義を尽くしやがて敗れ去っていった新選組に、なにやらロマンチックな憧れを抱いていたのだろう。
そんなとき、『燃えよ剣』を読んだ。
田舎道場の一剣客に過ぎなかった近藤勇、土方歳三らが、幕府によって設立される浪士組に加盟すべく京へ上る。近藤にしてみれば、いよいよ困窮を極める試衛館道場を何とかしたい一心だ。元は百姓の末弟のトシこと土方歳三も、武士になれるのだ。やがて京都守護職御預と言う権威のもとに「新選組」が誕生する。
この時代の用語に「佐幕」「開国」「尊王」「攘夷」「倒幕」などがあるが、私には今一つ、誰がどんな思想で動いていたのかつかめない。近藤は「大公儀」といえば一もニもない、という感じだが土方の方はよく分からない。土方はただひたすら「新選組」を最強組織につくりあげることを目指している。―士道に背くまじきこと―真の武士たること。新選組の中にも思想は入り込むが、土方に影響を与えることはなかった。
やがて時代は動き、大政は奉還される。そのとき土方の口にした「節義」という言葉が、印象的だ。「新選組は、節義の集団ということにしたい。(たとえ・・・が)徳川家に背をむけようと弓をひこうと、新選組は裏切らぬ」やがて土方は「自分が考える美しさのために」殉じる。
「官」も「賊」も一時のものだ。佐幕が間違っていて、尊王が正しいということでもない。ただ土方は自分の美学のみに忠実に生きただけだ。
この時代をある一方の側面から描いたこの小説を読んで、ずいぶんしばらくして私は『竜馬がゆく』を読んだ。そして、この時代に「新しい国」を考えた坂本竜馬に出会ったのだ。
竜馬は革新だ。当時の先進者たち(桂小五郎、西郷隆盛ら)にしてさえ、「藩」というものからの脱却は出来ないでいたのに、竜馬が常に考えていたのは国だった。「おらァ、ニッポンという国をつくるつもりでいる」
彼は「開国倒幕」というかつてない思想を持っていた。幕末史の中ではこれは危険な思想だったらしい。まず竜馬は亀山社中という貿易会社をつくり、それを中心に薩摩と長州を結びつけた。藩を超えた結び付きをつくるにはまず商い、というわけだ。そして薩長連合が成立する。倒幕の準備が整ったのだ。この局面での、桂、西郷、竜馬のほとばしるような思いがやがて時代を動かしていく。
大政奉還のすぐ後、竜馬は暗殺される。
「天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした」
坂本竜馬と、土方歳三。同じ時代に生きた全く違う二人の男。
どっちも見事だ、と思うのである。
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越後長岡、牧野家七万四千石という小藩の藩士河井継乃助が江戸に向かったのは、新しい時代を迎える大きなうねりがまさに始まろうとしているころであった。王陽明を敬慕し、陽明学によって駆りたてられるまま、継乃助は江戸から諸国へと遊学し、「藩と日本をこの複雑な時勢のなかから救いだすにはどうすればよいか、という原理」をさがす。やがて大政奉還、王政復古の大号令ののちわずか百石そこそこの家格から異例の抜擢により家老、やがて上席家老にまで登りつめた継乃助が、長岡藩を導き、たどり着こうとしていたのは「独立中立国家」として存在することであった。しかし、時代の流れのなか、北陸の小藩にとってその道は困難を極め、やがて官軍と歴史に残る壮烈な「北越戦争」を戦うことになる。
★★★河井継乃助、という人物のことをみなさんはご存知でしたでしょうか?わたしはこの小説ではじめて知りました。それどころか、北越戦争という維新の悲劇も・・・(大変不勉強で恥ずかしい)この人物をあらわすことばで、とても印象的な部分がありました。抜粋します―「人間万事、いざ行動しようとすれば、この種の矛盾がむらがるように前後左右にとりかこんでくる。・・・その矛盾に、即時対処できる人間になるのがおれの学問だ」即時対処できるには自分自身の原則をつくりださねばならない。その原則さえあれば、原則に照らして矛盾の解決ができる。―非常に厳しい、しかし納得できる言葉です。自分自身の中にしっかりとした思想をもつこと、そしてそれを行動の大本に置くこと。継乃助という人はこれを実践できた稀有な人物です。
彼の「武士」という存在に対する考え方は強烈です。いさぎよいこと、りりしくあること。彼ほど「武士であること」に強い自負を抱いていた武士も少ないのではないでしょうか。しかし長く封建の世が続いたことで、武士の道徳美などというものはただの幻想になり、ただただお家の無事のみが大事、いまの禄を守ることのみに汲々とする武士階級の現実と、あまりにかけ離れた西洋との国力の差を思い知るにつけ、日本も武士も滅びる、と予感します。産業を興し、商人や工業家が財力や実力を握る世の中にしなければ、日本は列強の属国となる屈辱を味わうことになるでしょう。しかしそれは、封建制度の崩壊、つまり武士の世が終わることを意味します。この当時、武士階級の知識人や、維新を進めた薩長の要人たちは、この問題をどうとらえていたのでしょう。特に薩長が、徳川を滅ぼしたあと、新しい世の中にどんな絵を描いていたのか、「藩」という概念でなく、「日本国」という概念で問題を捉えなければならなかったのに、どうしても藩閥意識というのは抜けなかったのではないでしょうか。
河井継乃助は、「日本国」をいかに生かすべきかということを考えるよりも、「長岡藩」をこの動乱の世でいかに守るか、ということを第一義に考えた人です。ここまで読まれたら、「結局河井という人も、藩という狭い考えから抜け出せなかっただけではないか」と感じられることでしょう。しかしそうではないのです。「人は立場で生きている。立場以外の方面に私はこの河井継乃助という自分をゆかせぬようにしている。それが私の動かぬ一点だ」徳川家や、藩の崩壊などどうでもよいではないか。福沢諭吉の完全開国主義という考え方に全面的に賛成し、人をの貴賎を身分で区別する世の中をただすことを是としながら、彼の考えは福沢とは微妙に違った方向に走っていきます。それが、彼の言う自分の立場、であり、武士のあるべき姿、でもあるのでしょう。一見矛盾、しかし、彼の中ではきわめて自然な考えだったのだと思います。最後まで長岡藩士として生き、長岡藩を生かそうとした彼は結局官軍(西軍)と戦い、果てる運命をたどります。長岡藩を自分の思想の道連れにして、結局時勢に乗り切れなかったのか。その後長く長岡では、民衆は彼を怨嗟したそうです。真実の彼は、間違った英雄だったのでしょうか?
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