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谷崎潤一郎(1886〜1965)

痴人の愛(新潮文庫)
「私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私たち夫婦の間柄について、できるだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。」私(河合譲治)がナオミ(奈緒美)と出逢ったのはあるカフエエでのこと。西洋人じみた顔立ちに、すんなりとした体つき、何よりも「ナオミ」という名前の響きに心を奪われた私は、彼女を引き取って養育することに。人形のように可愛がって育てたナオミはやがて成熟し、奔放な性を謳歌するが、私はそんなナオミを忌みつつ肉欲の虜となってゆく。
★★★20年?ぶりくらいの再読。
主人公の「私」こと河合譲治という人物は、会社などでは「君子」と評判されるほどの品行方正な青年。といってもこの時すでに28歳、内面的にはかなりたまっていたのかしらないが、ちょっと変わった嗜好の持ち主だったのだ。まだ15歳だったナオミと暮らし始めた主人公は、ナオミを教育し立派な女性に育て上げるとかなんとかいいつつ、内面的には実はナオミと同じくらい幼いのだ。やがて、主人公を追い越してナオミが成熟していったとき、立場は完全に逆転する。主人公はナオミに支配されながらも、恍惚として至福の世界に遊んでいるようだ。
初めて読んだときには、この主人公はアホちゃうか、ナオミってなんて汚らしい女なんでしょ、と思ったものだ。ナオミに関する印象は再読後もさほど変わらないが、主人公がナオミの中に見ていたものが、私にも今回はおぼろげに見える気がした。「・・・その肌の色の恐ろしい白さです。洋服の外へはみ出している豊かな肉体のあらゆる部分が、林檎の実のように白いことです」こんなことにクラクラするなんて、馬鹿くさいとは思うが、しょうがないんでしょうねぇ。何もかもなくしていく主人公だけど、なんだか幸せそう。そら、溺れるものの姿を見よ。教訓になったかえ?
 
春琴抄(新潮文庫)
大阪の薬種商のとうさん(お嬢さん)に生まれ、なに不自由なく育った琴は幼いときから容姿端麗にして高雅とうたわれたが、不幸にも9歳のときに失明。もっぱら琴三弦の稽古に励み、琴曲の師匠として門戸を構えることとなる。その春琴にはじめ手曳きとして仕え、やがては弟子として修行し、実質的には夫婦でありながら厳しく師弟、主従の関係を守った佐助。彼は春琴が恨みを受けて損ねた容貌を見まいと、自らの目に針を突き立て潰した。
★★★これも再読。『痴人の愛』と同じころに読んだ。
今日伝わる春琴女の写真を見ると、「古い絵像の観世音を拝んだようなほのかな慈悲を感ずる」そうである。が、実際のところ、春琴は豪商のとうはんであったうえに盲目という不幸を背負い、そうとう負けず嫌いの驕慢で、人情も薄く、好きになれそうな人柄ではない。だが、佐助にとって見れば、初めて見たときの春琴の妖しく艶な美しさが全てであった。神のごとく春琴を崇拝する佐助は、美しい春琴の記憶だけを残して盲目となるのだった。
句点を意識的に省いているのだと思うが、何しろ読みにくいので、昔読んだときはかなり苦労した記憶がある。やや夢見の悪くなりそうな感じだが、印象的な作品ではあった。このたび再読してみて、これほど惹きつけられるとは思わなかったが、すごい作品だ。こういうのを究極というのかなあ。外界を見る光を失って後、内部に広がる世界の広さを、二人は恍惚として楽しむ境地に達しているらしい。
恐ろしいほどの官能を匂わせながら、雲雀の籠を開いて空に放ち、その落ちてくる声をきく二人の姿の涼やかさが印象的だった。
 
細雪(角川文庫)
大阪の旧家、薪岡家。先代までは隆盛を誇った家柄であったが、今では家運も傾きかけている。そんな薪岡家の四人姉妹は地元でも有名な美人姉妹であった。一番上の鶴子と三番目の雪子は母親譲りの京美人、二番目の幸子と末っ子(こいさん)の妙子は父親似の明るい容貌の持ち主だった。鶴子と幸子の目下の悩みの種は、三十過ぎても縁談の決まらない雪子に、発展家で若くして駆け落ち事件までおこした妙子と、二人の妹の今後のことだった。華やかな上方上流社会に生きる女たちの姿を丹念に描く大作。
★★★上記↑の二作を昔読んだっきりで谷崎とは縁がなかったのだが、このたび再読したつづきで以前から興味のあったこの作品を読んでみた。いや〜面白かった(^^)
おっとりしていて万事にのんびり、古風な鶴子。鶴子と義兄で養子の辰蔵に気を使いながらも、妹思いの幸子。はかなげな容貌と人見知りの奥には、じつは強靭な精神を持つ雪子。自由闊達でモダンな生活を送る、異端児妙子。四人それぞれの個性がきめ細かに書き込まれていて、四季折々の風物のなかに彼女らの姿がしっとりと溶け込んでいる。物語絵巻、といった絢爛さが漂っている。読んでいてとても楽しい。
なかなか決まらない雪子の縁談の推移が一つの物語の柱になっているのだが、これが結構面白いのだ。なんと悠長なことを、と思って読んでいると、さすがに最後のあたりではだんだんせせこましくなってきてしまい、それはそれでちょっと淋しかったりする。だが、こんな時勢の移り変わりにもかかわらず、雪子自身は少しも変わらないところがいかにも彼女らしい。それに雪子には言うにいわれぬエロティシズムが付加されている気がする。顔のシミ、足の指でウサギの耳をつまむしぐさ。つめを切るシーンなども印象的だ。
没落していく家の格式を何とか守ろうとする鶴子に対し、妙子の人生はとらわれない自由に満ちているが、伴ってくる責任を受け止めきれずに破綻していく。こんな姉妹のまとめ役である幸子は、損な役回りをぼやきながらも持ち前のバイタリティーで何とかしてしまう。華やかで明るい幸子と夫の貞之助のいかにも大阪の上流の都会人、といった洒脱さも魅力的だ。
なんということもない日常生活を追いながら、その生活の「粋」に目を奪われる。花見、上方舞の会、芝居見物といった行事や、そのときの装いの美しさは想像するだけでうきうきしてくるようだ。しかし、自然災害や時局の緊迫など、世の中は急速に色彩を失っていく。姉妹の間でも、相変わらず妙子は頭痛の種だ。だが、どんなに周囲が変化しようとも、この姉妹は色褪せることはないような気がする。結構逞しい女たちなのだ。
 
谷崎潤一郎・犯罪小説集(集英社文庫)
『柳湯の事件』『途上』『私』『白昼鬼語』
★★★谷崎潤一郎のミステリー。『犯罪小説集』って、なにやら淫靡で蠱惑的な響き…?
『柳湯の事件』高名な弁護士S博士の事務所に、ある一人の青年が奇妙な話を持ち込んできた。売れない画家だというその青年が、憔悴しきった様子で、自分が犯したかもしれない殺人事件について語りだした。それは何ともとりとめのない、かつおぞましい事件であった。・・・青年の語る異様な物語は全て妄想の産物なのか。ラストが妙に心にかかったのは、深読みしすぎ?「…彼女は青年が考えていたほど淫奔な、多情な女ではないらしかった。Sは博士の観察では寧ろ…」これも「真実」へ至る出口のない迷宮への入り口かも。それはともかく、わたしは「ぬらぬらした物質」って嫌いなので、この皮膚感覚の不気味さには参った。
『途上』もし、もし、失礼ですがあなたは湯河さんじゃございませんか…往来で突然声をかけてきた男は、私立探偵で、ある人物の調査をしているという。協力を求められた湯河は男の話に付き合うことにしたが。・・・モダンでサスペンスフルなストーリーに感心してしまった。湯河の心理が男(紳士)の声に圧倒されていく様が圧巻。読んでてドキドキした。
『私』一高時代の思い出・・・それはある泥棒事件。寮に出没する泥棒は、どうやら寮生の一人であるらしい。平田の視線が妙に気にかかる私だったが、樋口らは私を信じてくれている。・・・これは非常におもしろい展開(転回?)を見せる作品。騙しのトリックといっていいものだが、トリッキーだというだけの価値で終わっていない、深い味わいが楽しめる。
『白昼鬼語』精神病の遺伝があるという園村が、私に持ちかけた話は常軌を逸していた。今夜ある場所で、人殺しが演じられるというのだ。心配になった私は、とにかく園村に付き合ってその現場に行ってみることにしたが。・・・舞台設定がなんともいえず、刺激的だ。節穴から覗く殺人現場の、あの不気味さ淫靡さ…そして真相。「纓子さえ承知してくれたら、僕はいつでも本当に死んでみせる」ミステリの中に描き出されたこの耽美と倒錯の世界…一度味わうと嵌るかも。
 

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