茶慣れの良さ
萩焼はその起源を一千余年も前より見ることが出来ますが、今日、茶陶におきまして 「一楽二萩三唐津」 とまで語られるようになりましたのは、およそ四百年前文禄・慶長の役後に朝鮮半島より連れ帰った李朝の陶工李勺光・敬の兄弟によって始まることになります。
萩藩主毛利輝元のもとに御用窯として開窯、藩の厚い庇護もさることながら、その李朝の陶技と並々ならぬ努力のもに新たなる道を拓きました。さらに其の後に続く陶工たちの一層なる努力によって、徳川も元禄の頃には萩独特の境地に達することになります。
一つに萩焼と申しましても何が良しとも申しかねますが、素朴にして風雅、土の暖かみ、茶慣れによる変化にかもし出される侘びた風情など感じ得るものは多々ございます。長くお使い下さるうちに、そのような味わいを少しなりとも感じて頂けましたら私としましても大変嬉しく思います。
萩焼の欠点
どんなものにも、良さがあればあるだけ欠点もあると思いますが、萩焼も例外でなくその良さゆえの欠点がいくつかあります。まず第一に吸水性が豊かであるということは、逆に言うとたいへん漏れやすいということです。特に私のやっている鬼萩は土が荒いため、お茶を飲んだ後、茶たくにお茶がたまっていることなどが当り前のようにあります。大抵の場合、お使いいただくうちに止まってきますが、中には大変時間がかかる場合もあります。
第二に土が柔らかいということは、欠けたり割れやすいということです。洗い桶などに磁器や備前焼などと一緒に入れて洗うと、ぶつかった時に負けてしまうことがあります。そのため洗うときは洗い桶などに入れず一つずつ別に洗うようにしなければいけません。少し手間がかかりますが、私としては
何でも便利な時代にそういうことも焼物を味わう一つとして考えることが大事なのではないかと思っています。
ここに2枚の写真があります。この2枚が萩焼をよく表していると思います。実はこの2つは同じ器なのです。左が使用前で右が使用後です。長くお使い頂くうちに、ただ白いだけの器に味や渋みがどんどん増していきます。これを萩の七化けといいます。
萩焼は土がたいへん柔らかい焼物です。焼くときも カチッと焼き締めるのでなく ふわっとと焼き上がるように心掛けます。そのため吸水性が大変豊かでお茶をはじかず茶慣れがよくなります。
また、萩焼は焼き上がったとき、土と釉薬の間に大きな収縮率のズレを生み、釉の表面に細かいひびが入ります。これを貫入(左の写真をよく見てもらうと細かいひびが分かると思います)と言います。
これらのことから、器にお茶などがしみ込み、貫入に茶渋が付き、色が変わっていくわけです。
昔は朝鮮半島(高麗)の焼物の方が日本の物より格が上でした。朝鮮の流れをくんだ萩焼は、長く使われ時代と共に侘びた風情をかもし出す高麗の茶碗と見分けがつきにくいことから萩の七化けという言葉が生まれました。
よく、萩焼の半分以上はお使い下さる方が作るといいます。それは 使い込んで色が変え 深い味わいが出て 初めて萩焼は完成だと言うことです。使うというよりも育てるといわれることも萩焼の大きな特徴の一つです。
お茶の世界で、よく一楽、二萩、三唐津とか一井戸(今は萩の代表的な茶盌の一つ)、二楽、三唐津とかいわれ、萩の茶碗は大変高く評価されています。これは単に器がお茶に合うとか、手取りが良いという理由だけではなく、その茶慣れの良さが最大の理由です。萩の土はザングリとして堅く焼き締りません、そのため器が柔らかくふわっと焼けていますので、器に空気が含まれ
熱が逃げにくく、茶慣れが良くお茶をはじきません。そのお陰でお茶が点てやすく 味さえ変わってきます。堅い焼物と比べてもらったら分かると思いますが、それぞれの湯呑みにお茶を入れ
呑んで頂けたら、萩の器のお茶の美味しさが分かります。
萩焼の由来
最近、個展なんかで 私の焼物を見て「最近の萩焼は変わってきましたね」と言われることがあります。
話を聞いてみると、大抵の場合、姫萩と言われるツルっとした萩焼に 市販の合成釉を掛け、電気やガス窯で短時間で焼いたものが本物の萩焼だと思われています。
確かに そういう窯元が全国で萩焼を販売し 萩焼を広め、観光などでも安価なので お土産などに一番よく、そう思われて仕方がないところはあります。
ただ、長い間 伝統の中から創造性を見出そうと、古萩や高麗茶盌を研究し、自ら登り窯を作り、灰を焼き、原土を掘る そんな昔ながらのやり方に拘った者としては簡単に
「はい、そうですね」とは言えません。
今は萩焼と言ってもいろいろあります。もともと萩焼は茶陶と言って茶道具中心でしたが 洋食器や現代的な日用雑器が増え、用途も 汲みだし湯呑をコーヒーカップや小鉢に使ったり、菓子器を花器やサラダボールに使うなど、茶陶の枠を超え自由な形に変わってきています。また、作る側も根本的に従来の萩焼に限界を感じたり、
より個性的なものを求めたりで、他の地方の素材や技法、新しい釉薬、色や絵、漏れを止めるため半磁器のようにしたりなど、もはや萩焼と言いがたいようなものまで様々あります。
決して否定しているわけではありません。伝統を追うことが必ず正しいとは思いませんし、 伝統を破壊するようなモダニズムが その土地の創造力を一層と高めるとも思っています。
しかし、それらも萩焼という長い歴史の上に成り立ち、破壊することは出来ても否定することは出来ません。
真似するだけの伝統なら意味はありませんが、伝統に創造性や独創性を求め、伝統の中から自分を見出そうとしてる者としては、誠実に土と向き合ったものに間違った萩焼はないと思っています。
萩の七化け