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No.044 モナ・リザを完全犯罪で盗んだ詐欺師・マルケス

世界的名画「モナ・リザ」がルーブル美術館から盗み出されたが、犯人逮捕に結びつく手がかりは何もなかった。モナ・リザはこのまま永久に失われたものかと思われたが、ボスのいい加減な行動に頭に来た部下が、独自の決断でモナ・リザを売却しようと計画し始める。

▼モナ・リザについて

「モナ・リザ」は、世界歴史上でも最も有名な絵画と言っても過言ではないほどの油絵で、イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた作品である。

ダ・ヴィンチがこの絵の制作に取りかかったのは1503年であり、一応の完成の後も加筆修正を繰り返し、3〜4年かかって完成したと言われている。現在のサイズは77cm×53cmであるが、元々はこれよりも大きかったものが、額に入らないという理由でナポレオンによって端を6-7cm切り落とされて今のサイズになったという説がある。

当時のフランス国王・フランソワ1世は、自国であるフランスと、ダ・ヴィンチのイタリアと、国は違っていたがダ・ヴィンチの芸術家としての才能を高く評価しており、フランソワ1世はダ・ヴィンチに、フランスに来るようにとの誘いを送る。

ダ・ヴィンチもこれを受けてフランスに移住し、この時にダ・ヴィンチは、手元に置いてあった「モナ・リザ」を持ってフランスに移った。国王・フランソワ1世がダ・ヴィンチに用意した住まいは、フランス・アンボワース城近くのクルーの館である。

移住後、「モナ・リザ」は1510年ごろにフランソワ1世によって4000エキュで買い取られ、フォンティーヌ・ブロー宮殿に展示されることとなった。

その後時代は変わっても、ルイ14世によってヴェルサイユ宮殿に置かれたり、フランス革命(1789年7月14日 - 1794年7月27日)の後にはループル美術館に展示されたり、皇帝ナポレオン(在位1804-1815年)が自分の寝室に置いたりなど、時の支配者たちに所有され、現在ではループル美術館に展示されいてる。

ダ・ヴィンチ自体はイタリアの人間であるが、「モナ・リザ」の正式な所有権はフランスにある。


▼詐欺師マルケスと、贋作者イブ・ショドロン

マルケス・エドアルド・デ・バルフィエルノ(以下マルケス)は、アルゼンチンのブエノス・アイレスの大地主の子として生まれた。裕福な家庭で育ち、親戚や知人たちもそれなりの人たちで、なぜか周りに美術品に興味のある人が多く、子供のころから、よく美術品をもらったりしていた。

ある程度成長してからマルケスは、彼らからもらった美術品を売っては金に換えて生活していたが、それも数に限りがあり、やがて美術品は何もなくなってしまった。

そうなった時、次にマルケスが考えたのは美術品を作り出すことであった。この頃すでに美術界に精通していた彼は、ある1人の贋作者(がんさくしゃ)と手を組むことにした。

この贋作者はフランス人で名前をイブ・ショドロンと言い、腕の方も天才と称されるほどの人物だった。イブ・ショドロンは、様々な画家の絵をどれも精巧に描き分けられ、まさに本物そっくりで、専門家にも判断がつかないほどの精度で贋作を作れる人物だった。


贋作(がんさく)とは、劇画「ゼロ」でおなじみの言葉であるが、本物と見分けがつかないほどの高い精度で完成された偽物のことである。

これを「本物」だと称して本物の値段で売るという、明らかに人をだますことを目的に作られたものであり、最初から「本物ではない」ことを明らかにして安く販売する「複製品」とは根本的に意味が違う。贋作は絵画だけではなく、陶芸や彫刻、書など、様々な分野に存在する。


ショドロンがスペインの名画の贋作を仕上げては、美術界や社交界に顔のきくマルケスがお客に話をつけてそれらを売りさばいた。当時アメリカの富豪たちの間では美術品のコレクションが流行しており、この詐欺は次々と成功し、彼らは相当な額を儲けることが出来た。

また、富豪たちの中には「盗んだ物でもいいから本物が欲しい。」という人たちもおり、そういったお客の要求に応(こた)えるために、マルケスは何度か以下のような方法を使った。

あらかじめお客の欲しい絵を聞いておき、その贋作を描かせておく。出来上がった贋作を、本物が展示してある美術館に持って行き、守衛を買収してしばらくの間その場に誰も入ってこないようにして、その間に本物の絵の額縁(がくぶち)の裏に贋作を貼り付ける。

その後、お客と一緒に再びこの美術館を訪れ、そのお客が欲しいという絵が確かにこの美術館に展示してあることを確認させる。またもや守衛を買収して、しばらくその絵の周りに誰も来ないようにしておき、その間にお客に額縁の裏に何かの目印かサインを書いてもらう。

そして後日、その絵をはがして回収し、お客のところへ持って行く。
お客の元へ届けられたその絵の裏には、あの日美術館で自分が書いた目印が確かに書いてある。これはまぎれもなく美術館に展示してあったものだと納得する。

それがあらかじめマルケスが裏に貼り付けておいた贋作であり、自分がサインしたのはその贋作の方だったとは考えもしない。


この方法であれば、一枚の絵について何回でも同じことが出来る。お客の方とすれば、その絵が相変わらず美術館に展示してあったとしても、「それは盗まれたために美術館側が用意した複製だろう」、「今、自分がもっているこの絵が本物だ」と思っているのでバレる可能性は低い。
マルケスは主に南米でこの方法を使い、かなりの金を稼いでいた。


▼計画を思いつく

1910年の秋、マルケスはフランスのパリに引っ越してきた。今後はここを拠点に活動を開始する予定だったが、この地にきてすぐに大計画を思いついた。マルケスが目をつけたのは、ルーブル美術館のモナ・リザである。

1910年の末、マルケスは贋作家のショドロンと共にルーブル美術館を訪れ、モナ・リザの前に立った。マルケスがショドロンに聞く。
「どうだね?これと全く同じものが描けるかね?」

意外な質問にショドロンが一瞬返事をためらっているとマルケスが更に続ける。
「それも一枚ではなく、何枚もだ。」
「はい、十分な時間さえあれば出来ます。でも、一体どうしてですか?」
ショドロンは答えた。贋作者のショドロンでさえ、モナ・リザをターゲットにするなどとは考えていなかったのだ。

マルケスは南米で何回も行った、お客に目印をつけさせる方法を説明してやった。

「この方法を使えば、君が描くだけ全部売りさばける。買った連中だってそれが盗品だと思っているから口外したりはしない。それぞれが、自分だけが世界で本物を持っている人間だと思っているからな。」


ショドロンは呆気(あっけ)にとられた。地方の小さな美術館ならいざ知らず、世界に名だたるルーブル美術館の、世界的名画のモナ・リザである。仮に贋作を裏から貼って、お客に目印をつけさせるところまではうまくいったとしよう。

しかしそれをお客の所に持って行って「ルーブル美術館から盗んできました。はい、モナ・リザです。」と手渡したところで、相手はそれを信用して大金を出すであろうか。いくらお客自身が書いた目印が書いてあったとしても、むしろ目印の方を偽造したと疑うのが普通であろう。

「本気で言ってるんですか?ルーブルには毎日モナ・リザを見に何千人もの人がやって来るんですよ。こんな世界的な名画を盗んで来たなんて言ったって、信用するお客なんていませんよ。」
とショドロンが言う。

「そう、今度ばかりは嘘は通用しない。誰かが本当にモナ・リザを盗んでくれないとな。そして世界中の新聞に『モナ・リザ盗難』と派手に書いてもらう必要がある。

盗まれた美術品が闇の世界で売買されるのはよくあることだ。本物のモナ・リザが世間に出て来ない以上、私の言葉を信じるお客は確実にいるものさ。」

と、マルケスは答え、言葉を続けた。
「まずは君に本物のモナ・リザを何枚か描いてもらわないとな。」


▼イブ・ショドロン、仕事を開始

ショドロンは、アトリエにこもってモナ・リザの製作に取りかかった。まずは、ルーブルに行ってモナ・リザの正確な模写を描く。ルーブル美術館の規定で模写自体は許されていたが、同じサイズに描くことは禁止されており、実物よりも小さなサイズで描かなければならない。毎日、ルーヴル美術館に通っては、モナ・リザの前に立ち、模写を続けた。

これが完成すると、次にモナ・リザと同じサイズの古いパネルを探した。古美術商をまわって探した結果、数枚の希望通りのパネルを手に入れることが出来た。ただし、これらのパネルにはどれも絵が描かれているので、ショドロンはナイフで元の絵を削り取って白紙の状態にした。このパネルにモナ・リザを描いていくのだ。


自分がルーブルで描いた小さな模写は、バロプチコンという反射光で絵を大きく投影する機械を使ってパネルに写し取った。また、何枚ものクローズ・アップされた写真を使い、絵の細部も徹底して調べた。

そして描き始める前に、ショドロンは古本屋をまわってルネサンス時代の画法に関する資料を集めた。中でも役に立ったのは、14世紀に出版されて、ダ・ヴィンチも参考にしたと言われるチェリーニの「絵画概論」であった。

ダ・ヴィンチが生きた時代の道具と画法がそろったところで製作に取りかかり、かなりの時間はかかったが、見事な贋作が数枚出来上がった。


しかしこれではまだ不充分で、この絵たちを古くする作業が残っている。古い絵画は必ず、細い毛のような割れ目がいくつも走っている。使われた絵の具が時代とともにヒビ割れるのである。モナ・リザも同様であり、これらのヒビ割れが時代の古さの一つの証明でもある。

ショドロンは、自分の描いた絵に割れ目を作り出すために、2種類の透明なワニスを塗った。まず絵の上に遅乾性のワニスを塗り、その上に重ねて速乾性のワニスを塗る。

そして扇風機の風に当てて乾かすと、2層に塗ったワニスは違う乾き方をして、やがてクモの巣のようなヒビ割れが出来始める。ワニスが乾いてヒビ割れの作業が終了したら、今度は綿の布でヒビ割れにホコリをすり込んでいく。

ついこの間描いた絵画が、古い時代に描かれた絵画へと変身を遂げた。この方法でショドロンは6枚の贋作を完成させた。

ショドロンの仕事は終わった。この後、売る方はマルケスの担当だ。


▼売買契約の成立

マルケスは、目ぼしを付けた富豪たちをリストアップし、北アメリカで5枚、ブラジルで1枚売る計画を立てた。贋作をとりあえず、売る予定のそれぞれの国に持ち込んで保管した。

贋作といえど、本物のモナ・リザを盗んでから国外に移動したのでは税関の検査で怪しまれてしまう。まだ本物がルーブルにある間に異動しておけば、検査を受けても複製品として難なく税関を通過出来る。

ターゲットとなるのは、もちろん億単位の金が払えるような富豪たちであり、欲しいものがあれば手段も選ばないような人間たちである。盗まれた名画を買い、それが自分だけのものになるというスリルと満足感が彼らの購買意欲をあおるのだ。

1人1人に話を持ちかけ、数週間が経ったころ、遂に6人の富豪たちと契約を結ぶことが出来た。もちろんお客としては、それぞれが、自分だけが唯一の契約者だと思っている。

買い手はついた。後は実際にルーブルにあるモナ・リザを盗めば6枚の贋作は即座に売れる。


▼実行犯に最適な人物

マルケスはパリの19区にある、主に労働者が集まるカフェに熱心に出入りしていた。ルーブル美術館に工事などで入ったことのある職人を探していたのだ。

それもルーブル内で工事をしたことがある、という程度の職人ではなく、出来れば何度も入っており、ルーブル内部に詳しい人間がベストである。

間もなくして、ルーブルでガラスケースの工事を行ったという、ビンチェンツォ・ペルージア(以下ペルージア)という大工と、ランチェロッティ兄弟という3人の職人と知り合うことが出来た。

最近、ルーブル美術館では、絵がナイフで切りつけられるという事件が何件か起こっており、特に貴重な絵はガラスケースでおおうということが決定されて、そのガラスケースの取り付け工事を行った大工の1人がこのペルージアだったのである。ペルージアもランチェロッティ兄弟も、ルーブル内部のことはかなり詳しく覚えているという。

マルケスは彼ら3人を集め、話を持ちかけた。

3人とも最初は驚いたものの、マルケスがうまくいった時の報酬を提示すると、3人とも盗みに加担することを承知した。計画を練り、何度もリハーサルを繰り返し、着々とモナ・リザを盗む計画を進行していった。

しかしマルケスは、もし失敗して3人が逮捕された時のことも考えて、この3人には自分の本名も住所も教えなかった。


▼モナ・リザを盗み出すことに成功

実行日は1911年(明治44年)8月22日と決まった。この日はルーブル美術館の休館日であり、週に一度の館内の修理の日でもある。当日、館内は美術品が移されたり工事器具が入ったりして随分と館内が散らかった状態となるはずだ。このドサクサにまぎれて盗み出すのである。

ところでマルケスの方は、もし彼らが失敗しても自分だけは捕まらないように、前日と当日は、その日のアリバイ作りをしていた。社交界のパーティに出ることにしていたり、人と合う約束を入れたりして、盗みそのものは完全に彼らだけに任せて、自分は離れた場所へと移動していた。


実行日の前日、実行犯を引き受けたペルージアとランチェロッティ兄弟の3人はルーブル美術館を訪れていた。3人は絵を見ながら適当に時間をつぶし、閉館間近の15時半ごろまで中をブラブラとしていた。

ブラマンテ(イタリア・ルネサンス時代の建築家でもあり画家でもある)の絵が展示されている場所の裏に小さな倉庫があることをペルージアたちは知っていた。この倉庫に向かってじわじわと移動する。この倉庫の中に隠れてこの日からルーブルに潜入しておくためである。

閉館間近となって辺りに人はいなくなった。誰にも見られていないことを確認して、3人はこの倉庫の中にすばやく入り込んだ。間もなく16時の閉館を叫びながら係員が館内をまわり始めた。

そして16時10分、ルーブル美術館は全ての扉を閉め、閉館となった。倉庫内には無事侵入したペルージアとランチェロッティ兄弟の3人が息をひそめていた。

3人はここで一晩過ごし、明日の本番を待つ。
ペルージアは興奮していた。「ボス(マルケスのこと。ペルージアはボスの名前を知らない)は、この盗みが成功すれば、大工仕事では何十年かかっても得られないほどの大金をくれると約束してくれた。これが成功すれば俺の人生は大きく変わるのだ。」


そして朝が来た。休館日であり修理の日でもあるこの日、午前6時半、ルーブル美術館の門が開かれ、職人のチームが一斉に入って来た。左官工、大工、電気工事技師、配管工、美術品の運搬係・・と全部で10数人だ。

倉庫で目を覚ました3人は持ち込んだ白い作業着に着替えた。この作業着はルーブルに入る職人の決められた制服で、これを着ていれば怪しまれることはない。

7時5分、ペルージアたちは倉庫を出て物陰に隠れ、館内の通路を職人チームたちが通過するのを見送った。
辺りに誰もいないことを確認し、すぐにモナ・リザに近寄って壁からはずす。後はこれを持って逃亡するだけだ。ペルージアは上着の中にモナ・リザを入れ、3人は職人を装(よそお)って、堂々とルーブルから立ち去った。

この日、ルーブルでは十数人の職人が働いていたが、モナ・リザが壁にかかっていないことを怪(あや)しむ人間はいなかった。館内はあちこち修理中で、美術品はあっちに移され、こっちに移されで、あるべき所にそれがないのは普通の光景だったからである。


▼盗難発覚

翌日、午前8時、ルーブルの守衛が、モナ・リザの展示してあるサロン・カレに入った時、そこにモナ・リザがないことに気づいた。気づきはしたが、「多分複製を作るために写真でも撮っているんだろう。」とそれほど深くは考えなかった。

そしてルーブルが開館し、見物客が入って来た。しかし壁にかかっているはずのモナ・リザがない。お客がこのことを係員に聞いてみたが、係員の対応は「多分、スタジオにでも行ってるんでしょう。」という返事だった。

守衛も係員も実にのどかである。

先ほどの守衛が一応、複製工場に問い合わせてみた。しかし複製工場の方からは「モナ・リザがここに運ばれるなど聞いていない。こちらも分からない。」という返事だった。


世界的名画が、撮影や修復で移動させられるのであれば事前に必ず連絡があり、何人もの立ち合いのもとで行われるはずだ。館内の誰もがモナ・リザの行方を知らない。かなり時間が経ってから「盗まれた!」ということに気づき、大騒ぎとなった。

すぐに警察に連絡し、お客たちを全員出させ、ルーブルの出入り口を封鎖して警察の捜査が始まった。100人以上の警官が動員され、モナ・リザを探しまわった。守衛や修理の日に入っていた職人たちにも事情聴取が行われた。

分かったことは、修理の日、朝7時ごろ守衛が交代したが、その時には何の異常もなかったこと、そして修理で入っていた職人の1人が朝の7時には確かに絵はあったか、1時間後にまたそこへ帰って来た時には絵はなかったと証言していることである。

また、修理に来ていたペンキ屋が、ループルのエレベーターで見たことのない職人のような男とばったりと出会っている。職人のような男は、白い制服の胸の辺りがずいぶんとふくらんでおり、まるで服の下に何かを入れているようだったという証言も得られた。

朝の7時から8時の間に、館内の修理に乗じて持ち逃げされたことが判明した。


警察は国外持ち出しを警戒して国境を封鎖し、駅には検問所が設けられ、手荷物が厳しく取り調べられた。事件を知ったマスコミは大々的に報道した。中には「モナ・リザの失踪!怪盗アルセーヌ・ルパン現る!」などと書いた新聞もあり、この当時「怪盗ルパン」で大ヒットを放っていた作者のモーリス・ルブランまでが、なぜかインタビューを受けるはめになった。

パリ中の新聞が犯人逮捕につながる情報提供を呼びかけ、賞金も用意された。(現在はユーロであるが)「リリュストラシオン」紙が1万フラン、「ルーブルの友」紙が2万5千フラン、「パリ・ジュルナル」紙が5万フランと、次々と賞金が提示され、様々な占い師が行方を占ったが、どれも当たらなかった。

しばらくの間パリでは大騒ぎが続き、根拠のない無責任な憶測も乱れ飛んだ。
「ルーブルには元々本物のモナ・リザなどなかった。犯人が盗んだのは偽物である。」
「モナ・リザは上から別の絵に塗り替えられ、すでに国外に流出した。今では大金持ちのコレクターの所蔵品となっている。」
「盗んだのは国際的なスパイ組織で、拘留されている仲間を釈放するならモナ・リザを返すと言っている。」

など、およそ見当違いの噂が流れていた。

実行犯であるペルージアとランチェロッティ兄弟は、これらの噂を話のネタにしながら酒を飲んでは笑っていた。


そして警察は、犯人として当時無名だった2人の芸術家を逮捕した。詩人であるギヨーム・アポリネールと、その友人の画家のピカソである。

当時のパリには芸術家のタマゴたちが多く集まっており、駆け出しの頃のピカソやマチスもその中の1人だった。この中からいずれ世界的な芸術家が生まれてくるのだが、アポリネールはそうした無名芸術家たちの親分のような存在だった。

いきなりアポリネールが疑われたのではなく、アポリネールの家に居候(いそうろう)していた友人のピエネという男にまずは窃盗の疑いがかかった。ピエネは窃盗の常習犯で、この4年ほど前にもループルから彫刻を盗み、ピカソに売りつけたりしていた。

ピエネはしばらく行方が分からなくなっていたが、1911年の4月に再びアポリネールの元に帰って来た。また居候し始めたが、ピエネがまだ盗みをしていることに腹を立てたアポリネールは怒って彼を家から追い出した。この、家から追い出した日がモナ・リザの盗難の前日である。


運の悪いことに、追い出す少し前の日、アポリネールとピエネが駅で話しているところを友人に見られていたのだ。ピエネを容疑者とするなら、彼と親しいアポリネールにも当然疑いがかかかる。

アポリネールの逮捕から2日経って、今度はアポリネールの友人であるピカソが逮捕された。盗まれた物が絵ということでやはり美術関係者が疑われたのだ。2人は裁判所で再開を果たし、身に覚えのないことでこんな目に遭(あ)わされることに悲観して抱き合って泣いたという。

結局証拠不十分で2人は釈放されたが、このことは2人の心の傷となった。

警察の捜査にも関わらず、犯人への手がかりは依然何もない。このままモナ・リザは永久に失われたものかと思われた。ルーブルに訪れるお客たちも、モナ・リザがかかっていた場所を見てはため息をついたりがっかりした表情でその場を立ち去っていた。


▼マルケス旅立つ

ペルージアたちが盗んで来たモナ・リザを前にマルケスは大喜びだった。そして3人に大金を渡し、今後も言う通りにするなら、もっと金をやると約束したのだ。

「ルーブルで働いていた以上、お前たちが警察に疑われる可能性は大きい。だが別に心配することはない。何か聞かれても堂々と答えればいいんだ。

俺はこれから旅に出るが、俺の留守の間もモナ・リザを大事に守るんだぞ。」

そう言い残してマルケスは9月中旬、アメリカへと旅立った。旅立ったというよりも、かねてからモナ・リザを売りつける契約をしていた富豪たちに贋作を売りに行ったのだ。


ペルージアたちはボスが勝利の旅行に行ったのだと思い、その間大事にモナ・リザを管理していた。とりあえずはランチェロッティ兄弟の1人のアパートにモナ・リザを隠した。

「いずれはこの、盗んだモナ・リザに買い手がついて、その時にはボスはまた俺たちにも大金をくれるはずだ。」ペルージアはそう信じていた。


事件から3ヶ月経ち、とうとう警察がペルージアのアパートに事情聴取に来た。もちろん、ペルージアが以前、ルーブルで何枚かの絵にガラスカバーを取りつける工事をしたことがあるということは調べ済みだった。

その上、事件当日はペルージアはモナ・リザを盗んだ後に仕事に出勤していたのだが、当日は2時間ほど遅刻している。同行したブリュネ警部からこの点を追求された。

それに対しペルージアは
「当日仕事に遅刻した理由ですか?よく覚えていません。寝坊でもしたんじゃないですか?休み明けにはよくあるんですよ。」

「なるほど。」警部はその言葉をそのまま信じて帰っていった。ペルージアに関する報告書にも「この人物がモナ・リザ盗難に関わりがあることを示す情報は得られなかった。」と記載された。


数日後、ボスの命令通り、モナ・リザはランチェロッティのアパートからペルージアのアパートに移された。

ペルージアはモナ・リザを部屋のどこに隠そうかとあれこれ考えたが、結局トランクの中に隠すことにした。木箱を使ってトランクを自作し、その底に布でくるんだモナ・リザを入れ、更にその上に偽の底を作った。二重底の底に隠したのだ。その上から衣類を何枚か入れてカモフラージュした。

そしてひたすらボスからの命令を待っていた。


▼贋作も売れ、マルケスは逃亡

一方、ボスであるマルケスは他の部下を連れてアメリカへ渡り、契約をしていた富豪たちに連絡を取っていた。さすがに世界的なニュースとなっていたので富豪たちはみんなマルケスが持って来たモナ・リザを本物であると信じ、それぞれが惜しみなく約束の金を払った。

契約していた6枚は全部売れ、マルケスは合計で日本円にして40億円ほどを手にした。

大計画は無事終了した。富豪たちは、それぞれが自分だけが本物を持っていると思っているし、何よりも盗品を買ったわけだから、他人に話すはずもない。バレるわけがない。

マルケスは、後はこのままアメリカにもフランスにも帰らず、警察の追求も来ない北アフリカのあたりでのんびり過ごそうと思っていた。

しかし彼は、ペルージアに、また指示を与えると約束しておきながら、結局ペルージアと本物のモナ・リザをほったらかしにしてしまった。このことが後になって彼の命取りとなる。


▼ペルージアの怒り

ペルージアはボスからの連絡を1年以上待ち続けていた。最初にもらった金はギャンブルや女ですっかり使い果たし、金にも困っていた。

ペルージアは、自分がただ実行犯として利用されただけということも、ボスの計画も知らなかった。

「本物を盗ませておいて、その上で用意していた贋作を売る。その贋作も6枚売れば、本物を1枚売るよりも6倍の金になる。」もちろんマルケスは、ペルージアに本当の計画などは話していない。


いつまでも連絡してこないボスにペルージアは段々と腹が立って来た。

「てっきりこの『本物のモナ・リザ』をどこかの富豪にでも売るのかと思っていた。だからこそ大事に守り続けてきたのだが、ボスからはいっこうに連絡がない。どうなってるんだ。」

「だいだい、危険を犯して実際に盗んだのは俺だ。そして何より重要なことは、今、本物のモナ・リザが俺の手元にあることだ。」

頭に来たペルージアは、もうボスは無視して、これを売って自分の金にする計画を立て始めた。彼には、マルケスのように美術関係や富豪層に人脈はない。売るとしたら古美術商である。


1913年12月の始め、マルケスはイタリア語で、イタリアのフィレンツェの古美術商であるアルフレード・ジェリに手紙を出した。

住所はフランスのパリと書いたが、差し出し人には本名のペルージアとは書かず「レオナルド」と書いた。

「かつてナポレオンに奪われたモナ・リザを取り返した。ぜひ鑑定して引き取って欲しい。」手紙にはこう書かれていた。

手紙によると、レオナルド( = ペルージア)は、モナ・リザがオポレオンによって略奪されたものと思っていたようだ。(実際には当時のフランス王・フランソワ一世が買い取っているので、正式な所有権はフランスにある。)

作者のダ・ヴィンチはイタリア人であるから、フランスが奪い取ったモナ・リザを、ダ・ヴィンチの故国のイタリアなら秘密裏に、そして歓迎して買ってくれるとでも思ったのだろうか。


手紙を受け取ったジェリは、いたずらだろうと思ったが、友人であるフィレンツェ美術館の館長に一応相談してみると、
「面白そうだから会ってみたらどうだ。」と言われた。どんな偽物を持ってくるのか興味があるようだ。

そしてペルージアの元へ期待通りの返事が来た。古美術商ジェリは「会いたい」と言ってきている。

さっそくトランクを持って列車でイタリアへと向かった。宿泊先は連絡しておいた。「トリポリ・イタリア」というホテルだ。別に高級ホテルではなく、一般的な庶民のためのホテルである。


▼ペルージア逮捕される

1913年12月12日、ジェリと美術館館長は、レオナルド(を名乗るペルージア)が宿泊しているトリポリ・イタリアホテルの20号室を訪ねた。

レオナルドは挨拶をすると部屋に招き入れ、トランクの二重底の中から布に包んだ1枚の絵を取り出した。布をはずすと、まぎれもないモナ・リザである。見たところ本物のようにも見えるが、まだ本物かどうかは分からない。

「レオナルド」に、鑑定をするから少しの間貸して欲しいと申し入れ、彼らは自宅に持ち帰って念入りに細部を調べ始めた。

バックの丘のボカシや左右の垂直の割れ目、顔や手に入っているヒビ割れ、パネルの裏の印。ルーブルで撮影されたクローズアップ写真と徹底的に比べ合わせた結果、間違いなく本物のモナ・リザであると鑑定された。2年近く行方不明になっていたモナ・リザをこんな男が持っていようとは。

買い取りどころではない。すぐに警察に連絡し、レオナルドことペルージアはせっかくイタリアまで売りに来たのにあっさりと逮捕されてしまった。当然である。


モナ・リザ発見のニュースは世界的に報道された。最終的にはルーブルに返されることになるが、その前にイタリアの各地で展示され、どこも黒山の人だかりで熱烈に歓迎された。

一方ペルージアは「イタリアへの愛国心からやったのに、牢に入れるとは何事だ!」と怒り心頭だった。

しかし、なぜか監獄へはイタリアの人々から花やワインなどの差し入れが次々と届き、マスコミも彼のことを報道して、ペルージアはちょっとしたスターとなっていった。最初こそ怒っていたものの、すっかりご機嫌となった。


一方、ボスであるマルケスは、このニュースをカサブランカのホテルで聞いた。
「あの馬鹿野郎!何てことしやがる!」

マルケスも怒りと不安が込み上げてきたが、ペルージアには本名もこの行き先も教えていない。ここまで追求の手が伸びることはないだろうと考えると少しほっとした。むしろ心配なのは、贋作を売りつけた6人の富豪たちの方である。彼らからアシがつくか、報復があるかも知れない。

イタリアで犯罪が発覚したとはいえ、イタリアではペルージアのことを悪く思っている人はほとんどおらず、このフィレンツェに持ち込んだことを歓迎しているかのようだった。

裁判でもペルージアは、自分がモナ・リザを盗んだのは愛国心からであって、決して金が欲しかったわけではない!と力説した。

裁判中も事件の真相を解明しようとか彼を罰しようという雰囲気は希薄で、ペルージアの弁護人は「イタリアには彼を罰することを望んでいる者など1人もいませんよ!彼を釈放すればイタリア全土から沸き起こっている声に答えることが出来るのです!」と言い放った。

共犯のランチェロッティ兄弟やボスのマルケスのことにはほとんど触れず、裁判は終了した。

結局ペルージアは裁判で七ヶ月の拘留を宣告されたが、逮捕から七ヶ月と9日が過ぎていたのでその場で釈放されることとなった。

モナ・リザが発見されたホテル「トリポリ・イタリア」は、この事件に乗じて「ホテル・ラ・ジョコンダ」(モナ・リザという意味)と名前を変えて営業し始めた。ペルージアが泊まっていた20号室には「ここでモナ・リザが発見された。」というプレートがつけられた。


マルケスの方は逃亡したままだったが、彼は友人である新聞記者に、自分がモナ・リザ盗難事件の黒幕であることも、事件のいきさつも全て語っていた。

「本物を処分しておけば、こんなことにならなかったんだがな。ペルージアが最初にもらった分け前の金を全部使っちまって、それで本物を売ることを考えついたんだ。本当に馬鹿な奴だ。イタリアで売るなんて。すぐに捕まって当たり前だ。

しかし俺のことをしゃべらなかったことは褒めてやる。完璧な犯罪だったのにな。しかし俺が成し遂げたせっかくの完全犯罪が、犯人が分からないまま世界中から忘れ去られるというのも惜しいじゃないか。

それでお前に話したんだよ。俺が死んだらこの完全犯罪を世間に発表してくれよ。お前のスクープになるぜ。じゃあよろしくな。」

マルケスは、1921年に死亡し、その翌年、この事件の真相は公表された。



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