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No.045 誘拐殺人と放火殺人、限りなき灰色・工藤加寿子

小学生の誘拐殺人と自分の夫の放火殺人という、二件の事件の犯人にほぼ間違いないとされながらも工藤加寿子はひたすら黙秘を続け、最終的に無罪を勝ち取る。


▼消えた少年

昭和59年1月10日午前9時30分ごろ。北海道札幌市 豊平区に住む、城丸 隆氏の家の電話が鳴った。この日はまだ札幌市内の学校は冬休みで、たまたま電話の近くにいた次男で小学校4年生の秀徳君(9)が電話に出た。

この電話も後で考えれば不信な電話だった。電話に出た秀徳君は、家族の誰とも電話を代わらず相手の話を聞いている。たまたま自分宛てにかかってきた電話だったのだろうか。しかも秀徳君は時おり「はい・・はい・・。」と返事をしている。友達と話しているという感じではなく、まるで年上の誰かに文句でも言われているような対応だ。

「誰からの電話?」母親が近寄ってそっと尋ねてみるが秀徳君は返事をしない。間もなく電話は終わり、受話器を置いた秀徳君は、
「ちょっと出かけて来る。」
と言い出した。

「どこへ行くの?」と母親が尋ねる。

「ワタナベのお母さんが、僕のものを知らないうちに借りたらしいんだ。それを返したいと言ってる。函館に行くと言ってる。車で来るからそれを取りに行くんだ。」

その場には父も兄もいたが、誰も言っている意味がよく分からなかった。秀徳君はすぐに出かける用意をして玄関で長靴を履(は)き始めた。


「寒いからジャンバーを着て行きなさい。」母親が言うと、ジャンバーを着た秀徳君はすぐに家から出発した。

悪い予感を感じたのか、母親は長男(小6)に「秀徳の後をつけて。」と頼んだ。すぐに兄も家を出た。前日降った雪の積もる道を秀徳君が歩いていく。その後を兄が追う。しばらく歩いて秀徳君は「ニ楽荘」というアパートのあたりで左に曲がった。

しかし姿が確認出来たのはここまでで、兄は近眼で慌てて家を出たためにメガネをかけないまま出て来てしまったのだ。左へ曲がったところまでは見えたが、その後秀徳君がニ楽荘に入っていったかどうかまではよく見えなかった。

ニ楽荘に近寄って辺りを見まわしたが、秀徳君はいない。ニ楽荘の隣には「ワタナベ」という家が立っている。これが秀徳君の言っていた家だろうか。しばらくそこで待っていたが秀徳君が出て来ないので、兄はいったん家に戻って母親に報告し、母親と一緒に再びここへ戻って来た。

しばらく待ってみたが秀徳君は現れる様子はない。母親は思い切ってワタナベ家のインターホンを押して尋ねてみることにした。


ワタナベ家にはその時、高校三年生の娘が一人で留守番をしていたが、秀徳君のことを尋ねても「誰も来ていませんけど・・。」と言う。ことの経緯を伝えても、電話などはかけていないという返事だった。

この家にいないとなれば手がかりはない。母親と兄は手分けしてその辺りを探し回ったが、秀徳君を見つけることは出来なかった。父親に相談し、12時30分ごろ、交番に捜索を頼んだ。

連絡を受けた警官はすぐに辺りの聞き込みを行った。目撃者は案外すぐに見つかった。ニ楽荘の2階に住む工藤加寿子(くどうかずこ)という女性が秀徳君に会ったと証言したのだ。

工藤加寿子は2歳の娘と2人暮らしで、以前はススキノでホステスをしていが、勤めを辞めたばかりで、この日も家にいたのだ。

しかしこの工藤加寿子こそ、後に秀徳君の誘拐容疑で逮捕されることとなる女性である。


この時加寿子は、警官に対して
「今日の午前中、外の空気を吸いにアパートの前の道路に出て、5分くらいで部屋の前まで戻ったんですけど、その時に小学生くらいの男の子が近づいて来て『ワタナベさんの家を知りませんか。まっすぐ行って階段を昇る家だと聞いたんですけど。』と尋ねるので『隣の家がワタナベさんだけど、その家でないの?』と言うと『どうも。』と言って立ち去りました。その後私は部屋に戻ってドアを閉めました。」
と答えている。

ワタナベ家は一軒屋ではあるが、玄関が二階にある造りになっている。階段を昇る家という言葉には確かに該当する。

警官はワタナベ家にも事情聴取を行ったが、留守番の女子高生は先ほどと同じ答えを困ったように繰り返すだけだった。更に任意でワタナベ家の家の中も捜索したが、秀徳君は見つからなかった。

この後警察は公開捜査に切り替えて捜索を行ったが、何も手がかりは得られなかった。また、誘拐ならば犯人側からの何らかの連絡がありそうなものだが、それもない。事件は秀徳君の失踪(しっそう)という形でいったん終了し、これ以降の展開は何もなかった。

ただ、最後に接触した人物が工藤加寿子ということもあり、加寿子に対して容疑者として警察は疑いを持ってはいたものの証拠は何もなく、捜査は行き詰まることとなった。


▼もう一つの疑惑

工藤加寿子は昭和30年に北海道 新冠(にいかっぷ)町 節婦(せっぷ)に生まれ、中学までここで過ごした後、集団就職で東京の紡績会社に就職した。しかしすぐにそこを辞め、19歳の時から熱海のスナックで働くようになった。これ以降、夜の世界で横浜や神戸の店を転々とするようになる。

昭和57年に上野のショーパブのオーナーと結婚し、娘が生まれたのだが翌年離婚し、子供を連れて北海道へ帰って来ていた。


秀徳君が失踪して2年後である昭和61年、加寿子は樺戸(かばとぐん)郡 新十津川町の農家の男性と見合い結婚した。加寿子にとっては二回目の結婚である。

相手は初婚で35歳の和歌 寿美雄さんという男性だ。寿美雄さんの方が加寿子を随分と気に入り、結婚を決めた。ただこの結婚は、寿美雄さんの親戚や身内からは反対の声が上がっていた。

寿美雄さんは農家で生きてきた男、加寿子は東京にもいて、夜の店で生きてきた女で、これまでの環境が違い過ぎてうまくいくはずがないと誰もが思ったのだ。

「農作業はやらんでいい。ただ家にいてくれればいいから。」
農作業は手伝わないという約束で、寿美雄さんの住んでいた二階建ての一軒屋で2人でと暮らすこととなった。

だが周囲の思った通り、2人はやはりうまくはいかなかった。約束とはいえ、忙しい時期でも加寿子は全く農作業を手伝わずに、しょっちゅうパチンコに出かけ、昼まで寝ていて食事の用意もほとんどしない。時々娘を連れて札幌に遊びに行き、一週間くらい帰らない時もあった。

金を渡さないと怒鳴りだし、保険金の名義も自分(加寿子)を受け取り人に書き換えさせた。また、寿美雄さんは将来家を建てるつもりで2千万円ほど貯金していたのだが、それも気づかない間に加寿子に全て使われていた。

寝室も別々で一階を加寿子、二階を寿美雄さんが使っており、冷蔵庫や洗濯機も別々だった。家庭内別居とほとんど変わらないような生活である。寿美雄さんからすれば、家事や作業もほとんどしない上に金だけ吸い上げられているようなものである。

結婚してから寿美雄さんの顔から生気がなくなり、顔色がだんだんと悪くなっていった。こういった生活を寿美雄さんは、仲の良かった義理の兄にたびたび相談していたが、ある日2人で酒を飲んでいる時、寿美雄さんは
「俺、殺されるかも知れない。」と真剣な顔で兄に訴えた。保険金の名義のことや、加寿子の金使いの荒さ、結婚してから体調がだんだんと悪くなっていたことなど、保険金殺人の可能性を薄々感じ始めていたのだ。

元々加寿子に良い印象を持っていなかった兄はこの時から寿美雄さんに離婚を勧めている。また、親戚たちからも「無理やりにでも離婚させなければ。」という意見が出始めていた。


そして昭和62年12月30日深夜、事件は起こった。寿美雄さんの家が火事になったのだ。午前3時ごろ寿美雄さんが寝ている部屋から出火した炎は、またたく間に燃え広がり、家全体に広がった。

義理の兄の家にも近所の人から電話で連絡が入った。兄の家は寿美雄さんの家が見える場所に建っている。急いでカーテンを開けてみると、寿美雄さんの家が炎に包まれているのがはっきりと見えた。

「やられた!」思わず兄は叫んだ。あの女の仕業に間違いない。兄は直感した。

火災がおさまったのは2時間後の午前5時ごろである。焼跡から寿美雄さんの焼死体が発見された。

加寿子と娘は逃げていて無事だった。


しかし後の調査で加寿子の不信な行動が次々と発覚することになる。

深夜の火災であるにも関わらず、寝まき姿などで慌てて逃げたような様子がない。加寿子と娘は逃げる準備が整っており、髪もセットして靴下も履(は)いている上にブーツを履き、きちんと外出用の服を着ていた。

二階で出火したことを気づいた時点で、一階で寝ていたはずの加寿子は自宅から119番出来たはずであるが、それもせずに近くの家に助けを求めに行っている。それもすぐ隣の家ではなく、300メートル先にある二番目の隣の家を訪れている。

緊急事態ならば家のドアを激しく叩いて助けを求めそうなものであるが、娘と手をつないで玄関のチャイムを鳴らして相手が出てくるのを待っていた。

焼け残った納屋(なや)には、火災の間に家から持ち出した衣装箱が積み上げられていたが、中身は加寿子と娘の物ばかりで、寿美雄さんの物は何も入っていなかった。

寿美雄さんには1億9千万円の保険金がかけられており、受け取り人は加寿子になっている。親戚一同も当然保険金殺人を疑う。警察も事件の方面から調査を開始したが、消防が出火原因を特定出来なかったこともあって加寿子の放火が立証されることはなかった。

しかし保険会社は保険金の支払いを拒否し、加寿子も後に保険金請求を取り下げている。そしてこの後加寿子は新十津川町を去って行った。四十九日の法要の時には出席した親戚たちから激しく問い詰められたが加寿子は疑惑を全面否定し、あくまでも悲劇の妻の立場を貫いた。


▼火災の跡から発見された人骨

寿美雄さんの家が焼け落ちてから半年後、あの時の火災で焼け残った納屋の中を、寿美雄さんの義理の兄が片付けていた。

棚の上を片付けようと、そこに置かれてあるビニール袋を手にとってみた時、その中に妙なものが入っていることに気づいた。それは何かの骨だった。骨は焼かれた形跡があり、細かく砕かれている。加寿子を放火殺人の犯人と疑っていた兄は、『あの女、まさか別の殺人でもしているのでは?』との考えが頭をよぎり、念のため警察に通報した。

すぐに警察が来て骨の鑑定をすることとなった。骨は人骨であり、血液型や歯の大きさから、行方不明になっていた城丸 秀徳君のものではないかと推定された。

「ワタナベさんの家に行って来る。」といったまま行方不明となり、加寿子が最後の目撃証言をした、あの秀徳君である。この時点で秀徳君の事件から4年が過ぎていた。
義理の兄も、この時になって初めて加寿子が誘拐犯として警察からマークされている人物だと知った。

あの時から行き詰まっていた「秀徳君失踪事件」が再び動き出した。

秀徳君が失踪した当時から、加寿子には多額の借金があったことも判明している。城丸秀徳君の父親は会社社長で、家も町内では目立つ豪邸である。そのため加寿子がここへ目をつけ身代金目的で秀徳君の誘拐を企て、電話で誘い出して拉致(らち)するところまでは成功したものの、思ったよりも警察の捜査が早く、身代金を断念して秀徳君を殺した、と警察では推定した。

捜査の結果、秀徳君が行方不明になったのは1月10日の午前中だが、その同じ日の夕方、加寿子がニ楽荘から大きなダンボール箱を運び出して親族の家まで運んだことが明らかとなった。

その後、その大きなダンボール箱は加寿子の引越しに合わせて持ち運ばれ、最終的に新十津川町の嫁ぎ先の農家で燃やされた。この時加寿子が燃やしていたのを覚えていた人もおり、周囲に異様な臭(にお)いが立ち込めていたと証言した。

警察は加寿子を任意聴取したが、「何も知りません。」の一点張りで、完全に黙秘(もくひ)を貫いた。聴取は三日間続いたが、世間話には応じるものの事件については一切しゃべらなかった。

しかも当時のDNA鑑定ではこの骨を秀徳君のものだと完全に特定することは出来ず、それ以外の証拠も何もなく、結局検察は起訴を断念することになり、加寿子は釈放された。


▼逮捕・無罪裁判

再び秀徳君の誘拐事件が伸展を見せたのはそれから10年も後のことである。進歩したDNA鑑定の結果、この人骨が秀徳君のものだと断定され、事件発生から14年もの時を経て、平成10年11月、ついに警察は加寿子を逮捕した。時効成立の二ヶ月前だった。

しかし逮捕されてからも加寿子は以前と全く同じ態度で、肝心なことは一切しゃべらない。公判中でもそれは続き、特に第19回公判では「お答えすることは何もありません。」という言葉を262回も繰り返している。容疑を否認した上で完全黙秘を貫き通した。


平成13年5月30日、午前10時、札幌地裁5号法廷で加寿子の判決が言い渡された。

非常に犯人である確率が高いものの証拠がなく、沈黙し続けたまま始まった裁判は世間の注目を集め、TV局も取材に来ていた。しかしそこで出された判決は、意外なことに無罪判決であった。

ただ判決は無罪であったものの、佐藤学裁判長も加寿子が潔白であると認めたわけではない。

「被告人が何らかの行為により城丸秀徳君を死亡させ、その後遺体を保管したり遺骨を隠していたこと、取り調べの最中、事件との関わりをほのめかすような発言をしていたことなど、被告人が秀徳君を死亡させた疑いは強い。」と、検察側の主張をほぼ認めている。

以前、加寿子は事情聴取された時に、
「私がしゃべれば事件は全て解決する。」
「私を逮捕すればあと5人逮捕することになる。」と意味深な発言もしており、犯罪行為を行ったことはほぼ間違いない。

しかし決定的な証拠がなかったことと、「殺意を持って秀徳君を死亡させたと認定するには、なお合理的な疑いが残る。」という理由で無罪判決が下されたのである。


殺人罪とは「殺意を持って」人を殺したかどうかが重要なポイントとなる。殺すつもりで殺したと認められた場合だけ殺人罪が適用される。

それ以下は傷害致死罪となる。仮に傷害致死罪が適用されたとしても、事件から年月が経ち過ぎており、傷害致死罪の時効は加寿子逮捕の7年十ヶ月も前に成立してしまっているので、今さら罪にすることは出来ない。

加寿子に刑罰を科すならば、まだ時効となっていなかった殺人罪の方でなければならなかったのだが、その殺人罪が「殺意があったとは認められない。」という理由で成立しなかったのである。

限りない灰色でありながら工藤加寿子は無罪を勝ち取り、この結果は社会的に大きな波紋を呼ぶこととなった。
要するに、どう考えても犯人に間違いないのだが、証拠も自供もない灰色の段階では無罪になってしまうのだ。

検察側はこの一審の判決を不当であるとしてすぐに控訴したが、平成14年3月、高裁は検察側の控訴を棄却し、これによって工藤加寿子の無罪は確定した。また、放火殺人の件も時効が成立した。


そして平成14年5月、加寿子は札幌地裁に対し、1160万円の刑事補償を請求した。刑事補償とは、刑事裁判で身柄を拘束された上で無罪となった場合に支給される補償金のことで、加寿子は拘束されていた928日に対し、一日当たりの上限12500円を請求したのである。また、この他にも裁判費用も請求した。

その半年後の11月、札幌地裁は加寿子に対して刑事補償928万円と弁護士費用250万円の支払いを認める決定をした。補償金は一日当たり一万円の計算となる。

「誘拐殺人と放火殺人の真の犯人が工藤加寿子であったならば」という前提ではあるが、一つは無罪、一つは時効、そして釈放され、補償金と弁護士費用1178万円を支給されたということは、この事件は犯罪者側の完全勝利に終わった事件と言える。



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