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No.051 冤罪(えんざい)で実刑判決を受けた梅田義光

二件の殺人事件の犯人として捕らえられた羽賀竹男は、事件とは無関係であった「梅田義光」を首謀者に仕立て上げる嘘の供述をした。羽賀の供述に従って逮捕された梅田は、身に覚えのない犯罪で実刑判決を受けてしまう。


冤罪(えんざい)とは、無実であるにも関わらず、犯罪者として確定されてしまう場合を言う。そのまま「その無実の人」が、実刑判決を受ける場合もある。

真犯人が巧妙に、特定の誰かを犯人に仕立て上げるために小細工をし、警察や検察がそれに引っかかってしまう場合や、捕らえられた犯人が「実行犯は俺だが、首謀者はあいつだ。」と、自分の罪を少しでも軽くしようとして無関係な人間を首謀者として訴えたり、それによって逮捕された無実の人間が、警察側からの自白強要の拷問から逃(のが)れたいがために、やってもいない犯罪を「やった」と自白するなど、様々な要素から冤罪(えんざい)は生まれる。


▼二件の殺人事件

昭和25年10月10日、北海道・北見営林局に勤務する、会計課のAさん(20)が、職員の旅費などを含めた現金20万円を持ったまま行方不明となった。

北見営林局からの通報を受けた警察は、この事件を「Aさんが公金を横領した上に逃亡した。」と判断して、Aさんの逮捕状を取り、捜索を開始した。しかし全く足取りはつかめなかった。


Aさんの捜索が続く中、この事件から八か月が経過した昭和26年6月、今度は同じ北海道の留辺蘂(るべしべ)営林署の職員であるBさん(28)が、公金472万円を持ったまま行方不明となる事件が起きた。

警察はAさん事件と同様に、これも、Bさんの公金横領による逃亡事件として捜査を開始した。「営林局の職員が2人も公金横領をして逃亡した。」捜査の段階ではそう思われていた。


しかし翌年の昭和27年4月、この2つの事件は急展開を迎える。野犬が群がって、一体の死体を掘り起こしていたのを、たまたま通りかかった人が見つけ、白骨化した死体を発見して、警察に届け出たのだ。

掘り起こされた死体は、現金472万円と共に行方不明となっていたBさんであることが判明した。Bさんは公金横領・逃亡などではなかった。殺されて現金を奪われていたのだ。だとすると、その前に起こったAさん事件も同様の結果となっている可能性もある。

警察は一転して、捜査を、公金横領から強盗殺人に切り替えることとなった。


▼犯人逮捕

それから五ヶ月経った9月3日、北見市警察署は、1人の男を逮捕した。Aさん・Bさん失踪事件の逮捕者ではなかったが、傷害容疑で逮捕した清水一郎(53)である。この清水一郎が、取調べにより、472万円持ったまま失踪したBさんを殺害したのは自分だと自供した。

たまたま別件逮捕で捕らえた清水一郎が、未解決事件であるBさん殺害の犯人が自分だと自供したのだ。警察側は色めき立った。

しかし清水の供述によると、確かに実行犯は自分ではあるが、自分1人が計画してやったのではないと言う。首謀者として「羽賀竹男(28)という男が計画を立て、自分はそれに従っただけだと言い張るのである。

供述を受けて警察は、首謀者であるとされる羽賀竹男を指名手配し、捜索を開始した。二週間後の9月17日、羽賀竹男は、義理の兄の家の天井裏に隠れていたところを捜査員に発見され、あっさりと逮捕された。

取調べの結果、羽賀竹男は「472万円と共に行方不明となっていたBさん」の殺害を指示したことを認め、更に、その前の事件である「20万円と共に失踪していたAさん」の殺害も自分がやったと供述したのである。

10月1日、羽賀竹男の供述通りの場所でAさんの死体が発見された。死体の向きなど、一部食い違う点があったものの、二件の失踪事件はこれで一気にカタがついたかに思われた。


▼「俺は首謀者ではない」という羽賀の自供

しかしここから、羽賀竹男が取り調べを乱し始める。

動機や犯行の状況などを厳しく追求された羽賀はとりあえず「一晩考えさせて欲しい。」と、警察側に申し出て、その日の取調べをごまかした。
そして翌日、羽賀の言うことは一変した。

「俺は殺害現場に行ってもいない。実際にAさんを殺したのは梅田義光(28)という男だ。軍隊時代に一緒だった男だ。」羽賀は、前日には「自分が殺した」と自供していたものを、この日になって、実行犯は違う男だと言い始めたのだ。

「梅田義光」という名はこの時に初めて出た。

この証言を受け、警察はその日のうちに、羽賀の言う実行犯「梅田義光」を逮捕した。だが、(後に無罪を勝ち取るが)、梅田義光は事件とは無関係の男であった。


▼身に覚えのない梅田義光の主張

「刑事さん、一体私が誰を殺したというのですか?」

突然の警察の来訪と自分の逮捕に驚いた梅田義光は警察側に尋ねたが返答はない。降って沸(わ)いたような突然の出来事に、梅田義光は全然訳が分からない。

「何で自分が逮捕されるんですか! 全く身に覚えがありません!」

しかしいくら梅田が主張しても警察は聞き入れない。「共犯者」である「羽賀竹男」が自供したという絶対の証言があるのだ。


取り調べ室に連れて行かれた梅田は、そこで自白を求められる激しい拷問を受けた。

殴られ蹴られ、鉛筆を指に挟(はさ)んで締め付けられたり、警棒をふくらはぎの上に置いた状態で正座させられて脚を踏みつけられたり、可能な限りの痛い目に遭(あ)わされた。

「今さらジタバタしたって始まらねえんだ!羽賀という生き証人がいるんだからな!」「この野郎、まだシラァ切る気か!」

取り調べ官が怒鳴りまくる。警察側とすれば、早く白状すれば痛い目に遭(あ)わずに済むという理論であろうが、何もやっていない梅田としてはたまったものではない。

「とくかく羽賀に会わせて下さい。あいつと話せば分かるはずです・・。」

決して罪は認めなかったが、梅田はそう言うのが精一杯だった。


しばらくして待望の、羽賀との対面が取調室で実現した。羽賀を目(ま)の当たりにした梅田は、羽賀に怒鳴る。

「俺がお前の何を手伝ったというんだ! ひでえじゃねえか! お前とは(軍隊から)復員してから1、2回しか会ってないだろ!」

羽賀「いや、もっと会っている。」
梅田「一体、どこで会ったって言うんだよ!」

「辰巳だ。」
「辰巳って何だよ。」

「食堂だ。」
「俺はそんな食堂は知らんぞ!」

「・・・・梅田君、すまない。俺もかなり頑張ったんだが、隠し通せなかった。本当のことを言ってくれ。」そう言いながら羽賀は頭を下げた。

まるで梅田が共犯者であるかのような発言とそぶりである。全然身に覚えのないことを次々と言う羽賀に、梅田は心底アタマに来た。

「何がすまないだ、ふざけるな!」

逆上して羽賀に掴(つか)みかかろうとする梅田を、警察は取り押さえた。この行動は警察側に「梅田は事実を突かれて逆上した。」とみなされてしまった。


更に羽賀は
「刑事さん、梅田君は自分と違って一家の柱となっていかなければならない人てす。どうか彼に自首の手続きを取ってやって下さい。お願いします。」と言う。
これではまるで、梅田は完全なる共犯者で、梅田の方がシラを切っているような展開である。

羽賀の証言を信じた警察は再び梅田に自白を強要する。梅田が「身に覚えがありません。」と言えば殴る蹴る。苦しさから逃れるために梅田が「やりました・・。」と言えば「どういう風にやった!?」「羽賀はこう言ってるんだ。」「そうじゃないだろ、こうやったんだろ!」と質問責めである。

痛めつけられる梅田がここから逃(のが)れるためには、もう自分がやったという他はなくなっていた。結局この時の梅田の自白が裁判の時にも決定的な力を持つこととなった。


▼梅田の実刑判決

昭和29年7月7日、一審である地方裁判所・釧路地裁網走支部で出された判決は、最初に逮捕された清水には無期懲役、羽賀は死刑、そして梅田にも無期懲役、という判決であった。

清水は控訴せずにそのまま刑が確定したが、羽賀と梅田は控訴して高等裁判所に裁判のやり直しを求めた。

二審である札幌高裁は、梅田の自白は取調官の暴行によるものと認めたものの「拷問ほどにはいかず、相当な程度の強制である。」と、警察側の暴行の方を認める判断を下し、更に無実を訴える梅田の言い分よりも羽賀の発言の方を重視し、昭和31年12月15日、控訴を棄却した。

梅田は、自分は全くの無実であり、羽賀がデタラメを言っているということを必死になって主張したが、聞き入れられなかった。

死刑の羽賀と無期の梅田はすぐに上告し、最高裁に裁判を求める。しかし翌年の昭和32年11月14日、最高裁にも上告は棄却され、羽賀の死刑と梅田の無期懲役は確定した。

最高裁の判断では、「羽賀竹男が、梅田義光に対し、何らかの恨みを抱(いだ)く事情の認めるべきものがない。また、羽賀竹男が、梅田義光と共謀して犯行をしたと主張することによって羽賀自身の利益になるものも認められない。」というものだった。

確かに羽賀は梅田に対して恨みもなければ、梅田を共犯者に仕立てる利益もないかも知れない。しかしそれだけを理由に羽賀の言い分を完全に認めてしまうという、この判決に異論も巻き起こった。

人間の感情とは、そんなに単純なものではない。そこには「腹いせ」「道連れ」「事件とは無関係なものに対するひがみ」など、様々な感情も沸いてくる。しかし犯罪者として捕らえられ、法的手続きに則(のっと)って出された判決に、梅田はそのまま従うしか道は残されていなかった。


▼弁護士を通じて羽賀が梅田に取引を持ちかける

昭和35年2月、羽賀の死刑が確定して2年数ヶ月が経っていたこの時期、羽賀の弁護士である中村義夫宛てに一通の手紙が届いた。羽賀本人が獄中から書いた手紙であった。「ぜひ会いたい。」と手紙には書かれていた。

「何か重要な話でもあるのだろうか?」

中村弁護士は羽賀の求めに応じ、羽賀が収監されている札幌拘置支所を訪れた。

当の本人・羽賀と面会したが、これまでと同じような話しかしない。せっかく来たのだが、別に何かを伝えたいというような意思は見受けられない。しかし、中村弁護士が帰ろうとしたその時、看守の一瞬のスキをついて、羽賀は中村弁護士に小さな包みをそっと手渡した。

中村弁護士が事務所に帰って開けてみると、包みの中には手紙が入ってた。

手紙の内容は、

「梅田君が不憫(ふびん)になり、彼に対する感情もほぐれ、梅田君のために最善を尽くしてみようと決意しました。ご希望通りの私の発言を差し上げます。」といった内容が書かれていた。(この時、相手の梅田は網走刑務所で服役中であった。)

「ご希望通りの発言」であり、事実を話す、とは書いていない。このあたりは慎重に言葉を選んでいる。
手紙全般から見て取れた内容は、「梅田は本当に共犯者なのだが、この際、俺に50万円払えば、『梅田は無実だった』と、事実とは違う供述をしてやる。」というものだった。

さすがにズバリとは書いていなかったが、何度読み直してみても、意図はそのようにしか受け取れない内容であった。

そして条件も記載されてあった。「報酬として50万円払うこと」と「返答の期限は一週間以内」ということであった。

(実際には梅田は無実であり、後になって羽賀本人が、「梅田は犯人じゃない。あいつには少しの罪もないんだ。」と、同じ拘置所に収監されている囚人たちに語っていたことが明らかになっているが、この時点ではあくまでも検察や弁護士に対しては「梅田は共犯者だ」と言い張っていた。)

これは、金で証言を売ってやるというようなものである。この手紙の内容に中村弁護士は判断を迷った。

仮にそのような申し出に乗ったとすれば、そのようなことはすぐバレるであろう。弁護士としての自分の立場も危(あや)うくなってしまう。処理に困った中村弁護士は、相手側である梅田の弁護士・竹上半三郎弁護士にも相談して話し合い、最高検察庁にも相談してみた。羽賀の提案に乗ったふりをしてOKすれば、真実の発言を聞けるのではないかと申し出てみた。

しかし検察庁の判断は「金で証言をやり取りするなど、とんでもない。」というものだった。

羽賀の申し入れは無視されることに決定した。

実際、この時点では羽賀の死刑は確定していたのだが、まだ再審・生存の可能性を諦(あきら)めていなかった心が伺(うかが)える。


▼羽賀は返事を待っていたが・・

羽賀は、この提案に梅田側が必ず乗ってくると信じていた。これまで梅田本人から、羽賀宛てに「真実を語ってくれ。」といった内容の手紙が何度も届いており、羽賀がそうった発言をすることを本当に待ちわびているはずだ。

羽賀が中村弁護士に渡した手紙の中には、金額や返答期限以外にも細かいことが多く書かれていた。

「この申し出を了解するならば、その合図として、梅田の実家から『請願』という形で俺宛てに手紙を出すこと。しかし外部からの手紙は拘置所側がいちいち中を開いて中身を調べるので、手元に来るまで5〜6日かかる場合もある。

すぐに合図が分かるように『伊藤一郎』という名前で俺に15万円の現金書留を送れ。

この15万円は、50万円から差し引く。また、残金の分割払いもよしとする。

『伊藤一郎』名義の口座を作ってその口座に振り込んでおいてもよい。今度の面会の時にその残高を見せるように。」

といった内容である。非情に細かい。


羽賀はこの提案が、梅田側の弁護士にも検察庁にも知られて無視されていることは知らずに、毎日返事を待ち続けた。自分が提案した一週間ははるかに過ぎていたが、まだ合図は来なかった。

そして何も起こらないまま、三ヶ月が過ぎた。

昭和35年6月20日、羽賀の収容されている房に看守が訪れ、「本日、刑が執行されること」を告げた。梅田からの合図はついに来なかった。

羽賀は死刑執行を前にしても、梅田の無実を語らずに処刑された。


▼梅田、無罪を勝ち取る

一方梅田は、18年7ヶ月の服役を終えた後、昭和46年5月に網走刑務所を仮出所した。しかし社会復帰してからも再審請求を続け、昭和61年8月、釧路地裁にて、ついに梅田は無罪判決を勝ち取ることが出来た。

釧路地裁が無罪を決定した理由として、

犯行の様子が自白と違うことや、
羽賀の証言では、梅田はバットで被害者を殴って殺したとしているが、梅田がその時に着ていた作業着からは血痕(けっこん)が発見されなかったこと、
羽賀が拘置所内で「梅田は犯人じゃない。あいつには少しの罪もないんだ。」と囚人たちに語っていたこと、
この犯行において羽賀と梅田を結びつけるような証拠が何もないこと、

などが上げられる。

梅田が逮捕されてから、34年の歳月が流れていた。


▼共犯者をデッチ上げた他の事件

この羽賀・梅田の例だけではなく、実際、他の事件でも、「実際は自分1人の犯行でありながら」無関係な人間の名前を出して共犯者をデッチ上げ、「首謀者は○○で、俺はあいつの指示に従っただけだ。」と嘘の供述をする犯罪者もいる。

この羽賀・梅田事件と同じような時期に起こった「八海(やかい)事件」では、犯人・吉岡晃が、自分1人の犯行であったにも関わらず、四人の共犯者をデッチ上げて、「俺は奴らの指示に従っただけだ。」と「自分は従犯」であることを主張した。

その証言に従って他の四人は逮捕され、実刑判決を受けることとなった。この当時、自白を強要するための拷問は当たり前の時代であり、デッチ上げられた被害者たちは、その拷問から逃れたいがために、やってもいないことを「やった。」と言い、また、ヘタに抵抗すると死刑にされるのではないかという恐怖心から、警察側の要求通りの証言をするという結果となった。

結局、彼らの自白が裁判でも決定打となり、有罪が確定した。彼らを巻き込んだ吉岡自身は、無期懲役の判決を受けると控訴しないでそれを受け入れたが、他の四人は悲劇であった。四人の中には死刑判決を受けた者もおり、彼らが無実を証明するのに18年の歳月を要した。

こういった、嘘の共犯者や首謀者のデッチ上げは、自分の刑を少しでも軽くしようという意思の表れでもあり、普段から幸せそうにしていた友人に対するひがみでもあるかも知れない。自分の知り合いが犯罪を犯した時、こういった形で事件に巻き込まれることもあるのである。



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