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No.052 12人の行員を毒殺した銀行強盗・帝銀事件

帝国銀行・椎名町支店に現れた男は、言葉巧みに行員たちに毒物を飲ませて12人を殺害し、金と小切手を奪う。犯人として逮捕されたのは、全くの無実である「平沢貞通(さだみち)」である。一貫して無実を訴え続けるが、平沢には死刑判決が下された。


▼銀行に現れた男

昭和23年、東京・池袋の近く、現在の西武池袋線の椎名町駅の近くに帝国銀行(三井銀行を経て、現・三井住友銀行)・椎名町支店はあった。

1月26日の15時過ぎ、すでに帝国銀行・椎名町支店は扉を閉め、中では行員たちが閉店処理に追われていた。だがこの時、一人の男がこの椎名町支店の勝手口より入ってきた。閉店時間は過ぎていたのだが、この時代はまだ防犯も施錠も甘い時代で、このようなこともたまにあった。

男は40〜50代のように見える。コートには「防毒消毒員」と書かれ、東京都のマークが入った赤い腕章を左腕につけていた。

「支店長は?」と男が聞く。
「支店長はおりませんが、私が支店長代理です。」と、吉田支店長代理が答えた。支店長は体調不良で、この日はたまたま早退していたので、支店長代理が責任者を勤めていたのだ。

男は名刺を差し出した。名刺には「東京都 衛生課」と記載されていた。


男は、「この近隣で4名の集団赤痢(せきり)が発生しました。」と話し始めた。

「警察にも届けられましたが、『GHQのホートク中尉(※注)』にも報告され、ホートク中尉から『すぐに私も行くから、お前、一足先に行け。』と言われまして、私が先に行って赤痢の発生した家を調べてみますと、感染者の一人が今日、この銀行に来ていることが分かりました。

ホートク中尉は後から消毒班と共にここへ来ることになっています。その消毒をする前に予防薬を飲んでもらうことになりました。」

と、男は説明を続けた。

<※注:この時代は、第二次世界対戦が終了して、まだ2年半しか経っていない時で、この時の日本はアメリカに支配されていた。日本政府の上に「連合軍 総司令部(通称:GHQ)」というアメリカの組織があり、これが日本を統治していたため、街にはアメリカの軍人が多く駐留していた時代であった。

また、「ホートク中尉」は防疫(ぼうえき)関係のアメリカ軍人で実在の人物であり、帝国銀行に現れた男が「アメリカ軍人の指示でここへ来た。」という説明は、行員たちにとっては信用するに値する言葉に聞こえた。

また、「赤痢(せきり)」は当時恐れられていた伝染病で、発熱と激しい下痢が特徴の病である。下痢に血が混じることから赤痢と呼ばれる。>


▼この薬を飲んで下さい

「これはGHQより出た強い薬で、非常によく効きます。」と言いながら、男は金属製のケースから液体の薬らしきものを2種類取り出した。

この薬をこれから飲むということを察して、行員の一人が人数分の湯飲みを用意して持って来た。この時銀行内にいたのは、行員14人と行員の家族が2人の、合計16人だった。

「私が飲み方を教えますから、私のやるようにして下さい。」と男が言う。

「薬は2種類あって、最初の薬を飲んだ後、1分くらいしてから2番目の薬を飲むのです。」

男は、スポイトで薬の量を計って、16人分の湯飲みに分配した。

そして自分の湯飲みを持ち上げ、ノドの奥に垂(た)らすようにして薬を飲み込んだ。男が実際に飲んだことで、行員たちは完全に男の言うことを信用した。16人が一斉に薬を飲んだ。

しかし、まるで強い酒を飲んだ時のように行員たちはノドや胃が急に熱くなり始めた。1分待って、第2の薬も全員が飲んだ。あまりにも気持ちが悪く、苦しくなったので、行員の一人が「口をゆすぎたい」と言うと、男は「いいですよ。」と許可した。


全員が一斉に洗面所や風呂場に駆けよった。しかし、ある者はその途中で、ある者は洗面所から帰って来た時に、次々とその場にうずくまり、16人全員が苦痛にのたうちまわり始めた。
当時書かれた犯人の人相書き

中には早々(はやばや)と動かなくなった行員も出始めた。気がつくと男の姿はすでに銀行内にはなかった。

全員が苦しみのうめき声を上げている中、16人の中の一人である女性行員が、時々意識を失いながらも必死に床を這(は)い、勝手口から外に出て助けを求めた。外に出るとたまたま女子学生が通りかかっていたので、彼女たちに事情を告げて警察を呼んでもらい、事件が発覚した。

すぐに警察も救急車も来たが、野次馬も多く集まって来た。最初は銀行内の食中毒と誰もが思っていたので、大した事件とは思われていなかった。

だが16人のうち10人は銀行内ですでに死亡していた。救急車で病院に運ばれた6人も、その内の2人が病院で死亡した。

結局生存者は4人、死亡者が12人という大惨事となった。


生存者から話を聞き、警察が現場検証を行ったが、男が飲んだという湯飲みも、出された名刺も発見出来なかった。男が持ち去ったようだ。

更に、机の上に置いてあった現金16万4450円と、17450円の額面の小切手がなくなっていた。机の上には他にも2箇所、合計約50万円の現金が置いてあったが、これは盗(と)られていなかった。また、カギが開いていた金庫に現金35万円が入っていたが、これもそのまま残っていた。

死亡した人たちは東京大学医学部と慶応大学医学部で解剖され、湯のみに残っていた液体も分析した結果、犯行に使われたものは青酸化合物であったことが判明した。

また、盗まれた小切手は、翌日の14時30分ごろ、別の銀行で換金されていたことが後に判明した。その際、犯人は小切手の裏に住所を書いておらず、行員に注意を受けてその場で書いている。ただしこれは嘘の住所と名前が使われていた。

銀行員を毒殺して金を奪うという、珍しいケースの銀行強盗事件となった。


▼この事件以前にも、似た手口の事件があった

この帝国銀行の事件では物的証拠はほとんどなく、生存者の証言で似顔絵が描かれた程度であった。

警察は、操作の一環で、過去に同様の手口での未遂事件でも起こっていないかと調べてみると、2件ほどよく似た事件があったことが分かった。


1件は、この前年である昭和22年10月に安田銀行(富士銀行を経て現・みずほ銀行)の荏原(えばら)支店で起こっている。帝国銀行の時と手口が極めてよく似ており、最初に名刺を出して、この近辺で赤痢が発生したこと、感染者が今日この銀行に来たことを告げ、軍の命令で自分がここへ来たことも告げた。

男は50代前半くらいの年齢だった。この時も薬を全員に飲ませ、1分後に第2の薬を飲ませているが、この時は何も起こらなかった。

「消毒班が来るのが遅いので見てくる。」と言って男は銀行を出てそのまま逃げ、死者は出なかった。

ただこの時は、男の差し出した名刺は銀行に残っていた。名刺には「厚生技官 医学博士 松井蔚(しげる)と書かれており、後に警察が調べてみると「松井蔚(しげる」は実在の人物で、置いていった名刺も本物であることが確認された。ただし、松井蔚(しげる)本人はアリバイがあり、この時の男ではないことが判明している。

本当の自分の名刺を犯罪に使う者はまずいないので、松井蔚(しげる)が誰かに渡した名刺がここで使われたものと推測される。


2件目は、帝国銀行事件の一週間前である1月19日に起こっている。

三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)中井支店に15時過ぎに現れた50代前半くらいの男が同様のことを行っている。この時に出された名刺には
「厚生省技官 医学博士 山口二郎」と書かれてあった。

近所の集団赤痢、感染者がこの銀行に来たこと、すぐに軍が消毒に来ることを告げ、この銀行内にある現金も消毒しなければならない、と男は言ったが、支店長が「すでにここには現金はありません。」と言うと、男は小切手にビンの中の液体を降(ふ)りかけただけで去って行った。

この時も名刺は置いていっている。しかし、この名刺に書かれた人物は架空の人物であった。

この2件の未遂事件は報道はされなかったので、帝銀事件の犯人がこれらの事件を真似して犯行を行った可能性はない。警察は、帝銀事件と2件の未遂事件は、全て同一人物の犯行であると断定した。


▼犯人として平沢貞通(さだみち)が逮捕される

捜査は、名刺の方面からあたっていく班と、毒物に詳しい男を当たっていく班とに分けられて進められていった。

犯人を検挙したのは名刺班の方である。

三菱銀行で残した名刺「山口二郎」は架空の人物だったが、安田銀行で残した名刺の「松井蔚(しげる)」は実在の人物で、名刺も本物だった。この松井蔚(しげる)の名刺から辿(たどっ)ていった。松井蔚(しげる)本人に聞くと、このタイプの名刺は100枚作ったという。

警察は、松井が名刺を交換した人物を徹底して当たった。幸い、松井は几帳面な性格で、名刺を渡した相手を全て記録していたので捜査は容易であった。


その結果、松井本人の手元に残っていた名刺8枚を含めて、回収に成功したもの、回収は出来なかったが事件とは無関係であると判断したものなど、92枚は犯人とは関係がないとの判断が下された。

怪しいのは残りの8枚をもらった人物たちである。その8人は松井の名刺を紛失していたり、所在がつかめなかった人物ばかりである。

この8枚のうちのどれかが安田銀行の未遂事件で使われたと、警察は判断した。

そして警察は、その中でも画家である「平沢貞通(さだみち)」(56)を最も有力な容疑者として、事件発生から七ヶ月経った8月21日に北海道小樽市で逮捕した。

平沢貞通(さだみち)が犯人と思われた理由は、まず、松井から名刺をもらったにも関わらず、それをなくしてしまっていたことであり、事件当日のアリバイがあやふやで、その上、事件のすぐ後に、銀行から盗まれた金額とほとんど同じ額を所持していたことである。更にこの金の出所(でどころ)を平沢は明らかにしなかった。

そして逮捕された後に分かったことであるが、平沢貞通(さだみち)は、銀行で過去4件の詐欺事件を起こしていたのだ。これらのことから、犯人は平沢という意識が完全に警察内で固まった。


▼平沢、無実を主張するも犯人と断定される

しかし後に分かることであるが、これらの理由は全て説明がつくことであり、平沢貞通(さだみち)は完全に無実であるにも関わらず、このまま犯人と断定されてしまう。

なくしたという松井の名刺であるが、平沢は、名刺は財布の中に入れていて、財布ごと盗まれたと主張しており、実際、事件の起こる前の段階で盗難届けを出している。そして松井は、平沢に名刺を渡す時に、名刺の裏に自宅の住所を書いて渡しているが、犯行に使われた名刺の裏には何も書かれていなかった。

また、アリバイに関しても、事件のあった時間の少し前に、娘婿(むすめ むこ)と会い、自宅に帰ったのがちょうど犯行時刻のあたりである。妻や娘、その婿も証言したが、アリバイ証言に、家族の証言は認められない。

所持していた金も、平沢本人は言わなかったが、一説によると、画家である平沢は時々「アダルトな絵」も描いており、こういった絵を売って生活費を得ていた面もある。そういう絵を売って得た金を、たまたま事件直後に持っていただけであって、平沢がそれを言わなかったのは、画家としてのプライドがあったためと推測されている。

また、帝国銀行の事件では、犯人は小切手を換金する際に、裏に名前や住所を書き忘れて銀行員に注意されているが、その前の時期に平沢が詐欺で銀行から小切手を得た時には、それを換金する際にはちゃんと名前と住所を書いている。しかもこの二つの小切手の筆跡鑑定では両者は別人と鑑定された。

帝銀事件の生存者と、未遂事件で犯人を見たという人たち11人に平沢の写真を見てもらった結果、「違う」と答えた人が6人、「似ている」と答えた人が5人であり、犯人だと断定した人はいない。

そして、事件のあった帝国銀行・椎名町支店では平沢の指紋はどこからも検出されなかった。


しかし、いったん捕らえた最有力容疑者を警察は逃(のが)すはずもなく、拷問に近い取調べが連日に渡って行われた。この時代はまだ戦前に施行された刑事訴訟法が生きていて、「自白はいかなる証拠にも勝(まさ)る有罪の証(あかし)」とされていた。

全くの誤認逮捕であるが、この当時はいったん逮捕したら、後は拷問にかけて自白を強要するということは普通に行われていた。平沢は、毎日のように殴られ・蹴られ・絞められるといった形で自白を強要されることとなった。

そして痛めつけられた平沢は、ついに自分がやったと認めてしまう。もちろん現代では、強要による自白は無効となるが、この時代では自白してしまえば全て終わりのよう時代であった。


平沢自身はやっていないのだから、当然、事件について語ろうと思ってもあちこちが食い違ってくる。刑事の方から「こうやっただろ。」「ああだったろう。」と誘導尋問のような形で発言を強要され、自白の調書が完成してしまった。

この自白が裁判でも決定的な力を持つこととなった。昭和25年7月に一審である東京地裁では死刑という判決が下された。控訴するが昭和26年9月、二審である東京高裁は控訴を棄却、昭和30年4月には最高裁でも上告が棄却され、その後、異議申し立てをするも棄却され、一審・二審通り死刑判決が確定した。

死刑確定後も平沢は無実であることを訴え、18回に及ぶ再審請求を行ったが、それらは全て棄却された。


▼死刑は執行されなかった

平沢は逮捕されて間もないころ、三回の自殺を試みている。一回目は取調室から持ち去ってきたペンを自分の左手の血管に突き刺し、その血で「無実」と壁に書いて、時間の経過と共にそのまま気を失っていたが、看守に発見されて助かっている。

二回目は壁に向かって突進し、頭蓋骨を割ろうとしたが意識を失っただけでこれも失敗し、三回目は痔の薬を飲んで自殺しようとしたが吐いてしまって失敗している。死をもって自分の潔白を証明しようとしたがいずれも失敗し、結局、残りの人生を全て獄中で過ごすこととなった。

昭和62年5月10日、平沢は八王子医療刑務所で肺炎を悪化させて死亡した。95歳だった。死刑確定から32年、逮捕されてから39年が経っていた。最後は死刑執行ではなく病死、それも39年も獄中生活を送った上での病死である。


死刑確定してからこれほど長い間、刑が執行されなかったのは珍しいケースであり、これほど高齢者の死刑囚もほとんどいない。これほど長い間、死刑が執行されなかったのは、平沢が再審請求をたびたび出していたからというわけではない。

死刑の執行は、死刑判決を受けた順番通りに執行されるのではなく、法務大臣が死刑承諾書に判を押すことによって執行が決まる。平沢が拘置所に拘留されている間に何人も法務大臣は代わったが、それら歴代の法務大臣は全て平沢の死刑承諾書には判を押さなかった。

「これは冤罪(えんざい = 無実でありながら有罪となっている罪)だ。」と、平沢の資料を読んだ歴代の法務大臣たちは判断した。帝国銀行の平沢事件は各メディアにも取り上げられ、この事件を題材にした推理小説もいくつか書かれた。特に松本清張の「小説 帝銀事件」で取り上げられたことにより、平沢の無実は有名なものとなっていたので、彼の死刑を執行すれば法務大臣が世間から非難の的になるであろうこともその要因の一つとなっていた。。

長い拘留中、平沢には支援者も現れ「平沢貞通を救う会」も結成されて多くの人たちが支援してくれたが、平沢の人生の最後まで判決は覆(くつがえ)ることはなく、平沢は有罪のままその生涯を閉じることとなった。

平沢は、逮捕される前は著名な画家であり、獄中でも絵を描き続け、その数は千数百点にも及んでいた。


▼犯人の高度な知識

平沢が犯人でないことはほぼ確実であるが、平沢は結局、名刺の方面からの捜査によって逮捕されている。この時、警察は安田銀行の未遂事件で犯人が残した「松井蔚(しげる)」の名刺の方から辿(たど)っていく捜査を行ったが、この捜査はメインの捜査ではなかった。

捜査の主流は、あくまでももう一つの班である「毒物に詳しい者の犯行」から当たっていく捜査の方であった。いわば「一応」というレベルで行っていた名刺班の捜査の方が平沢に辿りつき、逮捕・死刑判決にまで達してしまったのである。

では真犯人は誰かということになると、「毒物」の方面から捜査を行っていた捜査班が、ある程度のところまで絞り込んはでいた。


「相手をだまして毒を飲ませて殺害する。」

と、言葉で書けば演技力のある者であれば実行可能のように思えるが、帝銀事件で犯人が行ったことを細かく見ていくと、毒物に関する高度な知識と経験がなければ不可能であることが分かる。

まず犯人は、他の人と同じように薬を入れたものを、それも一番最初に飲んでいるが、犯人だけは何ともなかった。そこに何らかの準備があったことは明らかである。

推測では、犯人の湯飲みにだけ分からないように油類を入れ、そこに薬品の入った液体を入れて、比重の関係で油類の方が上に浮き、その無害のものだけを飲んだのではないかと言われている。水と油を一緒に入れると、分離するのと同じ原理である。

そして被害者たちが飲んだ湯飲みに残っている液体を分析した結果、青酸化合物はほとんど検出されなかった。にも関わらず、被害者たちの胃や血液からは、かなりの青酸化合物が検出されている。


第1の薬に青酸化合物が含まれていれば、ほとんど飲んだ時点で死亡者が出るはずだということであるが、全員その時点では死に至ってはいない。そして第2の薬を飲ませるという手順。

第1の薬が、ギリギリ死なない程度の青酸化合物であり、第2の薬で確実に殺すような何かを飲ませたとか、戦時中、毒物の研究をしていた日本陸軍第9研究所が開発を進めていた「青酸ニトリル(アセトシアノヒドリン)」が、服用後1〜2分で効果が現れる薬であり、軍関係者がこれを使ったのではないかと、いくつか説はあるものの、はっきりとは解明されていない。


そして16人全員に薬を飲ませるにしても、早飲み競争ではないのだから、全員が同じ瞬間に飲み始めることはまずあり得ない。

16人もいれば最初に飲み始める者と、最後に飲み始める者との間に必ず時間の誤差が生じるのが自然の流れである。例えばそれが即効性の毒であり、最初に飲んだ者が、飲んだ途端にのたうちまわって苦しみ始めれば、他の者は絶対に飲まない。

第1の薬を飲んで1分おいてから第2の薬を飲ませるということは、最初の薬ではそのような事態が起きないということを犯人は知っていた。第1の薬で、胃やノドが焼けるような苦しみが始まったとしても、それは耐えられない苦しみというほどではなく、その苦しみが和(やわ)らぐのなら、という意識のもと、全員が第2の薬を確実に飲むであろうということも計算づくだった。そして第2の薬で完全に死亡に至らしめる。

多数の人間相手にこのようなことを行うのは、毒の素人にはまず不可能であり、仮に本で読んだ知識があったとしても、実行するような度胸は得られない。犯人として逮捕された画家の平沢がこのような知識や経験を持っていたなどとは考えられない。

そして、これから10人以上を殺害しようとしている人間にしては、犯人の態度はあまりにも堂々として冷静である。殺しの素人がこのような態度で犯行を実行出来るはずもなく、この犯人の振る舞いが、経験から来る自信ではないかと言われている。


▼真犯人の最有力候補・731部隊出身者

真犯人は「毒物に詳しい知識があり、そしてそれを飲んだ人間がどういった反応をして、どれくらいの時間で死亡するのかということを、実験などの経験を通して知っていた人物」というのが、毒物の方面から捜査していた警察側の見解だった。

毒物(帝銀事件の場合、青酸化合物)を人に飲ませて、死んでいく様(さま)を何度も観察したことのある人間など、そうそういるはずもないが、この時代、そのケースに当てはまる組織が事件の少し前までは日本に実在していた。

それは「第二次世界大戦」という特殊な状況の下(もと)であったからこそ作られた組織であり、「731部隊」や「登戸(のぼりと)研究所(第9陸軍技術研究所)」などが、その代表的な組織である。

それらの施設では細菌や毒物兵器の開発が行われ、その一環として死刑囚などを使った人体実験が行われていた。


帝銀事件が起こったのは、第二次世界大戦が終了して2年半ほど経った時期である。毒物に詳しい知識を持った人間といえば、これらの組織の出身者である可能性が極めて高く、犯人として最有力候補に挙がったのは、その中でも731部隊の出身者である。

「731部隊」とは、戦争中、(現在の中国・黒竜江省の)ハルビン市に建設されていた日本軍の軍事施設で、主に細菌学および毒物の研究を行っていた施設である。代表者は、石井軍医中将で、石井部隊とも呼ばれる。

この施設では、満洲(現・中国の東北部に当たる地域)で死刑判決を出された囚人たちを使って細菌兵器や毒物などの人体実験が繰り返されていた。

実験に使われたのは主に死刑囚たちであったが、捕らえてきた罪のないソ連人、蒙古人、満州人たちも含まれ、彼らを細菌に感染させて回復具合や死亡にいたるまでの経緯をデータに取る。現存するワクチンが効かないほど強力な病原体を作り出すことが目的で、人間を内部から死に至らしめることを目的とした実験施設であった。

運良く実験から回復した人間は、再び菌に感染させられ、また実験材料となる。犠牲となった人体は数千人とも言われ、死体は骨も残さず粉になるまで焼却された。

これらの施設のスタッフであった人物であれば、人を殺すための青酸化合物の量、苦しみ具合、その時間、致死量、そして人を殺すことに慣れていることからくる落ち着きなど、全てのことに当てはまる。


▼しかし軍関係者の捜査は許されなかった

だが警察が、この731部隊出身者50数名を捜査し、かなりのところまで容疑者を絞り込んだところで、突然GHQ(連合軍 総司令部)から捜査にストップがかけられた。そして警察を通じて、報道陣にもこれ以上731部隊の報道をしないようにとの指示があった。

当時の敗戦国である日本を支配していたのは、アメリカの組織であるGHQであり、それは政府よりも警察よりも上の権力を持っていたため、GHQの言うことは絶対であった。731部隊に関する捜査も報道も打ち切られることとなった。


GHQが731部隊の捜査に関して手を引けと圧力をかけてきたのは、以下のように推測されている。

第二次世界大戦終結と同時にアメリカ側は、731部隊を始めとする、日本が行っていた細菌や毒物兵器のデータを手に入れた。本来であれば勝ったアメリカは、このような研究をしていた部隊を、軍事裁判で厳しく処罰するか処刑するかするところであるが、このデータを提出した引き換えに研究部隊などの処罰を免除した。

戦争はどのような攻撃方法も許されるわけではなく、大正14年に施行されたジュネーブ議定書によれば、ガスや細菌兵器による攻撃は戦争では禁止されている。

にも関わらず、日本軍の行っていた細菌や毒物兵器のデータをアメリカが手に入れたということがバレれば、それは自国の軍事に役立てようという意図が明らかであって、国際的にまずいことになる。だがこの時のアメリカは、ソ連に対して少しでも軍事を強化しておきたいところだった。

しかもそのデータの提出と引き換えに、敵側の研究の罪を許したということが発覚すればますますマズいことになる。アメリカ側にとっては731部隊の存在が世に知られること自体が困ることであって、国レベルの秘密を民間の殺人事件で引っ張り出してしまっては困るのだ。

日本警察としては毒物関係の線から、ある程度は犯人は絞り込めていたのが、時代が許さなかった。毒物方面の捜査は断念され、「名刺班」の方面から逮捕された平沢を強引に犯人に仕立て上げたというのが、ほぼ定説となっている。


▼731部隊で真犯人と目(もく)される人物

昭和60年、読売新聞で帝銀事件に関する記事が掲載された。その内容によると、犯人の行った手口は、当時の日本軍の秘密科学研究所の作成した、毒の扱いに関する指導書と同じものであり、また、目撃証言から、犯人の使用した器具はこの研究所で使われていたものとそっくりであることが判明した、というものである。

平沢の死亡後、事件の捜査を行った刑事やその関係者がこの事件のことをテレビで語ったり、手記を発表したりしているが、どれも、「犯人は平沢ではなく、元陸軍関係者である。」と主張している。

帝銀事件の捜査主任であった成智(なるち)英雄警視は、昭和47年にこの事件に関する自分の見解を雑誌に発表している。

「アリバイその他で、犯人と認められる者は、結局731部隊に所属していた医学博士の諏訪三郎 軍医中佐(51)ただ一人となった。」
「体格・人相・風体は、帝国銀行・安田銀行・三菱銀行の生き残り証言のそれとピッタリ一致している。」

こう言ったことが書かれていたが、陸軍の軍医の名簿には「諏訪 三郎」という人物はおらず、「諏訪 敬三郎」と「諏訪 敬明(のりあき)」であれば実在していた人物である。名前が似ているのは「諏訪 敬三郎」であり、彼が真犯人だということであろうか。

「小説 帝銀事件」を書いた松本清張も、後の著作「日本の黒い霧」の中で「帝銀事件の謎」として、「真犯人は731部隊の元隊員」と推理している。

後の司法関係者の誰が見ても平沢の無実は明らかであるが、戦争終了後アメリカに支配されていた日本では軍関係者の捜査が断念されて、平沢はそのまま犯人にされてしまい、悲運の生涯を閉じることとなった。



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