寛延・宝暦(1748年から1764年)のころ、江州(滋賀県)の八幡に、松前屋市兵衛という男がいた。ある日の晩この市兵衛が、夜中に厠(かわや = トイレ)に行きたくなり、女中に明かりを持たせて一緒に厠(かわや)へと行った。市兵衛は厠(かわや)へ入り、女中は明かりを持って外で待っている。
ところが、いくら待っても市兵衛は厠から出てこない。しばらくすると、市兵衛の奥さんも心配になったのか、厠へとやって来た。二人で厠の前で待っていたが、やはり市兵衛は出て来ない。さすがに心配になって「どうしたんですか。」と戸を叩いてみたが反応がない。二人は思い切って戸を開けてみることにした。
不安をいだきつつも戸を開けてみると、そこには市兵衛どころか誰もおらず、完全にもぬけのカラである。窓には格子がはまっているし、もしや便壺の中にでも落ちたのではないかと覗き込んでみたが、やはりいない。付近を必死に捜索したが、完全に市兵衛は行方不明になってしまった。
それでも妻は、いつしか市兵衛が帰ってくるのではないかと思い信じて待っていたが、やはり全くの音信不通で、ついに諦めて別の男と再婚してしまった。
そして市兵衛が消えてから20年後。ある日突然、厠から
「おーい。おーい。」という、人の呼ぶ声が聞こえてきた。聞き覚えのある声である。
まさかと思い、妻は、不安と恐ろしさが入り混じりながら、思い切って戸を開けてみると、そこには20年前に消えた市兵衛が・・・・消えた時の服装、そのままで厠でしゃがんでいたのである。
妻は、腰が抜けるほどびっくりした。だが目の前にいるのは、まぎれもなく市兵衛である。とりあえず座敷に連れてきて事情を聞こうとしたが、市兵衛は「腹が減った。」と一言言っただけで、あとはメシを食うばかりだった。
そして食い終わってしばらく経つと、突然彼の身体の周りに煙のようなものが立ちこめ、着ていた服がポロボロになってチリになり、市兵衛は丸裸の姿になってしまった。
その後市兵衛は、何事にもなかったかのように昔の生活に戻れたが、失踪していた20年間は、まるで記憶がないという。こうして市兵衛の妻は、市兵衛と現在の夫と、二人の男に囲まれ、奇妙な生活を送ることになったという。