TheLastBreath「Prelude」2

TheLastBreath「Prelude」2
 
 夕暮れ時の大通りは何処か慌ただしい。
 ホテルからメインストリートまでは直線距離にして巨大な建物をいくつか隔てただけだが、それだけで裏通りの混沌とした雰囲気は払拭される。人と車が規則正しく往来する機械的な流れは、さながら工場のベルトコンベアーのようで、規模の大きい都市ならではの特徴的な一面といえよう。
 遙か頭上には陸橋──ハイウェイが縦横無尽に走っていて、大通りからそこへ乗り換えるための分岐ポイントが等間隔で幾つか伸びている。帰宅ラッシュを迎えたこの時間、大通りを走る車の半分はこのハイウェイに吸い上げられて彼方へと消えていく。
 そんな路肩の、帰路に就く百足のような黒い人波の中に、流れに滞る人影が二つ。
 ヒューとアリスである。
 「…」
 こめかみを引きつらせ、ヒューは不服げに今回の相棒の後ろ姿を睨め付けていた。
 勤務時間外である為──『給料出したくない』と上司にごねられ仕事を切り上げた──、すっかりオフの状態になったその顔付きは結構、否相当人相が悪い。
 「あんたは家庭環境に大層恵まれていたそうだから、勉学の面でも結構ずば抜けたレベルのものを教えてもらってたんじゃないか?」
 「そんなことないわよ。精々月並みくらいね」
 今回の相棒──もといアリスは、自動販売機の前で小首を傾げたり唇に指先を添えたりしながら何を飲もうか品定めをしている。振り向きもしないのだから、無論ヒューがどんな表情で言葉を連ねているかは気付かない。
 「んじゃあ、レディの嗜み…というか、人間関係を円滑にする為のごくごく基本的なマナーとかは習ったんだろ?」
 「…」
 言葉の端々に含まれた毒にようよう気付いたか、相棒は怪訝そうにくるりとこちらを向いた。
 「何の話?」
 「だから礼儀作法だよ」
 それでも内容の意図が掴めなかったらしく、アリスは眉根を寄せながら再び自動販売機に向き直った。買い物を済ませる方が先決と判断したらしい。がこりと転がり出てきたコーヒーを取り出して、漸く返答する。
 「さっきの会話が駄目だった?」
 「良い駄目以前に、あの芝居じゃ俺が尻に敷かれた腑抜けみたいじゃないか?」
 怪しまれずにホテルを後にしたのは認めている。だが、実際していた事といえば云時間もベッドの上で二人ごろごろしていただけなのだ。その極めつけがあの会話となると、救いようのない誤解が生じておかしくない。
 飲み口に唇を近づけながら、まるで悪気の無いアリスが首を傾げる。
 「うーん、さっさと帰るにはもってこいのシナリオだったと思うんだけど」
 「勢い余って乗り込んだはいいが愛の一言すら言わずに据え膳食わぬまま帰った〜みたいな役とかヘタレ通り越してヘナチョコじゃねーの」
 完全に将来かかあ天下を約束された者共のシナリオである。
うっかり会話を聞いてしまった通りすがりのビジネスマンが、何を誤解したのか苦笑を噛み殺してそそくさと去っていく。
 「…尊厳を傷付けたなら反省するわ。けど見た目とか性格がその…酷く荒っぽい印象があるから女性の取り扱いも乱暴で下手なイメージが急にインスピレーション」
 「無茶苦茶傷付いたぞオイ…はぁ」
 更に怒号を上げようとしたヒューだったが、途端に反駁の気概も萎えて嘆息した。見た目も性格も粗暴なのはよく自覚している。それが災いして誤解しまくられるのも自覚しているというか慣れている。
 おまけにもう過ぎた事だ。何時までも粘着して怒鳴っても恨みがましいだけだと割り切り、ヒューは漫ろに話題を止めた。
 「まぁ…結果オーライだしよぉ」
 口元が淋しくなり、ヒューもアリスに続いてコーヒーを買った。缶の半分くらいまで一気に飲み下すと、空っぽの胃袋が驚いてきりりと痛んだ。今まで窮屈なところに缶詰めにされていた分、ただの市販品だというのに美味しく感じられる。
 と、傍らでアリスが呟いた。
 「それにしても、案外タレコミも信用ならないのね」
 「あん?」
 トーンダウンした声音に、ヒューは思わず聞き返した。
 「どうしたよ」
 「騙すなんて軽くショックって言ってるの」
 止め処もなく流れる車にぼんやりと焦点を合わせたアリスが口を尖らせていた。今までデスクワークしか経験のなかった彼女にとって、信用を裏切られた事は意外とショックだったようだ。
 タレコミが十回あれば半分以上が嘘八百だったり勘違いだったりなのが常だが、それは今後身を以て知ればいい。
 「そんなモンだよ」
 残りのコーヒーをちびちび喉に流しながら、ヒューは笑って取り繕った。
 「今回絡んでる薬物はそれだけ大好評ご愛顧中!ってことさ。俺達を欺いてまで取り引きやらかすなんて、余程需要があんだよ」
 「嫌な需要」
 アリスが毒づく。
 「薬なんて、そんなに癖になるものなのかしら」
 「さあね。当事者になってみないとそんなの分からないだろうよ」
 もっともな答えを返し、ヒューは飲み干したコーヒー缶を肩越しに放り投げた。ゴミ箱の縁にバウンドしたそれは的を外れて路上に落ちてしまったが、アリスが律儀に拾い上げて入れ直す。
 「アリスはこれからどうするよ」
 もはや缶の事など意識の範疇に止めず、ふああと背伸びをしながらヒューは問うた。
 丸一日近くホテルに缶詰めにされ、流石に残業時間にまで食い込んでいると思っていたのだが、実は普段の勤務からあがる時よりも日没までに時間が残っていた。上司の仰せで今日はもう職場には戻れないが、それならば何処かへ気分転換に出掛けてもいい具合だ。
 「私はこのままタクシー拾って帰るわ。今日はしっかり鋭気を養って、明日しっかり調べ直して、今度こそ逃げられないようにしてやるんだから。それから出向いても遅くはないわよ」
 「感心だね」
 予想はしていたが、元来生真面目なアリスの言葉はやはり模範のような堅苦しいものだった。ちょっと飲みに、とでも言えば付き合い上手だと思ったのだが、そこはお嬢様育ちであるから機転が効かなくても仕方あるまい。それもまた個性だ。
 「貴方はどうするの」
 「あー、この辺ぶらぶらしてから帰るよ。どうせ帰ったって誰が待ってる訳でもないし、息抜きくらいしたっていいだろ」
 「…。まさか売人の足取りを一人で探すつもりじゃないでしょうね」
 「!?」
 これにはヒューの方が面食らった。確かに、この界隈をぶらつくついでに手掛かりが見つかれば誉れと考えていた。だがまさかアリスに暴かれるとは予定にない。
 「な…」
 珍しく動揺して目を泳がせるヒューに、アリスは肩を竦めてみせる。
 「聞いたわよ、カーシーさんに。この前も勝手に単独行動して、近くに居合わせた他の課の人に犯人の仲間と間違えられて手錠かけられたって。しかも『人相悪いから犯人だッ!』なんて漫画みたいな勘違いだったとか」
 それは報告として上司には渋々話したが、自警団に携わる人間としてはあまりに恥ずかしいので誰にも打ち明けていない筈のネタだった。アリスもいよいよ直感が冴えてきたかと思ったが、どうやら上司の功績だったらしい。
 ヒューはがくりと肩を落として呻いた。
 「ああ…そう…。あンの上司お喋りだな…笑い種にすんなって念を押したのに」
 統率力もあるし頼りになるキャリアウーマンなカーシーだが、人の災難を事ある毎に面白可笑しく喋ってくれるのは勘弁してもらいたい。
 明日職場で顔を合わせたら、まず第一に釘を刺し直しておくとしよう。
 「まぁ…犯人に拉致されたり殺されたりするよりは良かったのよ。笑い種になっただけ儲けものだと思って」
 「そう思っとくよ」
 「…本当に思ってる?」
 やっとアリスも缶の中身を空け終わり、こちらは放り投げはせずに丁寧にゴミ箱に落とした。金網の底で缶同士のぶつかる音が小さく爆ぜる。
 「オフの時間の使い方をとやかくは言わないけど…私達チームなんだから無鉄砲なことしないでよ」
 「はいはい」
 説教臭い駄目出しにヒューは漫ろに答えた。
 残光を撒き散らす車の流れに向かってアリスが手を振ると、数秒と経たない内にその中のひとつがよろよろと路肩に止まった。今日は運良くタクシーがすぐに捕まり、アリスはご機嫌な様子で後部座席に飛び乗る。
 「じゃね、ヒュー。翌朝死体になっちゃったりしないでよ?」
 「はいはい」
 これまた適当な返事になったが、彼女は気にも止めずに運転手に行き先を指示し、こちらに手を振りながら道の向こうへと流れていった。
 (無鉄砲、ね…)
 もう取り繕わなくてもいいだろう。
 携帯の電源を切り、再び胸元にしまい込んだヒューの碧眼がヘッドライトに反射して怪しく光った。
 アリスの手前ああは言ったものの、豆粒のようなタクシーを見送るその表情に徐々に不敵な笑みが浮かび始める。
 説き伏せられて普通に家に帰るつもりは毛頭なかった。時間が余ってるのなら頃合いだ、もう一度あの界隈に引き返して情報収集したって罪にはなるまい。
 「いつかアリスにも正攻法じゃ回り道になるケースがあるって教えてやらなきゃな…」
 この無鉄砲というか無謀さが毎回毎回笑劇のような顛末を招いているのだが、何度も体験してきたからかヒュー自身はもう気にも留めていない。
 元々退屈なのが嫌いなのだ。チームとして考えるととんでもない厄介駒だが、カーシーはヒューのこの性格を利用して上手いこと事件に充てているから流石である。
 畢竟するに、ヘマをしない限りはちょっとくらいの単独行動は許容範囲だ──勤務時間外だし──少なくともヒューはそう解釈していた。
 「さて、戻るかい」
 くるりと踵を返すと、ヒューは今来た道を逆戻りに歩いていった。
 
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 ヒュー達の張り込んだホテルが建っている裏通りは、陸橋の丁度真下に展開しているので、その近辺にいる者からは『ハイウェイ下街』という俗称で呼ばれている。
 大抵の裏通りがそうであるように、この一帯も昼間は人も少なく閑散としている。そして日没と共に、酒を求め溺れる者、仕事帰りの身体を引きずる者、不遜な考えを腹に抱えた者、いろんな種類の人間が犇めき合う夜の世界へと変貌する。
 「あだっ!?」
 「おー、にーちゃんごめんよーぉ、今日は無礼講でねぇたははははは」
 典型的な洗礼。
 陽の沈みきる前から出来上がっていたらしい中年の男が、肩にぶつかった詫びを何やら上機嫌で言い散らしながら千鳥足で歩いていく。
 「…まったく」
 自警団に入る前は、ヒューも怖いもの見たさでよくこの手の地域に出入りしていた。どんなに穏便でいようが必ず喧嘩の一つや二つは起こり、良くて怪我人、最悪死人が出る無秩序の世界である。若かったとはいえ、あの頃からヒューの無謀癖は着々と磨かれていたのかも知れない。
 よくもまぁ今日まで生きていたものである。
 男がぶつかった肩がどうも気分悪く、ヒューは通りがかった店の窓ガラスを鏡代わりに覗き込んでみた。一通り動かしてみるが、肩の方は思い過ごしだったようだ。それよりも、映り込んだ己の姿に自嘲する。
 「ハン…ヘタレ彼氏よりひっでえ絵面だこりゃ」
 大通りから引き返す時に、既に役作りは完璧に仕上げていた。
 ケースに残っていたよれよれのタバコを咥え、着崩した皺だらけのスーツのポケットに手を突っ込んだ姿は、どう間違っても自警団の人間には見え難い。件の張り込みのお陰で、朝方整えた髪もボサボサだ。仲間内から粗暴で悪人に近いと大評判の彼の容姿言動は、日頃はそれこそマイナスに働く分、こういう時はプラスに働いてくれる。
 これならば余程勘のいい輩でない限り、薬の話を聞き回ってもただの中毒者にしか見えないという訳だ。
 だが未だにアタリには辿り着けていない。あれから既に二時間経ったが、もう四度はハズレを引いた。否、その程度で当たれば運が良すぎるか。下手に聞き回ると疑われるが、尋ねなければ情報は得られそうもない。この匙加減が難しい。
 「さて、次は誰に聞こうか…」
 目だけは素早く左右に動かし、引き続き情報を持っていそうな人間を探す。薬の事が聞きたければ、同じ穴の狢に聞くのが近道──探すのはとんでもなく重症の中毒者でも良いし(呂律が回らずに聞き取りづらいけど)、ちょっと薬に詳しくなってワルの仲間入りをしたと背伸びしている若者でも良い。
 「お、いたいた」
 こんな界隈であるから、条件に見合う人間はいくらでもいる。
 例えば、たった今ヒューの前を通り過ぎようとしている集団。女が二人、男が三人。何処にでもいる遊び仲間五人衆といった感じだが、時折きょろきょろと周囲を見回すその態度にどうも落ち着きがない。
 こいつらは何か知っているかも知れない。話しかけてみるべきか。
 (あーあーもうちょっと堂々としてろよ…それじゃすぐバレるぜ…)
 胸中で自警団にあるまじき台詞を並べながら、ヒューは彼等の動向を見守る。
 適当なところで立ち止まると、五人衆は壁にもたれ掛かって何やら話し始めた。上半分だけ見ると屯して会話しているように見える──が、密着する程に寄せられた腰元の僅かな隙間に、一瞬だけだが交互に行き交う紙幣とビニールの包装が見えた。
 間違いない、薬を扱っている。
 (うわ、やってら…)
 若者らしく詰めは甘いが、割と手練れの部類に入る人間だ。あの度胸が本物になってしまう前に一発灸を据えておかねば、調子に乗って大事件を引き起こしかねない。
 だが今は、件の売人と扱われている薬の情報を知る方が先だ。
 (よし、あいつら後でチーフにチクっておくとして…。ついでに聞いてみっか)
 ブラックリストに記憶しておきながら、ヒューは中毒者のフリをして近寄っていった。
 「なぁ、ちょっと聞きたいんだけど──」
 『!!』
 突然現れた人相の悪い男に五人衆は一斉に振り向いた。まるで今にも噛み付きそうな表情を浮かべ、五組の眼球が方々の体で以てヒューの姿を吟味する。
 (演技で)右手を震わせながらヒューは尋ねる。
 「今日この辺で、ホテルで薬の取り引きを行うって言ってサツを騙したスゲー売人がいるって聞いたんだが…何か知らないか」
 五人衆が交互に顔を見合わせ、ぼそぼそと呟き合う。売買を咎められたのではないと気付くと、少しばかりほっとした様子で左端の男が問い返してきた。
 「聞いてどうするんだ」
 「なに、知り合いの伝でね…最ッ高にキメられる薬を持ってる奴がいるっていうじゃないか。聞くところによれば今日取り引きした奴がそいつだとか。薬の名前ド忘れしてな…ええと、最近流行ってる新薬だ。是非とも手に入れたいんだが行き違いになってばかりで会えなくてね」
 「…おい、どうするよ…」
 「あの薬って…ヤバいよねー…」
 と、これはヒューに向けられた言葉ではない。先程薬と紙幣を交換した男女のペアが、それはもう大変気まずそうな顔で囁き合っている。
 「あんたァ、悪いけどアレはやんない方が身のためよ?」
 もう一人の女性が割って入ってきた。
 「この間あたしの友達も試したんだけどォ、たった一回で死にかけて病院送りになっちゃって。相当キまるのは本当。けど毒よねェアレ」
 (てめーらの持ってる薬も充分毒になるだろうがオイ)
 思わず突っ込んでやりたいところだが、そこはぐっと呑み込んでおく。
 それにしてもこんなに危ない薬だとは初耳だ。ここ数日間に病院に担ぎ込まれた若者共が本当に一回きりの投与で倒れてしまったのだとしたら、これはもう劇薬に匹敵する。
 使いようによっては殺人も難しくない。
 「そうか…そんなに危ねえのか…」
 わざわざ親切に忠告してくれるのは有難いが、このままでは彼等から情報の如何ほども聞き出せない。何とかして吐かせてやろう──暫時考えた後、ヒューは(勿論演技で)やれやれといった表情でかぶりを振った。
 「いや、ご忠告感謝するよ。ただ…もののついでにさ、薬の名前と売ってる奴だけ教えてくれないか?知っておけば、ブービーに当たる事もないだろう?」
 『うーん…』
 計ったように五人が同時に呻く。誰しも眼前の男が演技していると気付かず、揃いも揃って『こいつまだ諦めてねえや』と呆れた表情を浮かべている。すっかり騙されているのが何処か滑稽で、ヒューは必死に笑いを堪えていた。
 「まあ、教えてもいいけどね」
 まるで鬱陶しいものを追い払うかのように、今まで話しかけてこなかった右端の青年が口を開いた。
 「売人はヨタカってオッサンで、頬に引っ掻き傷みたいな三本スジがあるからすぐ分かるよ。それから覚えておいてね、例の危ない薬は『鎖』って名前。オッサンは最近あっちのブロックで薬売ってる事が多いから、行ったら出会うかもね」
 「あーあ、喋っちゃった」
 「俺しーらね」
 「いいじゃない、誘惑に負けてアレを使ってもそれはこの人の責任だよ。知りたいと言ったから教えただけだ。死のうが僕達には関係ないね」
 呆れる仲間に返すその言葉遣いはとても辛辣だ。周囲の四人が軽く引いている中、独り冷静な目つきでヒューを眺めるその表情に強弱がない。
 こいつは大人しいのではない。ものの加減をよく知らない類の人間だ。
 (当然演技で)引きつった笑みを浮かべながらヒューは後退りした。
 「わ、分かった…も、もももういいぜ。邪魔して悪かったな、それじゃ」
 「死にたくなけりゃ今の薬で満足してろよー」
 続いてぎゃははは、と軽い笑いに見送られ、ヒューは(言うまでもなく演技で)よろけながら建物の向こうへと身を潜めた。暫く若者達はトーンの狂った笑い声を上げていたが、その内興が殺がれたか、ぞろぞろとハイウェイ下街の奥へと歩いていった。
 もう良いだろう。ヒューは演技を止めて姿勢を正すと、手櫛でぼさぼさの髪の毛を整えて悪態をついた。
 「ホント糞餓鬼共」
 明日には檻の中に入るかも知れないと思うと少しは気分良いが、どうもあの部類の人間は苦手だ。己の顔もいい勝負じゃないか──という的確な突っ込みは、この際考えない。
 「…。よし、簡単な情報は入ったことだし…此処はもう用ナシだな」
 青年が言っていたポイントは目と鼻の先。売人はそこを縄張りにしていると言っていた。だが今日は大きな取り引きを成功させた後である。捕まるのを怖れてほとぼりが冷めるまで当分現れないか、ここを棄て離れた場所に縄張りを移す可能性が高い。
 アリスの言葉に絆された訳ではないが、もう深追いしない方が良さそうだ。
 とっくの昔に火種の消えたよれよれタバコを投げ捨て、ヒューは大通りに向けて戻り始め──
 その刹那。
 「ぐわっ!?」
 一歩建物の隙間から出た途端、ヒューは右舷から壮絶な体当たりを喰らってもんどり打った。咄嗟に受け身を取ってその場を転がったお陰で、全身はくまなく痛いが脳天にダメージを喰らうことはなかった。また酔っぱらいか──起き上がるなり怒鳴り散らし、
 「危ないぞコラ!!!酔ってるんならゆっくり歩け…ってあら?」
 ひっくり返った蛙のような格好で悶えている人間を見て、ヒューは素っ頓狂な声を上げた。
 じたばたと藻掻いているそれは小太りな男だった。
 彼は何故か酷く怯えていた。頬の弛んだ醜悪な顔には切迫した恐怖しか貼り付いていない。漸く起き上がってヒューの顔を見ても、謝るどころか化け物を見るような目つきだ。
 「お前──」
 だがヒューの目を引いたのはそこではなかった。目深に被られたニット帽から覗く皺か何かに見えていたそれは、頬に走る猫の爪痕のような三本傷。
 まさか予想しないところで本命に当たったのか?あまりに唐突なリーチに、ヒューは思わず口走ってしまった。
 「もしかして…ヨタカ?」
 「そ、そうだ、いいいいや、ち、ちが、俺は違う」
 つられて肯定しておきながら、男は全力で否定した。言ってしまってからヒューは後悔した。見る見るうちに男は呼吸を乱し、黒目を滅茶苦茶に動かしながら後退りを始める。
 「なななんで俺のせせ所為なんだだ、俺は知らない、しし知らねぇよ…」
 「おい、ちょっと待て」
 「お、おおお俺は殺されないぞ!ころ、殺されてたまるかぁぁ!!」
 あまりに挙動不審だったが故に、男──恐らくヨタカで間違いない──が突き出した腕に銃が仕込んであるのにヒューは気付くのが一瞬遅れた。虚無を湛えた銃口を袖口に見た時には、迎撃しようにも間に合わない。
 「ぐっ!?」
 耳を劈くような音と共に銃弾が肩を薙いだのがその刹那。焼け付くような痛みに目を配れば、弾は上着を引き裂き右肩の肉を抉っていた。
 ヒューが怯んだその隙に、男は踵を返して逃走した。
 「待て!」
 一丁前に仕込み銃なんか持ちやがって!!
 片方のスニーカーが脱げてしまっても構わず、男はビア樽のような身体を揺さぶってあっという間にヒューから遠ざかっていく。懐から銃を抜いてヒューもその後を追うが、男は巧みに右左折を繰り返し、すぐに建物の隙間に潜り込んでしまった。
 気付いた時には、人通りもぱたりと途絶えた路地のいよいよ寂しい所まで来てしまっていた。男の姿も見失い、めぼしい目撃者もいない。万策が尽きた。
 「ちっ…見逃した!」
 歯噛みする。
 あの体型で俊足を発揮するとは余程追い詰められていたのだろうか。近くに脱ぎ棄てられていたもう片方のスニーカーを拾い上げながら、ヒューは肩を竦めた。
 まぁ何であれ、最初から情報が手に入ればそれ以上の深入りをする気はなかったのだ。逃げられてしまったのなら仕方ない。
これ以上勝手な行動をしては流石にカーシー達の迷惑になると判断し、今度こそヒューは引き上げようと──
 だが、またしても絶妙なタイミングで銃声が轟いた。
 「…。一体…なんなんだよ」
 まるでヒューをこの場に留めようと何かの意思が働いているような感覚がした。ここまでタイミングが良いと薄ら気味が悪いのが否めない。
 行ってはならぬ、と本能が警鐘を鳴らす。右肩の怪我も、今は死ぬような大袈裟なものではないが、出血が酷くて軽く貧血を起こしかけている。腕の感覚を奪われなかっただけ幸いなくらいだ。じわりとした鈍痛に右手が微かに戦慄く。
 ──行くな、そんな状態で。行くな。行ってはならない。
 「…五月蠅えな」
 喰らわば皿まで。聞いた以上放っておく訳にもいかず、やけくそ気味にヒューは男が逃げていった隙間を通り抜けた。
 探す必要は無かった。隙間を抜けた先の道、排水溝の金網から迫り出す不気味な水蒸気に霞んで、路地の石畳をぬめぬめとした血糊が碁盤目状に這っていくのが見えたからだ。
 (くそ…撃たれたか)
 ヨタカと思しき男が撃ったのか、それとも彼が撃たれたのか。どちらにせよ時間的に男が関わっている可能性が高い。全ては流れる血糊の元に行けば分かる。
 警鐘は相変わらず鳴り響いていたが、なおもヒューは反駁して強引に足を進めた。
 血糊を辿った先はいくつかの裏口があるだけの行き止まりだった。そこに、
 「…!!」
 出会うなり目線が合ったのは別の男。招かれざる客に狼狽えた表情を浮かべるその足元に、靴の脱げたビア樽のような身体が血塗れで転がっている。あの男だ。
 霧散しきれなかった硝煙が二人の周囲で霊魂のように渦巻いている。
 ヒューは思わず怒号を吐いていた。
 「お前が殺したのかっ!!」
 「…くそっ!」
 ビア樽を撃ったらしい男は、突如現れたヒューにもその銃を向けてきた。殺す気だ──正当防衛が通用する今、今度はヒューも遅れを取る気はない。反射的につがえていた銃を眼前に構え、トリガーを引いた。
 「二度も弾喰らうかよ!!!!」
 「ぐがっ…!!」
 鼓膜を劈く銃声が──二発。弾が撃ち込まれた胸部から男の身体がぐにゃりと折れ、呻き声を上げながらヨタカ(仮としておこう)の側に頽れた。
 「…?」
 びくびくと痙攣しやがて緩慢に息絶えていく男と、掌で沈黙する銃を交互に見下ろしながら、ヒューは眉を顰めた。
 「お前か…」
 死んだ、と思っていたヨタカ(仮)の腕が力無く擡げられ、袖口から硝煙を立ち上らせていた。刹那に吠えた二発の銃声の片割れは彼のものだったのだ。ヒューの弾はビルの壁にうっすらと亀裂を刻んだだけで、標的には掠りもしていなかった。
 男が動かなくなったのを確認すると、ようよう最後の力を使い果たしたヨタカ(仮)の腕も満足げにがくりと力を失った。
 すっかり蚊帳の外にされたヒューは、出来上がったばかりの二つの死体を眼前に力無くため息をついた。
 「だーかーらー。一体なんなんだよ…」
 なんとも運が悪い。
 せめて情報が手に入れば良い方だった。あのまま帰らせてくれればよかったものを、よりにもよっていきなり大当たりを授けてくれるとは。神だか魔だか知らないが、余計な大盤振る舞いをしてくれたものだ。
 やっと掴んだと思った尻尾が相討ちで果てたとは笑えない。
 「こりゃあ…カーシーから大目玉…かな」
 死体になってしまっては話も聞けない。ヒューが出来るのは取り敢えず通報することのみ、あとはそれ専門の人間に任せて何かしらの結果を待つしかない。
 アリスからも呆れ顔で「あーあ」とでも言われてしまうだろう。
 「あーあ」
 そう、こんな風に。
 「!?」
 聞き流そうとしてヒューは慌てて天を向いた。まだ仲間がいたのか、と慌てて迎撃しようとしたが──どうも緊張感を欠いたとしか思えない声音に、銃を握る手が緩んだ。
 見る見るうちに黒い影は一人と二体目掛けて降下を始め、潰さんばかりの風圧が轟音を伴って砂塵を巻き上げ吹き飛ばす。
 視界を塞がれ咄嗟にヒューは顔を覆った。
 
 ものの数秒で、とす、と靴底が地面を穿つ音と共に風が消える。
 それは最初大きな鴉が舞い降りたと思った。
 だが今まさに折り畳まれようとしていた翼に羽根は無く、風を受けて靡いていたのは不気味な皮膜。まるで蝙蝠のようなそれを器用に折り畳んで上着の下にしまい込んでしまうと、声音の主はゆっくりとヒューの方を向いた。
 「やあ」
 振り向いた真紅の双眸が酷く愉しそうで。
 射竦めるようなその煌めきに、ヒューは戦慄いている自分を遠くに見ていた。

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