平成16年7月14日(水)国境の河「鴨緑江」より新義州を望む
  鴨緑江には、二つの鉄橋がかかっている。正確にはかかっていた、と言うべきである。 現在、一本は半分で途切れている。つながっている橋の名前は”中朝友諠橋”、途切れて いる橋の名は”鴨緑江断橋”と名前がついていた。二本の橋はともに日本が占領地時代 に建設したものである。鴨緑江断橋は1911年竣工、朝鮮戦争の時、米軍機の爆撃に あって断橋となった。もう一つの中朝友諠橋は1943年に完成している。鴨緑江断橋 は中央を列車が通り、両側は人が歩いて渡れるようになっていた。かって朝鮮側の新義 州に住んで居られた方にお聞きすると、幼い頃、遠足で何度か渡ったことがあったとの ことである。二つのモニュメントが戦後約60年たった今、一つは記念碑として、一つ は国境の橋として、その役割を担っていた。
  日本統治(占領)時代、豊なこの地に多くの日本人が移り住んでいた。日本の街を文 化を作っていた。1945年8月敗戦、住んでいた多くの日本人が取り残された。ほとんどは 女、子供であった。神に見捨てられた民のように難民となり、日本への帰還の途は、悲 惨を極めたようである。返らぬ人となった方、残留孤児となった方、さまざまな手記が 書かれているが、読むたびに胸の痛みを感じるのは、私だけではないであろう。
  流れる水の色が、深緑色した鴨の羽に似ていることから付けられた鴨緑江、河は豊な水量をた たえていた。河がある故に無事帰還できた人、できなかった人、国境の河は変わること なく歴史を見つめているのであろう。
  この街を訪れようと思ったのは、ある人の「自分 史」を読ませて頂いてからである。・・・「私は狼の声が聞こえる所に住んでいたこと がある・・・」という出だしではじまる文章は、新義州を舞台にした物語であった。
  対岸(北朝鮮新義州)は緑が多く、ビルの立ち並ぶ中国側の風景とは、対象的であっ た。中国側には観光船着場がいくつかある。そこから出る観光船は対岸の近くまで行き 朝鮮側をなめるように航行し戻ってくるのである。私も船に乗り好奇心の塊のように、対 岸を見つめたのであった。そして、あの人へのお土産に鴨緑江の水をペットボトルに汲ん だのであった。
  丹東市は遼寧省南東部の中核都市で、北朝鮮と接した貿易、観光、軽工業主体の都市 である。人口242万人、河があり山があり海があり、冬に酷寒はなく夏に酷暑なく、 ”北国の江南”と言われているそうである。
  中心部の見所は、鴨緑江大橋、鴨緑江公園、 錦江山公園、抗美援朝記念館などがある。錦江山からは市街が一望に見渡せる。郊外に 足を伸ばせば、虎山の長城(万里の長城の最西端と言われている)、国家級名山風凰山、 省級の名勝青山谷、大狐山古建築群、五龍背温泉、甲午海戦古戦場などがある。
  今回、鴨緑江は当然として、錦江山公園、抗美援朝記念館、虎山の長城、風凰山を訪 れた。
  上海から2時間のフライトで丹東飛行場へ、乗合マイクロバスで市内へ。丹東駅近く のホテル(泓苑大酒店(交通大厦))で3泊の宿をとった。1泊220元、保証金を入 れて900元を払う。フロントで現地のツアーを問い合わせる。可能なら北朝鮮の新義 州のツアーに参加したい!・・・・旅行社へ問い合わせてもらったが「ツアーはない、 日本人は北朝鮮へはいけない!」と返事であった。・・・覚悟はしていたこと、3日間 全て自分で行動だ。まずは、国境の河に行こう!荷物を解き河を目指した。
  今年の行程を簡単にまとめてみました。

    13日:福岡→(中国国際航空)→上海浦東  上海1泊
              (魯迅公園そばのスワンホテル)
    14日:上海浦東→(中国南方航空)→丹東  丹東3泊
              (泓苑大酒店)
    17日:丹東→(列車)→瀋陽  
    17日:瀋陽→(中国南方航空)→済南  済南1泊
              (良友富臨大酒店)
    18日:済南→(夜行列車)→上海
    19日:上海→(中国国際航空)→福岡

  別途「国境の街「丹東」にて」
         「丹東から瀋陽を経て済南へ」を綴りました。