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                新米日本語教師の日記(2009年11月2日〜)hh2011年

  《7月16日(土)》
  結局母は亡くなりました。今週木曜日(14日)ニ七日(ふたなのか)の法要を済ませました。現在喪に服しています。
  思えば6月はあわただしい月でした。12日は上海浦東国際空港に到着したのが午前11時10分であったが、結局乗ったのは17時50分発岡山行きの 飛行機であった。11時55分福岡行きのキップは販売してもらえず、夕方の福岡行き広島行きは満席であった。飛行機に乗れば「早く飛びたて!」飛行機が着陸態勢に入れば「早く地面につけ!」 と思いがつのるフライトであった。21時岡山着、23時新山口着、母のいる病院へついたのは24時前であった。緊急病室、寝たきり24時間の点滴、 酸素マスクの完全看護の母であったが、意識ははっきりしていて母と少しの会話をした。
  その後、半月、朝・昼・夜と病院へ通った。少し持ち直したようにも見えたが一進一退の状況であった。その間会話はでき看病のしがいはあった。しかし 最悪の覚悟はせざるをえなかった。そういった中、 そのままになっている中国のマイルームのことも気になり、29日4泊5日予定で完全引き上げのため中国へ戻った。荷物のすべて送り出し7月1日の夜 宮田さん前田さんと最後の夜をコーヒーを飲みながらだべっている最中、携帯電話がなった「様態が急変した!」とのこと。その30分後「母亡くなる。」 の報を受け取った。その夜は異国の地で一人通夜をする。
  7月2日未明3時50分南京行きの長距離バスはスーホンを発車した。沈先生と小亭(亭は女へん)の二人が見送ってくれた。 前回12日と同じルートで上海浦東国際空港へ、バスからの列車からの眺めはうつろであった。空港へ到着したのはやはり11時過ぎで、キップの期日変更手続きをし11時55分発の飛行機に乗る。夕刻5時ごろ我が家へ着いて 冷たくなった母と対面をした。帰国のルートは
    @スーホン⇒南京(長距離バス約3時間)
    A南京⇒上海虹橋空港(動車(新幹線)約1時間半)
    B上海虹橋空港⇒上海浦東空港(タクシー約45分)
    C上海浦東空港⇒福岡空港(飛行機約1時間半)
    D福岡空港⇒自宅(地下鉄・新幹線・在来線で約2時間)
であったが、一番イライラしたのは南京駅で動車のキップを買うときであった。遅々として進まない購入窓口の長蛇の列には閉口した。約1時間を要す。
  7月には日本へ引き上げて親孝行に専念しようと思っていた。それが1か月早まり、そして7月には親孝行ができないことになってしまった。 「親孝行したい時には親はなし」がそのまま当てはまってしまった。