供述によるとペレイラは……Sostiene Pereira | 1994 |
アントニオ・タブッキAntonio Tabucchi(須賀敦子訳・白水社) | |
『供述によると、ペレイラがはじめて彼に会ったのは、ある夏の日だったという。陽ざしは強いが風のあるすばらしい日で、リスボンはきらきらしていた。ペレイラは編集室にいて、さしあたり仕事はなかった、という。編集部長は休暇中で、彼は文芸面の構成をどうしようかと考えていた。『リシュボア』紙にもいよいよ文芸面ができることになって、彼がその担当になった。そのとき、彼、ペレイラは、死について考えていたという。あのすばらしい夏の日、大西洋から吹いてくるさわやかな風が木々のこずえをやさしく愛撫し、太陽がかがやき、街ぜんたいがまぶしくひかり、じっさい編集室の窓の下でまぶしくひかっていて、その青さ、それは見たことのない青さだったとペレイラは供述しているのだが、ほとんど目が痛いほどの透明な青さの中で、彼は死について考えていた。』 ★★★イタリアの作家タブッキのベストセラーで、1994年のヴィアレッジョ賞を受賞。 いつもは簡単なあらすじをご紹介しているのですが、今回はこの小説の冒頭部分をそっくり書いてみました。すばらしい書き出しだと思ったからです。「ほとんど目が痛いほどの透明な青さの中で」死について考えていたペレイラは、リスボン大学の卒業生、モンテイロ・ロッシという青年の書いた「生と死の関係」に関する論文を読み、彼に電話をかけます。実際に話をしてみると、ロッシはペレイラが思っていたような青年とは少し違ったようですが、何故か、自分の担当してる「リシュボア」紙文芸欄の助手に雇おうかと考えます。しかし、実際にはロッシ青年の原稿はその当時のポルトガルの情勢では政治的に見て使い物にならないものばかりで、ペレイラは自腹を切ってロッシに原稿料を払う羽目になります。 ここまで読まれた方は、ペレイラという人物はかなり断固とした意志をもつ人物に思われたかもしれませんが、実は、政治などには関わりたくないし、太っているし心臓は弱っているし、結核で死んだ妻の写真に語りかけなければ何も決断できないし、カトリックの教義の通り肉体が復活して、来世にまで、永遠に生きるなんてとんでもないと思っているし…ただの弱気になった中年男です。そんなペレイラですが、かつては一流紙の社会面を担当する記者でした。いまは弱小(中立)新聞の文芸欄を任せられて、作家の命日に捧げる記事を書いたり、気に入った作家の短編などをボツボツと訳して紹介したり。ひっそりと、でも自己主張してるつもりなのかもしれません。「あの作品に関するかぎり、メッセージは符号で書かれていたから、それを解読できるものだけが受けとるようにできている」というわけです。そんなペレイラの日常の中に、政治は否応もなく土足で踏み込んできて、彼はそれを防ぐすべをもってはいませんでした。ただ持っていたのは「私の同志は私自身だけです」という思い。混沌とした情勢や時代の狂気がいかに彼を侵食しようとしても、自分自身だけを同志として生きている彼は強い。それは多分、政治的な信念とでもいうようなある意味皮相な部分に根差しているのでなく、彼の「人間性」そのものに根差した強さだから、ではないかと思いました。そして、その強さはとてもペレイラらしい強さです。「きみを連れて行こう、ペレイラは話しかけた。君が来てくれたほうが、いい。息が楽なように、顔を上にして、写真をかばんに入れた」 『供述によると』という題名の通り、この小説は全てペレイラの供述という形で描かれています。ペレイラが一体どのような状況下でこの供述を行ったのか、ということは一切明らかにされていません。「ほとんど目が痛いほどの透明な青さ」を、ペレイラはどんな風に思い出していたのでしょうか。 |
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堀部安兵衛 | 1967 |
池波正太郎(新潮文庫) | |
その日は、まだ前髪もとれていない少年だった安兵衛にとっても、また彼の父、中山弥次右衛門にとっても宿命的な一日であった。行きずりの山伏に、短命に終わるはずの運命を予知するかのような言葉をかけられたその夜、無骨ものだった父が自害して果てた。「何事にも見苦しき、いいわけはせぬぞ」濡れ衣を着せられての非業の死であった父の敵を討つべく、ふるさとを出奔した彼を待ち受けていたのは、流転の人生と、素晴らしい人々との出会いであった。少年、中山安兵衛はやがて恩人の助太刀のため高田の馬場へはせ参じ、不思議な縁によって結ばれた浅野家のために吉良邸へと、疾風の如き人生を駆け抜ける。 ★★★大好きな池波正太郎先生の長編小説。 中山安兵衛、のちの堀部安兵衛ですが、高田馬場の決闘と赤穂浪士事件と…ということでやはり派手な印象の人物ですよね。高田の馬場といえば、あだ討だの十八人斬りだのを思い浮かべてしまったのですが、この物語の中では中山安兵衛が恩人であり、義理の叔父甥の盃をかわした菅野六郎左衛門の果し合いの相手が卑怯ものであるため、その助太刀をするということになっています。十八人もは斬らなかったみたいですね(^^ゞ 厳しい父親に育てられ、どちらかというと父を憎んでいた安兵衛少年が、藩主に疎まれ汚名を着たままにされた父の死の真相を知ろうとして、その事件に深く関わりのある男を切り殺してしまう…ということから始まり、彼の人生はどちらかというとどんどん悪い方向へ行ってしまいます。なんとか道が開けそうになっても、父譲りの融通のきかなさが災いしてみずから転落していき…それなのに何故か行く先々で素晴らしい出会いが彼を待っているのです。無論そうした人物に出会う、ということは彼自身にそうした出会いをもたらす「何か」があるせいなのですが。のちに、ともに大仕事をしてのける仲間となる大石内蔵助とのさりげない出会いなどのエピソードも挟みながら、のっぴきならない運命の糸に導かれたかのような高田の馬場の決闘の場まで、とにかく息もつかせぬ面白さで読ませてくれます。なんといっても登場人物!それぞれにいい味わいがありますね〜。安兵衛を義理の甥として遇す菅野、学者北島雪山、執念で安兵衛を養子に迎える堀部弥兵衛、つねに安兵衛の精神的な支えとなる細井広沢…などと書いていくと切りがないのですが特に気に入ったのは大酒飲みの道山和尚、盗賊の鳥羽又十郎。高田馬場の決闘の場で安兵衛にたおされる中津川祐見なども面白いキャラクターで、どれも人間とは、一面だけのものではない「辻褄の合わねえ生きもの」であるという池波作品の共通のテーマがここに描かれています。周りの人物があまりにも魅力的なので、肝心の安兵衛の影が少々薄くなってしまっている感、無きにしも非ず、かも(笑) ただ、自分勝手な欲を言わせて頂くとしたら、後半の赤穂浪士としての堀部安兵衛の人生の部分ももっと掘り下げて書いてくれたらよかったのに、などと思ってしまいました。高田の馬場に至るまでのストーリー展開が素晴らしいため、ちょっと後半が詰まったような印象になっているのが残念。それにしてもやっぱり、池波作品に出てくる人物は、男も女も、武士も町人もみんな、いいねえ〜(^^) |
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ガニメデの優しい巨人The Gentle Giants of GANYMEDE | 1978 |
ジェイムズ・P・ホーガンJames Patrick Hogan(池央耿訳・創元推理文庫) | |
木星最大の衛星ガニメデ、そのかつて解けたことのない氷の墓場に埋もれて、一機の巨大な宇宙船が発見された。二千五百万年前に、現在の地球文明を遥かに凌駕した科学力を持っていたと思われる船内には身長八フィートの白骨が。彼らは発見場所にちなんで「ガニメアン」と名付けられた。ガニメアンの謎を探るべく、木星調査隊には一団の科学者が同行し、調査を開始していた。そんなある日、物理学者ハントらが乗り込んだJ5で、未確認物体が急速に接近してくるのが確認された。J5のドッキング・ベイに収容された異星船から現れたのは、生物学者ダンチェッカーがガニメデの白骨から復元した八フィートの身長の異星人「ガニメアン」そのものだった。 ★★★『星を継ぐもの』の続編です。 『星を継ぐもの』では、月で発見された、五万年前のものと思われる人類とそっくりの生物「ルナリアン」、そしてガニメデでは二千五百万年前の宇宙船と「ガニメアン」、彼らが生存していたはずの惑星「ミネルヴァ」消滅の謎、彼らとわれわれ地球人類の起源には重大な関連が・・・、などといった部分が語られていました。非常に面白い結論を導き出しつつも、まだまだ解明され尽くしていないたくさんの問題をのこして第一部『星を継ぐもの』は終わっていたのですが、第二部の本書では、ついにガニメアンその人と出会うことになります。二千五百万年前にミネルヴァを捨ててどこかへ旅立ったはずのガニメアンたちですが、この編で登場するガニメアンは、ガニメデで発見された宇宙船より少し前に、太陽の温度を上げるため(!)の予行演習を行うため、ある恒星で実験に携わっていた人々でした。その恒星がノーヴァになってしまったため、脱出を余儀なくされ、二千五百万年の旅をへて今、地球人とあいまみえた、ということなんですね。(といっても実際に宇宙船内で経過したのは二十数年間…そこらへんの理論はわかりましぇ〜ん^^;) ま、難しいことはとにかく読んでみて理解してね♪って感じなんです(読んでも完全には理解できてない人もいるらしい…笑)が、とにかく、このガニメアンという異星人がもう、とっても魅力的なんですよ(^^)まさに「優しい巨人」。外敵のいない環境で進化したため、闘争心や敵愾心というものが理解できないという彼らは、戦争って何?武器って何のために使うの?という調子。しかし、地球人のあくなき探究心というものも正当に評価してくれるし、それがもたらす果実にも敬意を払ってくれます。「もっと多くのものを手に入れたい!」という地球人気質は、戦争という馬鹿な事態にもつながるし、進歩という恩恵にもつながるし、もっともっと賢くならないといけないんだなあ〜とつくづく考えさせられますね。 とにかく、面白いお話です。第一作はどちらかというとSF的科学的な面白さが前面に出ていたように思いますが、今回はそれプラス物語としての魅力がたっぷり。人類初めての異星人との邂逅ですよ〜♪ワクワクしない方がおかしいですよね(^^)登場するキャラクターも一味違うし。とくに「ゾラック」には参ります。想像を絶する機能をもったコンピュータなんですが、タダモノじゃないんだな、これが(笑)そして、このラストのエピソードの壮大さ……なんていうか、「夢」が広がるって感じがあって、素敵ですねえ〜。 |
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族長の秋El Otono del Patriarca | 1968〜1975 |
G.ガルシア=マルケスGabriel Garcia Marquez(鼓直訳・集英社文庫) | |
「・・・一月のある日の午後にわれわれも、大統領府のバルコニーから暮れなずむ空を眺めている一頭の牛を見かけた。・・・」大統領府に押し入ったわれわれは、「彼が執務室でただ一人、服を着たまま、眠っている最中に、大往生ともいえるものを遂げ」ているのを発見する。二度目の、真実の。娼婦の母親から父なし子として生まれ、やがて将軍へ、大統領へと至高の権力を手にし、五千人以上の子供をもうけ(ただし、大統領の苗字と名前を受けついでいる子供は一人もいない)、残虐の限りを尽くし、誰よりも母を愛し、寝室のドアに三個の掛け金と、三個の錠前と、三個の差し金を差し込んで眠り、百七歳から二百三十二歳という曖昧な年齢で死んだ大統領の姿を。 ★★★ノーベル賞作家。ガブリエル・ガルシア=マルケスの長編小説。 こんなにも恐ろしく、残酷なユーモアに満ち、心を凍りつかせるほど哀しい小説を読んだのは初めてかもしれません。主人公は南米のある架空の(多分)国に君臨する独裁者。簡単に言うと、彼の死を描いた小説です。全体が六つに分かれていて(章の区切りは空白が入るだけなのですが)、ほとんどがまず大統領の死の情景を描写しながら始まり、しかも語り手が誰なのか判然とさせず、イメージ、モチーフをうねるように繰り返しながら大統領の生涯を浮き彫りにしようとするもので、ある意味では単調な展開となっているため、やや読み通すのに根気が要るというか、ぶっちゃけて言うとちょっと長すぎるような気もしたんですが(^_^;)ただ、個人的には非常に面白かったです。視点を固定して語られるわけではないので、引っ張りまわされる感じがあって、神経質に理解しようとするとかなり困難なのではないかと思うのですが(あ、これは私の場合であって、みなさんは多分大丈夫ですよ^^;)、エピソードの積み重ねを感覚的にとらえていくことによって、この乾いた残虐さ、奇妙なユーモア、テンションの高さ、熱く息苦しい空気のなかの凍りつくような孤独、不思議な優しさと静けさ、などが感じとれるのではないかと思います。 独裁者として、あらゆる、考えつく限りの権力を握り、何者をも思うようにあやつり、奇妙な優しさを持ち、しかし、実は何者をも手中におさめることは出来なかったのかもしれない孤独な人物。決して同情に値する人物ではないこの独裁者の、母親や唯一の妻子への幼稚とも言えるような愛し方が、策謀と猜疑に満ち、残虐の限りを尽くしながらも人々に手を差し伸べるという矛盾を内包した、誰かを信じたくても物事はすでにそんなに単純ではなくなってしまった彼のねじれた人生の中の、真実であり純粋な部分であるように思えます。――「こいつだけはだめだよ、バックスター君。海を失うぐらいなら死んだほうがましだ」 |
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ファニー・ヒル一娼婦の手記Memoirs of a Woman of Pleasure | 1748・1749 |
ジョン・クレランドJone Cleland(中野好之・ちくま文庫) | |
「・・・真実、全くありのままの真実、これそ私の標語に他なりません。私はこのありのままの真実に、一片の隠し切れを当てたりすることなく、実際の状況を真実それが私の身に起った通りに描写することにいたしましょう・・・」リヴァプールの小さな村に生まれ育ったフランセス(ファニー)・ヒルは、わずか十五歳で両親と死に別れてしまい、《一旗揚げる》ためにロンドンに出る決心をした。多くの若者が身を立てるのとは反対に身を滅ぼす運命が待ち構えているとも知らずに・・・。ロンドンに着くや否や、連れに見放されたファニーは、仕事の周旋屋で出会った親切な婦人に声をかけられて、女中として奉公することになるが。 ★★★十八世紀イギリス好色文学の名作だということです。 放埓な生活から足を洗って幸福な結婚生活をおくる後年のファニーが、「奥様」と呼びかける誰かに宛てた書簡という形をとった小説で、全体が「第一信」「第二信」の二編に分けられています。「第一信」では、田舎から出てきた少女ファニーが運良く(?)ロンドンの売春宿の遣手婆のおめがねに適い、教育を施され、性の快楽そのものに目覚めていく様が描かれます。ここでファニーは将来にわたって変わらず愛しつづけるチャールズとの出会いと別れを体験し、また囲い者の悲哀も味わいます。「第二信」では、あることから妾奉公をお払い箱になったファニーが、コール夫人という立派な女性の庇護の下で、「ロンドン中で最も上品な、最も行き届いた社交場」での天真爛漫な快楽を楽しむことを職業とすることになったファニーの心の成長を描き出しています。 十八世紀半ばに「第一信」「第二信」が続けざまに出版され、たちまち発禁となり、作者クレランドも投獄されたという問題作です。その後は秘密出版が重ねられ、1963年にアメリカで約200年ぶりに正規の形で出版、裁判でも無罪判決を受けて今日に至ることになりました。 内容は赤裸々な性描写(ほとんど全編の三分の一を占める)、同性愛(ファニーが最初に手ほどきを受けるのは女性からだし、後半にはホモセクシャルの描写もあるが、こちらに関してはやや否定的な描き方)、処女性への賛美を揶揄する表現、サディズムへの一定の理解、等々をとおして、性行為そのものをおおらかに楽しむことの素晴らしさが描かれています。ちょっと奇麗事過ぎますけどね(^_^;)まあ、自然主義的な悲惨な娼婦像を描くのは、作者の意図ではなかったんでしょうし、淫靡さという点ではちょっと物足りなかったりしますが、楽しい読物になっています。描写そのものは、扇情的というよりは学術的とでもいいたくなるような感じで、比喩表現の多彩さが目を引く面白さは一種独特です。なかには、人権問題に抵触しそうな部分もありますし、最後にファニーがチャールズに再会して(チャールズって一体誰だったけっけ、と思うほど存在感がない)妙におさまりかえってメデタシメデタシになってしまうのにはちょっと笑えます。最後には何か教訓的なことを入れないといけないような気がしたんでしょうかね(^^ゞ |
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バーナム博物館The Barnum Museum | 1990 |
スティーヴン・ミルハウザーSteven Millhauser(柴田元幸・福武文庫) | |
『シンバッド第八の航海』『ロバート・ヘレンディーンの発明』『アリスは、落ちながら』『青いカーテンの向こうで』『探偵ゲーム』『セピア色の絵葉書』『バーナム博物館』『クラシック・コミックス#1』『雨』『幻影師、アイゼンハイム』 『シンバッド第八の航海』・・・中庭の花園北東の角、オレンジの木陰でうつらうつらと午睡にまどろむ商人シンバッドは、あの七つの航海の夢を見る。七つの航海と、七つの航海の記憶と、七つの航海の物語とを、そしてシェヘラザードが聞き及ばなかったかもしれない第八の航海を。 『ロバート・ヘレンディーンの発明』・・・早熟な夢想家だった僕(ロバート)にある日、一つの構想が訪れた。「肉体の法則にはしたがうけれどもいっさいの肉体性を欠いた領域」。僕はオリヴィアという名前を思いついた。僕はやがて、オリヴィアと夜の長い時間をともに過ごすようになった。 『アリスは、落ちながら』・・・「アリスは、落ちながら、扉の開いた食器棚の上段を見る。ラズベリージャムと書かれたラベルを貼った壜がある」ウサギを追いかけて穴に飛び込んだアリスは、ゆっくりと、のろのろと落下し続ける。お姉さんの膝の上で、アリスは眠りの中に深く閉ざされている。 『青いカーテンの向こうで』・・・いつもの土曜日。父さんと映画館に行くのが決まりの土曜日。だけどその日は父さんに用事ができた。僕は一人で映画館に行っていいことになった。だから僕は、カーテンの青いひだのむこうの、表面があちこち剥げた木のドアを開いたのだ。 『探偵ゲーム』・・・ディビッドの十五歳の誕生日に、兄のジェイコブはガールフレンドのスーザンを連れて帰ってきた。姉のマリアンとともに四人で「探偵ゲーム」をすることになってしまったのは残念だ。だが「探偵ゲーム」のゲーム盤上ではすでに、ドラマが始まっている。 『セピア色の絵葉書』・・・少しの間、気分転換ができればいいのだ。私がブルームの村にやってきたのはそれだけのことだった。外は霧雨だったが、私は外出してみた。「プラムショー稀書店」の何かが私を引きとめ、私はその店で一枚の古い絵葉書を買った。 『バーナム博物館』・・・バーナム博物館にはいくつの部屋があるのか?それぞれの部屋に数多くの出入り口があり、どの出入り口のむこうにもさらに多くの部屋と出入り口がある。小部屋もあれば、大ホールもある。人魚、空とぶ絨毯、グリフィン、森に住む透明人間…ようこそ、バーナム博物館へ! 『クラシック・コミックス#1』・・・青いモーニングを着た若めの男、烏羽色の髪の女、仁連の真珠のネックレスをつけた白髪の女がパーティー(?)で出会う。 『雨』・・・ある日の真夜中、ポーター氏が映画館から出てくると外はひどい雨だった。買い立ての黒い靴、全くついてない。渋い顔でしばらく立ち尽くしていたポーター氏はやがて意を決して駐車場へと走る。雨の勢いは止まらない、まるで全てを洗い流すかのように。 『幻影師、アイゼンハイム』・・・一八五九年(あるいは六〇年)、後の偉大なる奇術師アイゼンハイムは、優れた家具職人の息子として生まれた。奇術師のために驚くべき精妙な箱を作っていた若き家具師は、やがて熱心なアマチュア奇術師となり、ついにウィーンの劇場で「その胸踊る宿命のキャリアを開始した」。 ★★★短編集です。想像力に支配された耽美な世界…夢? 確かに、どれも夢や想像の中にあるものをきめ細かく(執拗に?)描いたものばかりなのですが、その世界に行きっきりになってしまうわけではなく、現実とも強く結ばれていて、すれ違った時にまた新しい世界が広がっていくような…過去と未来の時間、扉の向こうの空間、に広がるパラレルワールド、という感じでしょうか。下の感想にはいちいち書きませんが、とにかく描写が素晴らしいんです。はっと胸を衝かれるような瑞々しさ、思い出の中のワンシーン、あるいは夢の中の唯一覚えている場面の鮮やかさ、見慣れているはずのものをまじまじと見つめた時に気がつくまがまがしさ、緻密なディテールを書きこむことで表現されるひとつひとつが文章の中に溶け込んで、印象としては静的なのに迫り来るようなうねりを感じる、不思議な世界です。 『シンバット第八の航海』は、もちろんシェヘラザードがペルシャ王に語った千一夜の物語の一つ、船乗りシンドバッド(シンバッド)の話が下敷きになっているのですが、人によって語られる物語の入れ子構造の面白さ、不思議さを感じさせます。物語があって、語る人がいて、聞く(読む)人がいて…、では物語はどこから来たのでしょうか。『ロバート・ヘレンディーンの発明』は、いかにもミルハウザーらしい作品だと思います。ある存在を作り出す、ということは新しい世界を作り出す、ということ?二つの世界をつなげていたようなオーヴィルの存在が面白い。『アリスは、落ちながら』、これは「不思議の国のアリス」のアリスがウサギ穴に飛び込んだ直後の出来事です。ずっと、落ちていく…それは夢なのかもしれないし、いつかどこかに着地するのかもしれない。それともプログラムのバグがあって、無限の中に閉じ込められたのかもしれない。ただ、落ちていく…そして新しい世界への場面転換。『青いカーテンの向こうで』の少年の気持ちは、なんだかわかりますね。ちょっとドキドキするような体験をして。『探偵ゲーム』、探偵ゲーム「クルー」というのは実在のゲームだそうですが、面白そうですね。ゲームをしている側と、ゲームの中のドラマが交互に語られる面白い趣向。もう少しメリハリがあったらもっと良かったのに、…と思っていたけど最後、夜も更けてゲームも終わりかけると、凍りつく世界にただならぬ淋しさを感じます。『セピア色の絵葉書』、このお話は地味ですが、私は好きですね。プラムショーのお店の様子とか、だんだん変わって見えてくる絵葉書とか、話もろくにしない三組(最後には二組になってる?)夫婦とか。『バーナム博物館』、きっと空間が歪んで見えるに違いない…そんな気がする場所です。「この魔法の領域にじわじわ溶け込んでいくことによって」、そう、ここは魔法の領域。ギフトショップにならぶ玩具はきっとあなたを夢中にさせることでしょう。『クラシック・コミックス#1』、これはT・S・エリオットの「J・アルフレッド・ブルーフロックの恋歌」というのを下敷きにしているそうですが、全然わかりません。すいません。ま、それはそれとして、シーンごとの印象がくっきりしていて面白いですよ。ところどころ(唇とか、ドレスとか)に色をつけた白黒のフィルムをみているような感じでした。ジー、カシャッ、そんな音が頭の中に聞こえます。『雨』は、とにかく雨です。ふりつづく雨、一瞬目の前をよぎる鮮やかな色、世界はその雨に支配されている。『幻影師、アイゼンハイム』、これもまた、いかにも、という感じの語り口。アイゼンハイムの奇術に関する描写、アイゼンハイムの運命、残される謎、あるいはアイゼンハイムという人物そのものが、想像力の極みをつくされてる、という感じ。しかもそれがこの語り口で…。ミルハウザーの世界をご堪能下さい、としか言いようがないです。 |
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浮世の画家An Artist of the Floating World | 1986 |
カズオ・イシグロKazuo Ishiguro(飛田茂雄訳・中公文庫) | |
戦争で妻と一人息子を失い、いまは末娘の紀子とくらす画家、小野。かれはかつて芸術家として名声を博し、大勢の弟子たちに囲まれていたものだが、最近ではその弟子たちとの交流も途絶え、ただひとり残った信太郎とともに、昔なつかしい歓楽街にあるマダム川上のバーで飲むのを楽しみにしている。あるいは、上の娘の節子の息子である、孫の一郎の成長ぶりを見るのもいいものだ。去年、紀子の縁談が突然破談になってしまったが、あれは家柄の相違が原因だったのだろうか?こちらはそんなことは気にしてもいなかったのに。しかし、今の縁談の相手のほうが、紀子にふさわしいのは確かだが。 ★★★1987年の、ウイットブレッド・ブック・オブ・サ・イヤー受賞作。 主人公の小野はかつては高名な画家でしたが、今はすっかり引退して弟子たちとの交流も絶えてしまっています。かつての実力者、杉村明の立派な屋敷が売りだされた際、遺族によって「人徳のせり」にかけられた結果、購入することが出来た、ということですから、まったくもって高潔な人物だったに違いありません。その屋敷も空襲によってすっかり損なわれてしまっていますが。 「自分の社会的地位を十分に自覚したことなど一度もない」小野ですから、紀子の縁談がだめになったことに戸惑います。やがて新しい話が持ち上がったとき、彼は姉娘の節子に意味深なことを言われて考え込み、紀子のために自分なりの努力を重ねますが、その合間にもかつての栄光、仲間のこと、師のこと、弟子たちのこと思い出します。 戦時中に自分がしてきたことを誇りにしている、誰にも非難などされる覚えはない、だが縁談というのはデリケートな問題だ・・・「自分がまちがっていたことをちゅうちょなく認めます」「とにかく、強固な信念のゆえに犯してしまった過ちなら、そう深く恥じ入るにも及ぶまい」 自己を肯定するのに一生懸命の老人の独白。それははじめはなんとも聞き辛い、うんざりさせられる繰り言であり、やがて、あからさまにされるにはあまりにも残酷な老いた画家の正体を浮かび上がらせるものになります。彼が師を裏切って、初めて自分のものとして描いた「独善」は、戦意昂揚のためのポスターそのものであり、彼が本当に「大家」と言われるにふさわしい画家であったのかを疑わせるに十分です。だが、老人は自己を肯定しつづけなければ、一日とて生き長らえることは出来ないことでしょう。 原題は「An Artist of the Floating World」。Floating Worldは日本語に訳すと「浮世」、つまり享楽の世界のことですが、私はむしろ言葉通りの、漂う世界、流れる世界、という意味を意識しました。私たちの世界はもう、浮遊していないのでしょうか。 彼のしたことは間違っていたのであり、それは教訓としてみんなを明るい未来に導く役目をはたしました。…というのは言いすぎですが、とりあえず私は日本が戦争に負けてくれてよかったと心から思っています。けれど、この、愚かで独善的な老いた画家の心の空洞を思うとき、彼がかつて「自分はほんとうに価値あるもの、名誉あるものを達成した、という確信から生まれる深い幸福感」を味わった、ということを彼のために喜んであげてもよいのではないか、と思うのです。それどころか、羨ましくさえ、思えてくるのです。 |
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