悲しき酒場の唄The Ballad of the Sad Cafe | 1951 |
カーソン・マッカラーズCarson McCullers(西田実訳・白水Uブックス) | |
『悲しき酒場の唄』『騎手』『家庭の事情』『木石雲』を収録。 『悲しき酒場の唄』・・・さびれた町には紡績工場と、行員の住む二間の住宅群と、ねじれた桃の木と教会、みじめなメインストリートの他にはめぼしいものとてない。町の中心にある一番高い建物は、右に傾いて今にも倒れそうだ。一面に板を打ち付けたその建物の、唯一開けることの出来る窓から、時々、暑い夏の午後おそくに二つの灰色の斜視の目をもつ人影が姿をあらわすことがある。その建物がかつて賑やかな酒場だったころ、ミス・アメリアといとこのライアンと、もと夫のマーヴィンの登場する物語があったのだ。 『騎手』・・・騎手は一分の隙もない仕立ての衣装を着てやってきた。若い仲間の騎手が怪我をして以来、絶望と恐怖と怒りの虜になってしまった彼は、食べ物を消化したり、汗をかくことすら出来なくなっていた。 『家庭の事情』・・・マーチンは家路を急いでいた。道のりが半ばにさしかかり、田舎の空気がバスの中に流れこむ頃、昔はここらまで来ると気分が楽になってうきうきしたものだが、最近は家が近づくとかえって緊張が高まってバスから降りるのも待ち遠しくない。 『木石雲』・・・新聞配達の少年がコーヒーを一杯飲むために立ち寄った酒場に、その老人はいた。少年の顎をつかんで引き寄せた老人は突然、「お前を愛している」と言う。戸惑う少年に老人は、妻に逃げられたこと、妻を追いかけたこと、その旅の中で発見した科学について語り始める。 ★★★カーソン・マッカラーズの故郷であるアメリカ南部を舞台にした中編および短編集。 表題作『悲しき酒場の唄』は中編。なんとも侘しい、さびれた町の描写から始まるこの作品は、風景も人の姿も、なんだか奇妙にゆがんでいびつである。主人公のミス・アメリアは、「色の黒い、背の高い女で、男のように筋骨がたくまし」く、金持ちだった。一度結婚したことがあるが、その結婚生活は十日間しか続かず、つねに「何か告訴する材料はないかと目をくばる」という毎日を過ごしているという。あまり愛すべき人物ではない。十日間の結婚生活というのは、彼女が二十一歳の時のことだった。この地方きっての美男子で極悪人のマーヴィンが、どういう訳かミス・アメリアを一心に愛するようになったのだ。彼の求愛を受けて、ミス・アメリアは結婚したが、その真意は誰にもわからなかった。またたくまに結婚生活は破綻し、マーヴィンは「死ぬまでにはかならず仕返しをする」と誓って彼女の下を去った。ミス・アメリアは何ごともなかったかのように元の生活を続け、三十歳になったころ、運命の人「いとこのライマン」がやってきた。背丈は4フィートそこそこ、細いゆがんだ足とねじれた大きな胸と背中の瘤をもった「いとこのライマン」に彼女は恋をしてしまったのだ。二人はそれなりにしあわせな毎日を送っていたが、マーヴィンの帰郷とともに、あやういバランスの三角関係が始まってしまう。三人はそれぞれに、想う人には想われず、いびつで滑稽ないたちごっこを展開する。ミス・アメリアは、かつての断固としたところは見る影もなく、その行動は本人にとっては笑い事ではないのだが、端から見ているとどうにも哀れで滑稽で、しかし奇妙に真に迫って心を打つ。人を愛する、という能動的な行動の、なんと独りよがりで悲しくて、はた迷惑で不可思議なことか。きっと私はたった三人の「心のやさしい人」ではなくて、「想像上の犯罪をたねに、お祭り騒ぎを演じて」いた大多数に属する人間だが、それでもミス・アメリアに対して、苦笑と拍手を送らずにいられない。南部の砂埃のなかの陽炎のようでいて、不思議なほど風景が目に浮かぶ描写力が素晴らしい。ストーリーはちっとも現実的ではないのに、ささいな登場人物までが見事に息づいている。傾いたりねじまがったり、町はますます乾いていく。八月の昼下がり、静寂の音が聞こえるようなラストシーンが心に残る。 『騎手』は、焦燥と絶望にとらわれながら、虚勢を張って生きていかなければならない人間の心の断片が痛々しい作品。『家庭の事情』は、アルコール依存に陥った妻への、夫の複雑な心の動きがこまやかに描かれている。二人の子供の、子供特有の時間の流れが救いとなっている。子供というのは実は賢いものなのだ。『木石雲』は愛の科学を説く老人の話だが、口の悪い、ケチの店主、冷笑的なレオの合いの手と、ラストの少年とのやりとりが効いている。老人の「科学」までは理解できないが、そこに至るまでの部分は何となく分かるなあ。まだ私は修行が足らないのに違いない。 |
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悩める狼男たちWerewolves in Their Youth | 1999 |
マイケル・シェイボンMichael Chabon(菊地よしみ訳・早川書房) | |
短編集。『悩める狼男たち』『家探し』『狼男の息子』『グリーンの木』『ミセス・ボックス』『スパイク』『ハリス・フェトコの経歴』『あれがわたしだった』『暗黒製造工場で』 『悩める狼男たち』・・・ぼくの友達、ティモシー・ストークスは遂にやりすぎてしまった。狼男に変身して、ヴァージニアに噛みついてしまったのだ。ティモシーは特殊学校に送られてしまうのか。ぼくは心底彼を嫌っているのだけど。 『家探し』・・・ダニエルとクリスティは結婚生活を立て直すための家を探していた。知り合いの不動産屋ホーグに案内された家を戸惑いながら見てまわる二人のそばで、ホーグの様子がなにやらおかしい。 『狼男の息子』・・・十年の結婚生活では、もたらされたなかった子供。しかしたった一回のレイプであっさりと妊娠したカーラは苦悩のすえに子供を産むことを決意する。リチャードには「わかった」としか言いようがなかったのだが。 『グリーンの木』・・・パーティでグリーンは、ある若い女に気がついて思わず逃げ出す。グリーンの心の中にずっと封印されてきたのは、彼が幼い日々を過ごしたワシントンDCの夏の日の出来事。 『ミセス・ボックス』・・・人生のあらゆる局面で失敗続きのエディ。盗品を車に積んで逃避行を続ける彼が、なぜか唐突に前妻の祖母ミセス・ボックスに挨拶していこうと思いついたのは、何かの天啓だったのか? 『スパイク』・・・妻との離婚問題で、弁護士に最後通牒をつきつけられたコーンだが、弁護士との面会にいく途中で出会った少年ベングドの野球の練習になぜか付き合ってしまう。 『ハリス・フェトコの経歴』・・・フットボール選手のハリスは、父親から、新しく生まれた弟の割礼の儀式に招待される。父とは四年も口を利いてなく、所属チームは店じまい。ハリスはなんとなく儀式に参加することにした。 『あれがわたしだった』・・・ワシントン州、チャップ島にある酒場「バッチ」のカウンター席に、珍しく二人の男女のよそ者が座っていた。二人は夫婦で、何か修復不可能な問題を抱えているらしい。 『暗黒製造工場で』・・・ブランケッツバーグで考古学の博士号を取るための実地調査をはじめた私だったが、女実業家マローが創立したという製造工場にどうしようもなくひきつけられる。そこでは多くの男たちが仕事中に体のある部分を失ってしまうのだ。 ★★★マイケル・シェイボンというと『ワンダー・ボーイズ』ですっかり参ってしまったのだが(^_^;)短編のほうが断然いい感じだった。 題名といい表紙といい、なんとなく「ちょっとダメな男たちの、物悲しい、でもちょっとイイ話」風だと思い込んでいた。しかし、確かに「ダメな男たちの物悲しい」お話ではあるが、どれも実はシビアな物語だった。 『悩める狼男たち』の「ぼく」が抱く両親への思い、なんとなく胸が痛くなるような感じだった。ラストの四行の風景には、心がシーンとなった。『家探し』のホーグにも参ってしまう。なんか哀しいよなあ。『狼男の息子』のカーラとリチャード夫婦。どっちの気持ちも分かるし、一つの山を乗り越えることができたのなら、今後もできれば幸せになって欲しいけど。『グリーンの木』これは良かった。今後はきっと変わっていけるよね。『ミセス・ボックス』これは面白かった。ハラハラドキドキ、あの結末へなだれ込んでいく。奇妙な味、って感じ。『スパイク』これがイチオシ。ベングドのスパイクへの思いだとか、結局弁護士に会いにいけないコーンだとか、ダメじゃん!と思いつつ共感してしまう。ラストも良い。『ハリス・フェトコの経歴』父と息子の関係って、複雑で難しいけど、どっか根っこがつながってるのかな。『あれがわたしだった』この作品の雰囲気は好き。「おれたちがそれを共有できるってのはいいな」というセリフ、希望につなげるのは無理なのかな?『暗黒製造工場で』だけは作風そのものが違ってびっくり。ダールっぽい展開と結末。なんとも怖いお話だった。作者の別の人格が書いているということかな。 どれもさらさらと読めそうで、でも何となくあちこちで引っかかってしまうようなお話ばかり。主人公と同じくらい脇役が光っていて、最後まで読んで、またふとちょっと読み返してラストを噛みしめるような、そんな読み方をしてしまった。 |
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マーティン・ドレスラーの夢Martin Dressler | 1996 |
スティーヴン・ミルハウザーSteven Millhauser(柴田元幸訳・白水社) | |
「・・・商店主の息子ながら、マーティン・ドレスラーもまた彼独自の夢を見て、ついにはほとんどの人間が想像すらしないことを成し遂げるだけの運に恵まれた。心からの欲望を彼は満たすことができた。だがこれは危険な特権である。神々はその特権を得たものをぬかりなく見張っている。・・・」葉巻煙草商の息子に生まれたマーティン・ドレスラーは、ヴァンダリン・ホテルでのささやかなビジネスの成功をきっかけにまたたくまに出世の階段を上り、ついには「ザ・ドレスラー」「ニュー・ドレスラー」の経営者としてホテル業界に名を馳せる。「何か壮大なもの、もっと壮大なもの、全世界と同じくらい壮大なもの」を思い描いたマーティン・ドレスラーがたどり着いたものは。 ★★★ピューリッツアー賞受賞作。 保守的で新奇なものを嫌う葉巻商の父親の元を離れて、ヴァンダリン・ホテルに就職し着実に出世するマーティン。サイドビジネスとして始めたランチ・カフェが成功したとき、マーティンは二十二歳だった。ヴァンダリンで、副支配人の地位を提供されながら拒絶してレストラン経営を本業にした彼が目指していたものとは?「自分が惹かれているのは現実のランチルームそのものではないことは自覚していた。……彼の情熱は、物事をきっちりやり遂げること、いろんな要素を一つに合体させること、まとまり得ないものをまとめ、組み合わせることに向けられていた」。ヴァンダリンがついにホテルとして立ち行かなくなり、売りに出されることが決まったことを知ったマーティンは、ホテルを買い取ることを決意する。 「・・・そうした矛盾を嘆くどころか、マーティンはそれに強く惹かれた。そういう矛盾があるからこそ、人は二つの世界を、鉄鋼と発電機の新世界と、石のアーチと手彫りの木の旧世界とを同時に生きられるのだと思った」(169〜170P) 一つの世界観をつきつめ、執拗に追い求め、やがて破滅していく天才。ミルハウザーの描く主人公はみな、創造と喪失の矛盾を抱えている。この作品の主人公、マーティン・ドレスラーもまた、「何か壮大なもの」に取り憑つかれ、人々は彼を賞賛し、熱狂する。しかし、人々が彼を理解できるのはほんの一瞬間のこと。「これって、あまりに、あまりに――」・・・。 『アウグスト・エッシェンブルグ』や『フランクリン・ペインの小さな王国』で描かれたのはそうした何かに取り憑かれた天才の悲劇だった。この作品でもそのパターンは踏襲され、その描写はますます素晴らしいものになっていることも間違いない。「何か壮大なもの」を求めて「無尽蔵」を詰め込もうとした地下に広がる世界の風景。ワクワクすると同時に空恐ろしいその場所に、私は行ってみたいと思っただろうか?読み終わった今でも分からないぐらい、そこには何というか「絶する」という感覚を持ってしまう。しかし、私は先にあげた二つの中編を読んだ時に感じたような、やむにやまれぬ思い、息詰まるような熱さ、研ぎ澄まされた冷たさ、そんなものを感じることができなかった。マーティンと、マーティンが創り出した世界との間にあるはずの緊張感、二つを分かち難く結び付けているもの、私がミルハウザーの作品を読むときに感じる、じっと息を呑むような一種独特の張り詰めた感覚、それが今ひとつ薄いのだ。ビジネスの世界、というものを舞台にしたため、マーティンの創造の欲望の「純粋さ」を素直に感じ取ることが困難だったという面はあるかもしれない。マーティンが求めていたものは、芸術的な一つの「作品」ですらなく、ある意味では形を取らないものであり、世界そのものを構築しようとしていたのだろうと思う。その試みは凄いことであり、ミルハウザーが描きたかったものは見えるような気がする。ただ、マーティンの内部にはまだそれが出来上がっていなかったように思えるのだ・・・。しかし、それがマーティンの真実だとしたら、この小説はこれ以上には成り得ないのではないだろうか?では、ではこの小説は失敗作なのか?「もちろんそんなことができるのは神とハーウィントンだけだ。ほかの誰がやっても失敗するほかない」 やや一面的な描き方が多かった今までの「天才達」にくらべ、マーティンは人間としての問題をたくさん抱えた人物として描かれている。マーティンにこうした幅を持たせたことが作品にとっても幅となっているとは思うが、今までの「ミルハウザーの世界」を期待しすぎると、反対に邪魔になってしまっているようにも思える。いつかは、マーティンのような人物を主人公に、あの心地よい緊張感を感じさせる作品にめぐりあうことがあるのかもしれないが、今思えるのは肉付けは確かにあったのに何かが決定的に足らないとでも言うような不満感、というところだろうか。 以上、我ながら訳のわからない感想で・・・。辛口になっている感じだが、主人公以外の人物の描き方も秀逸でよい作品だと思う。とくにキャロリンとエメリン姉妹は面白い存在だった。マーティンの世界観の象徴のようなキャロリン(「結局マーティンは美しい、華奢な方にしか、厄介な歪みのある方、夢に埋もれている方、彼の下でじっと横たわり黙って顔をそむける方にしか」という描写が妙に心に残っている)の底流のような存在感が際立っていた。 |
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イン・ザ・ペニー・アーケードIn the Penny Arcade | 1986 |
スティーヴン・ミルハウザーSteven Millhauser(柴田元幸訳・白水Uブックス) | |
短編集。『アウグスト・エッシェンブルグ』『太陽に抗議する』『橇滑りパーティー』『湖畔の一日』『雪人間』『イン・ザ・ペニー・アーケード』『東方の国』 ★★★三部構成の短編集。 第一部『アウグスト・エッシェンブルグ』・・・時計職人の父ヨーゼフの仕事を幼い時から見て育ったアウグストは機械仕掛けの秘密のメカニズムに心惹かれる。手品師の興行でからくり人形に出会って以来、からくり人形作りに夢中になったアウグストはベルリンのデパートに陳列する人形を作る仕事に就くことになる。やがてライバルに客足をとられて失職、故郷に戻ったアウグストを訪ねてきたのは、彼を失職に追いやったライバル人形師ハウゼンシュタインだった。からくり人形による出し物をする劇場を計画しているというハウゼンシュタインとともに、アウグストは再びベルリンに向かう。まさにミルハウザーの世界、という作品。からくり人形の描写の素晴らしさには息を飲むばかり。精巧きわまるアウグストの作る人形に対して、技術では稚拙なのかもしれないがエロチシズム漂うハウゼンシュタインの人形のほうが奇妙に視覚に訴える。大衆芸術の分かりやすさ、ということだろう。しかし、「時おり、はっと息を呑むような、暗い、心の底をかき乱す妖しい美があらわれるようになっていた」アウグストの作品はまさに芸術に違いなく、想像を絶するものを感じてしまう。ハウゼンシュタインとアウグストの対比も大変面白かった。ハウゼンシュタインについて作者は「才能よりも知性がはるかに上回る」という書き方をしているが、これが非常に新鮮に感じられた。場面の描写、色、動き…どれをとっても素晴らしいうえに、脇役にはこういう人物を作り出すとは。筆致はどちらかというと淡々としているのに、幻想的で幻惑的で、絢爛、だが夜の闇に溶けてしまっているような、そんな感触が味わえる。ラスト、菩提樹の下でのうたた寝から醒める瞬間(「心臓がどきどきと鳴っていた」)から、やがて歩き出すアウグストの姿まで、しめつけられるような緊張感が続き、しかも読後感は明るい。傑作だ。 第二部『太陽に抗議する』・・・一家揃って海水浴を楽しむエリザベス。彼女ももう子供ではないが、家族で出かけることは大切だ。ところが、何かの怒りに満ちた少年が彼らのそばを通った時、エリザベスの心に何かが芽生えた。一瞬通り過ぎる異物との遭遇。エリザベスの感性はするどくそれをキャッチしている。何が心に残るのだろうか。題名がノスタルジックでいい。『橇滑りパーティー』・・・二人乗りの橇滑りを楽しむキャサリンとピーター。友達同士だと思っていたのに、ピーターに突然愛の告白をされ、キャサリンは戸惑う。雪景色の情景はなかなかよい。キャサリンには面白みがない。『湖畔の一日』・・・日常からちょっぴり抜け出して旅行に参加したジュディス。ところが一行のなかに陰気な女がいて、気が滅入ってしまう。ジュディスと「陰気な女」、この二人の女同士の絡ませ方が秀逸。この作品に限らず、月の白い光のフィルターがかかったような風景を描いた場面が多いのだが、これがまた素敵なのだ。「ね(ディア)」という言葉が「彼女の頬に触れた手のように感じられた」というあたりは、奇妙に心に沁みる。この第二部は女性心理を巧く描いた作品で、それぞれ悪くはないと思うが、ミルハウザーらしさは感じられない。 第三部『雪人間』・・・「ある晴れた朝にぼくは目を覚まし……下を見ると、裏庭が消えていた。代わってそこには、目もくらむ真白い海があった」そして町は雪人間たち、雪動物たちで一杯になった。日に日に、それらは精巧さを増していった。これももう、描写がすごい!「雪」という物質の性質そのものが狂おしいものなのだ、と再認識させられる。そして、何かを「生み出す」ということの恐ろしさも。『イン・ザ・ペニー・アーケード』・・・十二歳の誕生日、僕はペニー・アーケードへ行った。催しものはなにやら古めかしく、動きもぎこちない。ぼくは失望を禁じえなかった。しかし、太いロープで仕切られた向こう側の禁じられた暗闇に、ペニー・アーケードの真の住人がいることに、僕は気づいた。幼い日にはあんなに夢中になったあの場所・・・、今いってみるとどんな風なんだろう?ミルハウザーは、子供時代の郷愁に満ちた世界を思い出させる天才だが、その描き方は甘酸っぱいというよりも寧ろ、仮借なく残酷に今の自分というものを突きつけられているような気がする。『東方の国』・・・ある東方の国のことを、あらゆるテーマで語った作品。これはミルハウザー独特の構成という感じで、私は大変おもしろかった。どこかに、いつの時代にか、あったようなないような、そんな東方の国…、ものすごく想像力をかきたてられる。何か東洋的な雰囲気を巧く描き出しているが、ミルハウザーというアメリカの作家は本当に不思議な人だと思う。なぜ、こんな作品が書けるのだろうか…? |
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わが家の人びと | 1983 |
セルゲイ・ドヴラートフSergei Dovlatov(沼野充義訳・成文社) | |
セルゲイ(愛称セリョージャ)・ドヴラートフの家族を描いた連作短編集。 ★★★一応、ドヴラートフ家年代記、という副題がついていますが、これは訳者が独自につけたものだそうです。 1.イサークおじいさん・・・セルゲイのひいおじいさん。ユダヤ人で農民(珍しいらしい)の出身で、軽食堂を経営。でっかい!2メートル10センチもあって、アメリカ輸入の折り畳みベッドを山ほど壊した、という過去を持つ。ベルギーのスパイとして投獄、銃殺されるが、20年後に名誉回復。わたしはこのイサークじいさんが一番のお気に入り(^^)いかにもロシア人らしい素朴さと、ロシア人らしい悲劇を背負った人だ。2.ステパンおじいさん・・・母方の祖父。おっそろしいほどの癇癪もち。なにかあると「アバナマト!」と叫び、「カ・ア・ケム」と厳かに言う。3.ロマンおじさん・・・「健全な肉体には健全な精神が宿る」とばかりに走りつづける。4.レオポルドおじさん・・・ペテン師。5.マーラおばさん・・・編集者。いろんな有名作家のエピソードを知っている。概して愉快な話ばかりだ。話をすると、きっと楽しかっただろうなあ♪6.アロンおじさん・・・スターリンを崇拝していた。まるで自堕落な息子を溺愛するように。その欠点をよく知りながら。この人も好き!ロシア人の精神構造の面白さを具現しているような人物だ。高い茶色の塀の向こうが、私も気になるなあ…。7.母・・・校正者。良〜いお母さんだあ〜。べたべたしているわけではないけど、絆が感じられて、なんか、嬉しい。それにしても、当時の校正者の仕事の厳しさにはびっくり!この国の、こういうところが、怖いんだよね…。8.父・・・俳優?一つ面白い記述があるので紹介しちゃう。「父は駄洒落や冗談の供給業者だった。母にはユーモアの感覚があった(この二人の間には、パン屋と飢え死にしかけた人の間のような距離があった)。」んふ、なるほど(^^)この章はとてもおもしろかった。父そのものも魅力的だが、やっぱり作者の父への思い入れが強いのかな。9.いとこのボーリャ・・・典型的なソ連の少年がなぜか刑務所と娑婆を行ったり来たり。私は彼がかわいそうだった、まじで。10.グラーシャ・・・フォックステリア。ボブロフという男に連れ去れてしまう。連れ戻しに行く途中で「コルホーズの子ら」に出会うエピソードがなんとも楽しい。作者の愛情がストレートに感じられて、じんわりと心が和む。11.レーナ・・・セルゲイの妻。友達と一緒に現れて、結局家に居着いてしまった。どこまでも冷静で、セルゲイは居心地がわるいのだ。内務省の大佐によって立証された愛にすがって、セルゲイはレーナの後を追う。いいじゃん、この二人(笑)あっさりした再会がなんとも言えず味わい深い。12.カーチャ・・・娘。やっぱり、父親っていうのは娘がかわいいんだな(^^)「ぼくをびっくりさせたのは、彼女の頼りなさだった。交通機関や、風に対する傷つきやすさだった。僕の判断や、行動や、言葉にいかに頼りきっているかということだった」こういう感覚って、実はみんな覚えがあるんだろうなあ。13.ニコラス・・・息子、アメリカ人。でも名前は、ニコラス、なんだ(^_^) ロシアの小説というと重いし長いし、教訓的だし。なんか太刀打ちできないイメージが強い。でもこの作品は、ゴクゴクといくらでも飲めて、ほろほろと気分がよくなるビールのような作品だ。ちょっぴり気が抜けてるかな(笑)でも、ホントに程よい抜け具合だ。私のなかではロシア人ってとても素朴なひとたち、でもやや偏屈で気性が荒く、大酒飲みというイメージだった。集団になると怖いぞ、というのはどの国民性にも多かれ少なかれあると思うけど、典型的官僚主義がはびこっているという感覚はいまだに抜きがたい。そういう意味ではものすごく良い感情というのは持ってなかったけど、やっぱり一人一人は愛すべき人びとなんだよね、という当たり前のことを再認識させられた次第。なにもそんなに熱く語ることなんかないよ、とでも言いたげな飄々とした作風だが、時々どきっとさせられる部分があって考えされられた。しかし、作者に「あなたの作品を読んで考えさせられましたよ〜」と言っても、喜んでくれるかどうか、よくわかんないけど(笑) |
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黄金の羅針盤The Golden Compass | 1995 |
フィリップ・ブルマンPhilip Pullman(大久保寛訳・新潮社) | |
ライラと彼女のダイモン(パンタライモン)は彼女が暮らすオックスフォード・ジョーダン学寮の奥の間に潜んでいた。今日は彼女のおじ、アスリエル卿がやってくる日だ。ところがライラはそこでとんでもないことを目撃してしまった。アスリエル卿のワインに毒を入れる学寮長の姿。おじが危機一髪で危険を回避したのはいいが、その後、奥の間で交わされた会話はライラにはちんぷんかんぷんだった。空から降りそそぐダスト。オーロラの中に浮かぶ空中都市。そして「切り裂かれた子供」???当時町では子供をさらう「ゴブラー」が話題になっていた。やがてコールター夫人と名乗る女がライラを引き取りたいとやってきた。学寮を出るライラに学寮長は「真理計」(黄金の羅針盤)を手渡し、神の加護を祈るといって送り出す。 ★★★作者の言葉・・・『黄金の羅針盤』は、全三巻から成る物語の最初の部分をなしている。この第一巻の舞台は、われわれの世界と似た世界であるが、多くの点で異なる(以下省略)・・・ というわけで、この物語の舞台はロンドン・オックスフォード。幼い時から大学の学寮に預けられて育ったライラ(両親は事故で死んだと聞かされている)は、ガキ大将でお転婆で、元気いっぱいの女の子だ。使用人の子供やジプシャンと呼ばれる海上生活者の子供ともしょっちゅう喧嘩と同盟を繰り返している。一番のお気に入り(というか家来)は学寮の下働きの男の子、ロジャーだ。町ではコブラー(むさぼりくう者、の意)の噂で持ちきりだが、ある日ロジャーの姿が見えなくなってライラは不安に襲われる。コールター夫人に魅せられて夫人の助手となって学寮を出たライラは、やがて夫人と「献身評議会」の関係を知り、コールター夫人から逃げ出し、多くの子供がさらわれたジプシャン達とともにコブラーの本拠地ボルバンガーへと向かう。 などとあらすじをダラダラと書いてしまったが、ストーリーはまだなんかよくわかんない(笑)けっこうシビアな冒険が続いて、ひえひえって感じだが、実際のところコールター夫人だの献身評議会だのが何をしようとしてるのかよく分からなかった(あまり興味がもてなかったのかも 爆)実はアスリエル卿がライラのお父さんで、コールター夫人がお母さんだったりするのだが、この二人が二人とも何だかなあ〜っ感じで。とっても嫌なヤツなのだ。 ところで、この話を現実の世界と決定的に違えている点は、すべての人間はダイモンという守護精霊をもっているということだ。子供の頃はダイモンはそのときに応じていろいろな形(動物)に姿を変えることができる。やがて成長とともに、その人間にふさわしい姿に固定されるという。ちゃちな人間にはちゃちなダイモンがくっついているというわけか?なんかそれも嫌だなあ(^_^;)で、ダイモンは人間と分かちがたくつながっていて、とってもきずなが強いの。離れたら心が痛むの〜…(T_T)というか、物理的に引き離すなんてことは誰も考えてなかったらしい。私みたいに基本的に一人が好きって言う人間はどうしたらいいのだ?でも、パンタライモン(ライラのダイモン)、けっこう可愛かったので、ちょっとこういうのも持ってみたいかも♪ 全体としては面白かったけど、なんか引っかかるな〜。なんでだ?と思ったら、そうなのよ、わたしはこのライラって子供が嫌いなんだ!と気がつく。こういうガキは嫌いだ。ま、あの親にしてこの子アリ、みたいな感じではあるが。真理計を得意げに扱うのも腹が立つし。ああそれなのに、私の一番お気に入りのキャラ、アーマード・ベア(よろいをつけたクマ)パンサー・ビョルネ、イオニク・バーニソンがライラをあんなに大切にするなんて、とにかくなんかむかつくのだっ。いや〜、このクマ、カッコいいっす(*^^*) 善悪、なんていう味気ない分かりやすさがないのは良いところで、リー・スコーズビーというちょっとシニカルな気球乗りもお気に入りのキャラ。他にも興味深いキャラがたくさん出てくるので、ストーリーはワケ分からんけど、やっぱり先が読みたいかも♪ |
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夢がたりTraumnovelle und andere Erzahlungen | 1926 |
アルトゥール・シュニッツラーArthur Schnitzler(尾崎宏次訳・ハヤカワNV文庫) | |
短編集。『夢がたり』『ある別れ』『花嫁』『散歩』『フロイライン・エルゼ』 ★★★表題作『夢がたり』はキューブリック監督の遺作『アイズ・ワイド・シャット』の原作。 なかなか陰影の濃い・・・って言うか陰気くさいというか(^_^;)読んでて楽しい作品ではなかったです。『夢がたり』は映画化されたということですけど、確かに映像向き。読んでてすごく想像力を喚起させますね〜とか言いつつ映画はやはり(笑)見てないのでどんな風に映像化されているのか知らないのですけど。ストーリーは開業医として成功し妻とのあいだには可愛い一人娘がいる、幸せな男フリドリンが、ある仮面舞踏会での出来事に触発されて、いたずら心からはじめた告白ごっこ(?)で妻の意外な恋物語(というほどのものでもないが)を聞かされ大ショック。その夜、往診に呼び出された患者の娘に愛を告白され・・・に始まる一夜の奇妙な体験を描いたものです。夢とも現ともつかぬ世界をさまよい、何か確信のあるものを得ようともがいた末に出会うのはただの(彼にとって意味すらもたない)死。やがて夜は明け、夢はしじまへと消えてゆく…新しい一日の始まり。夜の物語は、妙に重たい現実といかにも夢らしい突飛さが入り混じっていて、なかなか面白かったです。そして夢から覚める時のあの感覚、確かにあったはずなのに、すべてが遠くかすんでいく感じがよく描かれていると思いました。しかし、ホントのところ私が思ったのは、「男ってば、アホだね〜」ってことですね。時代が違うせいなのかもしれないけど。ま〜、そういうアホを優しく包み込むのが女の役目ってことなのね。『ある別れ』はリリカルな作品でよかったです。人間だれしも、若い時ってこんなもんですわよね。『花嫁』『散歩』はイマイチ印象に残らなかった。『フロイライン・エルゼ』、これは父親の破産の危機に見舞われた若い娘の悲劇を描いたものです。エルゼ一人に焦点を当てた、執拗なまでの心理描写が息苦しい。面白い作品だと思いましたけど、少々長いのが難点かも。大人の身勝手さと人間関係の裏側に隠された打算や冷たさに押しつぶされてゆくエルゼが痛々しい。救いようのない結末といい、読み応えはあったけどね〜……って感じでした。 |
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最後の場所でA Gesture Life | 1991 |
チャンネ・リーChang-rae Lee(高橋芽香子訳・新潮クレスト) | |
ここではだれもが私のことを知っている。…町の中心にあるどの店へはいっても、かならずだれかがこう言うのだった。「ほら、親切なドク・ハタだ」――ニューヨークから北へ五十分ほど離れたところにある美しい町、ペドリー・ラン。この町でわたし「ドク・ハタ」は十分な尊敬と信頼をあつめていた。商売を譲ったヒッキー夫妻の夫のほうからは無作法な態度をとられることもあるし、養女として幼いときから育ててきたサニーとは、実は絶縁状態にあるのだが。自慢の家の暖炉で火事を起こしかけたときも、親切なリブに助けられた。病院でわたしは、親しかったメアリー・バートンを思い出す。なぜか実らなかった恋、それは遥か昔の若い日の、暗い戦場の思い出ともつながっているのかもしれない。 ★★★作者チャンネ・リーは、3歳の時ソウルからアメリカに移住したそうです。 ドク・ハタことフランクリン・ハタは実は「ドクター」ではありません。医療用品や医療器具を扱う店をもっていたに過ぎないのですが、ふらりと立ち寄り身近な相談相手になってくれるハタのことを、町の人々は愛情と敬意をこめてそう呼んでいたのです。 「ここに住むほかの年配者たちも、それなりの尊敬の念を払われていると思うが、私だけには特別の挨拶をされているような気がするのだ」「こんなことを言うのは、なにも自慢しているわけではなく、私自身いつでも力を貸したいと思ってはいるにせよ、実際に私を外に引っ張り出し自信を持たせてくれるのは客たちのあたたかな態度であり、ここに住むようになってから私に起こった良いことはすべて、あの歓迎の空気がとだえなかったおかげだと、自分に絶えず思い出させるためである」 どうなんだろ、この人?妙にいい人ぶって、ホントに好かれているのかなあ〜?偽善者だって、噂されるようなタイプみたい。でもなんだか、どこか痛々しい…。「・・・つまりとくに親しい友人や知人はいないにしても、昔からいる人だと認められ大勢に知られた人間であるという状態でわたしはいつもありたかった・・・ほかの人々の注意をとくにひかない通行人でいられるということだ」 ドク・ハタは在日コリアンで、日本人の養子となり成長、帝国陸軍の中尉として従軍していたという過去をもっています。盲目的、というほどではないが、疑うことなく戦場へ赴き、上官の命令は絶対で、朝鮮人慰安婦は「志願して」やってきたのだと信じるような、そんな「日本人」になっていったのです。 「でも中尉さん、もし私を愛していたら、本当に愛していたら、私と一緒にいることに耐えられないはずよ」慰安婦のひとりKは彼にこう言います。いまを生き延びるために慰安婦となることを肯定したら…?いつか一緒に幸せになれるよ?そんなことはありえない、絶対に。 コリアンとして生まれ日本人の養子になったこと、戦争のことや慰安婦Kのこと、などを考え合わせてもドク・ハタがこれほど人間関係の「形」だけにこだわり、愛がその「形」をこわしてしまうことを怖れているのか、私にはよく分かりませんでした。サニーにしてもメアリーにしても、ドク・ハタの「ゼスチャー・ライフ」に嫌悪して離れていったことは当然のことだと思えます。いや、それは彼自身よくわかっていること、言わずもがな、ですね。でも読み進むにつれて、彼の偽善に見えた部分が、実はびっくりするほど純粋なのではないか、とも思えてきたのです。冒頭の嫌な感じがだんだん薄れて、彼の大きな喪失感がただ傷ましいのです。 彼はずっと罪の意識をもって生きてきたのでしょうか?Kが慰安婦にされてしまったのは彼の罪ではありません。それは決してあってはならなかった戦争の罪。しかしいま、記憶の彼方にかすんでしまっているあの戦場で、慰安婦(この呼び方は何だ!)をもてあそんだ人、見ていた人、何も出来なかった人…すべてがやはり個人のなかで贖罪の思いを持っていてほしい、人間ならば、と思います。 ところで、この本の題名の訳、とってもステキですね(*^^*)内容的にはちょっとおかしな描写もあるかな?と気にならなかったというとウソになります。でも、柔らかさと緊張感のメリハリがあって読みやすく気持ちのよい作品でした。 |
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