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No.033 アル・カポネ06 〜 逮捕・晩年・死

敵や世間から逃れるために、自分から刑務所入りを希望したカポネだったが、出所してから待ち受けていたものは、「アンタッチャブル」と呼ばれる精鋭チームと国税庁の調査だった。改めて逮捕され、帝王の人生も終焉(しゅうえん)を迎える。


▼カポネ、自分から刑務所入りを望む

カポネはこれまで様々な対立組織を叩きつぶしてきており、敵は多くいた。また、先般のバレンタインデーの虐殺で世間や警察の注目を浴びることとなった。それに加え、ニューヨークのギャングたちも、莫大な利益を上げているカポネに対して相当な反感を持っているという。

多少やり過ぎ、目立ち過ぎたカポネは身の危険をいっそう感じるようになっており、刑務所に入ってほとぼりを覚ますことを考えていた。


1929年5月アトランティック・シティでギャングのボスたちの会議が行われた。会議には各地のボスたち30人以上が集まり、協定を決めアメリカ全土における組織化についての話し合いが持たれた。

この会議の後、各ブロックのボスが決められ、カポネはシカゴの大ボスに任命された。

そしてカポネは会議が終了した後、フィラデルフィアに立ち寄り、そこで顔見知りの警部補にばったりと出会った。

考えていた刑務所入りの計画を実行しようと思ったのか、カポネはすんなりと自分の持っていた拳銃を差し出し、拳銃の不法所持で逮捕された。逮捕してもらったと言った方が正しいのかも知れない。

かつてカポネのボスだったトリオが、もぐりの酒の工場の件で自分から出頭し、刑務所に入ったように、カポネはこの罪で刑務所に入ることを望んでいた。


裁判の判決では懲役1年となり、5月17日から刑務所入りとなったが、所内の待遇はすこぶる良く、家具が全て揃った部屋に入れられて面会は毎日許可されており、電話の使用も自由だった。仕事は楽で簡単な図書室の担当となった。

実際外の世界にいる時とあまり変わらないような生活で、ここから組織に指示を出した。
翌年1930年3月17日、模範囚として刑期を短縮され、結局10ヶ月でカポネは出所してきた。


▼出所したが、アンタッチャブルと国税庁が再び逮捕を画策する

カポネが刑務所に入っている10ヶ月の間、世の中では株価が大暴落し、不況の波がシカゴを襲っていた。カポネ組織の貴重な財源である酒もギャンブルも売上が大幅にダウンしていた。世間は節約傾向になっていたのである。

これまで数々の殺人を指揮しながら、カポネが殺人で逮捕されなかったのは、シカゴ警察を買収していたからだと言われる。実際、警察におけるカポネの影響力は大変なもので、シカゴ警察は手が出せないような状況だった。

しかしアメリカでは1933年にシカゴで万国博覧会を予定しており、シカゴギャングそしてその親分であるカポネをそのままにしておくわけにはいかない。カポネ問題は警察だけではなく、政府も乗り出すこととなった。

カポネを再び刑務所に送るために、今度は殺人ではなく酒の密売と脱税という面から捜査が開始された。カポネは税金を払ったことがないのだ。


禁酒法違反に関しては、FBIのエリオット・ネスが率いる特別精鋭チームがカポネの調査に当たった。この、エリオット・ネスが率いる9人のチームは後に「アンタッチャブル」と呼ばれるチームで、「買収のきかない人たち」という意味である。メンバーも意思の強固な男たちが選抜された。

彼らは次々とカポネの酒の醸造所を摘発し、どんどん閉鎖に追い込んでいった。また、ギャングたちを逮捕するに値(あたい)するような証拠を莫大(ばくだい)集めてきた。


その一方で、脱税の方は国税庁が本格的に捜査を開始した。実はカポネが拳銃の不法所持で逮捕される2年ほど前の1927年、「違法な収入にも税金がかけられる」と決定された時からカポネの収入は調査が開始されていたのだ。

しかしカポネの収入の調査は困難であった。彼は銀行口座を持っていなかったのだ。彼は現金を手元に置き、現金で支払っていた。

国税庁調査部門のトップであるフランク・ウィルソンは押収した莫大な資料を一つ一つ丁寧に見ていき、他の者たちはカポネが金をどれくらい使っていたか、ホテルや商店に聞き込みをして歩いた。


▼逮捕そして裁判

調査の結果、1926年の手入れで押収した帳簿の一つが、カポネの賭博場での収入を記載していることが判明した。ウイルソンは、この帳簿をつけていた人物を捜し出し、身の安全を保障するという条件で法廷で証言してもらうように頼んだ。

そして1931年7月、ついにカポネは23件の脱税容疑で逮捕される。ウィルソンたち国税庁が調査確定した分だけでも38万3705ドルの脱税が判明した。

そしてこの同じ月、アンタッチャブルのエリオット・ネスは、5000件の禁酒法違反容疑でカポネを告発した。


カポネは部下に命じて、裁判の始まる前に陪審員のリストを手に入れ、自分の裁判をするであろう裁判官を一人当たり1000ドルで買収した。買収と同時に脅迫も忘れなかった。だが、カポネの部下のオヘアが裏切って、この買収の事実を国税庁のウィルソンに密告した。この密告によりオヘアは後に殺されている。

買収を知った検察側は裁判の前日、そのリストを別の法廷のリストとすり替えた。カポネ側の企(たくら)みは失敗に終わってしまった。

1931年10月7日、脱税と禁酒法違反で逮捕されたカポネの、まずは脱税の裁判が行われた。結果は、懲役11年、罰金8万ドル。カポネは控訴した。


▼刑務所へ

10月24日、カポネはクック郡刑務所に入る。ここでもまたもや所長と職員を買収し、外の世界と変わらないような豪勢な暮らしをした。しかしこの暮らしが、州の上層部にバレて、特別待遇は廃止されてしまった。

1932年5月2日、カポネの控訴は棄却され、もう裁判を受けることが出来なくなった。現時点で出されていた判決が確定する。「最高裁による裁判のやり直し」という最後の頼みの綱が絶たれて失望した。

5月3日にクック郡刑務所からアトランタ刑務所に移される。アトランタ刑務所では、これまでのようなわけにはいかなかった。特別待遇も無し、他の囚人からはデブと呼ばれて格好の標的にされた。カポネはここで靴工場の担当になった。毎日靴の底を電動ミシンで縫い合わせたり、靴の修理をしたりした。


8月22日、またもや刑務所を移動する。今度はサンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ島に作られているアルカトラズ刑務所である。アルカトラズ刑務所は、極悪犯罪人専用の刑務所で、社会復帰を目指すような内容ではなく、ひたすら罰を与えるためだけの施設であった。

すぐ近くにサンフランシスコの町が海を隔(へだ)てて見えるのだが、海は水温が低く流れが速い上に波が激しい。泳いで脱走することは不可能だった。また、ここに収容された者の6割が精神に異常をきたすという刑務所であった。


面会は月に一度だけ、新聞やラジオも禁止で、まさに「ただ生きているだけ」の状態でしかない生活だった。仕事は風呂場の掃除担当になったので、他の囚人からは「モップを持ったイタリア人」というあだ名で呼ばれた。

1936年に囚人によるストライキがあったが、カポネは参加しなかった。そのため、他の囚人の恨みを買って6月23日、ジミー・ルーカスという囚人にハサミで背中を刺された。幸い命に別状はなかった。

カポネは、この刑務所に収容されている時から、若い頃に感染した梅毒の症状が現れるようになってきた。
別の囚人から、同じくストに参加しなかったことで「女房と子供を殺してやる。」と脅しを受けた時も、今までのように強気に立ち向かうことなく、頭から布団をかぶって泣いたという。


▼晩年・死

1938年2月、カポネは身体の変調を訴え、検査を受けると、梅毒が第3期まで進行していることが判明した。これは、1920年代に、自分の組織の売春宿で雇っていたギリシア人の女にうつされたものである。

症状はだんだんとひどくなり、現実と空想の区別がつかなくなったり、言うことが支離滅裂になったり、記憶が途切れることが多くなった。

カポネは刑期を短縮され、残りの刑期をロサンゼルス近くの病院で過ごすこととなった。

1939年11月16日、カポネは釈放されたが、最初に刑務所に入った時とはまるで違い、暗黒街の帝王の面影も消え失せていた。この後、ボルチモアのユニオン記念病院に入院して治療を受ける。四ヶ月の入院の後、フロリダのパームアイランドの自宅に戻って妻や親戚と一緒に暮らす。

この時代、新たに開発された特効薬・ペニシリンを民間人として初めて投与されるが、病気が進行し過ぎていて、症状は安定したものの回復までには至らなかった。正気の時もあれば気が狂ったようにわめいたり、あるいは家の裏の桟橋(さんばし)に座って何時間も海を見つめていたりもした。

1947年1月25日、午前7時25分、脳卒中と肺炎を併発して死亡した。48歳だった。
出所してから、かつて天下を築いたシカゴへ戻ることは一度もなかった。


▼カポネの死後

シカゴ暗黒街のボスにはフランク・ニティが就いた。トリオからカポネに引き継がれた組織は、この後も他のギャングたちが引き継いでいく。

残されたカポネの妻メイと息子ソニーであるが、カポネが全く遺産を残さなかったため、シカゴとフロリダの自宅を売って生活費に当てた。息子は犯罪組織とは関わらなかったが、事業を起こして失敗し、裕福な人生とは縁遠い生活となった。彼は後に名前を変えている。

カポネの側近の殺し屋だったマックガーンは1936年2月13日、ボーリング場にいたところを敵に射殺された。

また、カポネの対立組織の頭だったジョージ・バグズ・モランは、組織内で没落して地位を失い、銀行強盗や、民家に押し入っての強盗などで生活していた。1957年に65歳で刑務所の中で死亡している。

カポネのボスだったジョニー・トリオは引退した後、多少なりともギャングと付き合いがあったが、そのうち完全に縁を切り、いくつか所在地を変えながら最後はニューヨークで心臓発作で死亡した。75歳だった。


▼ギャングという言葉について

ギャングとは、元々「集団」を意味する言葉であったが、いつしか「犯罪のために集まる」あるいは「犯罪集団」という意味で使われるようになった。カポネ全盛期のアメリカ禁酒法時代に、ギャングとはすなわち「暴力犯罪集団」という意味が定着し、現代に至っている。

現在、アメリカでギャングというと、若者の不良集団という意味あいが強いが、「若者の不良集団」といっても日本とは規模が違い、アメリカ最大のギャングと言われる「クリップス」では構成員3万人とも言われ、「ラテンキングス」は2万人と、代表的なギャングでは超がつくほど大規模な集団となっている。

また、ギャングという言葉に対して、麻薬の販売や売春の元締め、闇金融、戦闘チームなど役割分担が決まっていて、そこから定期的に収益が上がるようになっている、いわば会社のように組織が確立されている大人の集団を「マフィア」と呼ぶことが多い。



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