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No.061 白木屋の大火災

当時、日本を代表する百貨店であった「白木屋」に大火災が発生し、14人もの人々が死亡し、500人以上が重軽傷を負った。死亡者14人のうち、1人は焼死、他の13人は転落死だった。この火災の後、転落した女性たちには、ある共通の理由があったことが報道され、それは後に都市伝説めいた話として現代まで語り継がれることとなった。

▼白木屋の歴史

白木屋とは、かつて東京市の日本橋(現・東京都千代田区)に存在していた百貨店である。

その歴史は古く、寛文2年(1662年)に小間物店(こまものみせ = 小刀や化粧品などのこまごました物を売る店)として創業を開始したのが始まりである。

創業して間もなく、呉服の部門へと進出を始め、3年後には、越後屋(現・三越)、大丸屋(現・大丸)と並び、江戸の三大呉服店と称されるほどに成長した。創業からわずか数年で、白木屋は大名や大奥までもがお客として訪れるような高級店へと変貌(へんぼう)を遂げていた。

この後も順調に経営を続けていた白木屋だったが、大正12年の関東大震災で、建物は全壊してしまう。

しかし震災後も、仮店舗での営業を続けながら新しい店舗を建て直し、工事を繰り返し、昭和6年に正式に全館が完成となった。

完成した白木屋は、地上8階、地下2階というビルで、現代からすれば高い建物とは言えないが、この当時はこの高さでも立派な高層建築物であった。


▼火災の発生

これまで増改築を繰り返してきた白木屋の全ての工事が終了し、正式に全館がオープンしてから約1年が経過していた、昭和7年12月16日。

この時期はクリスマスセールで、店内はクリスマス一色で飾りつけられていた。それに加えて歳末大売り出しの時期でもあり、各階の店内には普段よりも多くの商品が山積みとなっていた。

この日の朝、4階のおもちゃ売り場に展示してあった、クリスマスツリーの豆電球が故障しているのを男性社員が開店直前に気付いた。そして修理を開始したのが開店して間もない、午前9時15分ごろであった。

ところがその作業の途中で、つい、電線がソケットに触れてしまい、その瞬間火花が飛び散った。火花は、クリスマスツリーの金モールを燃やし始め、付近に展示してあったセルロイド製の人形やおもちゃも燃やし始め、あっという間に炎が上がり始めた。


燃えやすいものが山積みにされている状態だったので、みるみるうちに炎は巨大化していった。当時はスプリンクラーもないような時代だったから、火を消すには水を運んで来てかけるしかない。

火災の原因を作った男性社員は、必死に消火活動を行ったが、火のまわりの方が圧倒的に早かった。この男性社員は後に煙に巻き込まれて死亡している。

燃え上がる売り場を見て、お客も店員もパニック状態となり、大慌てで逃げ出した。4階にいた人間ならば下の階に逃げることも出来るが、5階より上にいた人たちは、突然すごい煙が階下から上がって来たので、火事だということは分かったものの、煙に阻(はば)まれて下に降りることが出来ない。

4階に充満した煙は、階段を通じて5・6・7階へとすごいスピードで昇って行った。5階の家具・美術品売り場、6階の特売場、7階の食堂・ホール、8階の従業員食堂があっという間に煙に包まれた。

どの階からも悲鳴が響く。火災の知らせを聞いた白木屋の店長はすぐに現場に出て指揮し始め、お客や従業員を誘導して屋上へと避難させた。下の階に降りられない以上、ここしか避難場所はなかった。

しかしこの当時、白木屋の屋上では、お客集めの一環として屋上でライオンが2頭飼われており、煙を見て興奮したライオンたちが檻(おり)の中で狂ったように暴れ始めていた。さすがに檻の外には出られなかったものの、避難した人たちは、火災とライオンと二つの恐怖にさらされることとなった。



間もなく、火災の連絡を受けた警視庁消防部(消防署)は、すぐにポンプ車29台、ハシゴ車3台などを出動させ、消火活動に当たった。消防関係者は799人動員され、消防部の最大能力をもってこの火災に臨んだ。

だが、当時のハシゴ車は短く、4階までしか届かない。これでは屋上の人々を救出することは出来ない。また、ポンプ車で放水を開始したものの、こちらも水圧が弱くて、やはり4階までしか水は届かない。当時は8階建ての建物は高層建築物であり、消防の設備はそこまで対応していなかったのだ。

火災の連絡を受けて軍も出動することとなった。現在は自衛隊が災害の救助活動を行うことはよくあるが、この当時は陸軍や海軍がその役目を担(にな)っていた。軍の飛行機が7機、屋上に脱出用のロープを次々に投下し、このロープをつたって多くの人々が何とか地上へ降りることに成功した。

建物の中に残された人たちの救出作業は、窓から降ろしてすべり降りる救助袋や、消防隊が地上に張った救助ネットなどでも行われた。7階の食堂のウエイトレスたちは次々と救助ネットをめがけて飛び降りた。

この救助ネットによってお客や従業員80人ほどが救われたが、中にはネットをはずれて飛び降りてしまい、地上に激突して死亡してしまった人もいた。


また、消防部に在籍していた体操競技の経験者が、消防車に積んであったハシゴをビルの壁にほとんど垂直に立てかけてそれを昇り、上の部分をロープで固定して、このハシゴを使って人々を避難させたりもした。



懸命に救助活動が行われていたが、どの現場も、どうしても避難は一人一人の順番となる。

迫り来る炎にパニック状態となった人々や、まだ救助が届いていない階の人々は、売り場にあった反物(たんもの)やカーテン、女性店員の帯や、大売り出しの旗のひもなどをロープの代わりにして脱出しようと試(こころ)みた。

窓際の、固定出来る部分に命綱代わりの反物や帯を結び、それらを掴(つか)んで壁をつたって降り始めたのだ。しかし中には、何人も同時にぶら下がったために命綱が途中で切れたり、炎に焼かれて切れたりして、墜落死してしまった人もいた。

最終的に火災は、4階から8階までを全焼し、3時間後の昼の12時過ぎにようやく鎮火した。500人以上が重軽傷を負い、14人が死亡するという大惨事となった。


14人のうち、1人はお客で、13人は従業員だった。死因は、火事を消そうとして焼死した男性社員1人以外は、全員転落死であった。


▼白木屋の火災で言い伝えられて来た下着伝説

「白木屋の火事と言えば下着の話」と言われるくらい有名なエピソードが、当時の新聞にも掲載され、現代にまで言い伝えられてきている。

当時の女性たちの一般的な服装は、着物姿でノーパンであった。着物では下着はつけないのが普通であり、当時下着に相当するものとして女性たちは腰巻と呼ばれるものをつけていた。

ロープや、その場で作った命綱を使って上から降りて来た女性たちは、風が吹くと着物がめくれ上がって、何もつけていない下半身があらわになってしまう。

何とか2階3階まで降りて来ても、下には多くの野次馬たちがいた。野次馬たちは全員が上を見上げており、そこへ風が吹くと、とっさに女性たちは着物の裾(すそ)や股(また)の部分を片手で押さえてしまった。

その瞬間、残った片手では体重を支えられなくなり、地上に転落した女性が何人もいたという。

当時の朝日新聞(12月23日)に掲載された、白木屋の山田専務の談話の中にも、

「若い女のことゆえに、裾(すそ)の乱れているのが気になって片手でロープにすがりながら、片手で裾を押さえたりするために、手が緩(ゆる)んで墜落してしまったというような悲惨なことがありました。」
といった内容のコメントがある。

また5日後の12月28日の都新聞には

「女性に警鐘(けいしょう)・生死を分けた下ばきの有無」と題して、

「女性たちがズロースを穿(は)いていなかったために、下からあおられる風に裾(すそ)がまくれるのを気にして、つい手をロープから離してしまい、惨死(ざんし)したということを聞きました。」

といった内容の記事が掲載されている。

そしてこの事件を契機に、日本では女性たちがズロース(股下の長い、パンツタイプの下着)を穿(は)くという習慣が広まっていったと伝えられている。

この事件やこの話は、世界中へ写真と共に配信され、恥じらいのために命を落とした女性たちという記事が外国の人々の同情を誘った。


▼拡大解釈の中で伝わってきた下着伝説

「何もつけていない下半身を見られることの恥ずかしさから、つい命綱を離してしまい、転落死した女性たちがおり、この火災をきっかけに日本の女性たちはズロースを穿(は)き始めた。」

火災事件とほぼ同等に伝えられてきた、白木屋の下着伝説を短く言えばこうなるが、井上章一氏の著作「パンツが見える。羞恥心(しゅうちしん)の現代史」などを始めとして、この伝説には誇張や拡大解釈がずいぶんと混じっているとの指摘もある。

この火災において死亡した人たちに関しては、それぞれの状況が記録に残っており、死亡した男女の比率は男性が6人(1人焼死・5人転落死)、女性は8人(全員転落死)であった。

死亡した女性8人は、ほとんどが6階か7階にいた人たちであった。

具体的に1人1人の状況を見てみると、8人のうちの2人はロープを使って壁から下に降りている際、煙に巻かれてロープを離してしまい、転落死している。

そして別の1人はロープが焼き切れて転落死、別の1人はロープで降りている最中、建物の一部にひっかかってロープを離してしまい、転落死、そしてもう1人は雨樋(あまどい)をつたって下へ降りていたが、途中で手の力が限界となり、転落死している。

そして自分の意思で7階から飛び降りた女性たちが3人いた。このまま焼かれて苦しみながら死ぬよりも、いっそ飛び降りて死のうという、助かるか助からないかという選択ではなく、死ぬ方法を選択しなければならないという、極限まで追い込まれての飛び降りであった。


そのうちの2人は親友同士で、飛び降りる直前にお互いの名前を叫んで飛び降りたと言われている。

記録に残っている限りでは、女性の恥じらいを直接の原因として、転落して死亡に至った女性はいなかったようである。

前述の山田専務のコメントにも、転落した女性がいたとは掲載されているが転落「死」とは掲載されていない。ただ、2階や3階まで壁づたいに降りて来て、本当に着物の裾(すそ)や股を押えたために落ちてしまった女性が何人もいたのも事実のようであるが、彼女たちは全員、死亡ではなく、負傷で済んだようである。



この当時の女性たちの服装は、ちょうど従来の「着物でノーパン姿」から、「スカートやズボンに下着」という姿へと移行しつつある時代でもあった。

現代のパンツに相当する女性用下着としてズロースと呼ばれる、股下の長い、穿(は)くタイプの下着もすでに存在していたが、やはりまだまだ着物姿の女性の方が圧倒的に多かった。ズロースが一般的に普及していったのは終戦後のことと言われている。

下着が一般的になったのはあくまでも時代の流れであり、白木屋火災がその大きな要因になったかどうかという点については、そこまでの影響力はなかったというのが真相のようである。

しかしこの火災の報道で、ズロースを穿こうと考え始めた女性が日本に一人もいなかったということも考えにくく、わずかながらの影響は与えているようである。

白木屋の下着伝説は、全くの嘘ではないにしても、そこに多少の誇張などが混じって伝わってきた話と言われている。


ただ、この火災の後、白木屋は女性店員にはズロースを穿くことを義務づけ、服装も着物を辞めて洋服を着るように推奨し、補助金も支給した。また、他の企業でもズロース着用を推奨する企業も現れ始めた。

白木屋の火災が残した問題は下着のことだけではなく、建物における防火基準も大幅に見直され、非常階段、避難用のロープや救助袋、はしご、非常ベルなどの設置が進められ、百貨店の建築基準も作成され始めた。

この当時、一般的だったセルロイド製品の燃えやすさも指摘され、一時販売を見合わせたり、玩具売り場の近くに消火器を置く店なども現れ始めた。

白木屋はこの後も経営を続け、昭和42年9月、東急百貨店と改称し、火災が起こった白木屋本店は東急百貨店日本橋店となった。そして平成11年1月31日、この東急百貨店日本橋店も経営不振により閉店となり、336年の長い歴史は終わった。跡地にはコレド日本橋が建設された。



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