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No.062 村人たちが逃亡を手助けした殺人犯・岩淵熊次郎

一晩で2人を殺害し、4人を負傷させた上に放火も1件行い、山の中へ逃亡した男がいた。しかし村の住民たちは逮捕に非協力的で、逆にこの男を匿(かくま)い、逃亡を手助けしていた。

▼岩淵熊次郎という男

大正時代、千葉県の香取郡 久賀村(現・多古 <たこ> 町)に、岩淵熊次郎(いわぶち くまじろう)という男がいた。

少年時代、学校が嫌いだった熊次郎は学校も4年ほどで行かなくなってしまい、手紙も書けないまま成長して12歳の時から、ある大きな農家に雇われて働くこととなった。

その農家に作男(さくおとこ)として15年勤めた後、そこを辞めて今度は荷馬車引きへと仕事を変えた。荷馬車引きとは、現代で言う運送業のようなもので、久賀村の材木を町へと運び、その帰りには町で仕入れた肥料を村まで運ぶという仕事である。

熊次郎は、性格も行動も、ほとんどの村人たちから好感を持たれているような男であり、困っている人を見ると放っておけないような性格だった。高齢者の仕事や病人を抱(かか)えてのいる男の仕事などは積極的に手伝ってやり、いつも弱い者の味方をしてやった。

馬車引き仲間にもよく酒をおごってやったり、同業者で新人が入ると何日のその男の面倒を見てやったりなどの親分肌で、熊次郎は、いつの間にか馬車引き仲間の中では顔役になっていた。


身体は頑丈で力も強く、米俵2表を担(かつ)げるくらいだった。酒も2升飲むなど豪快な男であり、村の人たちは「熊さん、熊さん」と親しみを込めて呼んでいた。

しかし女にだらしないのが欠点であり、妻と5人の子供がありながら、惚(ほ)れた女に贈り物をしたり、身体の関係を持ったりなどと、不倫の方も結構盛んに行っていた。


▼「おはな」に惚(ほ)れる

34歳となった熊次郎はある日、「吉野屋」という旅館に勤める「おはな(28)」という女性と知り合った。ただ、「おはな」は独身ではない。柳橋信一という夫がいる。

彼女の身の上話を聞いてみると、自分は借金のカタにここに売られてきたのだという。そして旅館の方から、金の前借りもしているらしい。

おはなと知り合った時には同情という感情しかなかった熊次郎だっが、おはなとたびたび合っているうちに本気でおはなに惚れてしまい、おはなの借金を代わりに払ってやることに決めた。

自分の商売道具でもある馬を売り払って50円を作り、「この金で借金を返せ。」と、その金をおはなに与えた。そしておはなを説得して家から出させ、熊次郎の知人である「土屋夫妻」に頼んで、この土屋夫妻の家でおはなを預かってもらうことにした。

しかし熊次郎の頼みを聞いて一旦はおはなを預かった土屋夫妻であったが、それから毎日毎晩、熊次郎がおはなに合いに来る。あまりにも熊次郎がしつこく会いに来るので、土屋夫妻もだんだんと腹が立ってきて、ついには熊次郎とケンカになってしまった。

ケンカ別れした土屋夫妻の家から再びおはなを引き取った熊次郎は、今度は別の知人である「岩井長松」に頼み込んだ。岩井長松は茶屋を経営している男で、熊次郎が頼み込むと何とか承諾してくれて、おはなを引き取ってくれることとなった。

熊次郎は今度は、岩井長松の家を訪問するようになった。しかし岩井長松は前の土屋夫妻とは違い、熊次郎をいつも門前払いにして、全くおはなに合わせてくれない。

そして会えないまま1週間が経った時、おはなは自分から岩井長松の家を出て、夫である柳橋信一の元へと帰って行ってしまった。

借金を払ってやり、面倒をみてやって旅館とも引き離してやったにも関わらず、結局「おはな」は、熊次郎ではなく、夫の方を選んだということである。もちろんそれは当たり前の展開なのかも知れないが、熊次郎にとって、この「おはな」の行動は、大変なショックであった。

そして後に判明したことであるが、おはなを引き取ってくれた土屋夫妻も岩井長松も、おはなの夫である柳橋信一に頼まれて、おはなを夫・柳橋信一の元へ戻すために協力していたのだという。

更に、おはなには旅館に対して、別に借金などはなかったという話も耳に入ってきた。自分がおはなに渡した50円はだまし取られたようなものだった。

借金があると嘘を言い、渡した50円をそのまま持ち逃げした「おはな」、引き取った「おはな」を預かってくれと頼んだにも関わらず、裏では「おはな」を夫の元へと帰そうと画策していた「土屋夫妻」と「岩井長松」。

結局全員に裏切られたわけであり、全てを知った熊次郎は激怒し、全員に深い恨みを持つこととなった。この時の一件で、岩井長松は、後に熊次郎に殺害されることになる。


▼別の女・おけいに惚(ほ)れる

おはなのことはショックで相当な恨みが残ったが、気の多い熊次郎はまたもや別の女に惚れた。小料理屋である「上州屋」に勤める「おけい(23)」である。熊次郎は積極的に言い寄り、たちまちのうちに身体の関係まで行って愛人関係になった。

この女といい関係を続けていくためには、やはり贈り物は絶対必要である。しかし贈り物をしようにも自分にはそれほどの金はない。自分の財産である馬は、おはなの時に売ってしまった。

金を得るためにあれこれ考えたあげくに考えついたのが、「おはな」の時に売ってしまったその馬が、まるでまだあるかのような口ぶりで誰かに売買交渉し、代金を先にもらうという詐欺であった。

その詐欺に引っかかった男がいた。熊次郎はありもしない馬を売る約束をし、代金の80円を先に受け取って、この男から金をだまし取った。もちろん、そんなことはすぐにバレるのであるが、熊次郎は受け取った馬の代金80円の半分をすぐに「おけい」に渡してやった。

その他、米を与えたり反物(たんもの)を買ってきてやったりと、熱心におけいに贈り物をした。以前、おはなに裏切られた反動からか、熊次郎はおけいにのめり込み、夢中になっていった。


だがこのおけいは、村ではあまり評判のいい女ではなかった。

「色じかけでお客を引っ張る。」「何人もの男と関係があるんじゃないか?」「熊さんは、あの女にだまされている。」などと、村の人たちはよく噂をしていた。

実際、噂の通り、おけいには「
菅沢 寅松(25)」という彼氏がいた。(以下・寅松)

おけいは熊次郎からの贈り物は受け取るし、身体の関係もあったが、心は彼氏である寅松に傾いていた。熊次郎のことは、現代で言う「貢(みつ)ぐ君」のようにしか思っていなかったようだ。

もちろん、熊次郎はおけいに彼氏がいるなどということは、全く知らなかった。


▼おけいにも裏切られる

大正15年6月25日、熊次郎が一杯飲んで、おけいの家を訪ね、部屋の外から興味本位で中の様子をちょっとうかがってみると、おけいの部屋からあえぎ声が聞こえてくる。妙に思って聞き耳を立て、そっと中を覗くと、おけいは別の男(寅松)と布団の中で抱き合っている最中だった。

その光景を見た瞬間、熊次郎は激怒した。戸を蹴破り、中へと怒鳴り込んだ。

「このアマーっ!」と、おけいと寅松に近寄る。

びっくりした寅松は、布団から飛び起き、走って台所裏から逃げ出した。熊次郎はおけいの髪を掴(つか)んで引きずり回し、怒りにまかせて殴って殴りまくった。

おはなに続いておけいまでもが自分を裏切ったことに対してどうしようもない怒りが沸いてきた。

殴られながらも、おけいは必死に逃げ出し、村の駐在所へと駆け込んだ。警察へ通報されたわけだが、この時は逮捕まではされなかった。熊次郎は駐在所の向後巡査から厳重注意を受けた。

これ以降、熊次郎は、「寅松を殺してやる。」と、村の人たちに公然と言うようになった。

寅松の父親が心配して向後巡査に相談を持ちかけ、熊次郎と寅松の仲裁に入ったが、熊次郎の怒りはおさまらない。また、寅松の父親と向後巡査は、おけいに対しても、熊次郎と別れるように助言していた。別れるように勧めただけではなく、

「熊次郎には妻も子供もいる。熊次郎はやめて、ワシの息子の寅松と一緒になってくれんか。」

と、寅松を選ぶようにも助言している。

寅松の父親と向後巡査のこれらの言動は、どういう経緯か分からないが、後に熊次郎の耳に入り、熊次郎はこの2人に対しても激しい憎しみを感じるようになっていった。

惚れた女2人は両方とも自分を裏切った。そしてそれぞれの女の周りにいる人間たちも自分の邪魔をする。熊次郎は怒りがどんどんと溜まっていった。


▼熊次郎、逮捕される

7月7日、午前10時、畑仕事をしていたおけいの前に突然熊次郎が現れた。おけいを強引に上州屋まで引っ張っていった後、ほとんど監禁状態にして、16時ごろまで寅松との関係を激しく問い正した。

しかし、おけいはすでに熊次郎に愛情を感じなくなっており、その冷(さ)めた態度に頭に来た熊次郎は、突然包丁を持ち出し「殺してやる!」とおけいにつきつけた。

それを見ていたおけいの祖父は、びっくりして駐在所に助けを求めに走った。おけいが逃げまわっている間に何とか向後巡査が駆けつけ、熊次郎は脅迫罪で逮捕された。
熊次郎は多古警察署へと連行された。

これ以降、3か月ほど警察署に拘留(こうりゅう)されることとなった。これまでの一連の脅迫、暴行、それに馬の代金をだまし取った詐欺などで、裁判では懲役3か月を言い渡された。

ただし、執行猶予3年がついていたので、懲役に行かされることはなく、判決後はすぐに釈放された。


▼怒りが爆発・おけいを殺害

大正15年(1926年)8月16日、熊次郎は、自分が以前勤めていた農家の主人の家を訪ねた。自分が警察署に拘留されている間、この農家の主人が釈放のためにあれこれと手をまわしてくれていたという話を人から聞いたからである。この人のおかげで3か月程度で済んだと言える。

熊次郎は、釈放されるとすぐに、この農家の主人にお礼を言おうと思って、家を訪問した。農家の主人も喜んで熊次郎を家に招き入れ、釈放祝いとして、一緒に祝い酒を飲んだ。

つかの間の楽しいひとときを過ごした後、熊次郎はこの家をあとにし、今度はおけいの家へと向かった。

「おけいにひどいことをしてしまった。謝りたい。」


察に拘留されている間にすっかり冷静になった熊次郎は、そう考えながらおけいの家に向かった。


熊次郎の突然の訪問に、最初、おけいはびっくりして、あの時の恐怖が頭をよぎったが、熊次郎は意外なほどに穏やかでにこやかだった。何より、何度も頭を下げるその態度におけいもほっと一安心した。

久しぶりに家に上げて、酒を出してもてなした。熊次郎も大分酒がまわってきたようだ。穏やかな雰囲気の中、おけいと2人きりで楽しく飲んでいたのだが、そこへ突然、あの、憎い「おけいの彼氏である寅松」が、おけいを訪ねて家の中へと入ってきた。

熊次郎とばったり出会ってしまった。最悪のタイミングだった。

おけいと寅松に恐怖と緊張が走る。熊次郎が、かつて殺してやると公言していた寅松が、今、自分の目の前にいる。

しかし熊次郎はあくまで冷静だった。寅松に対し、一緒に飲もうと誘った。寅松の方にしても、断ると熊次郎の怒りを買うことになるかも知れないと思い、一緒に飲むことにした。

しかし3人で飲んでいたのもわずかな時間だった。おけいと寅松の会話から、いまだに2人の関係が続いていることがはっきり分かった。自分が拘留されている間に、ますます深い仲になったようだ。

更に寅松は、今日はおけいの部屋に泊まって夜を2人で過ごすつもりだったことも察することが出来た。


どの会話がカンに触ったのかは分からないが、ある瞬間、突然熊次郎がキレた。

「このアマーっ!!」

いきなり怒りが頂点に達した。これまで我慢していたものが一気に吹き飛んだようだった。普通に飲んでいたと思っていた熊次郎が突然激怒したのだ。おけいも寅松もびっくりした。

あっと思う間もなく、熊次郎はおけいに襲いかかり、髪をワシ掴(づか)みにすると部屋の外へと引きずり出した。土間にあった薪(まき = 火を燃やす時に燃料にするための木材)を掴(つか)むと、それを思いっ切りおけいの頭に叩きつけた。

おけいの悲鳴が上がる。怒りが爆発した熊次郎は一発では止まらない。おけいの頭を全力でメッタ打ちにした。その勢いは、おけいの髪がそがれ、頭蓋骨が見えるほどだったという。

悲鳴を聞いて駆けつけてきた、おけいの祖母がびっくりして、必死に熊次郎の手にしがみついて、止めようとするが、熊次郎は手を振りほどき、逆に祖母の頭にも強烈な一撃を加えた。祖母はそのまま気を失って倒れた。

おけいはここで死亡した。

恐怖した寅松は、家の裏口から逃げ出し、走って50メートルほど先の農家に逃げ込み、助けを求めた。熊次郎もおけいの殺害後、寅松を追ったが見失ってしまった。寅松の家に行ってみたが、家には帰って来ていなかった。

仕方がないので、寅松は後まわしにした。感情が爆発した熊次郎は、この後から、憎い奴らを次々と襲っていく。


▼岩井長松を殺害

次に熊次郎は、寅松の父親の家へと走った。寅松の父親は、自分とおけいとの仲を裂こうとした人物であり、「熊次郎と別れて、息子の寅松と一緒になってくれ。」などとおけいに言っていた人物である。

家に着いた熊次郎は、この家の周りに石油をまいて、すぐに火をつけた。一気に凄い炎があがった。

突然の火災に村の鐘が打ち鳴らされ、消防団が駆けつけた。「一家焼き殺してやるんじゃ!邪魔するんじゃねえ!」

と、熊次郎は消防団に怒鳴り、
逆らった村人たちの背中を鍬(クワ)で殴りつけ、彼らも負傷させた。

間もなく家は全焼した。寅松の父親一家は何とか避難出来、幸いにも火災による死者は出なかった。


殺すことは出来なかったが、寅松の父親への復讐を終えた熊次郎は、今度は駐在所の向後巡査を狙った。この巡査もまた、寅松の父親と共謀して自分とおけいの仲を裂こうとした人物であり、以前、自分を逮捕した人物でもある。

駐在所へ走って来たが、あいにく向後巡査は不在で、駐在所には誰もいなかった。熊次郎は壁にかかっていたサーベルを盗むと、今度は岩井長松が経営している茶屋へと走った。

次のターゲットと決めた岩井長松には、「おはな」の時の恨みがある。おはなを預かってもらった時、おはなの夫と共謀して、おはなを夫の元へと送り返した人物だ。

茶屋について声をかけると、岩井長松が応対に出てきたので、熊次郎はいきなりサーベルで胸を突き刺した。悲鳴を上げて逃げようとするところを追いかけていって更に突き刺して、完全に殺害した。

おけいに次いで、これで2人目の殺人である。



サーベルを持って、いったん自宅に戻って来た熊次郎は妻に対し、これから寅松と向後巡査、おはなを殺しに行くと叫んだ。

そこへいきなり
山越巡査が現れた。通報を受けて、熊次郎の自宅を見張っていたのだ。完全に頭に血が昇っている熊次郎は、逮捕しようとした山越巡査に対してもサーベルで切りつけ、瀕死の重傷を負わせた。

警察の手が迫っていることを実感した熊次郎は、自宅を飛び出した後、このまま山へと逃げ込んだ。


この一晩での被害者は、殺害された者が2人、負傷者が4人、放火された家が一軒となった。おけいと寅松に会ったことが引き金となり、それ以外に恨みのあった者に対しても一気に怒りが爆発したような事件だった。

逃亡した上に、まだ殺人を行おうとしているという情報はすぐに多古警察分署にも伝えられ、警察官以外に消防署の隊員まで動員されて、考えられる逃走経路には全て見張りが配置された。

9月12日、いったん山から降りて来た熊次郎は、ばったりと巡回中の警官に会い、この時も格闘の末にサーベルによって殺害している。

最終的に熊次郎が殺害した者は5人となり、そのうちの2人は警官だった。


▼山の中で長期間の逃亡生活に入る

この後、熊次郎は完全に姿を消した。連日、大量の警官を動員して捜索を行ったが手がかりはほとんど得られない。

熊次郎は事件の後、42日間に渡って、山の中で警察から逃げ続けた。事件終了までに動員された警官は、延べ3万6千人と言われている。これ以外にも消防や青年団が2万人捜索に加わっている。

しかし夏とはいえ、毎日野宿で、食べる物もないはずなのに、これだけの長期間に渡って山の中で逃げ続けることが出来たというのも妙なことである。

普通であればすぐに衰弱して、警察の包囲網に引っかかりそうなものであるが、熊次郎は逃げ続けることが出来た。これだけの期間、逃亡が可能だったのは、村の人たちが協力して熊次郎をかくまっていたからである。

熊次郎は村人たちから好かれていた。


逆に殺されたおけいや長松は「色仕掛けでお客を引っ張る」などと言われ、村の中でも嫌われ者の方であった。

それに加え、この時代、警官たちは庶民に対してかなり威張り散らしたり高圧的な態度をとったりしていた者が多く、庶民の大半が警察に反感を持っていた時代でもあった。

「嫌いな奴らを殺してくれた上に、警官まで殺してくれるとは、熊さんもやってくれる。」

こういった意識が多くの村人の中にあったらしい。


熊次郎に世話になった人、事件に対して「よくやってくれた」と思っていた村人たちが、熊次郎のために縁側に食べ物を置いておいたり、こっそりと泊めてやったり、食事を提供したりした。村ぐるみで熊次郎の逃亡を助けていたのである。

更に、警察に嘘の情報を流して捜査を混乱させたりもした。

▼マスコミの報道

なかなか捕まらない熊次郎の事件に対し、新聞社も大々的に連日事件を報道した。熊次郎は事件の残虐性からマスコミが「鬼熊」と名付け、鬼熊事件と呼ばれた。

「鬼熊狂恋の歌」という曲が作られるほど日本中が注目し、逃げまわっている間、過熱な報道が紙面を賑(にぎ)わせた。

毎日押し寄せる大量の報道陣のおかげで、村で商売をしている人たちや旅館はずいぶんと儲けさせてもらった。こういった面でも熊次郎は感謝されたようである。

そして多くのマスコミが取材をしていく一環で、意外なことが分かってきた。

熊次郎のことを村人たちに聞いても悪く言う人はほとんどいない。病人のいる家庭や弱い者を積極的に助け、馬車引きの新人が入れば面倒をみてやり、受けた自分の仕事は雨でも雪でもきちんと遂行(すいこう)し、仕事に対しても非常に真面目であるという。

だんだんとその人柄が分かるに連れて、マスコミたちも熊次郎の表記を「鬼熊」から「熊さん」へと変更していった。殺人犯に「さん」をつけるのは異例のことである。


逃亡を続ける熊次郎であったが、山の中で一ヶ月以上を過ごした時、だんだんと自殺を考えるようになってきた。

9月25日、熊次郎は、村の者にセッティングしてもらって村の消防団の団長と自分の兄、そして東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者と会った。

この場に新聞記者が現れたのは、この記者が前々から村の者に、「謝礼を払うので、熊次郎のことで有力な情報があったら教えて下さい。」と頼んでいたからである。謝礼は当時としては高額な50円が支払われた。

皆で熊次郎に、警察に出頭するように勧めたが、熊次郎は、「すまねえ、勘弁しておくんなせえ。」と拒否し、自殺する意思のあることを伝えた。

「ここから村の衆に大声で謝って死にてえだが、怒鳴ったくれえでは2〜30人の衆にしか聞こえねえ。」

「だから記者様よ、わしの気持ちと無念を字に書いて何百万人という人に伝えて下せえ。」

熊次郎は記者のインタビューでこういった発言をしている。


▼自殺を手助けした村人たち

大正15年9月28日、熊次郎は自殺を完全に決意するが、この日は酒を飲んでいるうちに眠ってしまい、翌日の29日、首を吊ったり首の動脈を切るなどしたが、この日も死に切れなかった。

翌日の30日、熊次郎の兄や村人たちは、熊次郎から頼まれていた毒入り(ストリキニーネ入り)のモナカを熊次郎に手渡した。


熊次郎は、村人や新聞記者の立ち合いのもと、先祖代々の墓の前でそれを食べ、カミソリで再び首の動脈を切り、午前11時20分ごろようやく死ぬことが出来た。ただ、首の傷の方はそれほどの傷でもなかったらしく、直接の死因は毒物の方であった。

一ヶ月以上に渡って日本中が注目していた熊次郎の事件は自殺という形で終了することとなった。

後に、自殺する意思があることを知っておきながら、毒入りの食べ物を渡した村人たちや、警察にも知らせずに取材を行った新聞記者は、自殺幇助(ほうじょ = 自殺の手助けをする)として裁判にかけられた。

また、熊次郎を匿(かくま)っていた村人たちも裁判にかけられることとなった。


昭和2年(1927年)2月7日、千葉地裁 八日市場支部で行われた裁判では、毒入りのモナカを渡したことが殺人になるか、自殺幇助(ほうじょ)になるかということで、かなりの議論が交わされたが、自殺幇助という判決となった。

ただ、自殺幇助については無罪とされ、犯人隠匿(いんとく)罪のみが問題視された。

言い渡された判決は、村人の中の3人に懲役3ヶ月から6ヶ月が宣告されたが、いずれも執行猶予つきの判決であった。また、熊次郎をかくまった村人たちは無罪となった。



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