薬物制限が何もなかった時代 ~ 死亡事件の発生
歴史上、最初にドーピングが問題になったのは、人間よりも競馬やドッグレースの世界であった。1911年、オーストリアのウィーンで、この世で初めて行われたドーピング検査は競走馬を対象にしたものであった。
そして人間の世界では、19世紀後半から20世紀前半にかけて急速にスポーツ界における薬物の使用が広まっていった。だが、当時はそれらが別に違反には当たらなかったため、選手たちは疲労回復や痛み止め、競技能力向上のために、薬物をまるで隠すことなく、軽い感覚で使っていた。
1886年、自転車レースである「ボルドー → パリ間600kmレース」において、 イギリス人選手がレース中に倒れ、死亡した。死因は転倒ではなく、興奮剤トリメチルの過剰摂取であり、これがドーピングによる初の死亡事件となる。
ドーピング初期のころはカフェインなどの興奮剤が中心に使用されていたが、1930年代から、アンフェタミンなどの中枢神経興奮剤も使用されるようになった。アンフェタミンは元々第一次世界対戦の夜間戦闘用に開発された薬であって、この使用がスポーツの世界に広がっていったのである。
そして1960年、オリンピックにおいて初の薬物による死亡事故が発生する。ローマオリンピックにおいてアンフェタミンをトレーナーから投与されたデンマークの自転車選手が競技中に死亡、その他二名が入院、また同じ時期に陸上選手がヘロインの過剰摂取で死亡している。
また、1961年の調査で、全イタリアのサッカー選手の17%、セリエAでは94%の選手が交感神経興奮剤を使用していることが判明した。
オリンピックでドーピング検査を開始
1968年、メキシコオリンピック、グルノーブル冬季オリンピックにおいて正式にドーピング検査が行われた。これまでのオリンピックでは非公式に一部競技についてのみ行われていたが、この年から本格的に検査が導入されたのである。
この時に定められた禁止薬物は、麻薬、覚醒剤、興奮剤など約30種類である。(この禁止薬物は今後増え続けていくことになる。)
1972年、ミュヘンオリンピックの水泳、400m自由型で一位となったアメリカのリック・デモントが検査でエフェドリンが検出されて金メダル剥奪となった。これはオリンピックにおいて金メダルを剥奪された初の選手である。
「デモントは喘息(ぜんそく)の持病があり、その治療のためにエフェドリンを使用していただけで不正の意思はない。」とチームドクターたちがIOC(国際オリンピック委員会)に訴えたが却下された。
タンパク質同化ステロイドの検出方法が確立される
1976年、筋肉増強剤であるタンパク質同化ステロイドの検査がモントリオールオリンピックで初めて行われた。
タンパク質同化ステロイドは1950年代から使われ始めたと言われているが、当分の間、これを検出する技術がなく、使っているのが分かっているのにそれを証明出来ずに、選手は使い放題であった。
検出方法が確立されたことにより、この薬物にもストップがかかったことになる。
「抜きうちドーピング検査」が開始される
これまでは競技の開催期間中に行われていたドーピング検査であったが、一流選手を中心に、競技開催の数ヶ月前にも検査を行うことになった。
これは、トレーニング時期にはタンパク質同化ステロイドをずっと使用しているのに、競技の日が近づくと使用を止めたり、天然ホルモン剤などの検出されにくいものに切り替えたりなどして、あらかじめ検査の日を想定して対策をとり、検査をすり抜ける選手が出てきたからである。
スタノゾールの検出
1988年、ソウルオリンピックの年、スタノゾール(タンパク質同化ステロイドの一種)の検出法が確立される。
タンパク質同化ステロイドは一種類だけではなく、いくつも存在しており、この時点ではほとんどのタンパク質同化ステロイドが検出可能となっていた。
しかし、その中においてもスタノゾールと呼ばれる成分は検出が困難であった。これはスタノゾールが、服用を止(や)めると2~3日で検出が不可能となるためであり、この当時は陸上を中心とするスポーツ界にスタノゾールの使用が広まっていた。
スタノゾールは、使用すると身体がみるみるうちに変わり始めるので、急に筋肉がついてきた選手は「あいつはスタノゾールを使っている。」とすぐに推測された。
この年に開催されたソウルオリンピックで、陸上100mの金メダリスト、ベン・ジョンソンがスタノゾールの陽性反応が出て、競技を失格。金メダルを剥奪されて9秒79の世界新記録も抹消され、世界中が驚く事態となった。
IOC(国際オリンピック委員会)は、薬物の検出をより強化していったが、 先進国では、使用した薬物を検査に引っかからないようにする隠蔽(いんぺい)剤が発達してきたため、先進諸国の選手たちはほとんど検査に引っかからず、逆に発展途上国の選手ばかりがドーピングを発見される事態となっていった。
多様化するドーピング
現代でも、薬を使用する側と検査する側のいたちごっこが続いている。 もちろん選手単独の知識ではなく、そのバックには医療チームがついており、一種の医学対決とも言える。
このソウルオリンピックから 「血液ドーピング」 も禁止となり、次の2000年、シドニーオリンピックで、従来は尿検査だけだったものが、初めての検査対象が血液となった検査が行われた。
「血液ドーピング」とは、まず選手の血液をある程度抜いてそれを保存しておく。献血した時のように、いったん体内から血液が減少するが、時間が経てば自然に元の状態に戻る。そして競技前に抜き取っておいた血液を選手に注入する。これによって普段の状態よりも血液が増えたことになる。
血液が増えれば赤血球の数も増加し、赤血球は筋細胞に酸素を運搬する役割を果たすので、持久力が向上する、という仕組みである。他人の血液を輸血する場合もある。
この方法は、第二次世界対戦中にアメリカ軍が戦闘能力の向上のために行った方法である。検査は、一定容量の血液の中で、赤血球がどれだけの割合を占めているかを示す数値(ヘマトクリット値)によって判断される。
また、血液を注入する方法以外でも、「EPO(エリスロポエチン)」という、造血ホルモンを使用した場合でも赤血球は増加する。
やがてドーピングの定義は拡大し、単に薬物使用にとどまらず、「競技能力を高める行為」もドーピングの対象となっていった。
血液操作以外の方法として、他人の尿を選手の膀胱(ぼうこう)に注入して尿検査を受けるという方法もある。
また、女性選手であれば、妊娠初期にはタンパク質同化ホルモンが大量に分泌される、つまりこの時期は筋力向上に有効である、という身体の作用を利用し、人工的に妊娠と中絶を行うという方法も行われていた。